「高さ千米にも足りない山・・・しかし高さこそ劣れ・・・名山としてあげるのに私は躊躇しない」という深田の言葉を私がはじめて実感したのは、鹿児島港から屋久島に向かうフェリーに乗ったときだった。
それは青空の下に、濃い青の海の上に、美しい円錐形で浮かんでいた。単純な形なのに、なぜこんなに感動的なのだろう。
深田もこの「完璧な円錐形」と「全身を海中に乗り出した・・・卓抜な構造」をこの山の優れた個性に挙げているが、これは、直に見て初めて実感し、心の中に湧き上がってくるものだと思う。
深田は、終戦後上海から帰還したとき、後年ヒマラヤに行くときにも開聞岳を見ていて、特に上海から帰還したときは「万感のこみあげてきたのを忘れない」と記しているが、その思いが分かるような気がする。
若き日の深田に西郷さんと開聞岳の話をした先輩が通っていた七高造士館(*1)というのは、薩摩島津藩の元藩校。鹿児島市内からはそんなに近くないと思うが、桜島よりも開聞岳の方が注目されていたということだろう。
深田は末尾で、開聞岳から川尻部落に下り、「この漁村の波打ち際から仰いだ開聞岳こそ天下の名山に恥じなかった」と記していて、それは文庫本の写真の姿だと思うが、私がフェリーから見た開聞岳もこれとほとんど同じ姿。
やはり富士山と同じで、単純だからこそ感動を生むものなのだろうか。私は北にある公園登山口に下山後、駐車場付近から、開聞岳の違った姿を間近に見上げた。それはごつくて、いかにも薩摩らしい姿だった。
深田は「螺旋状に山を巻いていく・・・・珍しい登山道」のことを絶賛しているが、私はこの道を2回登り、2度目のときはそこから東に眼下の海と長崎鼻と日の出、西に回ると海上に影開聞岳も見ることができた。
深田の書いている頂上の火口跡(*2)や三角点も見た。一方、私の印象に残っているのは11月だというのに花が多かったこと。黄色い大きなツワブキがたくさん咲いていた。
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「高さ千米にも足りない山・・・しかし高さこそ劣れ・・・名山としてあげるのに私は躊躇しない」という深田の言葉を私がはじめて実感したのは、鹿児島港から屋久島に向かうフェリーに乗ったときだった。それは青空の下に、濃い青の海の上に、美しい円錐形で浮かんでいた。単純な形なのに、なぜこんなに感動的なのだろう。深田もこの「完璧な円錐形」と「全身を海中に乗り出した・・・卓抜な構造」をこの山の優れた個性に挙げているが、これは、直に見て初めて実感し、心の中に湧き上がってくるものだと思う。
深田は、終戦後上海から帰還したとき、後年ヒマラヤに行くときにも開聞岳を見ていて、特に上海から帰還したときは「万感のこみあげてきたのを忘れない」と記しているが、その思いが分かるような気がする。
若き日の深田に西郷さんと開聞岳の話をした先輩が通っていた七高造士館(*1)というのは、薩摩島津藩の元藩校。鹿児島市内からはそんなに近くないと思うが、桜島よりも開聞岳の方が注目されていたということだろう。
深田は末尾で、開聞岳から川尻部落に下り、「この漁村の波打ち際から仰いだ開聞岳こそ天下の名山に恥じなかった」と記していて、それは文庫本の写真の姿だと思うが、私がフェリーから見た開聞岳もこれとほとんど同じ姿。やはり富士山と同じで、単純だからこそ感動を生むものなのだろうか。私は北にある公園登山口に下山後、駐車場付近から、開聞岳の違った姿を間近に見上げた。それはごつくて、いかにも薩摩らしい姿だった。
深田は「螺旋状に山を巻いていく・・・・珍しい登山道」のことを絶賛しているが、私はこの道を2回登り、2度目のときはそこから東に眼下の海と長崎鼻と日の出、西に回ると海上に影開聞岳も見ることができた。深田の書いている頂上の火口跡(*2)や三角点も見た。一方、私の印象に残っているのは11月だというのに花が多かったこと。黄色い大きなツワブキがたくさん咲いていた。
(*1)七高造士館:薩摩島津藩の藩校造士館を源流として明治17年に鹿児島県立中学造士館が設置され、明治20年に官立鹿児島高等中学造士館となったが、明治29年に一旦廃校となった。明治34年に官立高校として再興し、「第七高等学校造士館」が正式名称として用いられた。校章には城名である鶴丸が図案化されている。七高の代名詞として「鶴陵」が用いられ、五高戦応援歌(大正9年制作)に「雲低迷の鶴陵に 戦い火蓋切られたり」と謳われている。
(*2)開聞岳の噴火:開聞岳は、約4,400年前(奥野, 2002)に噴火を始めた。初期の活動は、浅海域での水蒸気マグマ噴火であった。 溶岩を流出する噴火を繰り返し、約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成していたものと推定されている。 約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与した。 その後、歴史時代の874年及び885年の噴火で山頂付近の地形が大きく変化し、噴火末期に火口内に溶岩ドームが形成された。 また、開聞岳南方沖海底には、開聞岳付近を発生源とする岩屑なだれ堆積物の地形がみられる。 側端崖、先端崖、流れ山の地形が明瞭であるが、発生源の崩壊地形は成層火山に覆われて全く見えない。 (気象庁)