1939年 第1版
1946年 第2版
17
これは初版1951年の序(本書は33刷1975年)だが、「ヒックスの『価値と資本』はクールノー、ワルラス、パレート、マーシャルの古典的労作と並ぶ地位を歴史の中に占めるであろう」というサミュエルソンの言葉(1947年「経済分析の基礎」)を引用すると共に、「価値と資本」はケインズの「一般理論」とならんで現代経済学の古典であるとしている。ヒックスの功績は一般均衡理論の中に「変化の法則」を加えたこと。それは静学的なものであり、当時既にサミュエルソンの動学的安定理論が知られていた。
アイデアの発端はロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの時代、つまりヒックスの学生時代に生まれたものらしい。彼の妻もまたそのグループの一員であり、「価値と資本」と同時に彼の妻は「英国政府の財政」という論文を書いており、そのなかの「資本市場を取り扱う部分」が有益であったと書いている。たぶん、妻の論文は経済統計が豊富にあり、それをヒックスの経済理論に活用したということだろう。
ここにはヒックスがこの書物で書く内容の外観が簡潔に述べられている。その主題は二つあり、一つは、マーシャルの部分均衡ではなく、ワルラスの一般均衡(つまりローザンヌ学派の理論)の再構築であり、もう一つは、同時期にケインズが先行して発表していた「動学的諸問題」である。重要なのは、ヒックスが現実経済に適用可能な理論経済学を構築しようとしていたことだろう。ケインズに先行されたことについては「当時まだ誰も創り出していなかった理論を造り出す・・・・望みは打ち砕かれた」と記している一方、「社会問題に関するケインズ氏の独自の見地」は純粋理論ではない点を指摘している。
マーシャルの数量的効用すなわち微分方程式や積分には一切頼らない理論を無差別図表からだけ導くことをヒックスは論じ始める。そしてヒックスは、「総効用は恣意的だが・・・・二つの限界効用の比に対しては・・・・厳密な意味を与えることができる」として「限界効用」に替えて「限界代替率」という言葉を提示する。本章の議論は、言葉だけを追うとマーシャルの限界効用および限界効用逓減とまるで同じだが、数量的効用曲線を追求することで複雑かつ数学的になりすぎる傾向を全て排除し、図表のみで市場原理を追求できるということを力説しているのであろう。
ここでヒックスが最初に指摘するのは、マーシャルが「貨幣の限界効用が不変である」、すなわち「商品に対する人々の需要が彼等の所得に依存しない」という誤った仮定を設定していると指摘する。
市場価格が変動したときの消費者への影響(p40の第8図のPからQ)は、所得効果(PからP´)と代替効果(P´からQ)に分割できると論じる。つまり、マーシャルが無視していたのはこの所得効果であった。
ヒックスはここで、「これらの功績にも拘わらず、多くの経済学者が結局ワルラスの接近方法についてある不毛性を感じてきた」と指摘する。そして「ワルラスの体系のかかる不毛性の理由は主として、・・・彼が進んでその一般均衡の体系に対する変化の諸法則を導き出すに至らなかった点にある・・・・・一定の資源と選好が与えられたとき確立される価格がいかなる条件を満たさねばならぬかを告げることはできた。しかし嗜好や資源が変化すればどうなるかは説明しなかったのである」と指摘する。
現実の経済は一時も静止することはない、常に動いている、それを予想すること、何かが変化したときにそれが他にどのような変化をもたらすか、それを説明する経済理論こそが求められている。ヒックスは確かに、ワルラスやマーシャルのように象牙の塔に籠りはしなかったのだ。
ここで議論されるのは「均衡体系が安定であるための必要条件」であるが、ヒックスはまず「均衡が安定であるためには、均衡を崩す軽微な動きが、均衡を回復させる諸力を引き起こすことが必要である」と述べるが、これは静的システムから動的システムに経済理論が大きく飛躍する衝撃的な一歩に違いない。ワルラスもマーシャルもこのわずか一行の神秘に気づかなかったのだ。
そしてヒックスはここから、非常に詳細な、図を使った解析に突入する。そのテーマは、最初の安定均衡必要条件を二度言い換え、「均衡水準を越える価格の上昇が、価格の下落をもたらす諸力を引き起こすこと」「価格の上昇が供給を需要より大きくすること」である。これは、p87の図14において、「需要曲線が右に向かって下方に傾斜し、供給曲線が右に向かって上方に傾斜していること」が均衡の安定条件ということになる。
他の経済学者も論じてきたものと思われるが、彼はこの机上理論が現実に合致するものかを検証する。ヒックスは上記の経済理論に対する二つの批判を提示する:(1)企業は自身が平均費用逓減の状況下で生産しているという確信、(2)大規模生産による節約および収益逓増。
統制という要素の限界費用が極めて小さいということは・・・・・企業の間では最もありふれたものだ。しかしこの場合、限界費用は平均費用よりも小さく、限界費用=販売価格とすると、企業は損をしなければならない。この問題に対処するため、「典型的な企業は・・・・ある程度までは独占者であると仮定するならば・・・・」この企業は限界費用ではなく、需要に見合った価格で販売することができる。おそらく、この不完全独占、生産者の完全競争の無い市場が、最も現実に近い経済市場なのだろう。
しかし、ヒックスは一般均衡のための競争を排除することはしない:「我々の取り扱う大多数の企業の直面する市場が、完全に競争的な市場とさほどはなはだしく異なってはいないということを仮定・・・・・価格が限界費用を超過する割合があまり大きくなく、可変的でないことを仮定・・・・限界費用が均衡点で逓増することを仮定できれば、完全競争のもとの経済体系の諸法則は、広汎な独占的要素を含む体系においても、著しく変更されることはないであろう」。
この章の冒頭部分は刺激的。ヒックスは「前世紀中にもろもろの経済学者によって・・・・生産の一般均衡は・・・すでにかなりよく発展」してきたと述べたうえで、「それ(もろもろの経済学者の経済理論)を使用することははなはだしく危険である・・・・経済理論における最も豊かな誤謬の源泉の一つなのである。というのは、・・・・最も重要な側面のいくつかを捨象している」と断ずる。
ヒックスのこの指摘は次に述べられる三つの欠陥に基づいている:(1)「独占および不完全競争に少しも注意を払わない」、(2)国家の経済活動の捨象、(3)「資本と利子、貯蓄と投資、・・・・『投機』・・・の活動の捨象」。
ここでヒックスが論ずるのは、静学理論の限界と重大な問題点の提起である。マーシャルの分析が静学的であり、現実の動学経済とは相容れないと述べておきながら、ヒックスはここで三つの手法を持ち出し、最終的に、マーシャルの静学理論を利用するという結論を導く:「このようにしてわれわれのモデルを静態に委ねてしまうことなく、静学的機構の精髄を失わずに保存してきた」。その三つの手法とは「週」「計画」「明確な予想」である。
ここでは、静学経済では分析不可能だった実際経済における不均衡が生ずる原因、それを緩和する手段としての計画経済、先物取引などが論じられる。これらは無差別曲線や需給曲線をどんなに動かしてみたところで解決することのできない動学的な論点であり、ヒックスと本書の核心部分なのかもしれない。
最初にヒックスは前章で論じた「第一月曜日の契約価格が1週間保持される」というモデルを持ち出し、「神といえども過去を動かす力はない(ジョン・ドライデン)」「霹靂の歩みをして極まった軌道を行く処まで行く(ゲーテ)」を引用してみせ、契約や予想や計画が現実とは乖離することが不均衡を導くことを示唆する。
ここで初めて、資本市場の議論が始まる。ヒックスが最初に論ずるのは短期金利と長期金利。これらが相違するのは(1)貸付の継続期間、(2)危険プレミアム、である。
それを現わす式は R+R/R´-1 (R現在の利率、R´次週の利率)であり、R´>R ならばRよりも小(つまり将来利率が上がると予想される場合は長期金利<短期金利)。(まだ理解し切れていないと思うが)将来利率が下落すると予想されれば長期金利>短期金利ということになる。
「利率を決定するものは何であるか」が本章の主題であり、それに対する「資本に対する需要と供給とによって決定される」という一見妥当な解答にヒックスは疑問を向ける。「資本が実物資本を指すならば・・・・利率を支配するのは現在財と将来財とに対する欲求(これはベーム・バヴェルクの理論)」となる一方、「資本とは貸付資金の意味における貨幣資本を指すならば・・・・利率は貸付資金の需要と供給によって決定される」。
この章の最後で語られる「貨幣は価値標準たる性質をもつ」は、たぶん現代においては一般常識であろう。当時(1946年頃)はまだ、銀行券には貨幣と交換するという約定が記載してあったというから、経済が大きく変動しつつあったことがうかがわれる。
この点に加え、本章でヒックスが述べたことで特記されるべきは次の5点だと思う:①「貨幣はまた他の性質『交換の媒介物』および『価値の貯蔵』をもっている」p246、②「貨幣と証券(securities)とが緊密な代替品であるという事実は動学経済学にとって絶対に基本的」p245、③「貨幣がもとより最高級であって、そのために他の諸等級は貨幣に比較して通常割引され・・・・・利率が普通プラスであるのは、貨幣と証券とが一連の代替品だからである」p241、④「(われわれのモデルの諸条件のもとでは)短期利率を説明するものは取引をすることの手数でなければならない」p237(これは現在において、スマホ決済の手数料がゼロであることと整合する)、⑤「長期利率は正常的には危険プレミアムだけ短期利率を超過する見込みがある」p240。これらの諸点、特に④は投機的要素などで変化することをヒックスは示しており、それらは第4部に持ち越すとある。ケインズの「流動性選好」という言葉が冒頭近くに出てくるが、これはヒックスの言う貨幣と証券の代替、代替対価としての利子ということに一致すると思う。
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これは初版1951年の序(本書は33刷1975年)だが、「ヒックスの『価値と資本』はクールノー、ワルラス、パレート、マーシャルの古典的労作と並ぶ地位を歴史の中に占めるであろう」というサミュエルソンの言葉(1947年「経済分析の基礎」)を引用すると共に、「価値と資本」はケインズの「一般理論」とならんで現代経済学の古典であるとしている。ヒックスの功績は一般均衡理論の中に「変化の法則」を加えたこと。それは静学的なものであり、当時既にサミュエルソンの動学的安定理論が知られていた。「価値と資本」が出版されたのは第1版が1939年、第二版1946年で、翻訳は第二版だから、5年後ということだが、「翻訳を思い立ち最初の下書きが作られてからほぼ十年・・・・・図らずも nonumque prematur in annum の古語を守ってあまりある」というのは、「出版する前に9年待て」の9年を過ぎて1951年になった(初版から12年)だからだろう。stream の訳語など、当時は経済用語も確立していなかった。
(p ix)nonumque prematur in annum:ラテン語、出版する前に9年待て
これは1951年の日本の読者に対するヒックスの序言。レビュー・オブ・エコノミック・スタディーズに載った市村真一氏の論文に言及している。
第一版が出たのは1938年だから、当時の政治、経済、社会の大変動を考えれば、それから6年後の第二版において大幅な変更を加えるべきなのは当然と思われる。この序言においてヒックスは詳細には立ち至らず、必要な訂正を加えた部分、追加補論を加えた部分(これはサミュエルソンと関係していると示唆しているから、たぶん動的モデルに類する事柄だろう)、批判は正しいが変更しなかった部分(これは経済理論の体系化を求めるものらしい)があるとだけ述べている。実に合理的で、曖昧さを排除する態度である。
順序が逆だと思うが、これは1938年の序言で、アイデアの発端はロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの時代、つまりヒックスの学生時代に生まれたものらしい。彼の妻もまたそのグループの一員であり、「価値と資本」と同時に彼の妻は「英国政府の財政」という論文を書いており、そのなかの「資本市場を取り扱う部分」が有益であったと書いている。たぶん、妻の論文は経済統計が豊富にあり、それをヒックスの経済理論に活用したということだろう。最後に書いている「経済理論の地位は応用経済学の下僕」というのは、おそらく第二版を出した時、サミュエルソンやケインズの理論が経済政策に取り入れられるようになってからは、同等もしくは同一になったということではなかろうか。
ここにはヒックスがこの書物で書く内容の外観が簡潔に述べられている。その主題は二つあり、一つは、マーシャルの部分均衡ではなく、ワルラスの一般均衡(つまりローザンヌ学派の理論)の再構築であり、もう一つは、同時期にケインズが先行して発表していた「動学的諸問題」である。重要なのは、ヒックスが現実経済に適用可能な理論経済学を構築しようとしていたことだろう。ケインズに先行されたことについては「当時まだ誰も創り出していなかった理論を造り出す・・・・望みは打ち砕かれた」と記している一方、「社会問題に関するケインズ氏の独自の見地」は純粋理論ではない点を指摘している。第一部は価値の理論だが、ヒックスは統計に利用できる価値理論にして第二部以降に活用するとしている。第二部はワルラスとパレートの一般均衡理論の再構築で、ヒックスは「方程式と未知数との単なる勘定」にはしていない、ただし「静学的」であるとしている。第三部は動学的経済学の基礎、ここで利率、所得、貯蓄を吟味とあるから、ケインズとも重なるのだろう。第四部は動学的大系の運行、ここでは資本市場を扱う。ここまで現実経済に近い経済理論を追求するとしておきながら、最後のところでヒックスはこの書物が「完全競争の仮定」で行われること、「制度的統制」は扱っていないことを断わっている。この点は「神の手」を否定して有効需要の創造を政府に求めたケインズとは対照的と思われる。
p3 ローザンヌ学派:かつて、ミクロ経済学では市場均衡理論を巡って2つの学派が対立した。アルフレッド・マーシャルが率いた「ケンブリッジ学派」と、レオン・ワルラスが率いた「ローザンヌ学派」である。ケンブリッジ学派は、主として1つの財の市場における価格と需給量の決定を扱う「部分均衡分析」(ただし、部分均衡は注目する財以外をまとめて一つの財として捉え、明示的ではないがその均衡を考えていることになるため、一般均衡分析でもある)が主であり、ローザンヌ学派は、多くの財をふくむ市場全体における価格と需給量の同時決定を扱う「一般均衡分析」が主である。これをワルラス的一般均衡理論という。
ここで述べられるのは古典的な限界効用逓減理論だが、一つの商品と支出のみで論ずるマーシャルの理論では(実経済への応用に)足りず、パレートの連関財の無差別曲線が有用であると説く。これは支出の代わりに商品を二つ選び、それがが与える効用の双曲線と二つの商品を購入できる直線との接点(単位が違うから、二つのグラフを動かして接するところという意味だろう)が効用極大点となる。マーシャルのモデルは「個人の効用曲面」つまり個人の効用をデジタルに示す函数が必要とするのだが、パレートは「個人の無差別図表」つまり「どちらの財を選好するか」という選別のみの理論を説く。そしてヒックスはマーシャルよりもパレートの理論を選ぶべき理由を二つ述べる。一つは、人の欲望や満足の数量的尺度はそもそも必要なのかという問いへの対応で、「哲学上の功利主義者・・・・でないならば(しかも今日功利主義者である人々は多くない)功利主義的仮定のない経済学への権利をもつのである」と数量的尺度は不必要で進めてもよいとする。もう一つは「数量的効用概念は市場の諸現象を説明するためには不必要。だから、オッカムの剃刀の原則に従って、それなしで済ませる方がいい」という理由。「数量的効用」≠「無差別図表」というのがポイントである。
p24 功利主義:簡単に言うと「幸福の追求や社会全体の利益を最善とする考え方」のこと
p24 オッカムの剃刀:(英: Occam's razor、Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針
(p24)マーシャルの数量的効用すなわち微分方程式や積分には一切頼らない理論を無差別図表からだけ導くことをヒックスは論じ始める。ここからはパレートではなく、ロシアのスルーツキイが最初に切り開いたもので、最初の犠牲は「限界効用」そのもの、二つ目は「限界効用逓減の原理」。そしてヒックスは、「総効用は恣意的だが・・・・二つの限界効用の比に対しては・・・・厳密な意味を与えることができる」として「限界効用」に替えて「限界代替率」という言葉を提示する。更に、「限界代替率逓減」につては三つの理論を展開。一つは経済学者達が限界効用逓減の一般原理の根拠とした「経験に訴える」であるが、科学的ではない。二つ目は「どういう目的のために必要なのか」であり、それが「市場状況の変化に対する消費者の反応を取り扱う諸法則」であるならば、そのためには「曲線にねじれ(キンク)のない」無差別図表を仮定することにより、「限界代替率低減の法則」を採択できるということ。三つ目は「純粋経済学は帽子から兎を生み出す不思議な方法を心得ている」という、「一見アプリオリでありながら、一見現実に関係のあるような諸命題を生み出す」譬で、ヒックスは「その兎がどうして帽子に入ったのか」つまりどうやって限界効用逓減もしくは限界代替率逓減の法則を生み出したのかを、二つの仮定、「重要な唯一の事柄」(たぶん変数は一つで他は定数ということ)および「ねじれが無視できる」(無差別図表にキンクはない)によってであると論ずる。ここまででヒックスは、便宜的な仮定をいくつか設定して単純化を図り、数量的効用分析なしに経済の諸法則を検討できることを示してきたが、最後にそれらの仮定、「単純化を放棄すべきときである」と宣言する。そして「支出が多くの商品間に配分されるとき、均衡が安定であるためには・・・・いかなる可能な代替も・・・消費者を優位に導いてはならない」つまり「諸商品の各一対間に逓減的限界代替率がなければならない・・・・・またもっと複雑な代替も同様にして排除されねばならない」と論じ、これこそが「限界代替率はあらゆる方向での代替に対して逓減しなければならない」と結論する。本章の議論は、言葉だけを追うとマーシャルの限界効用および限界効用逓減とまるで同じだが、数量的効用曲線を追求することで複雑かつ数学的になりすぎる傾向を全て排除し、図表のみで市場原理を追求できるということを力説しているのであろう。
p29 ピュリダンの騾馬:(ビュリダンは、フランス中世の哲学者、ジャン‐ビュリダン(Jean Buridan)にちなむ) 理性が意志を決定するとしたら、同じ量と質の二つの干し草の塊の間におかれたロバは、双方に対して等しい欲求を持つので、どちらも選べず餓死してしまうだろうという例え。意志は理性がよいと認めない限り選択することができないとする、ビュリダンの意志決定理論に対する反論として提示されたという。
ここでヒックスが最初に指摘するのは、マーシャルが「貨幣の限界効用が不変である」、すなわち「商品に対する人々の需要が彼等の所得に依存しない」という誤った仮定を設定していると指摘する。だがヒックスはp37でその所得直線が相変わらず「直線」であり、所得が増加すると単に外側に移動するとしている。だからここで、ヒックスがマーシャルの大きな欠陥を見つけたということではなさそうだ。
一方、この所得直線LMとそれに接する無差別曲線の接点Pは曲線を描き、それをヒックスは「所得-消費曲線」と呼ぶ。それは右肩上がりとは限らない、所得が増加するにつて消費が減少する商品の例として、ヒックスは「下級財」(人造バター等)を挙げている。これはたしか大学1年のときに近代経済学の講義で聞いた遠い記憶がある。なるほど。
次にヒックスが示すのは、Y軸に所得を取り、一定の所得Mにおいて商品Xの価格がLからL´に下落した場合、それに接する無差別曲線の接点を結ぶ曲線「価格-消費曲線」である。そしてこれら「所得-消費曲線」と「価格-消費曲線」を組み合わせ、市場価格が変動したときの消費者への影響(p40の第8図のPからQ)は、所得効果(PからP´)と代替効果(P´からQ)に分割できると論じる。これも大昔の講義で聞いた覚えがある。つまり、マーシャルが無視していたのはこの所得効果であった。
この所得が増えると(価格が下がると?)買う量が減る商品を、マーシャルはギッフェン財と呼んで気が付いていた。だがヒックスはこの時の消費者の行動を代替効果と所得効果の二つに分け、代替効果にはギッフェン財であっても右下がりはないと分析した。
p47 ギッフェン財:特徴としては下級財です。下級財とは所得が増えると、買う量が減ってしまうような財のことです。
(p48)ここでヒックスは「消費者が・・・・買い手としてのみならず売り手としても市場に来る」場合を提示する。「買い手の場合には、例外的な下級品の場合の他は、所得効果と代替効果は同じ方向に作用・・・し・・・・・・売り手の場合には・・・・・通常それらは相反する方向に作用する」だが、「売り手は通常、その所得の大部分を自己の販売する特定のものから取得する。だからそこでは所得効果が代替効果と同程度に強力であるか、あるいはむしろ優勢であるような多くの事例が存在する・・・・・Xの価格の下落はそれの供給を減少させるかもしれず、あるいは増加させるかもしれない・・・・」。p50の第9図が示す価格ー数量の供給曲線は、価格Yが一定以上に上がると、供給量が減ること(買い惜しみ)が起こることを示している。ヒックスはこれを「供給と需要の間に非対称性が存在する・・・・・・ワルラスの発見の一つ・・・・」と語り、いまやその非対称の理由が明らかにされたと宣言する。ここで示された所得効果と代替効果の分離が、「非常に便利な分析方法」に繋がるらしい。
最初の発明者デュプイ、そしてマーシャルが論じた消費者余剰(s)、すなわち「支払うことを辞せぬ価格が(p0)・・・・実際に支払う価格(p1)を越えるその超過分」は、租税理論、つまり課税しても消費量に変動を与えない範囲が存在するという理論のようである。これをヒックスは二つの図(11と12)の面積や長さで示そうとしているが、正直、消化不良:図11ではp0=RF、p1=PF、s=PR、図12ではp0=dpno、PR=dpk。図11だと直線の一部だが、図10だと四角形に対して三角形になるということは分かったが、その理由、意味する所が分からない。今日はこれまで。
p51 消費者余剰:ある財に関して、消費者が支払っても良いと考える金額(支払許容額)からその財の価格を差し引いた金額を表します。
ここで「補完」として述べられるのは「補完財」「競争財」そして「連関財」についてであり、二次元的には構築不可能だった前二者の概念に多次元視点と「連関財」を持ち込むことにより、ヒックスは見事にこの問題を解決してみせ、かつ、この理論が現実の経済市場の分析に役立つと論ずる。なぜなら、「補完財」つまり一方の手持ち量が増えると他方の限界効用が増加するもの、および「競争財」もしくは「代替材」一方の手持ち量が増えると他方の限界効用が減少するもの、は現実の経済市場に存在すると考えられるからであり、このことを説明できない経済理論(ここではエッジワース、パレート、そして、この問題を論じようとしなかった、マーシャルの名を挙げている)は使えないからである。パレートが考えた「非常に曲がっている無差別曲線」と「非常に平たい無差別曲線」(図12、13)ではヒックスが言う通り精確ではない。ヒックスはまず「限界効用」の代わりに「貨幣に対する限界代替率」を持ち出すが、こうすることで対象数を2から3に増やす。そして「消費者の経済状態をこれまでより良化しないままXが貨幣に対して代替されるとき、Yの貨幣に対する限界代替率が減少するならば、YはXに対する代替品」と論じ、エッジワースとパレートが二次元的に定義したものを三次元にしたうえで、所得効果ゼロの前提を置くことで全く同じ定義になることを示してみせる:「もし貨幣の限界効用が不変ならば(所得効果が無視されうるならば)エッジワース=パレートの定義に帰着する」。ヒックスの魔法は次のp62にいつもの調子で現われる:「もしYがXと補完的であるならば、Xの貨幣に対する代替はそれに平行するYの貨幣に対する代替を伴う傾向がある。・・・・YがXに対する代替品であるならば、Xの貨幣に対する代替は貨幣を増してYを減ずる代替を促進する・・・・・」。謎解きはp63「かくして、なぜ補完関係が二財の無差別図の上では起こりえないかが分かる。というのは、XとYとが補完的でありうるにはある第三の物が存在してそれの犠牲においてXとYとの双方を増す代替が生じうる・・・・からである」。所得効果と代替効果の分割に加え、補完財と代替材の存在も可能としたことで、ヒックスはこれまでの諸原理が「市場需要に対しても適用できる」と論ずる。最後(p70)に述べている「一つの重要な命題」は「価格体系の変化」ということらしい(翻訳が不明瞭なのだと思われる)が、ヒックスはとりあえず所得効果を除外し、代替効果について、「財の古い集まり」から「財の新しい集まり」への需要の変化というようなことを述べている。
部分均衡から一般均衡に進むにあたり、ヒックスはまず(これまでも同様のことをしてきたと思う)例外事項について考察する。例外1はウィックスティードが指摘した「他人の欲望、あるいは自己が他人の欲望と推定するものを満足させるための諸財の売買、例外2はヴェヴレン流の事例、虚飾的支出(ダイヤモンド等)、例外3は生産者からの需要と供給、例外4は投機的需要を挙げ、このうち例外1,2は瑣末であるが、例外3,4は重要な例外と論ずる。そして、「生産を取り扱う前に交換の一般均衡」を論じ始めるのだが、ヒックスは「マーシャルよりもむしろワルラスの例に従っている」とする。二種の財の交換から多数交換に進にあたり、ワルラスとヒックスが用いるのは「常にある一つの商品を価値標準に採る」ということであり、ワルラスはそうして「n-1個の独立な価格を決定するn-1個の独立な方程式・・・・・全価格体系を決定する連立方程式系」を得た。だがヒックスはここで、「これらの功績にも拘わらず、多くの経済学者が結局ワルラスの接近方法についてある不毛性を感じてきた」と指摘する。そして「ワルラスの体系のかかる不毛性の理由は主として、・・・彼が進んでその一般均衡の体系に対する変化の諸法則を導き出すに至らなかった点にある・・・・・一定の資源と選好が与えられたとき確立される価格がいかなる条件を満たさねばならぬかを告げることはできた。しかし嗜好や資源が変化すればどうなるかは説明しなかったのである」と指摘する。現実の経済は一時も静止することはない、常に動いている、それを予想すること、何かが変化したときにそれが他にどのような変化をもたらすか、それを説明する経済理論こそが求められている。ヒックスは、「マーシャルが二商品の貿易という特殊の場合に彼の体系を応用したのと同じ程度までに、国際貿易に応用できる」と断言する。ヒックスは確かに、ワルラスやマーシャルのように象牙の塔に籠りはしなかったのだ。
p76 ウィックスティード:Philip Henry Wicksteed(1844―1927)イギリスの経済学者。リーズに生まれる。ロンドンのユニバーシティ・カレッジ卒業後、父の聖職を継ぎ、のちにユニテリアン派の指導者となったが、1897年以後著述に専念した。経済学への関心はヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』Progress and Poverty(1879)によって誘発され、彼の最初の経済学の著書『経済学入門』The Alphabet of Economic Science(1888)では、彼がジェボンズの追随者といわれたように、限界効用(彼がイギリスでこのことばを最初に使った。ジェボンズは最終効用とよんでいた)学説の解説を試みた。彼の第一級の経済学者としての業績は『分配の諸法則の統合』An Essay on the Co-ordination of the Laws of Distribution(1894)であり、これがのちにウィクセルによって完成された限界生産力説による生産・分配両理論の統合の端緒となる。また、彼の大著『経済学の常識』The Common Sense of Political Economy(1910)は「経済学の共通認識」とも訳すべき難解の書であるが、近代経済学派の最高の経済哲学書であろう。
ここで議論されるのは「均衡体系が安定であるための必要条件」であるが、ヒックスはまず「均衡が安定であるためには、均衡を崩す軽微な動きが、均衡を回復させる諸力を引き起こすことが必要である」と述べるが、これは静的システムから動的システムに経済理論が大きく飛躍する衝撃的な一歩に違いない。ワルラスもマーシャルもこのわずか一行の神秘に気づかなかったのだ。そしてヒックスはここから、非常に詳細な、図を使った解析に突入する。そのテーマは、最初の安定均衡必要条件を二度言い換え、「均衡水準を越える価格の上昇が、価格の下落をもたらす諸力を引き起こすこと」「価格の上昇が供給を需要より大きくすること」である。これは、p87の図14において、「需要曲線が右に向かって下方に傾斜し、供給曲線が右に向かって上方に傾斜していること」が均衡の安定条件ということになる。
p88からヒックスは所得効果と代替効果を持ち出す。代替効果は需要曲線や供給曲線の傾斜を変えないから、安定条件は保たれる。だが、所得効果は、価格の下落が需要のみならず供給をも増加させるから、均衡が得られない場合がありうるとヒックスは論ずる。これを示すため、図14でヒックスは、「ある価格における需要と供給の差」=「超過需要」という概念を持ち出し、「均衡条件は超過需要=0」と言い、これは当たり前であるが、ヒックスはこの「超過需要」も代替効果と所得効果に分離分析できるとし、価格変動時の均衡安定条件は「超過需要曲線は下方傾斜」であると述べ、所得効果によりそれが破られる場合がありうると論ずる。それはp89傍点前後の「売手と買手の間に、逆方向への強い所得効果が存在する場合」つまり「価格が上昇したとき、売手は所得が十分なので供給量を増やさない、むしろ減らす」ため、図15のように、価格の上昇につれ、超過需要はいったんP’でゼロとなる。しかし、そこからマイナス(供給超過)となった超過需要は増加に転じ、Qでゼロとなり、プラスに転じてから今度は減少に転じ、Pでゼロとなる。PとP’の近傍では価格上昇は超過需要を減らす(均衡は安定)が、Qの近傍では価格上昇が超過需要を増加させる、つまり均衡は不安定ということになる。
(p90)ここから5章の最後までの「交換の理論」を読んでいて、代替材と補完財というのが分からなくなった。それはp93の「両軸にX財とY財の価格をとった図」が理解できていなかったからというのが、日曜の午後になってやっとわかってきた。Xの価格が上がるときYの価格が上がれば代替材(X-X’カーブが右上がり)というのは、取替の利く財だから、Yへの需要が高まり、その価格を押し上げる、というのは分かる。だが、X価格が上がるとY価格が下がれば補完財(X-X’カーブが右下がり)というのが分かりにくい。パンとバターのような関係だから、パンの価格が上がればパンを食べなくなり、バターも食べなくなるから、どちらの需要も減少するのだが、パンの需要が減少するのは価格が上がったため、バターの方は逆に、需要が減少したので価格が下がるのだ! なるほど、そういうことだったのか。この点は最初の補完財の定義(つまり下記のコトバンクの説明)には書かれていない。因みに、p102の最終行から始まる意地の悪い説明「Xへの需要増加はXに対する代替品の代替品、あるいは補完品の補完品であるような財の価格を高めるであろう。そして代替品の補完品、あるいは補完品の代替品であるような財の価格を低めるであろう」というのは、上記のロジック(Xの価格上昇)とは異なる。ややこしいが、代替品の代替品=代替品、補完品の補完品=補完品、代替品の補完品=補完品、補完品の代替品=補完品、であることは変わらない。もう一つ、分かっていなかったのは、「XとYの価格のグラフに二つのカーブ、X市場における価格均衡カーブX-X'とY市場における価格均衡カーブY-Y'があること」の意味。なんでこの二つのカーブは違っていなくてはならないのか。それは、X市場のカーブはXの数量のみが変動してYの数量は不変、Y市場のカーブはY数量のみが変動してX数量は不変ということ。つまり、価格変動に対するXとYの数量変動(弾力性)が違うと言うこと。これを理解するのに日曜日の午後までかかった。ヒックスは粘り強く詳細に説明しているが、こういう説明はしてくれていない。自分で追及しないといけないということか。さて、ヒックスは「多数交換体系」を論じ、その一つの結論をp95に書いている「もし所得効果が無視されるならば・・・・・補完が存在せず、従ってXはYに対してもT(他の全ての財の群)に対しても代替品であるときには、曲線XX’は上方に傾斜しなければならず、それの弾力性は1よりも少でなければならない。もしXとYが補完的であるなら、XX’は下方に傾斜する。もしXとTが補完的であるならば、XX’は1よりも大きな弾力性をもって上方に傾斜する。もし所得効果が無視できないなら、これらの規則はいくぶん修正され、多かれ少なかれ重要な例外が現われるであろう」。そして、この「多数交換体系の安定」については、p97の図17に集約されている:均衡価格の初期値PからXの価格が上昇するとき、Y市場ではQが均衡点となってY価格を押し上げ、そのY価格におけるX市場の均衡点はRだから、Xの価格を押し下げることになり、このプロセスが繰り返され、価格均衡点はPに収束していく。つまり市場は安定する。なお、「補完財」は「代替材」に比べて無視してよいほど少ないことをヒックスはp103の終わりから説明・強調している。ヒックスは一般市場の「交換の理論」を二財間の交換理論の延長線上に展開してみせたが、たぶん特殊条件、例外事項、つまり所得効果と補完品が市場に影響を与えうるというのが重要なのであろう。やっと20ページ読んだ。
p90 代替材と補完財:コーヒーと紅茶、ビールとウイスキーなどのように、同じ用途に用いられる財の関係を「代替財」または「競争財」という。これに対して、コーヒーと砂糖、カメラとフィルムなどのように、二財を結合して使用する財の関係を「補完財」という。われわれはこのような財の分類を感覚的、経験的に行っているが、J・R・ヒックスは『価値と資本』(1939)において、次のように厳密に定義した。いま二財X、Yがあるとき、Y財の価格の変化がX財の需要に与えるトータルな効果は、所得効果と代替効果の二つに分けることができる。ここで所得効果とは、名目所得が一定のもとで、財の相対価格がどれだけ実質所得を変化させるかを意味する。代替効果とは、実質所得(効用水準)が一定のもとで、財の相対価格の変化が需要に及ぼす効果である。いま代替効果の符号が正、すなわち実質所得が一定のもとで、Y財の価格の上昇がX財の需要を増加させたならば、X財とY財は代替財である。逆に代替効果の符号が負、すなわち実質所得が一定のもとで、Y財の価格の上昇がX財の需要を減少させたならば、X財とY財は補完財となる。Y財の価格の変化がX財の需要にまったく影響を及ぼさないときには、X財とY財は独立財とよばれる。この定義に従えば、すべての財が互いに補完財になることはありえず、また二財のみの経済を考えれば、両財はかならず代替財となる。
消費者の均衡理論よりも生産者の均衡理論の方がはるかに多く研究されてきたらしいが、ここのヒックスの説明によると、生産者の場合よりも均衡条件が増える。それは、対象物が一つ(消費物)に対し二つ(生産物と材料物)あることに起因するようだ。消費者理論において、消費者の目的が効用の最大化(つまり限界効用=価格)であったのに対し、生産者(ここでは企業)の目的は「生産物と材料物の価値の差を極大にすること」だとしたうえで、ヒックスは図形(図18および19)を持ち出して説明する。この図でヒックスが用いる「価格」は生産物と材料物の「価格の比」であり、それは「市場状況によって与えられている」ことから右上がりの直線となる。これに対し、横軸に材料物を投入したときに得られる縦軸の生産物の量を示す「生産曲線」は右上がりで上に向かって凸型をしているのは、「限界生産物が逓減的」あるいは「限界材料物(費用)が逓増的」であることを意味する。結局、これらの価格と生産曲線という「均衡条件」が揃えば、これらの直線と曲線が接する所で生産者の目的が達せられ、生産物と最良物の価値の差が極大となる。ヒックスはこれを逆に論じて、「企業の均衡条件」を導き出している:「材料物価格=限界生産物価値、限界生産物逓減、平均生産物逓減」もしくは「生産物価格=限界材料物価値(限界費用)、限界材料物(費用)逓増、平均材料物(費用)逓増」。ここまでは他の経済学者も論じてきたものと思われるが、ここ(三)からがヒックスの真骨頂であり、彼はこの机上理論が現実に合致するものかを検証する。ヒックスは上記の経済理論に対する二つの批判を提示する:(1)企業は自身が平均費用逓減の状況下で生産しているという確信、(2)大規模生産による節約および収益逓増。ヒックスはこれらの批判は「企業の固定設備あるいはプラント」「統制力」という生産要素(材料物)を想定することで従来の経済理論に取り込めると論ずる:「大規模生産による節約・・・・(他の材料の費用逓増を)ことごとく圧倒するに足るだけの希少性・・・・・企業の固定設備あるいはプラント・・・・企業者自身によって行使される究極の統制力・・・・」。その上でヒックスは従来の経済理論の有用性を説く:「企業の拡張がどこかで停止することを保証するためには、限界費用は企業が拡張するにつれ上昇しなければならない。しかし・・・・・統制という要素の限界費用が極めて小さいということは・・・・・企業の間では最もありふれたものだと私は思う」。しかしこの場合、限界費用は平均費用よりも小さく、限界費用=販売価格とすると、企業は損をしなければならない。この問題に対処するため、ヒックスは(四において)「完全競争の仮定を犠牲にし・・・・典型的な企業は・・・・ある程度までは独占者であると仮定するならば・・・・」この企業は限界費用ではなく、需要に見合った価格で販売することができる。おそらく、この不完全独占、生産者の完全競争の無い市場が、最も現実に近い経済市場なのだろう。だが、ヒックスは一般均衡のための競争を排除することはしない:「我々の取り扱う大多数の企業の直面する市場が、完全に競争的な市場とさほどはなはだしく異なってはいないということを仮定・・・・・価格が限界費用を超過する割合があまり大きくなく、可変的でないことを仮定・・・・限界費用が均衡点で逓増することを仮定できれば、完全競争のもとの経済体系の諸法則は、広汎な独占的要素を含む体系においても、著しく変更されることはないであろう」。こうして、五において、ヒックスは大胆にも完全競争に戻り(つまり、価格は限界費用よりも高いがそれほどの違いはなく、均衡点で逓増するという仮定のもとで)企業の均衡条件を複数の生産物、複数の材料物(生産要素)に拡大して分析する。それは3種の型に集約され、(1)二生産物間の価格比率=これらの限界代替率、(2)二材料物間の価格比率=これらの限界代替率、(3)一生産物と一材料物の価格比率=これらを生産物もしくは材料物で計ったときの限界代替率。最後の、これらの均衡安定条件は、マージナル・アウトプット(生産物だが、材料物のこともある)は逓減するが、マージナル・インプット(生産物同士の代替の場合、生産物もありうる)は逓増する、のだが、ヒックスの説明はやや分かりにくい。日曜の午前中一杯(クリムゾンを聞いてからだが)かかった。読んでいるときは眠かったが、メモを書き出してからは頭が冴えてきた。内容が分かるということは、頭をすっきりさせるらしい。
この章は奇跡的にすんなり読めた。昼寝したからだろうか。ここでヒックスは複数の生産物、複数の材料物(要素)を扱う生産者を論ずる。消費者理論の時の凹型無差別曲線に対し、生産者理論では凸型生産曲線(生産物と材料物)と凹型生産曲線(二つの材料もしくは二つの生産物)が存在し、消費者理論における所得効果は生産者理論には存在しない(販売=所得だから)。一方、消費者理論と同じく、補完と代替は存在する。つまり、生産物XとYは代替あるいは補完であり得、材料物AとBも代替あるいは補完であり得る。ややこしいのは生産物と材料物の関係で、ヒックスはこれをp131で「逆行」と呼び、材料物Aの需要増がそれと代替関係にある材料物Bを減少させ、企業の持つプラント(固定的資源)はBよりもAにより多く割り当てられ、その結果、企業の生産物Xが減少するという例外的な場合がありうると論ずる。補足説明としてヒックスは「材料物Aは小規模生産に適し(小規模の方が増益)、材料物Bは大規模生産に適する」ことを挙げていて、これは分かりやすいと思う。最後のまとめは消費者理論との二つの相違:(1)所得効果はない、(2)同じ企業で結合的に生産される諸生産物は補完的であり、結合的に用いられる諸要素は補完的であるという傾向がある。代替的生産物および代替的材料物も存在しうるとはいえ、限定的である。この(2)については前段では論じていないと思うが、生産物間、材料物間の価格や数量変動を論じているうちに自然と浮かんできたものなのだろうか。やっと半分まできた。
九州から帰ったばかりだが、この章の冒頭部分は刺激的。ヒックスは「前世紀中にもろもろの経済学者によって・・・・生産の一般均衡は・・・すでにかなりよく発展」してきたと述べたうえで、「それ(もろもろの経済学者の経済理論)を使用することははなはだしく危険である・・・・経済理論における最も豊かな誤謬の源泉の一つなのである。というのは、・・・・最も重要な側面のいくつかを捨象している」と断ずる。ヒックスのこの指摘は次に述べられる三つの欠陥に基づいている:(1)「独占および不完全競争に少しも注意を払わない」、(2)国家の経済活動の捨象、(3)「資本と利子、貯蓄と投資、・・・・『投機』・・・の活動の捨象」。ヒックスはこれらをどのように一般均衡に取り込むのだろう。たぶん大学で既に読んでいるに違いない。しかし、次の段ではこれら3点は触れられず、個人と企業の経済活動を論ずる。ここでは価格は所与としており、その場合、4種類の市場の需要と供給が決定される:①生産物の市場、②要素(材料)の市場、③直接的用役(労働)の市場、④中間生産物の市場。ここでのマジック・ワード:「要素および生産物に対して一組の市場価格が与えられるならば、企業者資源を所有する者は誰でも、その資源を生産に利用することが正の余剰を生むかどうかを決定することができるであろう」。
p140 捨象:しゃ‐しょう ‥ 物事の表象から、一つまたはいくつかの特徴を分けて取り出す抽象を行なう場合に、それ以外の特徴を捨て去ること。また、概念について抽象する場合、抽象すべき特性以外の特性を捨て去ること。抽象作用の否定的側面。※三太郎の日記(1914‐18)〈阿部次郎〉一「自我の要求によりて強調せられ若しくは捨象せらる可き経験は」
(p140)ここでヒックスは「二種類の個人、私的個人と企業者」を含む体系の考察に入り、四つの市場を想定する(1)生産物の市場:ここには消費者と企業の両方に所得効果が存在するが、価格の生産への影響は代替効果と同じ方向であり、安定に寄与する、(2)要素の市場:ここも(1)と同じ、(3)直接的用役の市場:交換の場合と同じ効果、(4)中間生産物の市場:需要と供給はどちらも企業なので所得効果は存在しない。この部分については、(1)と(2)の企業には所得効果ありとしているのに、(4)でなしとしているのは矛盾していると思う。結局、「余剰」を「バジェット」に取り込むか否かで決まるのではないか。「生産の一般均衡は安定か」の考察については、極端な所得効果、つまり「生産物が下級品であるか、あるいはこの生産物がそれを生産する企業者によって著しい程度にまで消費されるか(自己消費?)」の場合に限られるとし、ヒックスは「生産の一般均衡は普通の場合はたいてい安定であろうと想定してよい」と結論する。次に市場がどう動くかの考察。(A)「生産物Xへの需要に増加・・・・Xの価格は上昇」する場合、①消費においてXと補完的な商品は、Xの価格上昇により需要が減少し、価格は下落する、②生産においてXと補完的な生産物は、Xの供給増に伴って供給が増加し、価格は下落する:「教科書でなじみの深い羊肉と羊毛との例はこれである」、③Xに対して逆行的な要素、代替生産物およびその材料への需要は共に減少する。考察(B)「要素Aの供給の増加・・・・A価格の下落」の場合において、ヒックスは興味深い指摘をする:「Bが補完的な要素であるならば・・・・直接的効果はBの価格を高める・・・・・しかし・・・・AとBの生産物はおそらく・・・・緊密な代替品とみなされなければならない。だからBの価格はおそらく下落する・・・・」。最後にヒックスは供給者の「保蔵」という概念を持ち出す。その展開はここではしていない。
ここで語られるのはシャドウ・プライス、つまり農産物支援のための交付金である。ヒックスはここで「小麦に対する最低価格」とイメージしており、自由市場で決まる価格Mよりも高い最低価格Lを国が設定し、この最低価格Lに対する需要Nにおける自由市場価格Mとの差額(LーM)を国が小麦生産者に補填するというもの。第22図の需要曲線は直立に近く、供給曲線は水平に近いため、シャドウ・プライスの影響は緩和されていると思う、自由市場数量は統制市場数量とあまり乖離していないのに対し、国の補填(シャドウ・プライス)はえらく大きく見える。最低価格政策は結局、生産量を減少させる結果を招いていると思うが、ヒックスはここではそのことには触れていない。
ここでヒックスが論ずるのは、静学理論の限界と重大な問題点の提起である。ヒックスはそれまでの経済学者が研究を重ねてきた静学理論を尊重し、それを引き続き活用していくと言う。しかし、「中間生産物の数量、資本の数量は・・・・結局利率を通じて決定される・・・・この水準がいかなるものであるかは一部は諸個人の貯蓄性向に依存し、一部は彼等の実質所得に依存する・・・・ゆえに我々は資本財の存在量の大きさと利率とを決定すべき二つの方程式を持つ。従って、両者は決定される。かように飾り気無く要約された理論が静態の一つのもっともらしい理論である。だが、貯蓄と投資とが経済内の各単位に対して、共にゼロとなるのは非常に特殊な状況においてだけである・・・・・・静態はかくも多くの重要な側面を看過することによって、利子理論の発展を積極的に妨げてきた」。残り100数ページ。
(p168)マーシャルの分析が静学的であり、現実の動学経済とは相容れないと述べておきながら、ヒックスはここで三つの手法を持ち出し、最終的に、マーシャルの静学理論を利用するという結論を導く:「このようにしてわれわれのモデルを静態に委ねてしまうことなく、静学的機構の精髄を失わずに保存してきた」。その三つの手法とは「週」「計画」「明確な予想」である。「週」を用いること:「私は週を、その間では価格の変化を無視しうる期間として定義・・・・契約を結ぶことができるのは月曜日だけ・・・・新しい契約は次週の月曜日までは結ぶことができない。だから月曜日の価格はその週を通じて行われ、その週の資源の配置を支配する・・・・」。「計画」を用いること:「疑いもなく企業が不規則に間隔を置いて計画を立てている・・・・一つの計画作成日と次の計画作成日との間に経過せねばならぬ時間中は最終の計画が大体において定められたとおりに実行に移される・・・・・そこで次のように仮定しよう。企業および私人は月曜日において繰り広げられる市場情勢に照らしつつ彼等の計画を作成または修正するものとし、かつ週間に行われる小さな調整は全てこれを無視しうる・・・・」。「明確な予想」を用いること:「・・・・採択される計画は現在価格に依存するのみならず、なお将来価格に関する計画者の予想に依存している・・・・形式的には人々が一つ一つ明確な価格を予想すること、彼等が確実な価格予想をもつことを仮定する・・・・しかし必要に応じて・・・・現実の不確実な予想を最もよく代表する数字として解釈する・・・・」。マーシャルは価格予想に伴うリスクについて「動学的経済学の彼方に危険の経済学があるべきだ」と述べている。
ここで述べられるのはマーシャルが「原理」第五編2章および附録で展開した「試行錯誤によって価格を決定する過程は終局的に決定される価格の上に何らそれと認められるほどの影響をおよぼすものではない」の検討である。ヒックスは「誤った取引にもとづく利益あるいは損失は、ただ所得効果を生ぜしめるにすぎない。・・・・しかし『非常に誤った』価格で行われる取引は量が限られていると想定しても無理ではないと思う。」と論じ「誤った価格の効果は市場が月曜日にだけ開かれる我々の仮定によって所得効果に限定される。それゆえ、・・・・生産計画と消費計画とに対する指標としては均衡価格を採ってこれを用いる」と結論する。ここもまた、ほんの少しの工夫により、前人たちの積み上げてきた経済理論を使い続けることができるという訳だ。
ここでは、静学経済では分析不可能だった実際経済における不均衡が生ずる原因、それを緩和する手段としての計画経済、先物取引などが論じられる。これらは無差別曲線や需給曲線をどんなに動かしてみたところで解決することのできない動学的な論点であり、ヒックスと本書の核心部分なのかもしれない。最初にヒックスは前章で論じた「第一月曜日の契約価格が1週間保持される」というモデルを持ち出し、「神といえども過去を動かす力はない(ジョン・ドライデン)」「霹靂の歩みをして極まった軌道を行く処まで行く(ゲーテ)」を引用してみせ、契約や予想や計画が現実とは乖離することが不均衡を導くことを示唆する。そしてその原因を分類してみせる。(1)人々の価格予想が調和しない、一人は上昇、一人は下落、(2)価格予想は調和しても、計画は調和しない、生産量と購入量が違えば、第二週の価格は上昇もしくは下落する、(3)価格予想および計画が調和するが、実際の生産や購買が変動する、(4)前述の3点が調和しても、リスク回避などのために数量が変動(浪費の一種)。社会主義はこのうち(1)(2)を回避しうる((1)はマイナーな問題)が、資本主義であっても、先物取引や長期契約により、予想と計画とを統合する方法を持つ。ヒックスは先物取引や長期契約でも計画の不確実性を除去できないとするが、「しかし後者((3)および(4))はいかなる型の社会においても除き得ないものであって、いかなる型の社会でも不確実性は『無計画性』を生み出すおそれがある」と論ずる。最後にヒックスは現物経済の対極としての「先物経済」モデルの意義を説く:「先物経済ではいかなる価格体系が決定されたかを検討することにより、与えられた一組の変動条件のもとではいかなる価格体系が時間を通じての均衡を維持するかを見出すことができる」。次回は「利子」これが先物経済の貨幣なのか?
p188 霹靂の歩みをして極まった軌道を行く処まで行く(はたたがみのあゆみをしてきまったきどうを・・・・):ゲーテ「ファウスト」森鴎外訳。霹靂 (へきれき)」とは 前触れなく突然落ちる雷や雷鳴のこと
p199 副う(そう):(「沿う」と同語源)1 そばを離れずにいる。ぴったりつく。「影の形に―・うようにいつも一緒にいる」「病人に―・って歩く」2 夫婦になる。連れそう。「二人を―・わせてやりたい」3 親しく交際する。「人には―・うてみよ、馬には乗ってみよ」4 目的どおりになる。かなうようにする。「御希望には―・いかねます」5 すでにあるものの上に、他のものが加わる。付け加わる。「さらに趣が―・う」
ここで初めて、資本市場の議論が始まる。ヒックスが最初に論ずるのは短期金利と長期金利。これらが相違するのは(1)貸付の継続期間、(2)危険プレミアム、である。そして、「長期金利は現在の短期金利と関係ある先物短期利率との算術平均である」と論ずる。前章までで議論してきた1週間刻みの経済体系の中に、先物取引や貸付契約を取り入れられるかということについては、「先物市場は事実上、さほど大きな意義をもたない」とする一方「長期貸出は先物取引の隠れた一形態」であり「長期貸出をも同じく除外」するのは「はるかに厳しい抽象である・・・・・このモデルは甚だしく非現実的」と断ずる。そこでヒックスは「長期貸出をもつ現物経済」をモデルに設定し、「市場利率」について論ずる。これまで利率には短期と長期があるとしながら、ヒックスはなんとか「ただ一つの市場利率」で済ませようとするが、「二つの可能な途があり、おのおのがそれぞれに役に立つ・・・・これらの二者択一的な接近方法をもつのが極めて便利である」として両方を説明し始める。その理由は「短期利率を単位として使いながら、諸利率の全体系を構成することが可能」であり「長期貸出をもつ現在経済が同じく有益な用具であるとすれば、同様にして長期利率から全体系を構成することが可能」だからである。それを現わす式は R+R/R´-1 (R現在の利率、R´次週の利率)であり、R´>R ならばRよりも小(つまり将来利率が上がると予想される場合は長期金利<短期金利)。(まだ理解し切れていないと思うが)将来利率が下落すると予想されれば長期金利>短期金利ということになる。因みに、ケインズの「一般理論」における唯一の利率は長期利率とのこと。残り54ページ。
「利率を決定するものは何であるか」が本章の主題であり、それに対する「資本に対する需要と供給とによって決定される」という一見妥当な解答にヒックスは疑問を向ける。「資本が実物資本を指すならば・・・・利率を支配するのは現在財と将来財とに対する欲求(これはベーム・バヴェルクの理論)」となる一方、「資本とは貸付資金の意味における貨幣資本を指すならば・・・・利率は貸付資金の需要と供給によって決定される」。ケインズは後者について「一般理論」で論じているとしながら、ヒックスは「どちらでもよい・・・・・二つの接近方法は全く同じ結果に導く」と論ずる。
上記を証明するのに、ヒックスは前章で論じた「ただ一つの利率をもつ二つの単純化モデル」を使う。「短期貸出をもつ現物経済」と「長期貸出をもつ現物経済」である。「短期貸出の現物経済」では月曜日に市場が開くと即時全ての過去の契約は整理され、もろもろの財と用役の現物価格と一週間の貸付の利率が決定される。「貨幣標準として採られる財」を一つ選ぶと、n個の財に対し(n-1)個の価格と一つの利率、言い換えるとn個の価格が決定されることになる。「長期貸出をもつ現物経済」でも同じ結果となり、n個の財に対しn個の価格が決定される。ここで注目すべきは、「単に(n+1)個の方程式の中から1個の除去を可能ならしめるにすぎないということ」であり、「もし貨幣方程式を除去すると決めるならば、価格と利子とが財・用役市場および貸付市場で決定され・・・・貨幣方程式は全く不必要」となる。
ややこしいが、ここでヒックスは冒頭の現物経済学者と貨幣経済学者の議論に戻る。後者は物価水準と貨幣数量ばかり論じ、現物経済学者の使う「自然利率」なるものは貨幣利率と同じになるとは限らない。それは、「先物価格が現物価格と同じ」ときにはじめて一致するというヒックスの議論には説得力がある。つまり、貸付が存在しなければ、自然利率=貨幣利率となる。そのうえでヒックスは「貨幣の価値が不変であるという仮定は議論に対する厳しい制限である・・・・・誤謬の源である」と警告する。
ケインズも実物経済学と貨幣経済学を分離することに反対で、「貸借の方程式、あるいは証券の売買均等の方程式を除去し、(n-1)個の価格と一個の利率を、貨幣を含むn個の方程式によって決定」する方法をとった(このヒックスの論旨にケインズ自身は納得していないらしいが)。だがこの方法は、複数の利率をもつ経済では機能しにくくなるらしい。この他、上記で述べたシンプルなモデルから複雑なモデルに進むため、ヒックスは「二つの方法(たぶん複数の方法)を併せ持っていることは実際非常に有益」であると論ずる。次はケインズの「貨幣と利子」。残り40ページ。
p219 ベーム=バヴェルク:主著『資本および資本利子』は、先行する学説を総ざらいに批判した『資本利子論の歴史と批判』(1884年)と、自説を積極的に提示した『資本の積極理論』(1884年)から成る。前者では、利子の搾取理論としてロートベルトゥスとマルクスが取り上げられる。搾取理論に対する批判の骨子は、それが現在財と将来財の相違を無視し、異時点における労働を足したり引いたりできるという不当な想定に基づいているというものである。しかし、このベームのマルクス批判はあたっていない。というのは、マルクスがその価値論において用いる「社会的必要労働」「必要労働」という概念は厳密に共時的な概念であって、時間軸に沿った加算は考えられていないからである。過去の労働は常に現在の生産にとっての条件であるが、社会的に見た場合には同時並行して分業を行っている「共存する労働」として現れる。それは可変資本部分だけでなく、しばしば「死んだ労働」と過去形で呼ばれている不変資本部分についても同様である。
この章の最後で語られる「貨幣は価値標準たる性質をもつ」は、たぶん現代においては一般常識であろう。当時(1946年頃)はまだ、銀行券には貨幣と交換するという約定が記載してあったというから、経済が大きく変動しつつあったことがうかがわれる。この点に加え、本章でヒックスが述べたことで特記されるべきは次の5点だと思う:①「貨幣はまた他の性質『交換の媒介物』および『価値の貯蔵』をもっている」p246、②「貨幣と証券(securities)とが緊密な代替品であるという事実は動学経済学にとって絶対に基本的」p245、③「貨幣がもとより最高級であって、そのために他の諸等級は貨幣に比較して通常割引され・・・・・利率が普通プラスであるのは、貨幣と証券とが一連の代替品だからである」p241、④「(われわれのモデルの諸条件のもとでは)短期利率を説明するものは取引をすることの手数でなければならない」p237(これは現在において、スマホ決済の手数料がゼロであることと整合する)、⑤「長期利率は正常的には危険プレミアムだけ短期利率を超過する見込みがある」p240。これらの諸点、特に④は投機的要素などで変化することをヒックスは示しており、それらは第4部に持ち越すとある。ケインズの「流動性選好」という言葉が冒頭近くに出てくるが、これはヒックスの言う貨幣と証券の代替、代替対価としての利子ということに一致すると思う。次の14章は上巻の最後で30ページもあるから、二日がかりだろう。
p238 障碍(しょうがい)
p242 蛆虫(うじむし)
p244 インスティテューション:制度、法令、慣例、学会、協会、院、団、公共施設、(福祉関係の)施設、設立
ここでヒックスが論ずるのは、「所得」なるものが経済動学においては扱いにくい性格をもっていて、注意して扱わなくてはならないということである。その理由を述べるのに三つの所得概念を挙げる。なお、「静学においては所得についての困難は生じない。ある人の所得は無条件に彼の収入(労働賃金、財産からのレント(賃料))に等しいものと考えることができる」。(1)個人の見込み収入マイナス支出(spend)、しかし、利率が変化すればレントが変わる、(2)個人が今週に支出し得て、翌週以降も同額を支出し得る最高額、しかし物価変動で支出が影響される、(3)個人が今週に支出し得て、翌週以降も実質価値同額を支出し得る最高額、しかし耐久消費財はその期間に全て消費される訳ではない。ヒックスは動学における所得には「見込み」を導入するしかないとするが、将来の見込み額を現在と同じ(in pari materia)と考えるのは無意味と論ずる(p256)。ならば何を基準に見込むかについてヒックスは、エクス・アンテ(事前)の予想ではなく、エクス・ポスト(事後)の統計事実に基づけば、主観性を排し、客観的な見込みを得ることができるとする(p259)。こんなことは現在では当たり前だが、当時は明快ではなかったらしい:「資本貯蓄のエクス・ポストの計算は経済的および統計の歴史のうちではしかるべき地位を占めている。それは経済的進歩の有益な測量尺である。しかしこれらの計算は・・・・経済体系がいかに運行するかを見出そうと試みつつある理論経済学者にとっては少しも役に立たないのである」。この章はまさに、理論経済学を象牙の塔から引き出し、現実の経済運営に役立たせる一つのエポックを示している。
p247 紛らわしさ(まぎらわしさ)
p256 in pari materia: 等しき材料にて. materia: materia物質[医生]; 物体[医生]; pari-: {連結} : 等しい;
p257 効用=utility
p258 覆滅(ふくめつ):くつがえし滅ぼすこと。また、徹底的に攻撃されて滅びてしまうこと。
ヒックスはこの補論で14章で用いた所得(1)(2)(3)とエクス・アンテ(事前的)エクス・ポスト(事後的)を使って論ずる。「貯蓄と投資」においては所得の定義よりも事前・事後の設定が重要らしい。つまり、エクス・ポストの貯蓄と投資は社会全体では一致する:「しかしこの均等は単なる自明の理にすぎない・・・経済内のすべての資本が誰かに所属するという単なる事実を表明するに過ぎない・・・大して深い理論的意義を有する論点ではない」。エクス・アンテの貯蓄と投資について、ヒックスはここでは利子については議論を避け、物価変動に焦点を絞っている。すなわち、エクス・アンテの貯蓄と投資は「もろもろの計画が調和的であって初めて必然的に相等しいであろう・・・・計画貯蓄が計画投資を超過する・・・ならば商品の供給は需要を超過し始め・・・物価は下落する・・・・・同様にして、もし計画投資が計画貯蓄を超過するならば、物価上昇の傾向があるであろう」。そして、このことについてケインズが、「貨幣論」と「一般理論」で矛盾しているのではないかと指摘している。
ここの議論は難解。その原因の一つは「標準流列」(=実際に予想される収入とは反対に、ある種の不変性を維持する)という概念で、物価変動や利子収入などの影響のないものということらしい。この所得の標準流列は物価変動で変動する。それに加えて、利子収入で変動する:「利率の下落は、それが標準流列の現在価値を高めるよりも実際に予想される収入の現在価値をより多く高めるならば、所得を高めるであろう。利率の上昇は、それが標準流列の現在価値を、実際に予想される流列の現在価値よりもより低めるならば所得を高めるであろう」。次は「割引率」と「弾力性」と「平均期間」という概念。ここでは物価変動や利子を「資本化価値の流列」に置き直して論じているらしい。そうすれば「標準流列」への物価変動や利子収入の影響を「割引率」を使って反映し、「現在価値」を得ることができる訳だ。ここでヒックスが持ち出す「第23図」というのも分かりにくいが、様々な人の所得水準に応じた資本価値曲線(凸曲線なのは、割引率が上がると所得している資本価値が上がるが、その上昇率は漸減していくということだろう)と予想収入流列に応じた資本価値曲線(これは右上がりの直線)の交点でその人の所得が決まるということらしい。(この辺で止めてくれればいいのだが)ヒックスは更に「支払高の流列」と「割引率β」から「資本価値の弾力性」なる計算式を示し、その「弾力性」を「平均期間」と言い換える。「支払高が現在から繰り延べられている時間の平均的な長さ」というのがその理由。よって、「収入の流列の平均期間(=弾力性)がそれと対比される標準流列の平均期間よりも大ならば、利率の下落は収入流列の資本価値を標準流列のそれよりも多く高め、所得を増加させる・・・・平均期間が・・・小であるならば、所得を増加させるのは利率の上昇であろう」。つまり、返済期間が長ければ、利率は低い方がいい、利率が高ければ、短期返済したほうがいいということ。最後にヒックスが論じるのは「消耗性資産」のことであり、前述の「平均期間」の議論は、いつかは尽滅する「消耗性資産」を利用している人には当てはまらないということ。これを取り込むのにヒックスが持ち出すのは人の人生期間における収入流列:「見込み流列が近い将来で標準以下ならば、より遠い将来のどこかでそれを標準以上にして償うところがなければならない」。そして「平均期間は結局のところ価値の流列のクレシェンド(あるいはディミニュエンド)を測定する精確な方法にすぎない」と論ずる。注釈にはそのクレシェンドの数式まで書いており、「利子の変化が生産の編成に及ぼす効果を考察するときに再びそれに立ち帰るであろう」と結んでいるから、自信がうかがえる。やれやれ、なんとなくではあるが、一応は理解できたかな。
p271 尽滅:ことごとく滅ぼすこと。すっかり滅び尽きること。
p272 crescendo クレシェンド:音楽で、強弱標語の一。だんだん強く、の意。cresc.と略記。または<の記号を用いる
p272 ディミヌエンド (diminuendo) :音楽で、強弱標語の一。だんだん弱く、の意。dim.またはdimin.と略記。デクレッシェンド。