今でこそ日本百名山の一つとして万民が訪れるこの山は、深田の頃まではまるで注目されていなかったらしい。深田の最初の2ページの記述は、その大台ヶ原山を命名した植物学者・白井光太郎(みつたろう)と、この山を開いた松浦武四郎についてである。
明治28年(1895年)に大台ヶ原に登った白井氏が発見したのも松浦武四郎の碑石や小屋だったとあり、大台ヶ原山を世に開いたのは松浦武四郎ということのようだ。それにしても、蝦夷開拓で有名なこの人が、晩年とはいえ、大台ヶ原をも手掛けていたとは驚き。写真を見るとすごく穏やかな人に見えるが、とにかく勇猛果敢、松浦武四郎が私財を投げうって建てた石標(碑石)は13本確認されていることがネット情報(吉野・大峰フィールドノート)に記されており、そのうち3つを私は見たことがある(「名古屋岳」、「如月月」=現在の三津河落山最高点、「大和岳」)のだが、そのときは松浦武四郎に関係するものだとはまるで知らなかった(因みに、「三津河落山」と「日本鼻」の石標があるあたりも歩いているのだが、気づかなかった。なんたる不覚だろう)。
深田の残り2ページの記述は大台ヶ原を訪れたときのもので、「吉野川に沿って大台ヶ原山の登山口の近くまでバスが通っていた・・・・数年後、再び・・・訪れたときには、山上まで有料自動車道路が通じていた」とあるのは現在の大台ヶ原ドライブウェイ(無料)のことだろうが、深田の頃にはもうここまで道が通じていたのは、勿論、松浦武四郎と彼を引き継いだ人たちの努力の賜物に違いない。深田の日本百名山には当然選定されるべき資格を当時はもう備えていたのだろう。
よって深田は山上の山の家の一つに二晩泊まって大台ヶ原を探勝することができた。牛石ヶ原というのは大蛇嵓の手前あるらしいが、私はまだ行ったことがない。そして深田は2回目に登ったとき、大杉谷を下っているが、私はここにも行ったことが無い。大きな宿題を残してしまったような気がする。
それでも私はこれまでに、ヌタハラ谷の夫婦滝、桧塚奥峰、迷岳、池木屋山、三津河落山など、大台ヶ原連峰の巨大な滝や牧歌的な風景、様々な景観という魅力いっぱいの山旅を体験した。
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今でこそ日本百名山の一つとして万民が訪れるこの山は、深田の頃まではまるで注目されていなかったらしい。深田の最初の2ページの記述は、その大台ヶ原山を命名した植物学者・白井光太郎(みつたろう)と、この山を開いた松浦武四郎についてである。
明治28年(1895年)に大台ヶ原に登った白井氏が発見したのも松浦武四郎の碑石や小屋だったとあり、大台ヶ原山を世に開いたのは松浦武四郎ということのようだ。それにしても、蝦夷開拓で有名なこの人が、晩年とはいえ、大台ヶ原をも手掛けていたとは驚き。写真を見るとすごく穏やかな人に見えるが、とにかく勇猛果敢、松浦武四郎が私財を投げうって建てた石標(碑石)は13本確認されていることがネット情報(吉野・大峰フィールドノート)に記されており、そのうち3つを私は見たことがある(「名古屋岳」、「如月月」=現在の三津河落山最高点、「大和岳」)のだが、そのときは松浦武四郎に関係するものだとはまるで知らなかった(因みに、「三津河落山」と「日本鼻」の石標があるあたりも歩いているのだが、気づかなかった。なんたる不覚だろう)。
深田の残り2ページの記述は大台ヶ原を訪れたときのもので、「吉野川に沿って大台ヶ原山の登山口の近くまでバスが通っていた・・・・数年後、再び・・・訪れたときには、山上まで有料自動車道路が通じていた」とあるのは現在の大台ヶ原ドライブウェイ(無料)のことだろうが、深田の頃にはもうここまで道が通じていたのは、勿論、松浦武四郎と彼を引き継いだ人たちの努力の賜物に違いない。深田の日本百名山には当然選定されるべき資格を当時はもう備えていたのだろう。
よって深田は山上の山の家の一つに二晩泊まって大台ヶ原を探勝することができた。牛石ヶ原というのは大蛇嵓の手前あるらしいが、私はまだ行ったことがない。そして深田は2回目に登ったとき、大杉谷を下っているが、私はここにも行ったことが無い。大きな宿題を残してしまったような気がする。
それでも私はこれまでに、ヌタハラ谷の夫婦滝、桧塚奥峰、迷岳、池木屋山、三津河落山など、大台ヶ原連峰の巨大な滝や牧歌的な風景、様々な景観という魅力いっぱいの山旅を体験した。
p378 白井光太郎(みつたろう):植物学者、本草学者。福井藩士の子として江戸に生まれる。東京帝国大学植物学科を卒業後、東京農林学校教授、東京帝国大学農科大学教授。明治三二年(一八九九)ドイツに留学。日本における植物病理学の開祖で、寄生菌類に明るく、また、本草学者として知られ、収集した本草学文献は白井文庫(国立国会図書館蔵)としてわが国最大のもの。主著に「植物病理学」「本草学論攷」「植物渡考」「日本園芸史」など。文久三~昭和七年(一八六三‐一九三二)
p378 松浦武四郎と大台ヶ原:武四郎は68歳から、三重県と奈良県の境にまたがり、北海道によく似た気候である大台ケ原に登ります。老いてなお、冒険心が衰えていなかった武四郎は、68歳、69歳、70歳と3度にわたる大台ヶ原登山をおこない、地元の人びとが利用しやすいように登山路の整備、山小屋の建設などにも努めました。 大台ヶ原を終焉の地と定めた武四郎でしたが、初めての登山で「優婆塞もひじりもいまだけ分いらぬ 深山の奥に我は来にけり」という和歌を詠んでいます。これは紀伊半島の霊場として、大峰山は役行者が、高野山は空海上人が開山していたことにちなんで、大台ヶ原はその二人でさえ足を踏み入れたことのない深い山であり、ここを開くのは私なんだ・・・そんな思いを抱いていたことを表しています。 3度目となる70歳の大台ヶ原登山では、地元の人びとなど約70名が参加して、山頂に近い牛石ヶ原で盛大に護摩法要がおこなわれました。
p378 松浦武四郎の碑石:明治19年4月、松浦武四郎は大阪府知事宛に『大台江小堂建設之義御聞置願書』を提出し、そこには、「小堂を2,3ヶ所建てて神仏を祀り人々が寝泊まりでき来るようにしたい。里毎に違う地名を調べ、それを石標に記して十余ヶ所に設置したい。これらはすべて自費をもって行い、実務は地元の人に頼む。」としている。 この後、武四郎が私財を投じて建てさせた石標は、東大台を中心に13本確認している。正面には「日出ヶ岳」等の地名、側面には「国境」と「井場亀市郎」など武四郎に随行した地元の人物名だろうか。そのうち、一般登山客が立ち入ることのでき確認できるのは日出ヶ岳、正木ヶ原、牛石ヶ原にある4本と西大台逆峠にある1本で、正木峠にあった石標(マサキ峠/奥村善松 )が、現在、行方不明である。また、併せて申請した小堂は、元木谷(元小屋谷)・高野谷(開拓場)・名古屋谷に建てられたようで、明治20年の3回目の登山の折には、建設された小屋と設置された石標を確認し、地元の人たち60名を牛石に集めてその披露及び護摩修行を行っている。「如何なる悪魔も跡をとどめまじと開路の志願も成就すること疑いなし」と、武四郎の喜びようは一入だったとうかがい知ることができる。ちなみに、明治28年に植生調査のために訪れた白井光太郎氏も、寄稿した雑誌で小堂の存在を証言している。