この章で深田が触れている大正15年の深田の朝日連峰縦走は、初期の短編集「我が山山」に「朝日連峰・大鳥池」のタイトルで載せられていて、深田の紀行文の中でもハイライトの一つだと思う。まだ湯治場だった朝日鉱泉の様子、4人で行ったが一人が病気になり2人で縦走したこと、以東岳から大鳥川を下るときの様子などが実に生々しく描写されていて、ドキドキしながら読んだ。もう一つ、どの短編集だったか忘れたが、大朝日岳から沢を下る紀行文も、雪渓の下をくぐろうとして止めたところなど、やけに記憶に残っている。
朝日連峰は深田が記している鳥原山、小朝日、大朝日、西朝日、寒河江山、以東岳の6山どころではなく、軽く40は峰があるだろう。それらのほとんどに登山道があるのは、深田の時代とは隔世の感そのものということだが、私は登山道の無い以東岳以北の化穴山、常願寺山などを除き、38のピークに登っている。思い出に残っているのは新潟の三面から登った道陸神峰と大上戸山で、そのとき歩き損ねた大上戸山から朝日連峰主稜線までの道をその13年後にようやく歩き、寒江山から大上戸山に達した時は感無量だった。このときは6月だったので、深田が「エーデルワイス」と記しているヒメウスユキソウを始め、いろんな花が咲き乱れていて荘厳だった。
今では山登りなら知らぬ者はいないだろう朝日連峰は深田の頃はまだ未知の山で、「朝日連峰が世に知られるようになったのは大正11年の夏」であり、深田が登ったのはその4年後だから、深田の指摘のとおり「一番原始的なおもかげを残している」ときの山旅だったに違いない。
それより以前、江戸時代に鶴岡藩から米沢藩に抜ける道があったことも今では登山ガイドにも載っているほど研究が進んでいて、両藩の領主となったが、他藩の領地を通らずに行き来できる道を開削した、というような話だったと思う。昨年は18年ぶりに以東岳に登ったが、これからも登り続けるだろう。
頭殿山頂上にて:正面にそびえる大朝日岳の迫力の姿にしばらく我を忘れる。鋭く尖った頂上は少し左に傾いていて、頂上の右にY字雪渓の渓谷、左手前に中ツル尾根を伸ばしており、真っ青な空と緑の山肌に紅葉がアクセントを添えている。輝け!大朝日。
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この章で深田が触れている大正15年の深田の朝日連峰縦走は、初期の短編集「我が山山」に「朝日連峰・大鳥池」のタイトルで載せられていて、深田の紀行文の中でもハイライトの一つだと思う。まだ湯治場だった朝日鉱泉の様子、4人で行ったが一人が病気になり2人で縦走したこと、以東岳から大鳥川を下るときの様子などが実に生々しく描写されていて、ドキドキしながら読んだ。もう一つ、どの短編集だったか忘れたが、大朝日岳から沢を下る紀行文も、雪渓の下をくぐろうとして止めたところなど、やけに記憶に残っている。
朝日連峰は深田が記している鳥原山、小朝日、大朝日、西朝日、寒河江山、以東岳の6山どころではなく、軽く40は峰があるだろう。それらのほとんどに登山道があるのは、深田の時代とは隔世の感そのものということだが、私は登山道の無い以東岳以北の化穴山、常願寺山などを除き、38のピークに登っている。思い出に残っているのは新潟の三面から登った道陸神峰と大上戸山で、そのとき歩き損ねた大上戸山から朝日連峰主稜線までの道をその13年後にようやく歩き、寒江山から大上戸山に達した時は感無量だった。このときは6月だったので、深田が「エーデルワイス」と記しているヒメウスユキソウを始め、いろんな花が咲き乱れていて荘厳だった。
今では山登りなら知らぬ者はいないだろう朝日連峰は深田の頃はまだ未知の山で、「朝日連峰が世に知られるようになったのは大正11年の夏」であり、深田が登ったのはその4年後だから、深田の指摘のとおり「一番原始的なおもかげを残している」ときの山旅だったに違いない。
それより以前、江戸時代に鶴岡藩から米沢藩に抜ける道があったことも今では登山ガイドにも載っているほど研究が進んでいて、両藩の領主となったが、他藩の領地を通らずに行き来できる道を開削した、というような話だったと思う。昨年は18年ぶりに以東岳に登ったが、これからも登り続けるだろう。
頭殿山頂上にて:正面にそびえる大朝日岳の迫力の姿にしばらく我を忘れる。鋭く尖った頂上は少し左に傾いていて、頂上の右にY字雪渓の渓谷、左手前に中ツル尾根を伸ばしており、真っ青な空と緑の山肌に紅葉がアクセントを添えている。輝け!大朝日。