この章では人の名前がたくさん、それに山や峠や高原の名前がたくさん出てくる。加藤数功さんというのは筑紫山岳会を結成した九州の登山家で、九重のみならず祖母・大崩あたりもホームグラウンドに入る地元の名士。
一方、井上通泰氏は前章の石鎚山に出てきた姫路生まれの歌人、国文学者で万葉集のみならず歌道の達人らしい。
深田が掲載した和歌は詠み人知らずの恋人を忍ぶ歌で、この朽網山が九重山だとは言い切れないのだろうが、想像を掻き立て、はるかな時と夕暮れの山と雲が目に浮かぶ歌である。
さて、次は山の名前。深田が九重の山をたくさん挙げているので、私は九重に登った時、ガイドに載っている主な山の全部に登ろうとし、、三俣山(三つの頂上に全て登った)、星生山、久住山、稲星山、中岳(東峰のみ)までで時間切れとなり、坊ヶツルを越えて下山した。後日、登り残した大船山と平治岳に登ったが、黒岳に登れなかった。
ところが、深田はガイドにすら出ていない山を二つ(天狗ヶ城、白口岳)も挙げていて、天狗ヶ城というのは双耳峰の中岳の西峰、白口岳は中岳と大船山の間にある山らしい。どちらも地理院地図には出ていないが、ネットを見ると地元の人はあたりまえのように大勢が登っているようだ。
「山群の総称を九重、その最高峰を久住」というのは誤りで、九重の最高峰は中岳1,791m、久住山は1,787mで二位である。だが、「何と言っても品のあるのは久住山である。殊に北側の千里浜と呼ばれる原から眺めた形は精鋭で颯爽としていて、さすが九重一族の長たるに恥じない」というのはそのとおりで、私も北千里浜からその精鋭で颯爽とした形を見て感動した。
「中腹に煙を上げている中岳」というのはたぶん唯一噴煙を上げている硫黄岳のことだろうが、複雑多岐な九重の地形を数回登った程度では把握し切れないだろうとは思う。
深田は「同じような鐘状火山なので、うっかりするとどれがどれだか分からなくなってしまう」と書いたとおり、自分でも間違えたのだろう。
一方、深田は「もちろん各峰はそれぞれの個性は具えている」と矛盾したことを言っているが、遠くから見ると同じように見えるが、登ってみると実は・・・・というサプライズのようところが九重には確かにある。大船山の巨大噴火口はそこまで登ってみて初めて分かるもので、それを見たときは驚いた。
私は登り残した黒岳に加え、天狗ヶ城と白口山にも登らなくてはと思い始めたが、深田は更に「私の知っているのは牧ノ戸越、鉾立峠、鍋割峠の三つ」「私の泊ったのは牧ノ戸(旧中野温泉)と法華院と筋湯だけ・・・」「何よりも私が打たれたのはあちこちに拡がる原であった・・・・東西北の千里浜・・・坊ヶツル・・・・ひっそりと山に包まれた佐渡窪・・・」と畳みかける。温泉はともかく、山と峠と原にはなんとか登らねば、と考えてしまう。
KKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKK
この章では人の名前がたくさん、それに山や峠や高原の名前がたくさん出てくる。加藤数功さんというのは筑紫山岳会を結成した九州の登山家で、九重のみならず祖母・大崩あたりもホームグラウンドに入る地元の名士。一方、井上通泰氏は前章の石鎚山に出てきた姫路生まれの歌人、国文学者で万葉集のみならず歌道の達人らしい。深田が掲載した和歌は詠み人知らずの恋人を忍ぶ歌で、この朽網山が九重山だとは言い切れないのだろうが、想像を掻き立て、はるかな時と夕暮れの山と雲が目に浮かぶ歌である。
さて、次は山の名前。深田が九重の山をたくさん挙げているので、私は九重に登った時、ガイドに載っている主な山の全部に登ろうとし、、三俣山(三つの頂上に全て登った)、星生山、久住山、稲星山、中岳(東峰のみ)までで時間切れとなり、坊ヶツルを越えて下山した。後日、登り残した大船山と平治岳に登ったが、黒岳に登れなかった。
ところが、深田はガイドにすら出ていない山を二つ(天狗ヶ城、白口岳)も挙げていて、天狗ヶ城というのは双耳峰の中岳の西峰、白口岳は中岳と大船山の間にある山らしい。どちらも地理院地図には出ていないが、ネットを見ると地元の人はあたりまえのように大勢が登っているようだ。
「山群の総称を九重、その最高峰を久住」というのは誤りで、九重の最高峰は中岳1,791m、久住山は1,787mで二位である。だが、「何と言っても品のあるのは久住山である。殊に北側の千里浜と呼ばれる原から眺めた形は精鋭で颯爽としていて、さすが九重一族の長たるに恥じない」というのはそのとおりで、私も北千里浜からその精鋭で颯爽とした形を見て感動した。
「中腹に煙を上げている中岳」というのはたぶん唯一噴煙を上げている硫黄岳のことだろうが、複雑多岐な九重の地形を数回登った程度では把握し切れないだろうとは思う。深田は「同じような鐘状火山なので、うっかりするとどれがどれだか分からなくなってしまう」と書いたとおり、自分でも間違えたのだろう。
一方、深田は「もちろん各峰はそれぞれの個性は具えている」と矛盾したことを言っているが、遠くから見ると同じように見えるが、登ってみると実は・・・・というサプライズのようところが九重には確かにある。大船山の巨大噴火口はそこまで登ってみて初めて分かるもので、それを見たときは驚いた。
私は登り残した黒岳に加え、天狗ヶ城と白口山にも登らなくてはと思い始めたが、深田は更に「私の知っているのは牧ノ戸越、鉾立峠、鍋割峠の三つ」「私の泊ったのは牧ノ戸(旧中野温泉)と法華院と筋湯だけ・・・」「何よりも私が打たれたのはあちこちに拡がる原であった・・・・東西北の千里浜・・・坊ヶツル・・・・ひっそりと山に包まれた佐渡窪・・・」と畳みかける。温泉はともかく、山と峠と原にはなんとか登らねば、と考えてしまう。
最後に深田が書いているのは「野焼き」で、これは確かNHK「にっぽん百名山」で見たような覚えがある。私の記憶の九重はともかく広く、どこにでも行こうと思えば行ける巨大な里山というイメージ。ミヤマキリシマがいたることろに咲いていた。
p398 加藤数功: 九州の登山家、山岳研究家。1902年-1969年、北九州生まれ。慶応義塾大学卒業、帰郷して1928年筑紫山岳会を結成。大分県嘱託、同県文化財専門員などを務めた。著書『九州の山 最も新しい資料によるガイドブック』4訂版.立石敏雄共著 しんつくし山岳会 1961『九重山群』私家版、1961.『祖母・大崩山群』立石敏雄共編 しんつくし山岳会 1961『九重山 : 加藤数功遺稿集』工房峠の会編 加藤英彦 1985
p398 九重山法華院白水寺:開湯は約500年前である。1470年(文明2年)、英彦山より養順法印が入山して九重山法華院白水寺と呼ばれる修験道場を建立したことに始まる。多くの別院も持つ寺であったが、明治時代の廃仏毀釈や竹田岡藩による支援の停止などにより困窮、そして1882年(明治15年)の火事により建物の殆どが無くなった。この頃には登山客も多くなってきたので、それを機に山小屋をはじめ、現在に至る。
p398 久住山猪鹿狼寺:字建宮たてみやにある。天台宗。久住山と号し、本尊十一面観音。延暦二四年(八〇五)最澄の創建と伝え、大和山慈尊院と号し久住山の南西中腹にあった。文治二年(一一八六)源頼朝が富士の巻狩に先立って、梶原景高らを阿蘇大宮司のもとへ遣わし狩の作法を学ばせた。その折、殺生禁断の久住山を演習地としたため、これを悔い慈尊院で畜類供養を行わせ、久住山猪鹿狼寺と改称させたという。久住嶽くじゆうだけ大明神・平摩へいま大明神の社僧を兼ね、最盛期には一六坊(一説に五坊)を数えたが、豊薩合戦の兵火にあい本堂を残すのみとなり衰微した。