標高点2,230m
この章の深田は「山の名」について自説を展開する。「瑞牆」というのは「神社の周囲の垣根(玉垣)」のことだから、昔の漢字を知らない庶民はともかく、神社の宮司や修験道の人なんかは知っていたはずだから、深田の言う第一説「三繋ぎ」からの変化よりも、第二説「金峰の玉塁(たまがき)の麓を瑞塁(みずがき)と呼んだ」(これは「甲斐国志」に出ているらしい)の方が当たっているのではなかろうか。
因みに、ここに深田が書いている、「上越の七ツ小屋山」が「シシ小屋」からの変化ではないかという一節がずっと記憶に残っていて、2年前に大源太山と共に七ツ小屋山を縦走したときにこの一節が頭によぎった。湿地があり、草も花も豊富だったが、イノシシには出会わなかった。
深田は増冨ラジウム鉱泉までバスに乗り、そこから歩いてまず「牧歌的な高原金山」で瑞牆山を眺め、小暮理太郎胸像の碑前祭に参列しているが、胸像の作者佐藤久一朗氏は日本山岳会メンバーであり、キャラバン・シューズの創始者として知られている人で、「芸術や工作の教育を受けたことはなく、趣味としてやっていただけ」ということだが、上高地のウェストン・レリーフも彼の作品ということだから、趣味の域を越えている。因みに、キャラバンシューズは一時生産中止したが、生産再開したとのこと。また買ってみよう。
さて、深田は信州峠を越えるときにこの山を見て「奇岩乱立の瑞牆山の印象が深く残っていた」「おそらくその途中から・・・・釜瀬川上流の黒森部落からの眺めが瑞牆山の最も立派で美しい姿であろう」と書いている。私は信州峠から横尾山に登った時に瑞牆山を見ていて、(逆光だったこと、すぐ背後の金峰山と小川山の稜線の陰になっていていまいち目立っていないが、)ギザギザのその山容はなかなかの迫力。
私が登ったのは深田と同じコースで、金山の瑞牆山荘に車を停めてそこから登った(案内図に「小暮理太郎胸像」とあるのに気づかず、胸像を見ていないのは残念)。深田の書いている「針葉樹の大森林からニョキニョキと岩が生えている」というのを実感し、「清流の谷川」を渡り、「さまざまの形をして突っ立っている見事な岩峰」を見ながら登った。その日は大勢が登っていて、おばさんたちのパーティに道を譲ってもらい、たどり着いた「滑らかな大きい岩」の頂上には大勢の人たちがいて、八ヶ岳や南アルプス、富士山に奥秩父の山々が勢揃いしていて壮観だった。深田は「トカゲをきめこみ・・・・小一時間は楽しかった」と記しているが、私にとっても素晴らしい日だった。
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この章の深田は「山の名」について自説を展開する。「瑞牆」というのは「神社の周囲の垣根(玉垣)」のことだから、昔の漢字を知らない庶民はともかく、神社の宮司や修験道の人なんかは知っていたはずだから、深田の言う第一説「三繋ぎ」からの変化よりも、第二説「金峰の玉塁(たまがき)の麓を瑞塁(みずがき)と呼んだ」(これは「甲斐国志」に出ているらしい)の方が当たっているのではなかろうか。
因みに、ここに深田が書いている、「上越の七ツ小屋山」が「シシ小屋」からの変化ではないかという一節がずっと記憶に残っていて、2年前に大源太山と共に七ツ小屋山を縦走したときにこの一節が頭によぎった。湿地があり、草も花も豊富だったが、イノシシには出会わなかった。
深田は増冨ラジウム鉱泉までバスに乗り、そこから歩いてまず「牧歌的な高原金山」で瑞牆山を眺め、小暮理太郎胸像の碑前祭に参列しているが、胸像の作者佐藤久一朗氏は日本山岳会メンバーであり、キャラバン・シューズの創始者として知られている人で、「芸術や工作の教育を受けたことはなく、趣味としてやっていただけ」ということだが、上高地のウェストン・レリーフも彼の作品ということだから、趣味の域を越えている。因みに、キャラバンシューズは一時生産中止したが、生産再開したとのこと。また買ってみよう。
さて、深田は信州峠を越えるときにこの山を見て「奇岩乱立の瑞牆山の印象が深く残っていた」「おそらくその途中から・・・・釜瀬川上流の黒森部落からの眺めが瑞牆山の最も立派で美しい姿であろう」と書いている。私は信州峠から横尾山に登った時に瑞牆山を見ていて、(逆光だったこと、すぐ背後の金峰山と小川山の稜線の陰になっていていまいち目立っていないが、)ギザギザのその山容はなかなかの迫力。
私が登ったのは深田と同じコースで、金山の瑞牆山荘に車を停めてそこから登った(案内図に「小暮理太郎胸像」とあるのに気づかず、胸像を見ていないのは残念)。深田の書いている「針葉樹の大森林からニョキニョキと岩が生えている」というのを実感し、「清流の谷川」を渡り、「さまざまの形をして突っ立っている見事な岩峰」を見ながら登った。その日は大勢が登っていて、おばさんたちのパーティに道を譲ってもらい、たどり着いた「滑らかな大きい岩」の頂上には大勢の人たちがいて、八ヶ岳や南アルプス、富士山に奥秩父の山々が勢揃いしていて壮観だった。深田は「トカゲをきめこみ・・・・小一時間は楽しかった」と記しているが、私にとっても素晴らしい日だった。
p294 「瑞牆」とは神社の周囲の垣根(玉垣)のこと
p297 佐藤久一朗(Sato Kyuichiro):1901~1984年。山形県出身の登山家・実業家。慶應義塾大学山岳部で登山を始め、1922年に槇有恒らとともに槍ヶ岳の冬期初登頂に成功。マナスル登山隊に提供したシューズの製作をもとに、1954年に山晴社(現キャラバン社)を設立。キャラバンシューズを国民的登山靴と呼ばれるほどのヒット商品に育て上げた。 芸術や工作の教育を受けたことはなく、趣味としてやっていただけというが、工作技術もアートセンスも相当に高かったことがうかがえる。上高地にあるウエストンレリーフは佐藤が作ったものであるといえば、そのことがわかってもらえると思う。