ここで紹介されるのも「遊ぶ山」であり、山でどういう風に遊ぶのかをとことん追求する:「歌でもうたいながら気ままに歩く。もちろん山だから登りはあるが、ただ一つの目標に固執しない。気持ちのいい場所があれば寝転んで雲を眺め、わざと脇道に入って迷ったりもする」。
なるほど、これなら気楽だ。頂上まであとどのくらいとか気にせず、適当に切り上げればいいということだ(だが、思いがけず奥の方まで入り込んでいて、迷ったり遅くなったりすることはあるだろうから、やはりGPSやプラニングは必要だ)。
ヒュッテ霧ヶ峰のオーナーだった長尾宏也氏は作家でもあり、「旅にしあれば」、「山の隣人郷山風物詩」なんかはおもしろそうだ。今はもう無いそのヒュッテに深田は戦前、小林秀雄と共に籠り、霧ヶ峰を歩き回ったと言う訳だ。
マイカーの車中泊で山巡りをする私にはやや縁遠いようにも思えるが、霧ヶ峰の最寄りの道の駅(蓼科湖、和田宿などがある)に泊って散策することはできるだろう。だがそこから北アルプスや八ヶ岳を眺めれば、晴れていればそっちに登りたくなるだろう。この年になって、まだ「遊ぶ山」の心境にはなれないらしい。
私が霧ヶ峰を歩いたのは、だから天気の悪い日で、車山の肩に駐車してまず車山の頂上を極め、大きなレーダードームを見たが、深田の頃はたぶんこんなものは無かったろう。車山から蝶々御山へどんどん下っていき、コルで気が変わって樺ノ丘から南ノ耳、北ノ耳を経て大笹峰まで行ったのは、「遊ぶ山」の気持ちの故だろう。だが、そこから八島ヶ原湿原に下った時はまだ11時だったのに、八島ヶ原湿原の中を歩かずに帰路についたのは「遊び心」が足りないということか。
帰路にたどった物見石(たぶん深田の言う物見山のことだろう)から蝶々御山の尾根は、往路の樺ノ丘から大笹峰への尾根の東側に並行している。だから深田が書いている「森林が見たければ蝶々御山と物見山の鞍部の細道を辿って東側へ下れば、そこは樹木で覆われていた」というのは、たぶん樺ノ丘と南ノ耳の間の尾根を越え、エコーバレー・スキー場のゲレンデのあたりを指すのだろう。もちろん、深田の頃はスキー場は無く、当時はスキー場ゲレンデの代わりに森林があったのだろう。
「沢がほしければ東俣にはいればいい」というのはビーナスラインの西側にある観音沢・東俣沢を指すのだろう。八島ヶ原湿原の南端にある旧御射山(もとみさやま)という丘には神社があり、深田が山々を眺めた薙釜社(たぶん薙鎌神社)は車山の西斜面にあるグライダー滑走路の西端の1,662m峰のあたりだと思われる。是非いつか、それらの地を訪れてみたい。
この章の最後の部分は忘れられない名文:「九月の初めずっと雨が続いて、ようやく晴れ上がった日、原へ出てみて驚いた。一帯の緑は狐色に変わっていた。高原はもう薄(すすき)の秋であった」。
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ここで紹介されるのも「遊ぶ山」であり、山でどういう風に遊ぶのかをとことん追求する:「歌でもうたいながら気ままに歩く。もちろん山だから登りはあるが、ただ一つの目標に固執しない。気持ちのいい場所があれば寝転んで雲を眺め、わざと脇道に入って迷ったりもする」。なるほど、これなら気楽だ。頂上まであとどのくらいとか気にせず、適当に切り上げればいいということだ(だが、思いがけず奥の方まで入り込んでいて、迷ったり遅くなったりすることはあるだろうから、やはりGPSやプラニングは必要だ)。
ヒュッテ霧ヶ峰のオーナーだった長尾宏也氏は作家でもあり、「旅にしあれば」、「山の隣人郷山風物詩」なんかはおもしろそうだ。今はもう無いそのヒュッテに深田は戦前、小林秀雄と共に籠り、霧ヶ峰を歩き回ったと言う訳だ。
マイカーの車中泊で山巡りをする私にはやや縁遠いようにも思えるが、霧ヶ峰の最寄りの道の駅(蓼科湖、和田宿などがある)に泊って散策することはできるだろう。だがそこから北アルプスや八ヶ岳を眺めれば、晴れていればそっちに登りたくなるだろう。この年になって、まだ「遊ぶ山」の心境にはなれないらしい。
私が霧ヶ峰を歩いたのは、だから天気の悪い日で、車山の肩に駐車してまず車山の頂上を極め、大きなレーダードームを見たが、深田の頃はたぶんこんなものは無かったろう。車山から蝶々御山へどんどん下っていき、コルで気が変わって樺ノ丘から南ノ耳、北ノ耳を経て大笹峰まで行ったのは、「遊ぶ山」の気持ちの故だろう。だが、そこから八島ヶ原湿原に下った時はまだ11時だったのに、八島ヶ原湿原の中を歩かずに帰路についたのは「遊び心」が足りないということか。
帰路にたどった物見石(たぶん深田の言う物見山のことだろう)から蝶々御山の尾根は、往路の樺ノ丘から大笹峰への尾根の東側に並行している。だから深田が書いている「森林が見たければ蝶々御山と物見山の鞍部の細道を辿って東側へ下れば、そこは樹木で覆われていた」というのは、たぶん樺ノ丘と南ノ耳の間の尾根を越え、エコーバレー・スキー場のゲレンデのあたりを指すのだろう。もちろん、深田の頃はスキー場は無く、当時はスキー場ゲレンデの代わりに森林があったのだろう。
「沢がほしければ東俣にはいればいい」というのはビーナスラインの西側にある観音沢・東俣沢を指すのだろう。八島ヶ原湿原の南端にある旧御射山(もとみさやま)という丘には神社があり、深田が山々を眺めた薙釜社(たぶん薙鎌神社)は車山の西斜面にあるグライダー滑走路の西端の1,662m峰のあたりだと思われる。是非いつか、それらの地を訪れてみたい。
この章の最後の部分は忘れられない名文:「九月の初めずっと雨が続いて、ようやく晴れ上がった日、原へ出てみて驚いた。一帯の緑は狐色に変わっていた。高原はもう薄(すすき)の秋であった」。
p266 長尾宏也:(1904~?)登山家、随筆家 岡山県出身、青山学院に学ぶ。同校山岳部長であった別所梅之助の薫陶を受ける。北海道から北ア、南ア、朝鮮の山々など、幅広く歩き、「旅にしあれば」、「山の隣人郷山風物詩」など著書多数。勤め人生活の後、昭和9年霧ヶ峰に「ヒュッテ霧ヶ峰」を建設する。山の中で暮らし、雑念を払い、自らの思索に耽るのが第一の目的であった。ここで作家、詩人や武田久吉、深田久弥、尾崎喜八らの親交を得る。ヒュッテで昭和10年夏に深田久弥らによって開かれた「霧ヶ峰山の会」は、多くの著名人を集め、楽しい有意義な山の集いであったという(岡茂雄「炉辺山話」)。惜しいことにヒュッテは、昭和12年に失火により消失した。