この山は深田が郷里の石川県と東京を行き来するとき、信越線からよく眺めた山であった。活動中の火山であり、登山禁止になったこともあり、今でも最高点は立入禁止で、900mほど西の前掛山2,524mまでしか登れない。深田は「絶頂の火口壁で噴煙に襲われて逃げまどった」と書いており、最高点まで行ったのかは不明だが、「膨大なマッス(容積)で独占的な形で、曝け出しの肌で、そして頂にはいつも薄い煙を吐いていた」と形容するこの山を、かっつての旅人たちが捉えた感動を書き綴っている:最初は伊勢物語の歌、芭蕉の句、民謡、島崎藤村、堀辰雄に梅原龍三郎。
次は噴火と煙、「いつ頃から噴き始めた」については、平安時代の1108年が最初の記録というから、それより前から噴火していたことになる。「その孤立した大きな山容とまるで自己の標識のように煙をあげているのですぐに見当てることができる」という浅間を、深田は厳冬の横手山から「真っ青な空にモクモクとキャベツのような煙を噴いていた浅間」、晩秋の八ヶ岳から「大きなシルエットとなって暮れていった浅間」と実に芸術的な姿で目撃している。
私も四阿山に登ったとき背後に、真っ白な浅間を見て感動したが、この時の浅間の煙はキャベツというほどではない。
私が日本百名山登山を始めた2000年代初めは浅間山は登山禁止になっていたので、登ったのは2008年。深田が書いている東側の「峰ノ茶屋」からの道は今は小浅間山1,655mまでしか登れないが、深田が「小諸から夜をかけて登った」道を辿る必要はなく、チェリーパークラインという九十九折車道を辿り、有名な浅間山荘跡脇を通り、車坂峠1,973mまで車で登れる。
そこから外輪山のトーミの頭、黒斑山、蛇骨山を経て旧火口原にいったん下り、そこから約600m登って前掛山に到達した:「外輪の登山道を歩いていると、次第に雲が晴れてきて、大きな浅間が姿を現してきた。うーん、こいつはなかなかの山だ、と思う。とにかくでかい。存在感のある山。その裸の山腹に斜めに登山道が走っている。晴れた空が砂色の巨体に雲の影をおとし幾何学的な模様に見える。ドームから前掛までは15分弱で、見た目よりも遠かった。が、『浅間山』の立派な頂上標識があり、少し先の浅間頂上とほとんど同じところ、最高地点ではないらしいが、噴火口はすぐ先。あこがれの活火山『浅間に登った』という感激にひたる」。
深田が最後に書いている、「浅間山の周辺はほとんど余す所なく歩いた。小浅間山にも、石尊山にも・・・・旧草津街道を辿ってみた・・・・」のうち、最初の二つはともかく、旧草津街道というのは手強そうだ。
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この山は深田が郷里の石川県と東京を行き来するとき、信越線からよく眺めた山であった。活動中の火山であり、登山禁止になったこともあり、今でも最高点は立入禁止で、900mほど西の前掛山2,524mまでしか登れない。深田は「絶頂の火口壁で噴煙に襲われて逃げまどった」と書いており、最高点まで行ったのかは不明だが、「膨大なマッス(容積)で独占的な形で、曝け出しの肌で、そして頂にはいつも薄い煙を吐いていた」と形容するこの山を、かっつての旅人たちが捉えた感動を書き綴っている:最初は伊勢物語の歌、芭蕉の句、民謡、島崎藤村、堀辰雄に梅原龍三郎。
次は噴火と煙、「いつ頃から噴き始めた」については、平安時代の1108年が最初の記録というから、それより前から噴火していたことになる。「その孤立した大きな山容とまるで自己の標識のように煙をあげているのですぐに見当てることができる」という浅間を、深田は厳冬の横手山から「真っ青な空にモクモクとキャベツのような煙を噴いていた浅間」、晩秋の八ヶ岳から「大きなシルエットとなって暮れていった浅間」と実に芸術的な姿で目撃している。
私も四阿山に登ったとき背後に、真っ白な浅間を見て感動したが、この時の浅間の煙はキャベツというほどではない。
私が日本百名山登山を始めた2000年代初めは浅間山は登山禁止になっていたので、登ったのは2008年。深田が書いている東側の「峰ノ茶屋」からの道は今は小浅間山1,655mまでしか登れないが、深田が「小諸から夜をかけて登った」道を辿る必要はなく、チェリーパークラインという九十九折車道を辿り、有名な浅間山荘跡脇を通り、車坂峠1,973mまで車で登れる。
そこから外輪山のトーミの頭、黒斑山、蛇骨山を経て旧火口原にいったん下り、そこから約600m登って前掛山に到達した:「外輪の登山道を歩いていると、次第に雲が晴れてきて、大きな浅間が姿を現してきた。うーん、こいつはなかなかの山だ、と思う。とにかくでかい。存在感のある山。その裸の山腹に斜めに登山道が走っている。晴れた空が砂色の巨体に雲の影をおとし幾何学的な模様に見える。ドームから前掛までは15分弱で、見た目よりも遠かった。が、『浅間山』の立派な頂上標識があり、少し先の浅間頂上とほとんど同じところ、最高地点ではないらしいが、噴火口はすぐ先。あこがれの活火山『浅間に登った』という感激にひたる」。
深田が最後に書いている、「浅間山の周辺はほとんど余す所なく歩いた。小浅間山にも、石尊山にも・・・・旧草津街道を辿ってみた・・・・」のうち、最初の二つはともかく、旧草津街道というのは手強そうだ。
茂来山から下り、佐久の市街地に入っていく頃、青空の下にすっかり姿を現わした浅間を見る。 左手前に角ばった外輪山(黒班山と剣ヶ峰)を従えた姿
軽井沢からは、左翼に剣ヶ峰と黒斑山を従え、噴煙を上げる浅間山を見た。それは豪快かつ爽快な姿。頂上の左に前掛山が見えている。
p190 「信濃なる 浅間の嶽に たつ煙 をちこち人の 見やはとがめぬ」:伊勢物語8段 信濃にある、浅間のたけに たつ煙(嶽:大きな、高い山。妻の父母の敬称。上述した子の母親にかけた文脈。しなので梓弓の子。それで自分を咎める気持ち。 あさまやま、というのが素直なのに、あえて嶽にして、しかも繰り返す) あちらこちらの人が(塗籠は「をちかた人の」で都落に単純化させるが違う。こういう微妙に安易な改変の積み重ねで変になる。) 見ても誰もとがめない。(火のないところに煙はたたないとかけ、煙が立とう立たまいが、そんなことはここでは誰も気にしない。知りもしない。 咎める:①自動詞(自分):悪いことをしたと心苦しくなる ②他動詞(他人):非難する、怪しく思い尋ねる)
p191 野分(のわき):『全訳読解古語辞典』によると「野分」とは「秋に吹く暴風」と解説したうえで、「[関連語]類義語に「嵐 (あらし) 」があり、特に季節を限定しない暴風の意」とあります。 現代では、秋に吹く暴風といったら「台風」と言うのが一般的でしょう。
p191 島崎藤村の詩:千曲川のスケッチ 序 敬愛する吉村さん――樹しげるさん――私は今、序にかえて君に宛あてた一文をこの書のはじめに記しるすにつけても、矢張やっぱり呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸ようやく今纏まとめることが出来た。 樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托たくして、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。君が日本橋久松町ひさまつちょうの小学校へ通われる頃は、私は白金しろかねの明治学院へ通った。君と私とは殆ほとんど兄弟のようにして成長して来た。私が木曾の姉の家に一夏を送った時には君をも伴った。その時がたしか君に取っての初旅であったと覚えている。私は信州の小諸こもろで家を持つように成ってから、二夏ほどあの山の上で妻と共に君を迎えた。その時の君は早や中学を卒おえようとするほどの立派な青年であった。君は一夏はお父さんを伴って来られ、一夏は君独ひとりで来られた。この書の中にある小諸城址じょうしの附近、中棚なかだな温泉、浅間一帯の傾斜の地なぞは君の記憶にも親しいものがあろうと思う。私は序のかわりとしてこれを君に宛てるばかりでなく、この書の全部を君に宛てて書いた。山の上に住んだ時の私からまだ中学の制服を着けていた頃の君へ。これが私には一番自然なことで、又たあの当時の生活の一番好い記念に成るような心地こころもちがする。
p192 浅間山噴火の歴史:有史以来、浅間山は頻繁に噴火を繰り返しています。. 古くは、平安時代の1108年に噴火の記録があります。. 江戸時代の1979年には爆発的な噴火を起こし、土石流に巻き込まれて1600人余りの方が無くなったとの記録があります。. さらに、空を覆った噴煙により農作物が不良となり、さらに10万人もの人々が無くなったとの研究もあります。. (いわゆる、天明の大飢饉です).
p193 旧草津街道: 現在立入禁止となっております。. 幻の国道405号とも呼ばれ、切明温泉手前の国道405号終点から魚野川沿いに、群馬県の野反湖に至るルートです。. 未開のルートであったことから、近年脚光を浴びています .