1532年(2021年9月26日読了)
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第8章はマキアベリの真の姿を知るのに重要な箇所だ。彼は権謀術数の権化、人を騙すことを為政者に奨励した悪魔のような学者という見られ方をしている。だがマキアベリは第8章で「極悪非道な何らかの道を通って君主の座に昇った者」を二例挙げ、彼らの勇敢さや優秀さにもかからわず、数限りない極悪非道のゆえに、優れた君主ではなく、「力量(virtu)」を持っていたとは言えないと結論している。
17章は冷酷と慈悲について。マキアベリは性悪説に基づいて議論を展開しており、必然的に君主は慈悲深くよりも冷酷になるべきと主張する。これは言葉の印象の問題で、人を甘やかしてはいけない、生半可な信頼などではいけない、緊張感のある守り抜かれる信頼を作り上げねばならない、ということか。
・性悪説:東の韓非子(中国)、西のマキャベリ(イタリア)とよく言われる。両者とも「性悪説」の巨頭だ。長く駐在した両国での交渉事では、しばしばこうした「性悪説」がベースの場面に遭遇した。日本は伝統的に「性善説」が中心で運営されており、世界でも稀な暮らしやすく、信用、信頼、安全の国だった。それだけに人を甘く見てしまうところがある。交渉でも相手の善意を期待してしまう性質が抜けない。こうした風潮は海外では通用しない。米国ビジネスでは中国流の「韓非子」に似たケースが多かったし、「マキャベリの君主論」の考え方が浸透している欧州はそれ以上だった。中国は「性善説」と「性悪説」が生まれた国だが、「性悪説」が突出している。よく「性悪説」を毛嫌いする人がいるがその本質を知ることが大切だ。「性悪説」は、人間は弱い者だし人の性が悪だからこそ、人を導く教育や学習が大切だと言っている。悪を認めているわけでなく、勿論人間は本質的に悪者だとは言っていない。むしろ人との交わりを積極的にやれと言っている。(日本交渉協会)
ニッコロ・マキアベリは貴族ではなかったが、29才のときにフィレンツェ政庁の新任書記官として歴史舞台に登場する。共和政権移行時に、ニッコロは大抜擢されて第二書記局長から軍事十人委員会の書記長に任命されるが、メディチ家の新政権が誕生したとき、投獄され、拷問を受けた。希望は失われたかに思えたが、1ヶ月弱経過したとき突然、マキアベリは牢獄から解放される。それはメディチ家の枢機卿ジョバンニ・デ・メディチが新教皇、レオ10世に選出されたことの恩赦であった。そしてその後、メディチ家への恩を感じたマキアベリは、「君主論」を書き上げてイタリアを復興をメディチ家の君主たちに託したのだ。1527年に亡くなったときは貧しかったらしく、「君主論」が出版されたのは彼の死後、1532年だが、それ以前に写本が流通していたらしい。これは人民を統べる君主が現実を生き抜くためのまさにガイドブック、言葉を飾った口当たりの良い書物ではなく、人々の運命を左右する決断、日頃から身につけておかねばならない修業を書き記した実践本なのだ。
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献辞 ニッコロ・マキアヴェッリが君主論を捧げたのはフィレンツェのロレンツォ・デ・メディチだが、ロレンツォ・デ・メディチは二人おり、大ロレンツォではなく小ロレンツォであるとの注釈あり。最初の書きぶりはへりくだっているが、最後に「もしも殿下がこれを熟読玩味されるならば、必ずや・・・・あの栄光へと導くにちがいありません」と自信に満ちている。
第1章 政体の種類は共和もしくは君主としながら共和制には立ち入らず、君主政体を更に細かく世襲か新興か、傭兵か自己軍備か、幸運で得たのか力量で得たのかなどに分けている。ここで例示されているミラノを獲得したフランチェスコ・スフォルツァ、ナポリ王国を手に入れたスペイン王について詳しい注釈がある。注釈はなんとこの本の半分を占めている。
「1447年、ミラーノ公国の継承をめぐる争いが生じ、市民の蜂起によってアンブロジアーナ共和国が成立した。フランチェスコ・スフォルツァは共和国防衛総指揮官としてヴェネツィア軍と対戦したが、やがて密かに敵を手を結んで1450年、共和政体を崩壊させ、ミラーノ公国を再建し、自ら新興の君主となった。マキアヴェッリは彼を最も豊かな力量の持主であり、良き運命に恵まれた傭兵隊長=君主と考え、17章においてチェザレ・ボルジアと並べて論じている」
「フェルディナンド、通称カトリック王は、1500年、フランス王ルイ12世と密かに協定を結んでアラゴン家のナポリ王国を分割統治した。が、すぐに・・・両君主の争いが生じ、1503年・・・の2度の戦闘に勝利してフェルディナンドはナポリ王国を手に入れ・・・た。・・・マキアヴェッリはこのカトリック王をフランチェスコ・スフォルツァやチェザレ・ボルジアと並ぶ君主の理想像とみなして21章に登場させ、16章、18章でも言及する」
第二章 世襲か新興かの比較においてマキアヴェッリは盛んに世襲の方がすぐれている点を並べている。この点について注釈には何も言及がないが、この本を献辞したロレンツォ・デ・メディチが世襲の君主であることに関係あるのだろう。これも「君主論」の一つ?
第三章 ここでは他国に攻め込んで占領したときの政策について述べる。第一の点は占領した地の人民の反感を買わないこと。よって、「反乱を起こした地域を攻めて獲得するならば、もはや容易に失うことがないというのは真実」となる。ここで失敗例としてフランスが占領したミラノ奪還を挙げている。第二の点は言語、風習、制度に差異のある地域の占領後の維持には幸運と器量が必要としながらもマキアベリはその維持策として(1)支配者が現地に赴いて住み着くこと(迅速な対応)、例としてオスマン・トルコのコンスタンティノープル占領。メフメト二世は宮殿を造営して移り住んだ。(2)駐留兵ではなく、植民兵を送り込むこと(この方が経済的)、(3)近隣の弱小勢力軍を庇護し、その地の強大な勢力の弱体化に努め、強大な外国勢力の侵入を警戒すること。この(3)の成功例としてマキアベリはローマのギリシア進攻を挙げ、失敗例としてフランス王ルイ12世のイタリア進攻(恭順してきたイタリアの小国の庇護を続けず、野望を抱く教皇アレクサンデルにロマーニャを占領させてしまった、更に、ナポリを手に入れようとしてスペイン王とこれを分割した)を挙げている。
「ルイは以下の五つの誤りを犯したのである。すなわち、①弱小勢力を消滅させたこと、②イタリアの中で強大な一勢力の権威を増大させたこと、③この地域に極めて強大な外国勢力を導入したこと、④自らは移り住まなかったこと、⑤植民兵も派遣しなかったこと」
「ここから決してあるいは滅多に過つことのない一般原則が引き出せる。すなわち、他者が強大になる原因を作った者は、自らを滅ぼす。なぜならば、強大な勢力は才覚か武力かいずれかをそなえた者によって生み出されたのであり、これら二つの力のいずれの持主に対しても、強大な権力を備えた者はつねに疑いの目を向けるから」
注釈「ギリシアにおける弱小勢力群とはアカイア人やアイトリア人であり、同じ地域の強大な勢力とはマケドニアのフィリップ五世、強大な外国勢力とはシリアのアンティオーコスであった・・・・・初め戦闘はアイトリアと手を結ぶローマ人とフィリッポスの間で展開し、後者が・・・敗北した。次いでアカイア同盟およびフィリッポスと手を結んだローマ人がシリアのアンティオーコスと手を結んだアイトリア人と戦った・・・・アンティオーコスの敗北・・・に終わり・・・ローマ帝国の強大な軍事外交政策が明らかになった」
第四章 アレクサンドロス(アレキサンダー)大王がアジアに大帝国を築いてすぐに死んだのに、彼の死後、獲得した領土で大きな反乱が起きず、帝国が維持された理由を論じる。マキアベリはその理由をペルシア帝国がフランスのような封健国家でなく、王が行政長官を派遣して統治する中央集権国家であったからだとする。アレクサンドロスはペルシャ王ダレイオスの血筋を絶やしさえすれば、民衆は反抗のよりどころがなく、統治が容易だったと結論する。一方、封健国家の場合、民衆は王でなく諸侯に忠誠を感じていることから、諸侯を味方にすることで侵攻は比較的容易だが、占領後の統治は難しくなる。その例として、イタリア半島を攻略、制服したピュロスは、諸地域の反乱、同盟軍の離反、ローマ軍の介入によってたちまち領土を失ったことを挙げている。注釈では、ピュロスはアレクサンドロスと同等の有能な将軍だったが、相手がペルシアかローマかによって命運が分かれたこと、つまり、アレクサンドロスの相手がローマだったら勝てなかっただろう、と推論しているが、ペルシアもローマも中央集権国家だから、侵攻・征服の難しさは変わらないのでは?ピュロスが失敗したのは封健国家のイタリアを相手にしたからであり、もしローマ帝国自体を征服していたなら、その維持は容易であったはずだ。
「封健諸侯たちは彼等固有の領土や臣民を持っているから、臣民たちは彼を主君とあおいで生まれながらに親愛の情を寄せている。一人の君主と下僕たちが治める政体では、彼らの君主がより大きな権力を握っている。・・・・長官や行政官・・・・に特別な愛情を抱いているわけではない・・・・」
「アレクサンドロスが容易にアジアの支配地を維持したこと・・・・ピュロスやその他大勢が獲得したものを保持するのに困難を極めたこと・・・・・これは征服者の力量の多寡から生じたのではなく、彼のおかれた状況の差異から生じたのである」
第5章 固有の法で統治されていた都市、カルタゴ、ギリシアなどを征服・統治する方法としてマキアベリは三つ、(1)都市(および政権)を壊滅する、(2)移住して統治する、(3)固有法を認めつつ寡頭政権樹立、挙げる。(1)の成功例としてローマのカルタゴ支配等。一方、(3)の失敗例としてスパルタとローマのギリシア支配がある。これまた強烈な手法。現代では採用はほとんど不可だろうが、物理的に壊滅しなくても、失敗の主因である住民の敵意、自由や固有法を逆利用して、住民に取り入り、抱き込む(相互理解とは違うのか?)ことにより達成できそうな気もする。
第6章では自己の軍備と力量で獲得した君主政体。冒頭でマキアベリは先人の業績を模倣、真似に徹すべきと語るが、その成功した先人たちとして挙げているのは、モーゼ(イスラエルをエジプトから解放)、ロムルス(ローマの建国者)、テーセウス(アテナイの建国者)、キュロス(ペルシアをメーディアから独立)であり、前3者は伝説上の人物ということらしい。事実誤認も多少あるようだが、マキアヴェリが言いたいのは、「人民は本性において変わりやすいので・・・・彼等が信じなくなったときには力づくで彼等を信じさせておく手段が整っていなければならない」とし、「モーゼやキュロス、テーセウスやロムルスがもし非武装であったなら自分たちの律法や制度を長い間人々に守らせることはできなかったであろう」と推論し、失敗例としてサヴォネローラを挙げている。「信じてきた者たちの心をつなぎとめておく方法も、不信の念を抱く者たちを力づくで信じさせる方法も彼には無かった」そしてやや小さな成功例として、シラクーザのヒロエーンを挙げている。「この人物は古い軍隊を消滅させ、新しいその制度を組織した。旧来の友好関係を断って新しい関係を築いた。そして自分の味方と軍兵を手に入れるや、その基盤の上に次々と建物を築いていくことができた。それゆえ、君主の座を獲得するには甚だ苦労を伴ったが、これを保持するのに彼はほとんど何もいらなかった」 今の中国もこんな感じなのか?だから中国は軍備を強化し、各国の非難合唱にもかかわらず、それを続けているのか?一方、ロシアが苦戦しているのは、日本や欧州、そしてアメリカが遅れをとっているように見えるのは、このことに関係があるのか?
第7章は他者の軍備で獲得した新しい君主政体。ここでマキアベリはほとんどチェーザレ・ボルジア=ヴァレンティーノ公の業績について述べている。彼は教皇アレクサンデル6世の子で、教皇の庇護を受け、ヴェネチア、フランスやオルシーニの傭兵隊の力を借りてロマーニャ地方を獲得し、その保持のために傭兵隊のオルシーニやコロンナの弱体化を図り、自分自身の軍隊、自分に従う味方を増やし、ロマーニャ地方の人心を獲得した。更にフランスから完全独立しようとしたが、アレクサンデル6世が急死し、チェーザレ・ボルジア自身も病魔に侵され、権力を失うことになる。共に戦った友軍の人々や配下たちを冷酷に裏切り、時には皆殺しにしてしまうところは残酷極まりない。だが、「敵の敵は味方」というような利害関係の正確な把握が重要という点では、マキアベリの趣旨はまさにそのとおりなのだろう。
「わずかに非難されるべきはユリウスを教皇の座につけたこと・・・・・公としてはなによりもまずスペイン人の教皇を立てるべきであった・・・・彼がかって危害を加えたことのある枢機卿・・・・・・断じてサン・ピエーロ・アド・ヴィンクラであってはならなかった・・・・この選択において公は過ちを犯した。そしてそれが彼の破滅の決定的な原因となった」
第8章はマキアベリの真の姿を知るのに重要な箇所だ。彼は権謀術数の権化、人を騙すことを為政者に奨励した悪魔のような学者という見られ方をしている(「政治において目的を達成するためには手段を選ばぬ権謀術数・・・一般にこうした権謀術数は古今東西にわたって見られるものであるが、・・・・マキアベリの作品、特に君主論がきわめて大胆にこうした所説を認めているとみなされた・・・・」コトバンク)。だがマキアベリは第8章で「極悪非道な何らかの道を通って君主の座に昇った者」を二例挙げ、彼らの勇敢さや優秀さにもかからわず、数限りない極悪非道のゆえに、優れた君主ではなく、「力量(virtu)」を持っていたとは言えないと結論している。マキアベリは更に、ここで挙げた二人の極悪非道の君主が政権を一定期間維持できたのは、その極悪非道を「一挙に」行い、その後は極悪非道を行わずに臣民に尽くしたからだとしているが、これは、第5章で挙げた「固有の法で統治されていた都市、カルタゴ、ギリシアなどを征服・統治する方法」としてマキアベリが挙げた「(1)都市(および政権)を壊滅する、(2)移住して統治する、(3)固有法を認めつつ寡頭政権樹立」と通ずるものがあると思う。よって、マキアベリがここで言いたいのは、第5章を実践するとしても、自分の同朋を殺害したり、友人を裏切ったりするのは間違いだということなのだろうが、現実はどうだろう。マキアベリが優れた君主としているアレクサンダー、モーゼ(イスラエルをエジプトから解放)、ロムルス(ローマの建国者)、テーセウス(アテナイの建国者)、キュロス(ペルシアをメーディアから独立)、そしてチェーザレ・ボルジアなどはこういうことを全くしていないと言えるだろうか?程度問題だが、自分に反抗した元同朋や裏切り行為に走った友人に対して君主は決断を迫られることもあるだろう。SFの世界では、ドミニオンとの戦争で地球人が大量に戦死している現状において、全く無実の二人を犠牲にして、中立の立場にいたロミュラン人を地球側に引き入れた司令官ベンジャミン・シスコが、その行為が悪行だったと認識、後悔しつつも、「もし同じ状況に立てば、ためらわず、また同じことをやるだろう」と語る。全く、戦争というのは法や正義を遠のかせてしまうものなのだろう。(「キケロの演説が由来のラテン語のことわざ『戦時下に法は沈黙する』」memory-alpha)
「シチリアのアガートクレ・・・・・誰かの好意を得たためではなく、軍隊の階級を登りつめ・・・・その過程で千もの難儀と危険を乗り越えつつ・・・・ついに君主の座に到達した・・・・その後もそれを勇敢かつ危険極まりないあまたの決断によって保持した・・・・それでもなお、自分の同朋である市民を殺害し、友人を裏切り、信義を欠き、慈悲心を欠き、宗教心を欠いた行動を力量(virtu)と呼ぶわけにはいかない・・・・・数限りない極悪非道によって示された彼の野蛮な残酷さと非人間性とは、卓越した偉人たちの列に彼が加わることを容認しない・・・・」
「フェルモのリヴェロット・・・・・大虐殺がすむとリヴェロットは馬にまたがって市中を走り回り、最高行政府を建物に押し込めて包囲した。それゆえ恐ろしさのあまり人々は彼の言いなりになって新しい政府を定め、彼はその君主に納まった。・・・・わずか1年のうちにフェルモの都市のなかで彼の地位は安定したばかりかすべての近隣諸国から恐れられる存在となった」注17「オリヴェロット・エウッフレドゥィッチ・ダ・フェルモは1501年・・・マキアベリが語っている方法で支配権を奪い取った。そして翌年・・・・シニガッリアでバレンティーノ公(チェーザレ・ボルジア)に殺害された」
「同じ残虐な手段に訴えながらも多数の他の者たちが・・・・政権を保持できなかったのはいったいどこから生じたのであろうか。私の信ずるところによれば、これは残虐が悪く用いられたか、あるいは良く用いられたかによって生じてくる・・・・良く用いられたと呼びえるものは・・・・政権の安定を図る必要上、一挙になされた場合であり、その後はいつまでもこだわらずに可能なかぎり臣民に役立つことへと事態が転換された場合である。悪く用いられたものは、初めのうちはわずかな残虐であったものが時と共に消えるどころかそれが募っていく場合である」
第9章は市民による君主政体。ここでは民衆の好意もしくは有力者たちの好意で君主になる場合を論ずる。どちらが良いかについての記述は二つあり、矛盾しているように思うが、注釈には何も記述はない。一つ目の矛盾は「民衆を敵に回すとその数があまりにも多いので安全を保ちえない」と言いながら「民衆を敵に回すことによって想定し得る最悪の事態は彼等に見放される事」にしかすぎないとしていることであり、二つ目の矛盾は「有力者たちを敵に回しても数は少ないから身の安全は保ちえる」と言いながら「有力者たちを敵にまわしたときには見放されるだけでなくは向かってくることも恐れなければならない」としており、どちらがより危険なのか結論が分かれている。更に、マキアベリは結論として、「いかなる君主においても民衆を味方につけておくのが必要」としながらも、「民衆が自分を救ってくれるだろうと思い込んだ場合には・・・・・しばしば欺かれるであろう」と語り、その例としてローマのグラックス兄弟やフィレンツェのジョルジョ・スカーリを挙げている。理想の君主像としてマキアベリは、「命令を下すことのできる・・・逆境の中でも狼狽えない勇敢な人物であって、備えを怠ることなく、勇猛果敢に万人を鼓舞するならば民衆に欺かれることは決してないであろう」「不穏な時期になればほとんど人材は見いだせない・・・・・賢明な君主はいついかなる状況のなかでも自分の市民たちが政権と彼のことを必要とするための方法を考えておかねばならない。そうすれば常に彼に対して忠実であり続けるだろう」と語る。
注釈・グラックス兄弟「ティベリウス・センプロニウスとガーイウス・センプロニウス、兄弟とも護民官。兄は前133年の暴動で殺され、弟は121年に反対派の手に落ちる前にたぶん奴隷の一人にわが身を殺させた。」「ジョルジョ・スカーリはフィレンツェの富裕市民。チョンピの乱1378年の後、トンマーゾ・ストロッツィと共に平民の指導者となった。しかし・・・尊大な振る舞いと、平民たちの手から市政を奪おうと考えた者たちの憎しみとによってスカーリは死刑となり、ストロッツィは逃亡した」
第10章 ここでは十分に強い政権(軍隊をまとめあげ侵略してくる相手と戦闘する)ではなく、城壁の内側に逃げ込んで防御せざるを得ない政権について語る。マキアベリはそのような君主たちについても見放すことはせず、「ひたすら都市の防衛を強化し物資を蓄え、領域に関しては一切諦める」ことを提言する。ここではドイツの諸都市を例にあげ、彼らは周辺領域をほとんど持たず、都市に城壁と濠や水路、大砲などを配備し、公共の倉庫に1年分の飲料・食糧・燃料を貯蔵することで堅牢な防備を固めており、一方、1年間も都市の包囲を続けることは不可能だと論ずる。都市の外の財産が破壊されてしまうのが難点だが、それは戦闘の初期段階であり、市民の士気を保つことは困難ではないとする。一方、日本の戦国時代、羽柴秀吉の兵糧攻めは、鳥取城は5ヶ月(6~10月)、三木城(神戸の北西)では2年かかっている(三木城自体に貯蔵能力はなかったが、北面が川に接しており、外部からの補給路を断たれるまでは落ちなかった)。日本の城は貯蔵能力がないところがドイツと異なるものの、1年間というのは短すぎるのでは?という気もする。軍隊が割拠していたヨーロッパでは、長い間自国を留守にして包囲戦をしている余裕はなかったということか?
注釈では「例外項目のごとき第10章の役割は・・・・・マキアベリの最初の構想(1章から11章、ただし10章を除く)と第12章に始まる新しい論題、政体にとっての軍事の必要性・・・・を接続させる・・・役割」と結論している。
「都市では常に1年間は共有の仕事が彼等に与えられ、そのような職業活動のなかにこそ都市の活力や生命が宿っていて、それらの産業を糧に平民は命をつないでゆく(これは雇用対策?)・・・・加えて軍事訓練を尊重し、これを巡って多数の規則を設け、実践に励む(これは徴兵制?)・・・・」
「この世の有様はうつろいやすいので、軍隊を率いてなすところもなく、1年間も都市の包囲を続けるような真似は君主には不可能・・・・」
第11章はローマ教会による統治について述べている。かってのイタリアは5つの勢力(教皇、ヴェネツイア、ナポリ、ミラノ、フィレンツェ)が支配しており、当時は教会の権力は大きくなかったが、アレクサンデル6世が教会の権力を強大にし、教皇ユリウスがそれを継承した。他の勢力はこれに対抗するために枢機卿を利用し、フィレンツェはメディチ家最初の教皇レオ10世(大ロレンツォの次男ジョバンニ)を出している。教皇レオ即位時の恩赦でマキアベリは獄中から出られたらしい。
「教会権力がかくも強大になるに到った・・・・その原因は・・・・財力と戦力とを備えた・・・・・かって用いられた例のない蓄財の方法(他国に住む信者からの献金?)・・・・」
第12章 ここからマキアベリは軍備について語る。最初に述べるのは傭兵の失敗例。君主が自ら陣頭に立ったり、市民=軍隊であったローマ、スパルタ、スイスが成功例。イタリアは傭兵を導入し、教皇が存在することもあり、小国に分かれ、統一できない。イタリア、フィレンツェがどうすべきかの具体策についてはまだ語られない。君主or政府の長が軍備の最高司令官というのは現代では普遍的だと思うが、「市民=軍隊」=徴兵制を採用している国はさすがに多くないだろう(韓国?)。日本もアメリカもたぶん徴兵制を採用することは不可能だろうし、自分の息子が戦場に送られることに中産階級の親たちは絶対反対するだろう。ならば、このマキアベリの主張は現代にどう生かされるのだろう。
「今日のイタリアの破滅は、長年にわたって傭兵軍に全面的に依存してきたこと以外に原因をもたない・・・フランス王シャルルがチョークで印をつけながらイタリアを奪い取ったのは当然のことであった・・・・・それこそは君主たちの犯した罪であったから、彼等もそれなりの罰を受けたのである」
「傭兵隊長とは、軍備に卓越した人物たちであるか、そうでないかである。もしもそうであれば・・・信用できない。なぜならば主人であるあなたを圧迫したり、・・・・常に自分の偉大さを誇示しようとするから。しかしもしも傭兵隊長に力量がなければ、・・・・あなたを破滅させてしまう。」
「君主ならばみずから陣頭に立って指揮官の役割を果たさねばならない。共和政体ならばその市民を派遣しなければならない。そして市民の一人が有能でない時は他のものと交代させねばならない。そして、有能であるときには、彼を法律で規制し、権限を逸脱しないようにしなければならない。・・・・・武装した君主と武装した共和政体だけがきわめて大きな進歩を遂げた・・・・・傭兵軍は損害しかもたらさなかった」
「ローマとスパルタは何世紀にもわたって武装して自由を守った。スイス人は完全に武装して完全な自由を守っている」「カルタゴ人・・・・傭兵隊の横暴によってほとんど制圧されかけた。」「ミラノ人は・・・・フランチェスコ・スフォルツァを傭ってベネツィアに対抗させた。彼は・・・・敵を破ってから・・・・ミラノを制圧するために敵と手を組んだ」「ヴェネツィア人にせよフィレンツェ人にせよ、過去において・・・・傭兵隊長は・・・君主になったりせずに防衛に尽くしてきた・・・・・この点においてただ運がよかっただけである」「この種の軍隊で最初に名声を高めたのは・・・・アルベリーコ・ディ・コーニオ・・・・ブラッチョとスフォルツァ・・・・その後、・・・他の諸々の者たちが出て、この種の軍備を支配してきた・・・・・彼等の力量の結果が今日までイタリアをしてシャルルに蹂躙させ、ルイの略奪の餌食とさせ、フェッランドの侵略の場と化させ、スイス人の辱めをうけさせたのである」
(注釈)「『イタリア』:この章においてこのキーワードが頻繁に使われていることに注目しておきたい。イタリアという統一政体は遥か後代まで実現しなかった」
第13章は援軍、混成軍および自軍について。ここでマキアベリは他国の援軍や傭兵部隊に頼ることの危険性を過去の事例で示す。曰く「傭兵軍において最も危険なのは無気力であり、援軍においてはその力量である・・・・・・彼らが敗北すれば自分も滅亡してしまうし、勝利すれば、自分は彼らの虜になってしまう」。教皇ユリウス、フィレンツェ、東ローマ帝国の失敗例、そしてフランスやローマの失敗例は全て自分よりも強い援軍を自国に引き入れたために彼らが自国を奪い取ってしまうということであり、一方、チェーザレ・ボルジア、シラクーザのイエローネ、更にダビデの成功例は他者に頼らずに自己の軍備を整備することで勝利を得ている。だが、マキアベリはなぜフランスやローマが、もともとは自己軍備を擁していたのに、傭兵や援軍に移行していったのかの原因分析まではしていない。おそらく、自国民の生活水準が高まると軍隊維持費が高騰し、裕福になった市民は自分の息子たちを戦場に送るのを避けようとするのではなかろうか。アメリカがベトナム戦争から撤退したのはこの理由と言われている。維持費が安く、自分の息子ではない他国の傭兵や援軍を、契約や同盟などの法的手段によってリスク回避を確保しつつ導入しているのは、現代においてはたぶん、軍備大国以外の国々(日本を含む)ではなかろうか。しかし、核兵器などの高性能兵器が開発されて歩兵部隊や騎兵部隊は全くの時代遅れになっている現代において、「自己軍備」とは何を意味するのだろう。情報処理や生物兵器などの最先端技術、ハイテクを追求しつづけるR&D部門はたぶん必須であり、その技術者はまさに優秀な自己軍備と言ってよいのかもしれない。
「教皇ユリウスは・・・・フェッラーラ攻略の際に傭兵軍がはかばかしい成果を上げないのを見て取るや・・・・スペイン王フェッランドと同盟を結び・・・軍隊によって援助してくれるよう要請した・・・・・援軍はラヴェンナで打ち破られたが、スイス人が立ち上がり・・・・勝利者を追い払ったので・・・・・彼は敵方の虜にも・・・・自分の援軍の虜にもならずに済んだ・・・」「フィレンツェ人はまったく軍備が無かったのでピーサ攻略のために1万のフランス軍を送り込んだ・・・・彼等はかって味わったことのない苦難の危険を招いた」「コンスタンティノーポリの皇帝は反対する党派を鎮圧するため、ギリシアに1万のトルコ軍を招き入れたが、彼らは戦争が終わっても立ち去ろうとしなかった。これが異教徒にギリシアの隷従する始まりとなった」
「チェーザレ・ボルジア・・・は援軍を率いてロマーニャ地方へ入ったが、・・・すべてフランスの兵力であった・・・・・イーモラとフルリを落とし・・・その後、傭兵軍の方が危険がより少ないと判断し、・・・オルニーシ家とヴィテッリを雇い入れた。その後、・・・・やはり忠実でなく危険な疑いが出てきたので、いずれも消滅させ、自軍に頼ることにした・・・・・彼が自己の軍備の完全な掌握者になったと誰もが見て取ったときほど絶大な評価を彼が受けたことはなかった」「シラクーザのイエローネ・・・・はシラクーザ人に推されて軍隊の総指揮官となったが、・・・・傭兵軍が役に立たないことを見抜いた・・・・その後は自分の軍備だけで戦争し、他人の軍備は用いなかった」「ダヴィデがサウルに申し出てペリシテ人の挑発者ゴリアテとの戦いに向かおうとしたとき、サウル・・・・の武具・・・・を身に付ける・・・のを断わった・・・・・自分の石投げ紐と短剣だけで敵に立ち向かうことを望んだ・・・・・結局、他人の軍備はあなたには背中からずり落ちてしまうか、あなたには重すぎるか、あなたには窮屈なのだ」
「シャルル7世は運命と力量によってフランスをイギリス人から解放したが、自軍によって武装することの必要性を痛感し、・・・・騎兵と歩兵による常備軍を創設した。その後、息子のルイ王が歩兵軍の方を廃止してスイス人を雇い始めた。この過ちは・・・・この王国の諸々の危険の原因をなしている」「ローマ帝国滅亡の第一原因を熟慮してみるならば、それがまさにゴート人を傭兵にし始めたときにあった・・・・・あれほどまでの力量の全てが、彼らの手に渡った・・・・・」
第14章でマキアベリは君主は軍隊の育成・訓練や戦争指揮に傾注しなければならないと説く。自国の軍隊よりも甘美な生活(文化や芸術?)を重んじれば、自国の軍隊に見放され、敵国からの攻撃に耐えられない。その例として傭兵隊長のフランチェスコ・スフォルツァが軍事を重視してミラノ公となったこと、一方その息子たちは軍備を軽視したために公の地位を追われたことを指摘する。戦争指揮については実践訓練(狩猟など)や地形の知識を覚えること、それに歴史書を読むことを挙げている。これらの例として、紀元前アルカディアの政治家・将軍のフィロポメインが平時にあっても戦争のことを考え、友人と野外を歩いて眼前の地形における陣形や攻撃方法を論じ合ったということ、アレクサンドロスがアキレスを模倣し、カエサルはアレクサンドロスを模倣し、大スキピオ(ザマの決戦でハンニバルを破った)は紀元前のペルシア帝国の創始者キュロス2世を模倣したことを挙げている。現代において大国の指導者たちが民事よりも軍事を重んじれば地球はたちまち滅亡してしまう危険な状態にあるのだが、現代の指導者の最大目標が国益、着実な成長、他国との協調(それらを怠れば現代の国家は生き残れない)であるならば、マキアベリの指摘は対象を替えて有効かつ正しいと言えるだろう。例については旧ソ連邦、旧東ヨーロッパの諸国、イラクのフセインやリビアのカダフィ。一方、共産主義のもとではこれらを達成できないと思われていた中国は全く独自の方策で国益を拡大し、着実に成長し、他国とも正面衝突せず、共産主義の悪い面を全く主張することなく、世界最大の国になろうとしている。
「君主たる者は・・・・・戦争と軍制と軍事訓練のほかには何の目的も何の考えも抱いてはならない。・・・・それこそは命令を下す者がなすべき唯一の業務・・・・」
「フランチェスコ・スフォルツァは武装していたがゆえに私人からミラノ公となった・・・・・・フィロポメインはアカイアの君主であり、他にも著作家たちから賛辞を寄せられてきたが、平時にあっても戦争の方法しか考えなかったという・・・『もしも敵軍があの丘の上に陣取り、私たちがここにいて味方の軍隊を率いていたならば、いずれが有利であろうか?』・・・・・・・クセノポーンが書いたキュロス伝を読む人は誰しも、後年のスキピオの生涯のうちに、いかにその模倣が彼に栄光をもたらしたかを・・・・・その純潔、温厚、人間性、寛大の諸相において、スキピオの言動が・・・・キュロスのそれと合致するかを確認するであろう」
注釈によれば、第14章まででいわゆる「君主政体論」が終わり、第15章からは「君主論」すなわち「臣民や味方に対する君主の態度と政策」が論ぜられるとしている。15章のマキアベリの言葉は強烈で、「君主がみずからの地位を保持したければ善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ」「必要なのは、ひたすら思慮深く振舞って自分から政権を奪い取る恐れのある・・・・悪徳にまつわる悪評からは逃れる術を知っていなければならない・・・・・更に、これらの悪徳なくしては政権を救うことが困難な場合にはそういう悪徳にまつわる悪評の中へ入りこむのを恐れてはならない」と論ずる。これでは自己の政権を守るためなら何をしてもよいことになるが、ポイントは「政権が安泰であるときは、自分に対する悪評が立たないようにせよ。だが、政権が危うい時は悪評には構っていられない」ということだろうか。サッソの注釈はかなり踏み込んでいて、核心を突いているのかもしれない。「議論が政治学の分野へ移されると他のところでは美徳であったものが悪徳になる。なぜならば政権の座にある人間は自己の政治構造を守らねばならないから。そして悪に訴える必要があるときまで善に頼ってこれを守ろうとすれば、彼の行動は有徳のものでなく『悪徳の物』になってしまう。マキアベリの政治理論はここに至ってその頂点の一つに達する。」
第16章では君主の気前の良さを論ずるが、全ては次の一文に集約されていると思う:「君主たる者は、・・・・吝嗇ん坊(けちんぼう)の名前が広まるのを、臣民から搾取しないがために、自らを守り抜くために、貧困に堕して侮辱されないがために、強欲になる破目に陥らないがために、いささかも気にしてはならない。」 注釈は「この文章全体はマキアベリの文体の多彩で明解で説得力に富む素晴らしい例の一つである」というリージオの注を載せている。
17章は冷酷と慈悲について。マキアベリは性悪説に基づいて議論を展開しており、必然的に君主は慈悲深くよりも冷酷になるべきと主張する。人民に憎まれることは避けるべきだが、必要な場合はためらってはならない、という議論の後、財産や婦女子(女性も財産という考えもあったらしい)を奪われたことを人は忘れないが、肉親を殺されたことはすぐに忘れてしまう、という記述はやや難解。注釈もそれを指摘して解説を試みているが、なおピンとこない。マキアベリはハンニバルについて、あれほどの人種混成部隊を統率できたのは彼が冷酷であったからに違いないと指摘し、逆にスキピオの方は慈悲深かったために非難された、と指摘する。これは言葉の印象の問題で、人を甘やかしてはいけない、生半可な信頼などではいけない、緊張感のある守り抜かれる信頼を作り上げねばならない、ということか。
・性悪説: 東の韓非子(中国)、西のマキャベリ(イタリア)とよく言われる。両者とも「性悪説」の巨頭だ。長く駐在した両国での交渉事では、しばしばこうした「性悪説」がベースの場面に遭遇した。日本は伝統的に「性善説」が中心で運営されており、世界でも稀な暮らしやすく、信用、信頼、安全の国だった。それだけに人を甘く見てしまうところがある。交渉でも相手の善意を期待してしまう性質が抜けない。こうした風潮は海外では通用しない。米国ビジネスでは中国流の「韓非子」に似たケースが多かったし、「マキャベリの君主論」の考え方が浸透している欧州はそれ以上だった。かの有名なスイス生まれの哲学家・政治思想家・作家・作曲家であるジャン=ジャック・ルソーやドイツを代表する哲学者のヘーゲル、フランスの思想家のモンテスキューも「性悪説」を支持し、マキャベリの「君主論」を評価した。当然、欧州のビジネスや経営者のスタイルは「性悪説」が基底に流れている。中国は「性善説」と「性悪説」が生まれた国だが、「性悪説」が突出している。よく「性悪説」を毛嫌いする人がいるがその本質を知ることが大切だ。「性悪説」は、人間は弱い者だし人の性が悪だからこそ、人を導く教育や学習が大切だと言っている。悪を認めているわけでなく、勿論人間は本質的に悪者だとは言っていない。むしろ人との交わりを積極的にやれと言っている。(日本交渉協会)
・荀子の性悪説:「性悪説」の正しい意味(訳)は「努力することによって善を獲得できる」 原文:人之性悪、其善者偽也。書き下し文:人の性は悪なり、その善なるは偽なり 訳文:本来の人間の性質は悪である。それが善になるのは人間の意思で努力することの結果である。 原文の「悪」の意味は、「悪い」という意味ではなく、「弱い存在である」という意味です。また、「偽」という字の意味は「偽り」ではなく、「人の為す」結果、という意味です。つまり、弱い存在で生まれつく人間は、自分の意思で学問を修め、努力することによって後天的に善を獲得できるということを説いています。trans.biz
「二つのうちの一つを手放さねばならないときには、慕われるよりも恐れられていた方がはるかに安全である。なぜならば、人間というものは一般に恩知らずで移り気で空とぼけたり隠し立てをしたり危険があればさっさと逃げ出し、儲けることにかけては貪欲であるから。・・・・・そして人間というものは恐ろしい相手よりも慕わしい相手のほうが危害を加えやすいのだから。・・・・恐怖の方はあなたに付きまとって離れない処罰の恐ろしさによって繋ぎ止められているから」
「必要があって誰かの血を流さねばならないときは都合のいい正当化と明白な理由とを掲げてこれを断行しなければならない。だが、なによりも他人の財産に手を出してはならない。なぜならば人間というものは殺された父親のことは忘れても、奪われた財産のほうはいつまでも忘れないから」
18章は信義について。前章と似たような言葉だが、ここでの主題は「見せかけること、振舞うこと」である。つまり、君主が五つの資質(①慈悲深く、②信義を守り、③人間的で、④誠実で、⑤信心深く)を身につけているかのように見せかけることが「君主たる者に必要」だとする。君主の目的は「政体保持」であり、これらもすべてそのための手段ということだが、この議論の前提には社会情勢や技術進歩の度合いがあり、現代の政治家ははるかに複雑多岐な偽装を要求されている。マキアベリの議論そのものが今やあまりに直接的すぎて今の風潮に合わないが、今では民衆の方が指導者に対して「それらしく振舞うこと」「嘘でもいいから目指すべきものを示せ」と要求しているのでは?現代の民衆の要求は実に大きくなっているのかもしれない。
「人間は邪悪(tristi)な存在であり、あなたに信義など守るはずもないゆえ、あなたのほうだってまた彼等にそれを守る必要はない・・・・・また人間というものは非常に愚鈍(semplici)であり、目先の必要性にすぐ従ってしまうから、欺こうとする者はいつでも欺かれる者を見出すであろう」
「君主たる者は、わけても新しい君主は、政体を保持するために時に応じて信義に背き、慈悲心に背き、人間性に背き、宗教に背いて行動することが必要なので、・・・・可能な限り善から離れることなく、しかも必要とあれば断固として悪の中へも入っていくすべを知らねばならない」
「君主たる者は・・・・・外見上、・・・・いかにも慈悲深く、いかにも信義を守り、いかにも人間的で、いかにも誠実で、いかにも宗教心に満ちているかのように振舞わねばならない。またとりわけ、この最後に挙げた資質を見に備えていると見せかける以上に必要なことはない。」
次の19章「軽蔑と憎悪」は長く、137~154p、17pもある。ここでマキアベリが延々と繰り返すのは、「憎悪や軽蔑を招かないようにしなければならない」だが、「軽蔑を招くのは一貫しない態度、軽薄で女々しく、意気地なしで優柔不断な態度」と指摘し、「自分の行動が偉大なものでり、勇気に溢れ、重厚で断固たるものであると認められるよう努めねばならない」と力説する。あとのページは過去事例であり、民衆だけでなく兵士をも満足させねばならなかったローマの歴代皇帝の例を延々と語る。例示された10人のうち殺されなかったのは二人のみ、マルクス・アウレリウスとセウェールスであるが、マルクスが「簡素な生活を守り、正義を愛し、残虐を敵とし、人間的で慈悲深くあった」にもかかわらず天寿を全うできたのは、相続権で帝位を引き継いだこと、および豊富な力量を備えていたので民衆や兵士に尊敬された、とし、一方、残忍極まりない、強欲極まりない者であったセウェールスは、殺された皇帝ペルティナックスの報復と称して素早くローマに軍隊を送って元老院から皇帝の称号を得、実質的ライバルであった東西の二人に対し、同時にではなく、順番に相対してこれを破り、「獰猛な獅子であると同時に狡猾な狐」を演じて帝位を確実にし、民衆に恐れられ慕われ、軍隊にも憎まれなかった、と解説してみせる。こうしてみると、本来の性格ではなく、状況変化に応じていかに力量を発揮できるかが君主の資質、もしくは運命を決定するということか。紙面を多く割いたのは、この性格の全く異なる二人の皇帝の解説が困難だったからか?この章も前章と同じく、本書の重要部分なのかもしれない。
20章では臣民の武装、信頼すべき人民、そして城砦について論ずる。統治の手段として人民の分断工作がある(ピストイアでの分断工作、ピーサに対する城砦構築など)が、これが有効なのは平和時に限られ、外敵に襲われればひとたまりもない。よって、君主は(全員ではないが、特定の)臣民を武装させて外敵に備え、同時に臣民全体の支持を保持できる。政体の発足当時もしくは新たに獲得した政体において信頼すべき人民として、マキアベリは、発足当時に味方してくれた者や政体獲得時に前の政体に背いてくれた者たちよりも、発足当時に疑心を抱いていた者、以前の政体に満足していた者たちのほうが信頼できると論ずる。その理由としてマキアベリは二つ挙げており、一つは発足当時に味方した者は現状に満足して働かず、疑心を抱いていた者のほうが疑念を晴らそうとして必死に働くだろうということ、二つ目は、現状に不満を持つ者は新しい君主にも不満を持つだろう、それよりも以前の君主に満足していた者のほうが、新しい君主にも満足してきちんと働くだろう、というもの。この二つの理由はやや矛盾しているように思えるし、そもそも、政体獲得時の同志や協力者よりも、傍観者や敵対者たちを信頼すべきというのはなかなかに難しい注文のように思える。同志や協力者には相応の地位や褒章を与えたうえ、傍観者や敵対者のなかの有能な者たちからも徴用する、ということか。注釈によると、マキアベリ自身も「新しい政体メディチ家との関係において・・・・以前の政体に満足していたがために敵対した者」に該当しており、マキアベリ自身の保身もしくは売り込みのために多少強調しているのかもしれない。城砦については、民衆から身を守るのには有効だが、外敵からの防御としてはもはや無力となっており、ケース・バイ・ケースとしているが、挙げられた事例はほとんど不利益のもののようだ。この時代にはもう城砦は有効ではないということだろう。
・ピストイアとピーサ:十四世紀当時のイタリアは都市国家が互いに反目し覇を争っていた。当時の西洋は文明の一番進んでいたイタリア半島にしても、いまだネーション・ステートは形成されてはおらず、フィレンツェとかシエーナとかピーサなどの都市国家が近隣の都市国家と戦闘を繰返していたのである。それだからフィレンツェ人ダンテはシエーナとかピーサとかジェーノヴァとかピストイアとかを憎んだ。これは京都の人間が奈良も大阪も大津も憎んだようなもので、今日の日本から振返ると滑稽である。しかし日本も十七世紀の初頭に豊臣氏が大阪城夏の陣で滅ぶまでは藩単位で戦っていたようなものである。(日本戦略研究フォーラム)
「君主たち、なかでも新しく君主になった者たちは、自分の政体の発足当時にしめし合わせた人たちよりもその発足時に疑心を抱いていた人たちのほうにはるかに大きな信頼と大きな利益とを見出してきた・・・・・確かに言えるのは、君主政体の当初にあって敵意を示した人たちでも、いまや保身のため政体に依存せざるを得なくなった場合には、君主にとってそのような者たちを自分の味方に引き込むのはつねに非常に容易いということだ」
「自分を支持してくれた者たちがいかなる理由で支持に踏み切ったか・・・・・その理由が自分たちに寄せられた自然の敬愛のためではなく、単に彼らが元の政体に満足していなかったためだけであるならは、・・・・彼等を満足させることは不可能・・・・。それまでの政体が征服されるのに力を貸した・・・者たちよりも、以前の政体に満足して・・・・敵対した者たちの方がおのれの真の味方になることははるかに容易にみて取れるであろう」
21章では、尊敬・名声を得る方策について述べる。最初の例は偉大な事業を推し進め、スペインの大国化を実現したアラゴンのフェッランド(カトリック王フェルナンド)。カスティリアの女王イサベルと政略結婚してグラナダのイスラム教徒を追い出し、レコンキスタ(キリスト教復活)を実現したのだからまさに大事業だが、いろいろと残忍なことも断行したらしい。二つ目の例のベルナボ・ダ・ミラーノ(ベルナボ・ヴィスコンティ)は褒章を与えるのに長けていたらしいが、注釈は「君主論を贈呈する相手、メディチ家を念頭に置いていたに違いない」と指摘している。三つ目の争う二者に対して「旗幟を鮮明にする態度」のロジックは分かりやすく、勝っても負けても同盟者の信頼を得られるとしているが、これは20章で論じた政体発足時の敵味方についての信頼と全く逆になる。自己の臣民の場合と他国との同盟とでは信頼関係が逆になるというロジック。四つ目は尊敬・名声を得る方法ではないが、同盟を組む場合の注意事項で、「やむを得ない場合を除き、自分より強い有力者と手を結んで第三者を攻撃してはならない」というもので、これまた三つ目の議論とまるで矛盾する。勝っても負けても信頼を得られるのでは?同盟を組む場合は同程度の力量の者とすべき、という前提があるということか?それとも例示されたミラノがフランスと組んだ同盟のように、自分よりもはるかに強力な者とは組むなということか?それなら理解できる。五つ目は力量のある者を厚遇・賞賛すること、および、祝祭や興行を催して民衆の関心をそらす、というもので、注釈によるとクセノホーンの記述に由来しているらしい。ここでも祝祭・興行についてはメディチ家が採用していたらしい。
・カトリック両王/フェルナンドとイザベラ:スペイン王国を共同統治(1479-1504)したイサベラとフェルディナンドのこと。その統治のもとで、レコンキスタを完成させ、ヨーロッパでの大国化の基礎を造った。カスティリャの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドは1469年に結婚し、1479年に両国が合同してスペイン王国となって、二人は共同統治者となった。しかし、二人の結婚には複雑な事情があった。イサベラは父はファン2世、母はポルトガル王家出身の女性だった。1454年、腹違いの兄エンリケが王位を継承するとイサベラの結婚問題が起こった。宮廷には親フランス派、親ポルトガル派、親アラゴン派がそれぞれの国の王子とイサベラを結婚させようとした。アラゴンはフランスの圧力を受け、経済的にも不振であったので、羊毛産業が勃興して豊かになりつつあり、領土もアラゴンの4倍、人口の6倍にあたるカスティリヤとの関係強化を望み、王子フェルナンドとイサベラの結婚を画策した。イサベラもそれを見抜いていたらしい。
「味方でない方はあなたに中立を求め、味方に立つ方は武器を執って旗幟(きし)を鮮明にせよとあなたに迫るであろう。そして決断力に欠ける君主たちは、当面の危機を回避したいばかりに大方があの中立の道を選んで大方が破滅へと向かう。・・・・・君主が敢然として一方の側に立つと態度を明らかにするとき、・・・・あなたの同盟した側が勝てば・・・・友愛の絆が結ばれることになる・・・・・だが、もしもあなたの同盟した側が負けた時には、あなたは必ずや彼に受け入れられる。そして可能な限り、彼はあなたを助けてやがて運命が甦ってきたときには、それを分かち合う仲になるであろう」
「君主たる者は自分よりも強い有力者と手を結んで第三者を攻撃するようなことがあってはならない。なぜならば、たとえ勝ってもその有力者の虜になるだけであるから」
・クセノホーン:[生]前430頃.アテネ、[没]前355頃.コリントス、ギリシアの軍人,歴史家。ソクラテスの弟子。ギリシア傭兵軍に加わってペルシアの内乱に参戦,指揮官を失ったときに,彼が指導者に選ばれて1万人のギリシア軍をバビロンに近い砂漠のなかから黒海南岸まで退却させた功績は,自著『アナバシス』 Anabasisに詳しい。その後スパルタに味方して祖国を追放され,オリンピアに近い田舎に住み,再び追われてコリントスに移住した。主作品はほかに,『ヘレニカ』 Hellēnika,『ソクラテスの弁明』 Apologiā Sōkratūs,『ソクラテスの思い出』 Apomnēmoneumata,『饗宴』 Symposion,『家政論』 Oikonomikos,『キュロスの教育』 Kȳrūpaideiāなど。その文体は古典期ギリシア散文の典範とされる。
22章は側近について。マキアベリが君主にとって側近の選定は重要であると論ずるのは当然だが、例示したシェナのオアンドルフォ・ペトルッチの場合、君主自身の力量はそれほどでもなかったが、アントーニオ・ヴェナーフロという有能な側近を採用することにより、そのような有能な人物を見定めることができることから、君主のペトルッチも卓越しているとみなされた、としている。ペトルッチが側近を見分ける能力に優れていたからではなく、たまたまそうなっていたとも考えられる。また、マキアベリは人を見分ける方法として、側近が自分のことよりも君主や国家のことを優先していること、君主もそれに報いるために地位や任務を与えるべき、と論ずるが、これこそ古代中国の官僚主義から始まるワイロや謀略の世界と紙一重ではないのか。自己の利益を優先する者であっても(現代人はほとんどこの範疇)業務遂行能力を持っていれば、相応の(もしくは市場の定める)報酬・契約に基づいてその者を採用する方が、信頼できるが無能力の側近ばかりよりも余程、仕事ははかどり、国家運営も楽になるだろう。この章ははっきり言って現代では使えないと思う。
23章は追従者。これは22章で問題となる君主を騙そうとする者をどう見分けるかということで、その方策としてマキアベリは「真実を言っても機嫌を損ねない君主である・・・こと以外に追従者から身を守る方法はない」「だが、誰もが真実を言える時にはあなたを尊敬する者はいなくなる」「それゆえ・・・賢者を選び出し、選ばれた者たちにだけ真実を告げる自由の機会を与える」と論じ、更に、「自分一人で決断し・・・・決断したことは推し進めて・・・・・異なる意見を聴くたびに何度も自分の考えを変える・・・・追従者の罠に落ち込む」という点を強調する。結論としては「君主たる者はつねに助言を求めなければならない・・・・・それは自分が望むときであって、他人が望むときではない・・・・・忍耐強く真実を聞き出さねばならない」であるが、助言者に頼り切ってはいけないとする。要するに、最後は判断を下す君主の力量に、様々な助言の中から最良のものを選び出す能力にかかっているということか。
・追従者:人におもねる者。追従を言う人。おべっかもの。ごますり。追従人。 コトバンク
「人間たちはいずれ、あなたに対して邪な正体を現すであろうから。・・・・・良き助言というものは誰から発せられても必ず君主の思慮のうちに生まれるのであり、良き助言から君主の思慮が生まれるのではない」
24章は、本書に述べてきたことを守れば、イタリアの新しい君主は過去の失敗を繰り返さないだろうと説く。失敗例はナポリ王とミラノ公で、ナポリ王フェデリーコは同族のアラゴン王フェルディナンドの裏切りによって政権をフランスに奪われ、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァはスイス傭兵に裏切られてフランスに敗れた。ナポリ王の軍事上の失敗が何だったのかが良くわからないが、マキアベリは「軍備にまつわる共通の欠陥」があったと指摘し、更に、民衆や貴族を敵に回してしまったとしているから、恐らく軍隊を君主自身の手で掌握しておらず、更に貴族の中に裏切り者が出たのであろう。成功例としてマケドニア王フィリッポス(5世)を挙げ、攻撃してきたローマやギリシアに対して「さほどの政体をもっていたわけではない」が多年にわたって敵と戦い続けられたのは(最終的には破れたが、王国は保った。マケドニア王国の滅亡はその後、ペルセウスのとき)民衆や貴族を味方にしていたからだと指摘する。最後にマキアベリは「秀でた防衛は、確かな防衛は、永続的な防衛は、あなた自身の力によって支えられ、あなたの力量に依存したもの、それだけである」と言い切る。
・ナポリ王アラゴン家フェデリーコ:若くして亡くなったフェッランディーノに代わりナポリ王の座に就いたのはフェッランディーノにとって叔父であるフェデリーコでした。フェデリーコは比較的穏やかで親しみやすい性格であったといわれています。そんなフェデリーコによるナポリは長く続きませんでした。ナポリをしつこく狙い、我が物にしようと企むフランスの王であるルイ12世は、密かにグラナダでアラゴン王、シチリア王でもあるカトリック王フェルディナンドと南イタリアをそれぞれ獲得するための協定を結びました(協定ではカンパニア州・アブルッツォ州はフランスへ、カラブリア州・プーリア州はスペインへと分割されるはずでした)。フェデリーコにとって親戚でもあるフェルディナンドの裏切りによって、フェデリーコによるナポリの政権はわずか5年で終わりを迎え、ナポリはフランス王ルイ12世の手に渡りました。ただし、フランス王ルイ12世による支配もほんの一瞬のものでした。 (napolissimi)
「(3章注6)ミラーノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)はドイツ皇帝マクシミリアンを頼ってティロールに逃れた。しかし新しい君主政体に幻滅したミラノ人たちはトリブルツィオとフランス兵の暴虐に反感を募らせ、これに呼応したルドヴィーコは手勢とスイス傭兵と共に反乱を起こし、1500年2月ミラノを奪い返した。しかし4月には同じスイス傭兵の寝返りによってルイ12世の軍に敗れ、捕虜となり、1508年フランスで獄死した。」
・マケドニア王フィリッポス:フィリッポス[5世]【Philippos V】前238‐前179マケドニア王。在位,前221‐前179年。アンティゴノス3世の甥。父の死後幼少のため叔父が摂政となり(前229‐前221),その死後王となり,ギリシア諸国との協調政策をとった。しかしイリュリアを征服して東進するローマに対し,ハンニバルとも同盟して戦い,いったんは和睦するが(第1次マケドニア戦争,前215‐前205),エーゲ海に進出してシリア王アンティオコス3世と同盟してローマに対した。のちギリシア人の支持を失い,最終的にはテッサリアのキュノスケファライでローマ軍に敗北し(第2次マケドニア戦争,前200‐前197),マケドニアは再起することができなかった。(コトバンク)
25章でマキアベリは人間の運命と自由意志について語る。当時は宗教の力が強く、運命論や宿命論が支配的だったと思われ、多くの人々(注釈によると、サルスティウス、キケロ、ボッカッチョ(ボッカチオ)、ダンテ)がそういう意見だったと思われる。マキアベリは、「私たちの諸行為の半ばまでを運命の女神が支配しているのは真実だとしても、残る半ばの支配は・・・・私たちに任せている」とし、自由意志により運命を切り開けると説く。なお、ダンテも神曲のなかで「自由意志は神から与えられたもので、・・・・・人間は神与の理性と自由意志によって・・・・乗り越えねばならない」と語っている。ところが後段においてマキアベリは、君主がどんな行動をとろうとも、「彼の行動様式が時代の特質に会っていた」かどうかで決まると運命論を論ずる。果敢に行動した教皇ユリウス2世が成功したのはたまたま環境がそういう変動の時代であったからであり、ユリウス2世の政権が長期になり「慎重に行動すべき時代が迫ってきたならば、彼は滅びることになった」と断ずる。よって、その君主が時代の変動に合わせて自分の行動様式を大きく変えない限り、自由意志もまた運命のうねりには逆らえないということなのだろう。確かにそういう時代の変わり目には、指導者自身が変わるのではなく、世の中の方が指導者を選びなおしている。そして「慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い」というのがマキアベリの結論で、運命に立ち向かう姿勢を見せている。
・ダンテ神曲マルコ・ロンバルドの応答:煉獄の第3環道でダンテは北イタリアの宮廷で活躍したマルコ・ロンバルドの霊に出会う。地上から「あらゆる美徳の一切」が失われた理由を尋ねるダンテに対し、深いため息を漏らし、その後、次のように答える。「君ら生ける者達は、あらゆる事象の原因をただ天上に帰する、まさしくそれがすべてを運行に合わせて必然により動かしているかのように。もしそうであるならば、君らのうちに自由意志は存在できなくなり、そのため善には喜び、悪には死で報いることは正義でなくなる。(240ページ) 地上に生きる人間たちは天空の世界によって地上のすべての出来事が決定されていると考えている。しかし、1人1人の人間には自由意志が備わっているので、人間は自分の意思でよいことをできるし、悪いこともできるという。マルコは続けて、天空が君らの活動の始点ではある。すべてがそうだとは言わぬが、しかしそう我が言ったとしても、君らには善と悪を明らかにする光と、そして自由な意志が与えられている。それは、空との最初の戦いで苦戦するが、もしも正しく育まれたならば、ついにはすべてに打ち勝つ。さらに大いなる力とさらに優れた本性に自由なる君らは従うのだ。それこそが君らのうちに知性を創造するが、それは空が支配下に置いていないものなのだ。(240-241ページ) 自由意志は神から与えられたものであり、絶対の神と直接関係をもつために天空の影響を受けない。諸天空の力は人間の衝動に影響を与えるが、人間は神与の理性と自由意志とによってそれを乗り越えなければならない。(ダンテは天体の運行が社会や個人に影響を及ぼすということは信じていた。しかし、それがすべてではないというわけである。) すべてに勝る神の力に従って人間はさまざまな試練を乗り越えなければならないのである。したがって、ダンテを取り巻く世界が道を外れているものだとすれば、それは神意に基づくものではなく、人間の自由な行為の結果と考えるべきである。特に社会を乱しているのは「富」への愛着である。最初に小さな富の味を覚えると、そこで欺かれ、その後ろを走ってついていく、導き手か抑え手が彼の愛を矯(た)めなければ。(242ページ) 人々が地上世界の富をめぐって争って、世の中は乱れる。そして、その原因となったのは「邪悪なる導き」(244ページ)である。ローマは善なる世界をなした後、常に二つの太陽を持っていた。それらは二つの道を照らして見せていたのだ。一方は世俗の、他方は神の。(244ページ) 中世の世界は、世俗世界の指導者である神聖ローマ帝国皇帝(抑え手)と神の世界の(地上における)指導者であるローマ教皇(導き手)とがそれぞれの仕事を分担・協力することによって秩序を保ってきた。ところが一つがもう一つを消し去り、剣は司教杖に結びつけられた。両者が無理強いされて一つになれば、忌むべき事態が生ずるのは当然である。(同上) ローマ教皇が皇帝と対立するだけでなく、自ら世俗世界の君主として武力を行使し、各国の政治に介入するようになった。もはや断言せよ、ローマ教会は己のうちに二つの統治権を混ぜ合わせようとしたために、汚泥の中に倒れるであろうと、己と積荷を汚すであろうと。(246ページ) 教皇と皇帝がそれぞれの支配する領域を守り、お互いの支配に干渉しないこと、今日的に言えば政教分離の原則を守ることが社会を平和に保つ道であると結論される。ダンテとウェルギリウスを第4環道へと導く天使の出現を感じて、マルコは姿を消す。 『地獄篇』が34歌から構成されているので、煉獄篇の16歌を読んだところで、『神曲』全体の半分を読み終えたことになる。第16歌では世俗的な権力と宗教的な権力との対立が取り上げられたが、この問題はダンテが一生を掛けてその解決に取り組もうとしたものであった。政教分離の問題は今日でも重要な問題であり、そこにダンテの文学の今日性、あるいは永遠性の一端を見ることができる。これまでも何度か『神曲』を読んできて、「煉獄篇」までは何とか読み通すことができたが、「天国篇」で躓いて全部を読み通すことができなかった。だから半分を読み終えたからといっても、気持ちを緩めず、完読を目指していこうと思う。 (たんめん老人のたんたん日記)
・サルスティウス:古代ローマの歴史家。イタリア半島中部のサビニ人の都市アミテルヌム出身。初め元老院議員としての経歴を歩み、カエサルに心服。カエサルとポンペイウスとの内乱では前者に従い、のち紀元前46~前45年にはアフリカ・ノワ州の総督を務めた。前44年にカエサルが暗殺されると政界を退き、歴史著述に専念した。作品としては、前60年代の政治事件を扱った『カティリナの陰謀』De Catilinae Coniuratione、前111~前105年のヌミディア王ユグルタとローマとの戦争を扱った『ユグルタ戦記』Bellum Jugurthinumが現存。前78~前67年のローマ史を扱った『歴史』Historiaeは大部分が散逸した。ほかに『キケロ弾劾演説』Invectiva in Ciceronemと『カエサル宛(あて)書簡』Epistulae ad Caesarem2編とが現存するが、いずれも真作か偽作かが争われている。彼はすでに古代から大歴史家としての定評がある。 コトバンク
最終章の26章はこの本を捧げたメディチ家、特に教皇レオ10世となったジョバンニ・ディ・メディチであった。過去、艱難辛苦の末に国を興したモーゼ、キュロス、テーセウスの例を挙げ、今は苦しんでいるイタリアを一つの国に再興することを訴える。「ここには手足に大きな力量があるのだ。頭にそれが欠けてはいないぐらいのときでさえ」というのは注釈によるとローマ時代から、第一次十字軍の呼びかけの時などに使われた考え方らしい。ちょっとわかりにくいが、兵士は揃っているから、あとはこれをまとめる指導者だ、ということか。そしてマキアベリは具体策として、「固有の軍備」を持つことを進言する。「君主によって統率され、また褒章を与えられて厚遇されるときにはさらに有能な存在になるであろう。」更に、スイス歩兵、フランス騎兵隊、スペイン歩兵について述べ、これらに勝つための方策を述べている。そして最後に、ペトラルカの詞を掲載してイタリアの復興を願う。
・テーセウス:ギリシャ神話の英雄。父王アイゲウスの死後、アテナイ王となり、アッティカ地方の町村を一国家に統合した。クレタ島の迷宮にひそむ怪物ミノタウロスを討ったほか、アマゾン征伐・冥府下りなどの業績が伝えられる。weblio テーセウス(古希: Θησεύς)は、ギリシア神話に登場する伝説的なアテーナイの王、そしてギリシャの中では国民的大英雄である。長母音を省略してテセウスとも表記される。 ミーノータウロス退治などの冒険譚で知られ、ソポクレースの『コローノスのオイディプース』では憐み深い賢知の王として描かれる。ヘーラクレースほどではないが、大岩を持ち上げるほどの怪力を誇る。プルタルコスの『英雄伝』では古代ローマの建国の父ロームルスと共に、アテーナイを建国した偉大な人物として紹介されている。 wikipedia
・フランチェスコ・ペトラルカ:(1304―1374)イタリアの詩人、ルネサンス人文主義の先駆者。ダンテと同じく1302年にフィレンツェを追放された一公証人の子として、トスカナ地方のアレッツォに生まれた。ついで同地方のインチーザに幼年期を過ごしたあと、ピサを経て、8歳のとき一家は、教皇庁が移し置かれてまもない南フランスのアビニョンへ渡り、近郊のカルパントラに落ち着いた。ラテン語の初等教育を受けたのち、父親の意志に従いモンペリエ、ボローニャに留学して法律を学ぶが、かたわらウェルギリウス、キケロなどのローマ古典に心酔し、またボローニャでは俗語(イタリア語)の詩と出会い、新しい文学へも目を開かされた。26年、父親の死を機に法律の勉強を放棄してアビニョンへ帰る。そして翌27年4月6日の聖金曜日に、聖女クララ教会で、生涯にわたり詩的霊感の源泉となる女性ラウラLauraを見て、決定的な愛にとらえられたという。ここに、ラウラへの愛を歌う叙情詩人が誕生した。コトバンク
「第三の組織を用いれば・・・・・彼等を制圧できる・・・・・・すなわち、スペインの歩兵はフランスの騎兵に対抗できないのであり、スイスの歩兵はスペインの歩兵隊に惨敗したのである」
「力量は暴虐に抗して、武器を執るだろう、そして戦いは短いだろう。太古の武勇はいまだ、イタリア人古来の心にほろびざるがゆえに」フランチェスコ・ペトラルカ、カンツォニエーレ
「ペトラルカの詩の引用は『カンツォニエーレ』第128『わがイタリアよ・・・・』で始まる・・・・・・『ヨーロッパの踏みにじられた花園』と化したイタリアが長い桎梏から解き放たれようとするたびに、イタリア文学史ではペトラルカのこの二つの長詩(カンツォーネ)がしばしば別の詩人たちにも歌われ、かつ論じられてきた」(注釈26)
解説 ニッコロ・マキアベリは貴族ではなかったが、相当の蔵書家で読書家であった父ベルナルドの知性が受け継がれていたらしい。ニッコロの青年時代は不明であり、29才のときにフィレンツェ政庁の新任書記官として歴史舞台に登場する。当時フィレンツェを統治していた名君のロレンツォ・デ・メディチ(大ロレンツォ)が死に、引き継いだピエーロは無能だったために市民に追放され、フィレンツェは共和政権に移行するが、このとき、高い身分でなかったニッコロは大抜擢されて第二書記局長から軍事十人委員会の書記長に任命され、外交任務を任されて各地へ状況視察や外交使節訪問に赴き、十人軍事委員会に報告を行った。このとき、特使として会見したのはイーモラのカテリーナ・スフォルツアァ・リアーリオ、枢機卿ルーアン、シエナのバンドルフォ・ペトルッチに二度、ボローニャのジョバンニ・ベンチヴォツリオ、そしてチェーザレ・ボルジアにも二度会見している。そしてこの書紀長時代に「資金調達をめぐる提言」「軍隊組織の理由」「軍隊組織の準備」「ドイツ事情報告」「フランス事情報告」「騎兵隊による軍組織」をまとめると共に、「十年史詩」や「ローマ史論」(これは後)を作成している。だが、フィレンツェ共和政権主席ソデリーニはフランスと同盟を組むという誤りを犯し、スペイン軍が迫ってきてソデリーニは失脚。共和政権を支えていたマキアベリは踏みとどまり、メディチ家の新政権に従うが、反メディチ派の落とした紙片という罠?にはまり、名前が書かれていたために投獄され、拷問を受けた。希望は失われたかに思えたが、1ヶ月弱経過したとき突然、マキアベリは牢獄から解放される。それはメディチ家の枢機卿ジョバンニ・デ・メディチが新教皇、レオ10世に選出されたことの恩赦であった。そしてその後、メディチ家への恩を感じたマキアベリは、「君主論」を書き上げてイタリアを復興をメディチ家の君主たちに託したのだ。投獄と恩赦が1513年、マキアベリは「君主論」以外にも「ローマ史論」「フィレンツェ史」や詩篇をたくさん書いたが、1527年に亡くなったときは貧しかったらしい。「君主論」が出版されたのは彼の死後、1532年だが、それ以前に写本が流通していたらしい。これは人民を統べる君主が現実を生き抜くためのまさにガイドブック、言葉を飾った口当たりの良い書物ではなく、人々の運命を左右する決断、日頃から身につけておかねばならない修業を書き記した実践本なのだ。
委曲(いきょく):詳しく細かなこと。また、物事の詳しい事情。委細。詳細。
「ちょうど500年前の5月に、フィレンツェ共和政体の書紀官になったマキアベリは誰よりも深くイタリアを思い、かつ憂いつつ、屈曲した文体を生み出した。たとえば、「なぜならば・・・・」と言いながら彼は直前の文章の理由を説明しない場合が多い。どうか、読者は忍耐強く思慮深い君主のごとくに、この「小冊子」を読み解いていただきたい」