1959年(2022年5月14日読了)
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ここには苦難と歓喜の山紀行の中編が五つ、そしてちょっとした山関連のショートショートが六編。
「湯沢の一年」は終戦後、深田が湯沢に1年あまり暮らしていたときの話である。湯沢と言えば私も暮らしてみたい場所の一つであり、とにかく盛りだくさんの山に囲まれている。深田はそこで「数えるほどしか登ることができなかった」と後悔しているが、なにしろ終戦後の混乱期、生きていくだけでも大変だったろうから、山登りばかりしていられるはずはない。最初の山は飯士山。私はこの山に岩ッ原スキー場のリフト最上部からシールで登ったことがあるが、深田はなんと南西側の沢筋を登り、西稜の岩尾根のヤブをかき分けて頂上まで登っている。なんたるワイルド。2月にまた雪が降り始め、山の中腹に立つガラス一枚しかない旅館の宿では寒さに耐えられなくなり、深田一家は湯沢市内の旧家の二階の二部屋を借りて引っ越す。そして深田は故郷の大聖寺に引っ越すことを決意。荷物は十数個、徹夜で切符を買い、湯沢駅には知り合いになった人たちが見送りに来た。この1年あまりの湯沢の生活は、深田にとって一つの忘れられぬエポックだったに違いない。
「剣岳」で、深田は久しぶりに剣岳に向かう。今なら立山駅からケーブルとバスで弥陀ヶ原、更に室堂まで数時間で着いてしまうが、深田は重いリュックを背負い、称名滝を見ながら急坂を弥陀ヶ原に登って一泊、翌日はわざと旧道を通って獅子ヶ鼻岩の脇を通り、天狗原から(どうやら室堂には行かず)地獄谷に下り、残雪の雷鳥沢を若者や老人に追い越されながら、へばりきって別山乗越まで登っている。まるで数年前の私そっくり。二日目の朝、深田は軽ザックで剣岳に向かう。15時に剱岳頂上に着くと、前日の70の爺さんが下るところだった。当時の剣は「3,003mの頂上」。30分ほど景色を見て下山するが、深田はなんと平蔵谷の雪渓を丸鋲の兵隊靴でグリセードで下っている。三日目は剱沢を下り、三ノ窓雪渓から池ノ平小屋。「この小屋からの眺めはおそらく北アルプスのどの小屋にも劣らないだろう。眼前に剱のチンネと八ツ峰の岩と雪の交錯したダイナミックな光景が迫ってくる」。このあたりは私には未経験の領域。四日目は雨にも降られ、楽ではなかったはずだが、実に楽しそうに旅している。これこそが深田流の登山だろう。楽しく読め、私も楽しく旅ができた。
「ふるさとの山」は深田が自身のふるさとの山、白山を語ったもの。深田が初めて白山に登ったのは中学生のときで、なんと勝山から谷峠を越え、白峰に泊まり、そこから今の市ノ瀬に出て、旧道を室堂に登った。帰りに採った尾添道というのは今の中宮(地名は尾添)への道らしい。深田はそこで金が尽き、なんと小松駅まで歩いている。終戦後、市ノ瀬までバスが通じるようになり、日本山岳会が毎年白山登山を県体育大会の一環として行うようになり、深田もそれに参加し、翠ヶ池の縁にテントを張って二晩泊まり、四塚山まで遊びに行き、登山道のない剣ヶ峰に一人で登っている。このへんは私と同じだな。翌年、深田は長男を連れて白山登山に参加したが、二日目から雨となり、高校山岳部の生徒四人と岩間温泉に下った後に物凄い豪雨で土石流らしき山崩れに会い、生きた心地がしない状態でなんとか下山している。もちろん深田はこんなことにもめげず白山に登り続け、1953年四月には尾添から登ったパーティの2,3日あとに再び長男と共にスキーを担いで登っている。
「山の服装」は大正から昭和初期にかけての日本の登山スタイルのことだろうが、確かにいまではスポーツ店かアウトドア店、もしくは激安衣料店で揃える訳だが、昔はそうはいかなかった。皆がそれぞれ工夫をこらした服装で登山をしていたのに、逆に昭和に入って「運動具店」ができたので便利になったが工夫がなくなったと嘆く深田。その深田はなんと古背広にソフト帽子で登山していたというから驚きである。
YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY
ここには編者池内紀(おさむ)の深田久弥の想い出が書かれている。深田が清新甘美のマイナーな作家から山のエッセイストに転進したことについては、深田が小林のように悪人を書けなかったことから、「マイナーな作家」と評しているようだ。悪人が書けなければ小説に深みがなくなるのだろう。一方、山については深田は博識であり、蔵書は群を抜いており、マイナーどころか、おそらく山の知識については日本一であった。ところが、この日本一の山の大家は、特別の登山服を着ることもなく、穴の開いた帽子をかぶり、日本中の山に登り、それらの山を個性豊かに描写してみせた。「日本百名山」が世に認められる一方、人々が百名山に押し掛けるようになったことについては、「あまり騒がれて荒らされない方が黒部五郎岳にとって幸福かもしれない」という深田の言葉で締めくくっている。まあ、日本アルプスに押しかけてくる登山者を見ればその通りだが、これらの人々もみな、深田が気づかせてくれた方法で、山を楽しんでいるのだ。
「見晴台に出ると見渡す限りの山の名を教えてくれる。遠い所の雲だか何だか知れないものまで頑固執拗に名指ししていく。山に行けない時は地図で間に合わせるそうで、等高線をたどって、色鉛筆でいろんな色をつける。たまると経師屋に頼んで「上越国境」といった軸物をこしらえるらしい」
「小説家深田久弥は批評家小林秀雄がドフトエフスキイを通じて追及したような「悪」が書けなかった。悪の無い20世紀の作家は、・・・・『清新甘美』な作風にならざるを得ないのだ」
「書庫にはヒマラヤ、チベット、中央アジア関係の基本文献はほとんど収蔵され、登山と探検に関しては東京の国立国会図書館支部・東洋文庫をしのぎ、個人のライブラリイとして、日本のみならずそれは世界的なものと思われた」
「『山さまざま』は転身の際に生まれたエッセイ集の一冊で、復員してきて越後湯沢に仮の住居を定めた後、戦後の混乱がようやく一応の落ち着きをみせるまでのほぼ十年の間に書かれた。『熱い芋粥をすすって、早朝宿を出る。』ちょっとしたくだりに、日常の食べ物にも事欠いていた時代相がうかがえる。」
「僕はいまだ嘗って(かって)特別の登山服なんて作ったことがない。いつでも着古した背広で間に合わせている。ただ、ポケットに蓋をつけるとか、お尻や膝のところを補強するとかするだけで、それでちっとも不便を感じたことがない。帽子もてっぺんに穴のあいた古ソフトだ・・・・・・まあ、降られたら濡れるものとあきらめるんだな」
p5 経師屋:経師屋【きょうじや】表装をする職人。経師は元来経巻の書写や表装を業とするものをいったが,平安末期からの個人による写経の流行や鎌倉期以降の版経の盛行につれ表装のみの専業となった。江戸期には市井の職人としての経師屋が生まれ,掛軸の表装や和本の装丁,ふすま・障子の張替などを行った。コトバンク
p7 玉蜀黍:とうもろこし
これは終戦後、深田が湯沢に1年あまり暮らしていたときの話である。湯沢と言えば私も暮らしてみたい場所の一つ(札幌、青森、湯沢、松本)であり、とにかく盛りだくさんの山に囲まれている。深田はそこで「数えるほどしか登ることができなかった」と後悔しているが、なにしろ終戦後の混乱期、生きていくだけでも大変だったろうから、山登りばかりしていられるはずはない。最初の山は飯士山。私はこの山に岩ッ原スキー場のリフト最上部からシールで登ったことがあるが、深田はなんと南西側の沢筋を登り、西稜の岩尾根のヤブをかき分けて頂上まで登っている。なんたるワイルド。帰りはさすがに夏道沿いにスキー場側に下っている。二つ目は蓬峠。土合から湯檜曽川沿いに北上してマチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢、芝倉沢を覗きながら歩き、武能沢の左岸尾根を登って蓬峠。私は昨年、大源太山から七ツ小屋山、シシゴヤの頭を周回したとき、蓬峠まで500mのところを通過していた。霧で蓬峠方面は見えていなかったこともあるが、ついでに行っておけば良かったか。ここで深田はその「七ツ小屋」と「シシゴヤ」の語源が同じなのではないかという持論を展開する。こういうのを考えてみるのも面白い。三つ目は家族と三人で湯沢に近い大峯。私はこの山の尾根続きに北に2㎞強のところにある高津倉山に、ガーラ湯沢スキー場から登ったことがある。当時はガーラ湯沢スキー場はもちろん無く、深田は五つの森太郎をおぶったりして西国三十三番の地蔵の並ぶ道を登り、坂東三十三番の地蔵が並ぶ道を下っているが、そこから更に秋葉山に向かって秩父三十三番の地蔵が並んでいるという。青森の谷地山にも地蔵が並んでいたが、こういうのは全国にあるようだ。ここで深田は子供に山に因んだ名前を付ける自分を「親馬鹿」と言っているが、森太郎君は実に楽しそうに登っている。この後、家族連れで谷川岳に出かけたとあるが、これは詳細はなし。そして次は雪とスキー。深田が育った石川県大聖寺は海に近く、それほど雪は降らなかったらしいが、さすがに湯沢は違い、12月に入っていざ降り始めると瞬く間に積もってしまい、買い物に行くにも深田はスキーを使っている。そう、雪が積もって深田がやり始めたのはスキー。今度は森太郎をおぶってスキーをし、子供用のスキーを借りたり買ったりで親子でスキー。ここで深田は、冬を迎えるにあたって湯沢の人たちが食べ物や燃料などを蓄え、家の周りの備えをしたりするのを事細かく記述しているが、今なら車があり、車道は除雪され、人々はショッピングセンターに行き、暖房は灯油やガスや電気だろうから、もうずいぶん時代が変わってしまった感がある。スキーではエミール・アレーのスキー・フランセという技術が日本にも輸入され、「靴の踵を革紐でスキーに固着・・・・・実にシャープに回転する」というからなんとも隔世の感がある。ハードシェル・ブーツにカービング・スキー、山スキーにはテック・ビンディングという現代のスキーを見たら深田は何というだろう。まあ、さっそく使ってみるだろうな。四つ目の山は、1月初めに神楽ヶ峰の手前までスキーで登る。もちろん車道など無いから、今の三国街道をスキーで登り、三俣の手前の大島というところから今の三俣スキー場に登り(今はロープウェイがある)、「慈恵の小屋のすぐ手前まで登って、そこから引き返した」というのは今の神楽スキー場のあたりだろうか。この山旅は面白かったらしく、最初の山に一緒に登った義弟のS君がやってきたとき、1月末にもう一度同じコースを登り、今度は神楽ヶ峰まで登っている。私は三国街道からロープウェイ、リフト、ゴンドラを乗り継ぎ、リフト・トップから神楽ヶ峰、更に苗場山まで登った。麓駅からリフト・トップまでは7.5㎞、そこから神楽ヶ峰まではわずか1㎞だが、深田はこれに加えて湯沢から麓駅までの7.5㎞も歩いているから、合計15㎞強も歩いていることになる。なんともタフな人だ。「このスキー行はおもしろかった。終戦後まだ世の中が不自由で汽車の切符を手に入れることさえ困難の時であったが、山村に住んでいるおかげで私はいちはやく雪山を楽しむことができたのであった」
「湯沢に移った当時は貪食漢が御馳走を前にして舌なめずりするような欲望を感じたものだが、実際は1年半余りの滞在間に数えるほどしか登ることができなかった。・・・・飯士山に登ってみることにした・・・・岩ッ原スキー場を一番上まで詰めていったところに尖っている山である」
「ゆくゆくはヒマラヤにでもやる夢想をいだいて・・・森太郎とつけた・・・次男が生まれたとき、・・・・沢二というのにした。万一この後また生まれたら、男の子なら原三、女の子ならみね子、あるいは高野とつけるつもりである。何たる親馬鹿!」
「窓際の机に座って降り積む雪を物珍し気に眺めていたが、夕方近くなって地面の凹凸を白一面に埋め尽くすと、僕は堪らなくなって、戦時中にここに疎開していた義弟のスキーが村の農家に預けてあることを聞いていたから、それを取りに行った・・・・・僅か30m足らずの滑降面であったが、三冬ぶりに足に付けたスキーが懐かしくて堪らず、汗びっしょりになって一と時滑っていた・・・・・ふと宿の物置に子供用のスキーがあるのを見つけたのでそれを借りて子供の藁靴の上に穿かせてやると喜ぶこと限りない。おかげでそれきりオンブ・スキーは免除になった」
「苦しいのは当たり前だが、それに耐えて我々の仕事にベストを尽くすのが日本再建の道である、などと覚悟は頗る殊勝なのだが、僕の職業である原稿用紙は1月中には遂に1枚も埋まらなかった。何しろ勉強の机を据えた窓際のガラス一枚距てた外は直ぐスキー場である・・・これも妻の言い分だが、酒の大好きな人が酒蔵を前にしているようなものである」
p17 礎:いしずえ、p27 凩:こがらし、p28 薪:たきぎ、まき
p33 布場スキー場:湯沢高原スキー場の「布場ゲレンデ」が2019年3月末で閉鎖される方針が固まりました。湯沢町の町議議会全員協議会で明らかになったものです。隣接する布場ファミリーゲレンデと高原ゲレンデは、営業を続けます。 tabirisu.com
p34 エミール・アレーのスキー・フランセ:◇ゼーロスからエミール・アレー(Emile Allais)へ技法の継承 ゼーロスは、あらゆる競技会に勝利を積上げていった。若者エミール・アレー(フランス)は、ほぼ2シーズンでゼーロスのパラレル・シュブング技法を習得。アルペン競技に参入し、大活躍。1937年、地元シャモニーでの世界選手権大会では、滑降と回転の2種目に圧勝。コンビネーションにも金メダル。世界一のアルペンレーサーとなっている。それまで、フランス人は誰も勝ったことのないアルペン競技でのエミールの活躍で、フランス中が沸き返った。◇オーストリーのシュテム技法と、フランスのパラレル技法 アールベルグスキー術のシュテムに対し、フランスがパラレルを武器に大論争を挑んでいった。1938 昭和13年 エミール・アレーが「スキー・フランセ」(フランス・スキー術)を発表および出版する。ローテーション技術が、世界を風びする。(1941 昭和16年2月に邦訳出版) skis-hijikata
1月は晴れの日が多かったが、2月にまた雪が降り始め、山の中腹に立つガラス一枚しかない旅館の宿では寒さに耐えられなくなり、深田一家は湯沢市内の旧家の二階の二部屋を借りて引っ越す。荷物は橇で5,6回の量だから引っ越しは簡単だった。それからも午前は勉強(原稿を書いて出版社に送っていたのか?)、午後はスキーの生活が続き、森太郎君を連れてスキーをしていると、猪谷六合雄、千春親子に会い、3月には子供と山を歩いていてショウジョウバカマを見る。4月になり、雪質が悪くなってもう地元の人たちはやらないのに、深田親子は相変わらずスキーを続け、14日には親子三人で秋葉山に登り、16日には深田一人で大峰から高津倉山まで登って苗場山を見ている。私がガーラ湯沢から高津倉山に登ったのは2015年1月10日、霧で視界はほとんどなく、頂上は雪で丸くなっており、広場という感じではなかった。4月に少しづつ春になっていく様子を深田は「雪国ではひょっこりひょっこり春が起き上がってくる」と書いている。これは山の中で、木々や草の芽が緑を輝かせる様子を言っているのだろう。そして夏になり、朝日新聞から小説連載を依頼されたとあるが、これは1950年のことで、「日本百名山」連載の始まる9年前。そして深田は故郷の大聖寺に引っ越すことを決意。荷物は十数個、徹夜で切符を買い、湯沢駅には知り合いになった人たちが見送りに来た。この1年あまりの湯沢の生活は、深田にとって一つの忘れられぬエポックだったに違いない。山にはあまり登れなかったが(越後三山、巻機山、苗場山(深田は神楽ヶ峰までしか行ってない)、平ヶ岳の百名山が間近だったのに登っていない。谷川岳も谷を覗いただけ。)、スキーは思う存分やっている。一方、復員後の仕事の方は「勉強」と称して原稿を書いて出版社に送っていたようだが、相当な貧乏暮らしで、朝日新聞からの小説連載依頼が恐らく深田の人生の転機になったのだろう。
「寒さに屈服して2月怱々、前から交渉してあった村なかの宿へ移ることにした。移転は簡単だった。丁度東京から義弟がスキーをやりに来たので、二人して橇で5,6回荷物を運べば万事終了であった。それだけが、当時の僕たちの全財産だったのだ。・・・・・さてここでまた私の勉強とスキーの生活が続くわけだが、相変わらず前者の方は一向はかどらず、とかく後者の方へ僕の心は引きずられがちであった」
「果たして・・・なつかしい猪谷六合雄(くにお)の顔であった。さっきから馬鹿にうまい少年が滑っていると思ったら、それが千春君であった。・・・・・僕の子供の滑るのを見て、うまい、と褒めて下さった。・・・・猪谷さんは見え透いたお世辞など言われる人ではないから、森太郎よお前は六歳にして我が国のスキーの大先輩から褒められたことを銘記するがいい」
「そこに僕は青く萌え出ているものを見た。車軸状に地に広がった葉の中央にまだ茎は伸びず別の小さな葉に包まれて紅紫色の蕾がのぞき出ている。ショウジョウバカマだった。逸早く雪の消え間に今年初めて見る花! それを見つけたときの嬉しさ・・・・・・東京ではいつの間にかずるずると冬から春になってしまうが、雪国ではひょっこりひょっこり春が起き上がってくるのだ」
「(四月)十六日。快晴・・・・大峰から高津倉山へ・・・・急がずゆっくり登る・・・・平坦地を行き尽くしてわりと急な雪庇の出ている尾根を登りつめると(大峰の)頂上であった・・・・・高津倉山の登りにかかるが、これは少し離れると壁のように見えるほど急峻であった。・・・・・もし雪崩れたらどうしようかとビクビクしながら、やっと上に達してホッとした。頂上は大きなブナと白樺のところどころに立っている広場で、大峰からは見えない苗場山をここから望むことができた」
「初めて和服の下駄ばきで表を歩いてみる。何だか嘘のような気持である。どこを歩いても雪解けの水がすばしっこく豊かに流れている。早春の一風景。」
「夏のある暑い日、もと朝日新聞にいた新延修三君がわざわざ僕の宿まで出向いて来られて、新聞の連載小説を依頼されたときはうれしかった。僕たちは残り少ない着物を売ったりしてその日暮らしをしていたからである。9月になって、僕は1年余り暮らしたこの山村を離れて、郷里の石川県の小さな城下町に引っ越すことに決めた。引っ越しの荷は全部で十数個しかなかった。それが当時の僕たちの全財産であった。湯沢を発つ朝、この疎開生活で知り合いになった人々がプラットホームへ見送りに来てくださった。まだ徹夜で行列して切符を買わねばならぬ頃であった」
p47 偏:ヘン、かたよる:偏に(ひとえに)とは。意味や解説、類語。[副]《名詞「一重 (ひとえ) 」+格助詞「に」から》1 ただそのことだけをするさま。いちずに。ひたすら。 goo辞書
p55 白雪皚々:ガイ、しろい:皚皚(がいがい)とは。意味や解説、類語。[ト・タル][文][形動タリ]雪や霜で辺り一面が真っ白く見えるさま。 goo辞書
p55 久濶を叙しつつ:カツ、カチ、ひろい:久闊を叙する(きゅうかつをじょする)とは。意味や解説、類語。無沙汰をわびるあいさつをする。久し振りに友情を温める。
p55 落葉松:カラマツ
p57 旁々:ボウ、ホウ、かたわら、かたがた:「かたがた」の漢字には、「旁々(旁)」と「方々」がありました。「○○を兼ねて・○○がてら・○○のついでに」の意味を持つ「旁々」は、「旁」や「旁旁」と表記されることもあります。
p58 高橋正夫君:p35に出てくる湯沢のスキー界の総帥
p60 キクザキ一輪草=キクザキイチゲ
ここで語られているのは明治以降の山の本。深田が一番大切にしているのは「山岳」の第一号からの揃い約110冊。これは、湯沢から大聖寺に移転した頃の、橇で5,6回、荷物10数個という当時の全財産に含まれていたのだろうか。冒頭で深田は、山の本は他の趣味とは違い実践が伴わなくても書物だけでも十分に楽しめる、と言っているが、結局、読んだ本を参考にして実践に役立てていて、そういう本の方を優先して購入していたようだ。東京に出たころは「わずかに古本屋の店先に現われる「山岳」の端本を買っては一頁残さず耽読した」という深田はその後、山の本だけは揃えたようだが、最後に、「昭和になると山岳書の氾濫となり、僕の如きものすら、夢にも考えなかった山の本を出すような次第になった」と結ぶ。これは1949年の文だから、「日本百名山」を「山と高原」に連載開始した10年前のこと、まだ湯沢で「勉強」しながら出版社に原稿を書いていたものの一つだろう。
「日本山岳会の機関紙「山岳」・・・・慶応の「登高行」、早稲田の「リュックサック」、一ツ橋の「針葉樹」・・・・「北大山岳部々報」、岐阜高農の「雷鳥」、四高の「ベルグハイル」・・・・・志賀重昂(しげたか)の「日本風景論」、ウェストンの「日本アルプス登山と探検」、小島烏水の「日本アルプス」・・・・・高頭式(はく)の「日本山嶽志」(山岳辞典風)、一戸直蔵・河東碧梧桐・長谷川如是閑の「日本アルプス縦断記」(深田が初めて買った山の本)、田部重治の「日本アルプスと秩父巡礼」(後に「山と渓谷」)、槇有恒の「山行」、辻村伊助「スウィス日記」、河田槇「一日二日山の旅」(山岳案内書の鼻祖)
p67 萠していた:ホウ、ボウ、きざす、もえる
深田は久しぶりに剣岳に向かう。冒頭の文章、穂高岳との比較や陸地測量官柴崎芳太郎の剣岳登頂の話は日本百名山のものとほぼ同じ。剣を俊英と呼ばずに重鎮としていること、柴崎芳太郎は剣に登頂していないのではと疑問を呈しているところが違っている。前置きが長くなったが、深田は滑川の友人宅に泊まり、翌朝電車に乗る。昔は常願寺川沿いにある岩峅寺、芦峅寺が休憩場所だったらしいが、電車はそれらを通り過ぎ、終点の粟巣野まで行く。電車から降りて常願寺川を渡っているから、このときの駅は今の立山駅の少し手前にあったようだ。渡った先がたぶん今の立山駅付近で、そこから深田は称名川を渡ってその右岸を歩き、称名滝の手前で左岸に渡り、そこから弥陀ヶ原に登っている。今なら立山駅からケーブルとバスで弥陀ヶ原、更に室堂まで数時間で着いてしまうが、深田は思いリュックを背負い、称名滝を見ながら急坂を弥陀ヶ原に登って一泊、翌日はわざと旧道を通って獅子ヶ鼻岩の脇を通り、天狗原から(どうやら室堂には行かず)地獄谷に下り、称名川の源流で水をガブガブのみ、残雪の雷鳥沢を若者や老人に追い越されながら、へばりきって別山乗越まで登っている。まるで数年前の私そっくり。ジョギングや筋トレで心肺機能や筋力を保持しないと、体は次第に衰えていく。今シーズンの私は、心肺や筋力はまずまず、寒気もあまり感じなくなったが、指先や足指、かかとなどの末端が凍傷ぎみ。毎日手入れをしているが、サプリメントを探すべきか。
「蜃気楼と蛍いかを名物とする滑川町はまたかつて大正時代の米騒動の発源地であった。この町の女房連が引き起こした米屋打ち入りがついに日本中に波及してあの有名な米騒動となったのである」
「床の間に池大雅の大きな書幅(しょふく)が掛けてあった。豪放磊落な筆跡で大雅がこの地方に遊んだ時に書いたものだという。大雅も立山に登っているが恐らくこの町から発足したのであろう」
「老人に負けては恥だと一緒に歩きだしたが、こちらは全くお話にならぬへばり方だった。やっと小屋の見えるところまできて、あと20、30mという間近なのに、座り込んで息を入れねばならぬほどの意気地なさだった・・・・もう7時を過ぎていた」
p71 豪宕(ごうとう)とは。意味や解説、類語。[名・形動]気持ちが大きく、細かいことにこだわらず、思うままに振る舞うこと。また、そのさま。豪放
p74 蘚苔(せんたい)とは。意味や解説、類語。こけ。
p76 憾み:うらみ [ 意味 ] 望み通りにならず残念に思うこと。 また、その気持ち。遺憾に思うこと。不満に思うこと。例) ・準備不足の憾みがある ・安易に考え過ぎた憾みがある
p76 蔑ろ(ないがしろ)とは。意味や解説、類語。[名・形動]《「な(無)きがしろ(代)」の音変化》1 あってもないもののように軽んじること。また、そのさま。
p78 書幅(しょふく)とは。意味や解説、類語。書を掛け物としたもの。書軸。
p79 盂蘭盆会(うらぼんえ)とは、現在ではいわゆる「お盆」のことです。7月や8月の夏に祖先の霊をおもてなしして供養する仏教行事のひとつ
p83 鏤める/散りばめる(ちりばめる)
p83 貪婪(どんらん)とは。意味や解説、類語。[名・形動]《「とんらん」とも》ひどく欲が深いこと。また、そのさま。貪欲。たんらん
二日目の朝、深田は軽ザック(小さなサブルック)で剣岳に向かう。道は今と同じようで、前剣(軍剣、軍隊剣とも呼ばれていたらしい)を越え、カニの横ばいを進み、15時に剱岳頂上に着くと、前日の70の爺さんが下るところだった。当時の剣は「3,003mの頂上」。30分ほど景色を見て下山するが、なんと平蔵谷の雪渓を丸鋲の兵隊靴でグリセードで下っている。「好天気ですっかり雪が腐って・・・・スリップの危険がなかった」というが、「ところどころにクレバスが横切っていた」はずだし、ずいぶん危ない気がする。三日目は剱沢を下り、三ノ窓雪渓から池ノ平小屋。「この小屋からの眺めはおそらく北アルプスのどの小屋にも劣らないだろう。眼前に剱のチンネと八ツ峰の岩と雪の交錯したダイナミックな光景が迫ってくる」。このあたりは私には未経験の領域で、深田は四日目に仙人谷に下り、軌道列車に乗りそこなって4㎞のトンネルを歩き、しかし「思いがけない得をした。・・・・この長いトンネルには大きな横笛のようにところどころに穴が開いている。その穴から数歩外に出ると、黒部峡谷の壮観を眺めることができた・・・・殊に奥鐘山の直下数百メートルの大岩壁を目前にしたときは驚いて目を見張った」。鉄道終点からエレベーターで下ると欅平で、宇奈月温泉からの観光客が溢れていた。深田はその近くの祖母谷温泉にもう一泊し、翌日は「日電の軌道に乗った。これは会社の工事用だが、乗客に切符を売るところをみると半営業とみなしていいだろう」。最後の夜は宇奈月に泊まるが、「翌日勘定書きを見るとその請求額は前の五晩の山小屋泊まりの総額に匹敵していた」。すっかりへたばったりしているが、なかなかの強硬軍、四日目は雨にも降られ、楽ではなかったはずだが、実に楽しそうに旅している。これこそが深田流の登山だろう。楽しく読め、私も楽しく旅ができた。
「登山の流行は便利な新しい道を開拓してはくれるが、そのため本当の山の楽しさを犠牲にする。すばらしい感動的な景色は常に苦労を伴って達するところにのみ蔵されている。真砂沢出合以後の剣沢左岸の道はつまらなかった。雪渓から離れて上り下りのうるさい平凡な道を行くだけである。藪の中に通じているので眺めらしいものもない。むやみに汗ばかり流れて何の楽しみもない。楽しみがなくなると肩の荷が急に重くなってくる」
これは大正から昭和初期にかけての日本の登山スタイルのことだろうが、確かにいまではスポーツ店かアウトドア店、もしくは激安衣料店で揃える訳だが、昔はそうはいかなかった。皆がそれぞれ工夫をこらした服装で登山をしていたのに、逆に昭和に入って「運動具店」ができたので便利になったが工夫がなくなったと嘆く深田。その深田はなんと古背広にソフト帽子で登山していたというから驚きである。汗をかいたり、ヤブにひっかかったりしたら大変だったろう。ポリエステルやナイロン地の服に、頭にはヘルメットというのを見たら深田は何と言うだろう。おそらく、山ガール・スタイルを見れば、最初はたじろぐかもしれないが、すぐに慣れてしまうだろう。それが今の山なのだ。靴についてはさすがにキャラバンを穿いていた、というところに、深田の価値観の一端を見ることができる。本当によいものは取り入れるということだ。だから私も、最近の軽い登山靴を使うようになり、もう昔のがっしりしているが重い靴は履けなくなってしまった。私も靴と靴下に冬用のジャケットやパンツはスポーツ店やアウトドア店で探すが、下着や夏服についてはアウトドア・ショップのものでなく、激安衣料店で揃えている。何年か前までは靴下も安物だったが、さすがに足が痛み、登山用の靴下の価値が分かってきた。
「この頃は運動具店にさえ行けば、立どころに便利で手軽な品が揃うところから、誰もがハンで押したような服装になっていしまった」
「僕の山旅の服装はいつも古背広に古ソフトである・・・・昔から一貫してそうである。ただ靴だけは登山靴を穿くのは致し方ない。近頃はキャラバン・シューズと称する、ビブラムの底のついたズック靴を愛用している」
p108 屢:ル、しばしば
これもまた実用的・実際的な話だが、私もザックをなんとかして軽くしようと、軽いザックを求めてザックをたくさん買い込んだ。深田の話は軽いザックではなく、中身の話であり、私もずいぶん登山には無用のもの、ウォークマンやデジカメ、それらのバッテリーや付属品を一そろいもっていかないと気が済まないし、山中泊はテントに籠りたい。まあ、山小屋が無ければテントしかないが。最近は重くて長い山中泊を避けて日帰りにするケースが増えているが、確かに、暗いうちに登り始め、帰りも夜になったってヘッドランプとGPSがあればあまり不便ではない。朝遅く出て、翌日午後早く降りてくるぐらいなら、日帰りの方がよほどいいだろう。山中泊の場合でも1泊と2泊違い、3泊分の食料をもっていくのは大変だ。まあ、わたしにはもう、山中2泊が限度だろうと思う。
「むかし学生時代には・・・・山の用品を要不要にかかわらず一切詰め込んでいったものである。実際は山に行ってその半分も役立てない。しかしともかく持って行かないと気が済まないのである・・・・終戦後・・・できるだけルックザックの中味を節約した。少しくらい不便でも無くても済まされるものは一切省略した。・・・・それで大過なかった。・・・最大効用のあるものの最小限度。これがルックザックを詰めるときの私のモットーになった」
シプトンの記述「石鹸なんて無くてすませる贅沢品の第一のものだ。・・・・私の妹は私が山に行く唯一の理由は顔を洗わなくて済むからだと今でも思っている」
p112 胡瓜:キュウリ
これは紅葉も終わって淋しくなり、もうあまり人も訪れない11月の山の良いところを無理やり語るという、ややこじつけ気味(ヤケ気味?)の小文。「静かであること」「空気が透明なので見晴らしの利くこと」「木の葉も落ちているので見晴が利くこと」というのはその通り。「遠山の・・・新雪の眺め」というのも、私は大無限山や青薙山から赤石岳や悪沢岳の冠雪を見て感動したことが何度かあり、全く同感。
深田は友人一人に案内人を一人雇い、立山のザラ峠から薬師岳を越え、槍ヶ岳までという、今でいう日本オートルートを夏山で辿る。今と違うのは弥陀ヶ原に向かわずに常願寺川をトロッコで遡り、今はもうない旧立山温泉に泊まり(1日目)、今はもうない湯川谷沿いの道を登ってザラ峠に至り(これは昔、佐々成政が東美濃に出た沙羅沙羅越えというらしい)五色ヶ原の小屋に泊まる(2日目)。1日目の出発は11時、2日目は8時半だから、最初の二日は割に楽な旅程だったようだ。三日目は五色ヶ原から薬師岳を越えて太郎兵衛小屋までだから、これは長い。この間、水場が無いらしい。もう残り100ページを切ってしまった。大事に読もう。
「だいたい案内人が重要視されたのは日本アルプスでも初期の時代で、この頃のように道路や小屋の設備が良くなると、次第に案内人を連れて歩く人が少なくなった・・・・・案内人の方でも昔の長次郎とか平蔵とかいう名ガイドがいなくなった・・・・・山で働くよりも里で稼ぐ方が実入りがいい。従って、よほど山が好きでもなければ、ガイドの志願者は年々減っていく
中国ツアーから16時半に戻ってきて、20分ほど読む。本に飢えているのか? ホールズワースのレバークーゼンはワルシャワやUMEAとも違う名演で、素晴らしい。深田たちは越中沢山を越え、最低鞍部のスゴ乗越に達し、少し登り返したところにあるスゴ小屋で昼食。7時過ぎに五色ヶ原を出てスゴ乗越11時20分だから4時間少し。薬師岳に着いたのは17時半というから、6時間かかっている。もう夕暮だが、そこからの下りは楽で花もあり、楽しかったようだ。太郎兵衛小屋についた時はもう真っ暗というのは当然だが、2時間としても19時半。当時の太郎兵衛平小屋は荒れ果てていたとあり、私が泊まったときの大きな小屋とは全く違う。昔の人は大変だった。だが、その荒れ果てた小屋で豪勢な焚火とK君がもってきた贅沢な食料品で深田は大いに楽しんでいる。「この2,500mの高さにある高原の小屋の一夜を私は山男だけが知っている幸福な思いで過ごした」これこそが、深田の真の幸福なのだろう。
「スゴ小屋・・・・普通五色小屋からここまで一日行程になっているが私たちは欲張って今日のうちに太郎兵衛小屋まで延ばす予定にしていたのであまりゆっくりとしておられない。午後1時小屋を発った。それから薬師岳頂上までの何と長かったことか。さすがはその図体の大きいこと北アルプス随一の山だけあった。登っても登っても先がある。這松地帯にでてようやく頂上に近くなったと思うと、それは本峯でなくて北薬師(2,900m)であった。・・・・北薬師から本峯までがまた長かった。昨夜の寝不足と今朝からのアルバイトで私もだんだん疲れて、二人から遅れがちになった。前年、一人で剱岳に登ったとき、私は重荷のためひどく参った経験があるので、今度はできるだけ荷を軽くしてきた。無くて済ませられるものは一切持たなかった。にも拘わらずヘバってきた。とうとうやりきれなくなって大きな四角の岩の上にぶっ倒れるようにして横になった。しばらく休み、小さな缶詰を一つ食べると、やっとまた元気が戻ってきた」
「薬師から太郎兵衛平への下りは・・・・気持ちのいい道だった。登りの岩のガラガラした痩せ尾根とは打って変わって、この下り道は白砂を敷き詰めたようなゆったりとした広い背で、薄い斜陽の中にトウヤクリンドウの清楚な花がスクスクと立ち並んでいた」
五郎平小屋で深田たちは2泊し、二日目に薬師沢に下り、案内人の山崎が岩魚釣りの名人芸を見せる。だが一人残って釣を続けた山崎は道を間違えて翌朝に戻ってきた。その夜は雨が降り寒かったが、翌朝は晴れ、深田は黒部対岸の連嶺の絶景を見る。その日は黒部五郎の肩からカールの脇を下り(深田だけは二人が昼寝している間に黒部五郎の頂上まで往復)黒部五郎小屋に泊まる。そのあたりを深田は「黒部乗越」と記し、とても眺めの良い場所と書いているが、地理院地図にその名の記載はない。「詩人のような顔をして歩き回った」というのは、いろんな描写表現が頭の中を駆け巡っていたのだろう。K君はカメラを撮っていたが、深田はもうカメラをもっておらず、「あのうるささを思うだけで御免である」と書いているが、今のデジカメがあれば、おそらく持って行っただろう。そして次の日は西鎌尾根を経て槍の肩の小屋に泊まり、久しぶりの賑やかさに巡り合う。翌日の槍ヶ岳は曇りで眺めはなかったが、上高地では知人が出迎えてくれ、上等の宿で暖かい布団で床に就く。深田にとって久しぶりの上高地(1953年)が賑やかな観光地に変わっていて驚いたと書いている。釜トンネルを通って乗合バスが上高地に入り始めたのは1933年だが、当初は事故も多く、利用者は多くなかったのだろう。深田はこのとき、たまたま涸沢で夏スキーをしていた猪谷親子にも遭遇している。実に盛沢山の内容の大縦走で、詳細を書けば分厚くなってしまうだろうが、見事に簡素に山の情景や同行者の様子を描写している。黒部五郎や薬師岳のあたりは日本百名山と通ずる記載、同じ表現も認められ、とても懐かしい。私にとっても楽しい縦走だった。
「さすが自慢するだけあってその手捌きがまことに軽妙である。蚊鉤(かばり)を水面スレスレに動かすのがコツだそうで、岩魚がそれに飛びつく瞬間を鉤に引っ掛けるのである。山崎がヒュッと竿を振り上げると、釣り糸が背後に飛んで、その末端に銀鱗が跳ね返っている。あざやかなものである」
「夜半までに私たちは残った一片の木屑まで燃やし尽くして、もう暖をとることもできなくなった。こうなると2,500mは辛い。K君は寝袋を持ってきていたが、私は薄い毛布1枚である。みじめな夜は長かった」
「明け方寒くてたまらないので、良く寝込んでいるK君を残して私は外へ出てみた。すばらしい夜明けだった。嵐の過ぎ去ったあとの抜けるような澄んだ空だった。まだいくらか薄闇の残っているその空の彼方に赤牛、黒岳、鷲羽と続く黒部対岸の連嶺が黒いシルエットで立ちはだかっている。」
「今夜の泊まりの黒部乗越に着いたときはもう夕方になっていた・・・・・・・私の叙述は簡単だが、もし美文を交えて子細に描写したら数ページになるだろう。それほどこの景観は変化があってすばらしい。北アルプスのなかでも最も静かな美しい場所の一つに数えられるだろう・・・・・・私は詩人のような顔をしてそのへんを歩き回った。数日間の旅行の間には何もかも意に充ちた感興の最高潮といった時間があるものだが、さしづめ今夜あたりがこの1週間の山旅のヤマであったろうか」
「私はヒマラヤでも行かぬ限りは内地の山ではもう二度とカメラを持つことはないだろう。あのうるささを思うだけで御免である。そして撮影欲のない登山のなんとのんびりと何と美しく山の風景の眼に染むことだろう」
「西鎌尾根を行き尽くして最後の急傾斜のガレ場を過ぎるとそこが槍の肩の小屋だった。小屋は割合い混んでいた。1週間ぶりの賑やかさにめぐりあって登山流行の場所に入った感じだった。夕食の山盛りのライスカレーを山崎は二人分たいらげた」
「翌日の午前、下平さんの案内で上高地を一巡して久しぶりで訪れた上高地が賑やかな観光地に変わっているのに驚いた。ちょうど涸沢で夏スキーの練習をされていた猪谷六合雄さんと千春君とが帰ってくるのに出くわし、一緒に昼食を食べながらいろいろスキーの話を聞いた」
p141 楯ヶ岳:槍ヶ岳の誤り?
薬師から槍に縦走した(1949年)の2年後、深田はS君と二人で今度は上高地から穂高・槍の縦走に向かう。金沢から列車で富山、高山に乗り継ぎ、そこから乗鞍と笠ヶ岳の間に穂高・槍を見る。高山から乗ったバスには乗鞍に向かう観光客でいっぱいだったが、深田たちは平湯で一泊してから中ノ湯に向かうバスに乗って安房峠を越え、釜トンネルをくぐって上高地に入る。安房峠からの電光型の下りの時に見た穂高連邦を、深田は息をのむほどの素晴らしい眺めと記している。2年前も止まった西糸屋というのは河童橋の対岸に現存している。奥穂の小屋(穂高岳山荘?)が無人と聞いた深田はその日のうちに涸沢小屋まで行くことにし、梓川の(左岸でなく)右岸の道を行くが、今の治山運搬路のことだろうか。今ならマイカーで金沢から平湯あたりまで行ってバスに乗り換え、上高地入りだろうから、日程的にはそれほど変わらない感じ。穂高から槍ヶ岳の間には大キレットがあるはずで、それを深田はどのように越えていくのだろう。
「それは思わず息をのむほど厳にして秀なる眺めであった。奥穂高を頂角にして右に前穂高、左に西穂高と三角形にくろがねの岸壁を張り、その内ふところに頂角をめがけて細い岳沢が1本入っている。これほど一分のたるみもなく引締った美しい均衡のきびしさを保った穂高岳は他の何処からも望むことができないであろう。」
深田は上高地で案内人を雇い、三人で涸沢に向かう。このあたりの深田は若者たちに後れをとり、弱音を吐いているが、まだ五十前。涸沢小屋に泊まり、翌日、奥穂高に登るときは元気な若者が深田のザックを背負ってくれ、その若者と連れの女性は奥穂高に登った後にジャンダルムに軽々と登ってみせたという。だが、北穂高経由で槍ヶ岳に向かう深田はここから気合が入ったのか、それまでの道とは格段に難しいはずの道を、弱音は一切なしに、むしろ楽しみながら歩いている。力任せでは若者に勝てないが、難しい道になるほど深田の経験がものを言うということか。秋の涸沢の紅葉については、最初はあまり言及がなかったが、北穂高から見下ろした真っ赤な涸沢圏谷を「どんな贅を尽くした宮殿も、これほど見事な絨毯を敷きえまい。一雪くればこの高山帯の紅葉も駄目になる。我々はその見事な紅葉の絶頂に巡り合ったわけである。」と記している。そうして深田は大キレットのコルに無事到着した。
「横尾谷に入る・・・・・足元にはタケシマランの赤い実やツバメオモトの瑠璃色の珠・・・・・」「若い同行の二人が元気よく登っていく後を初めのうちは負けずについていったが、とうとう辛抱しきれずにドッカと尻を下ろしてしまう。・・・・年中座業を職にして運動らしい運動もせず、たまに山へやってくるともう五十に近いナマクラの躰はひどくこたえるのである」
「行くほどにやがて涸沢の圏谷が正面にひらけてきた。これは何と言おうか、岩と雪でできた広大な amphitheater とでも言おうか。しかもその圏谷を取り囲む壁がすべて岩を以て名を誇る三千メートル以上の峰々である。・・・・・・完璧と言いたい秋晴れの今日一日もようやく夕に近づいて、山の全てが影を持つようになった。私は小屋の外に立って、鋭い岩峰を幾つも並べた前穂高、それから奥穂高、涸沢岳、北穂高それらが次第に夕づいていくおごそかなさまを眺めていた。眺めていたというよりは打たれていた」
「涸沢小屋の高度は約2,300m・・・目指す穂高小屋のそれは2,960m・・・・途中岩尾根の上でやや長い休息をとった。天気は次第に崩れていく兆しだが、それでもまだ遠く雲の漂う中に八ヶ岳や蓼科山、それから浅間山などを望むことができた。すぐ眼下の前穂高北尾根の斜面の紅葉がまことに美しい。」
「奥穂高の頂上、3,190m、これこそ富士山、北岳に次ぐ日本第三の高峰。穂高ブロックの盟主。小高い岩の上にある小さな祠を背にして、一同で記念写真を撮った・・・・・私たちはまだ今日の残りの行程があるのでロバの耳の端まで行ってそこでいい気持になって休んでいる間に、安曇野の二人連れは空身の軽快さでジャンガルムに向かった・・・・・とうとう二人はジャンダルムの上に立った。」
「(涸沢岳から北穂高)今までの良い道が俄然悪くなる。岩に取り付けた針金にすがって下りるようなところもある。初めはちょっと度肝を抜かれるが、慣れてくるに従い、一種の緊張感があって、この岩伝いの道が面白くさえなってくる。・・・最後のひと登りの頑張りで北穂高に着いた時は夕方に近かった・・・・北側へ降りかけると、すぐ目の下数十歩のところに小屋の屋根が見えた。こんなに頂上に密接して小屋があろうとは思わなかった」
「ただ営業だけを目的とした山小屋とは違う点が、この小屋の何気ない端々にも現れていた。・・・・それは尖鋭な冬山や岩登りのエキスパートにかっこうな根拠地の役をすると同時に、穂高をあこがれてくる初心の大衆登山者たちにも、気持ちの良い山の泊まり場を提供するというふうであった。」
「夕方になってようやく僅かに晴れて、遠くの山々まで見渡せる一刻があった。私たちは皆、北穂高の頂上に出て、そのすばらしい景観を飽かず眺めた。眼下の涸沢圏谷は今が紅葉の真っ盛りである。真っ赤に色づいているのはウラシマツツジの類であろう。どんな贅を尽くした宮殿も、これほど見事な絨毯を敷きえまい。一雪くればこの高山帯の紅葉も駄目になる。我々はその見事な紅葉の絶頂に巡り合ったわけである。この年初めての新雪が薄く地に敷いた」
「・・・槍ヶ岳へ向かう・・・・いったん尾根の鞍部に向かって急な岩道を下る。ずっと下の方の崖の中途の棚になったところに可愛らしい小さな池があって、そのまわりの草原が燃えるように真っ赤に紅葉している。なんとも言えぬ美しい色である。まるで豪華な絨毯を敷いたようである・・・・・私たちの降りていく道は下るに従ってだんだん険しくなってきた。大きな岩を抱えて横這いに伝っていくところがある。しっかと岩角を手に握って足元で踏跡を探りながら下るところがある。少しも油断ができない。・・・・・漸くにして私たちは大キレットと称する鞍部の一端に着いた。それから小さな上り下りのある足許の不確かな痩せ尾根が続いて、最低鞍部に出た」
深田たちは涸沢の紅葉を目にしながら今回縦走最大の難所を抜ける。やはり岩場の下りの方が登りよりも大変らしく、「先刻の下りで・・・洗礼を十分経ていた私たちには・・・・登りは思ったほどたいしたことはなかった」と記している。南岳から中岳のあたりで霧に包まれ、なぜか大喰岳のことには触れず、肩の小屋に着く。槍ヶ岳頂上へは30分だが、霧に包まれ、肩の小屋には寝具も水もないため、案内人を上高地に帰し、深田たち二人はなんと西鎌尾根の北の千丈沢に降りる。今の地理院地図にも破線はないところを、霧で先も見えない斜面を下り、千丈沢右岸の踏跡を見つけ、肩ノ小屋から5.5㎞先の天丈沢との出会にあった小屋に泊っている。雨が降っていたというから、さぞ大変だったはず。暗がりで薪を集め、水を汲み、夜はS君の世話になった深田は翌朝は先に起きて朝食を作っている。出会の先で千丈沢は水俣川と名前を変え、湯俣川との出会の湯俣温泉の野天風呂に入る。そこからは今でも登山道があり、湯俣山荘や晴嵐荘というのがあるようだ。高瀬ダムまで歩いた深田たちはそこで材木運搬の軌道に乗せてもらい、七倉まで降りている。その間には今では立派な車道があるが、当時は深い渓谷の難所だったようだ。七倉から葛温泉までくると温泉客たちが大勢いて、温泉客たちにとっては山奥だろうが、深田たちにはもう里の雰囲気だった。穂高・槍の大キレット縦走だけでもすごいのに、肩ノ小屋から千丈沢を下って高瀬ダム、葛温泉に下るとは・・・・・なんという大旅行なのだろう。すごいことだ。
「一体、岩場は降りるより登りの方が易しい。既に先刻の下りで冒険の洗礼を十分経ていた私たちには、この登りは思ったほどたいしたことはなかった。振り返ると、よくもあんな急な嶮しいところを降りて来られたものだと、自分ながら感心するくらい、此方から見る北穂高は壮烈雄偉である」
「とうとう久しい間の念願であった縦走を果たして私の心は溢れる喜びのなかに一抹の寂しさがあった。それは憧れることが永ければ永いほどそれを一たび達した時に感じる一種の悔いのようなものであろうか」
p170 捗々しく:はかばかしく・・・・・捗る(はかどる)
「味噌の分量を間違えて私の作ったひどく塩辛い味噌汁で朝飯を済ますと、二人は蘇った元気で小屋を出発した。数日の所期の山旅を果たして、いよいよ今日は里に出る日のしかも快晴に恵まれた朝の門出はかくも快い」
p171 楊:やなぎ
「川っぷちの一箇所を石で仕切ってそこが野天風呂になっていた。さっそく裸になって飛び込む。微温の好きな私にはちょうどいい湯加減である・・・・・山の濶葉樹(かつようじゅ=広葉樹)は黄葉して、それが針葉樹の緑と入り混じっているのが美しい。濶葉樹ばかりのところは燃えるようなくれないである・・・・・・うららかな秋の陽の下に、人跡を絶ったこのひっどりとした山奥の出湯に身体を思い切り伸ばしながら、澄んだ大空とそれを画する高峰と、金繍の紅葉とを無心に眺めているだけで私の幸福は無限であった」
「下るにつれて行く手の正面に針ノ木岳がまことに秀でた形で見えてきた。不動岳、七倉岳等の前山を控えてそれは青空に君臨しているような威を帯びた姿であった。頂上へ攻めあげるように簇りそそり立った岩の一つ一つが数えられるくらい、はっきりとそれは空中に抜きんでていた。北アルプスの一雄峰たるを失わない恰幅であった」
「六、七輌つないだ材木列車に数人の屈強な男が大きな丸太を積み上げている最中のところに行き合わせた。しばらく待って、私たちはその材木の山の上に乗せてもらった。ガソリン機関車はさして速くもない速力で動き出した・・・・・軌道は川の左岸に渡ったり右岸に渡ったりした・・・・・二時間ほどこの軌道の御厄介になって、終点の七倉で車から降りた」
「葛温泉に着いたのは四時過ぎ・・・・・浴客がそのあたりを歩き回っている。彼等にすれば山深い温泉に来た気分であろうが、深い山奥から出てきた私たちにはこの渓谷の温泉も里じみて見えた」
これは戦時中、スキーを担いで電車に乗るのがはばかれた時期、スキーなしで丹沢や甲州の冬山に登ったときの楽しさを語ったもの。「流行を追う浮気な山好きは・・・・大混雑のスキー場におしかけ」というのは出だしの記述と矛盾するような気もするが、「流行を白眼視する少々つむじ曲がりの山好きだけが(本当の山好きは皆どこかつむじ曲がりのところがあるものだが)のこのこと出かけてスキーなしの冬山の良さを独占する」の心は「ガヤガヤと騒ぐ人声もなければ山小屋も空いている」ということだから、要するに一人が良いということだが、一方、「さみしい陽の当たる静かな山道を自分だけの足音を聞きながら勝手な夢想を抱いて歩いていく気持ちは、仲間外れになった時のわびしいがしかし孤高な感じにちょっと似ている」というのは、やはり一抹の寂しさもあるのだろう。「北に遠ざかりて・・・・」の歌を載せているが、これにはネットに詳しい説明があった。
「冬の山は寒そうに思えるが決してそうではない。ルックをかついで歩いている分には薄汗をかいてほくほく体が暖かい。休むときには風を避けた日溜まりを探す。怪しいくらいシンとした冬山のそういう日射しのツボの中で無為の一時を過ごすとき、本当に山の好きなことの幸福を感じるものだ」
p178 「北に遠ざかりて雪白き山あり」という『平家物語』にある有名な一節は、平清盛の五男三位中将平重衡が、一ノ谷の戦いで生け捕りにされて鎌倉へ送られてゆく途中、今の静岡市の手越を過ぎたあたりから甲斐の白峰を見たという設定である。これについては深田久弥が『日本百名山』の「北岳」の項に詳しく書いてから、登山愛好家の間で知られるようになったようだ。深田は白峰三山を見ると、この一節を口ずさむのが常だったと書いている。(隠居の飛騨の山とある日)
これは深田が自身のふるさとの山、白山を語ったもの。深田が初めて白山に登ったのは中学生のときで、なんと勝山から谷峠を越え、白峰に泊まり、そこから今の市ノ瀬に出て、旧道を室堂に登った。帰りに採った尾添道というのは今の中宮(地名は尾添)への道らしい。深田はそこで金が尽き、なんと小松駅まで歩いている。「朝の三時から夜の十時までほとんど歩き詰め、距離にしたら17,8里もあったろうか。私の今までの登山経歴の中でこれが一日に最も歩いたレコードである」。この後、深田は3度ほどの白山登山を書いており、なかなか興味深い。来週、もう一度読んでみよう。
p179 気障:きざ
「本当に白山の良さを味わおうと望む人には・・・・例えば室堂から別山へ行く途中の南竜ヶ馬場、あるいは大汝を越えたところにある御手水鉢、そこから四塚山に至る付近一帯、全く人間臭を脱して山上の楽園とでもいいたい美しい場所である。ここまでくると高山植物は少しも荒らされずに色とりどり地に敷き詰めているし、所々雪解けの水が冷たく流れていて、その水溜まりは空行く雲の影を静かに宿している」
p186 翠ヶ池:みどり
終戦後、市ノ瀬までバスが通じるようになり、日本山岳会が毎年白山登山を県体育大会の一環として行うようになり、深田もそれに参加し、翠ヶ池の縁にテントを張って二晩泊まり、四塚山まで遊びに行き、登山道のない剣ヶ峰に一人で登っている。ここへんは私と同じだな。翌年、深田は長男を連れて白山登山に参加したが、二日目から雨となり、高校山岳部の生徒四人と岩間温泉に下った後に物凄い豪雨で土石流らしき山崩れに会い、生きた心地がしない状態でなんとか下山している。もちろん深田はこんなことにもめげず白山に登り続け、1953年四月には尾添から登ったパーティの2,3日あとに再び長男と共にスキーを担いで登っている。
「そのとき大変なことが起こった。私たちの行く手に山崩れが始まって大きな泥の流れが一挙にして道を埋め、川っぷちまで見るも無残な一面の泥の斜面にしてしまった。と思う間もなく私たちの背後にも同様の大規模な泥雪崩が起こった・・・・・やっと安全な道まで辿りついてホッとしたときは全く命拾いした思いであった」
「その年は珍しい雪不足でせっかく担いでいったスキーは使えなかったが、尾根の上へ出ると一面の銀世界であった。風もなければ一点の曇りもない快晴で50歳の父親と11歳の倅と、この二人は春山の幸福を満喫した。白山はいつ行っても楽しい山である。行けば行くほど、滋味の出てくる山と言っていいだろう」
これは深田の姪(姉の娘)S子さんに充てた4通の手紙で、東京の職場仲間と女性だけで登山をしようとしているS子さんの質問に答え、これから登山を始めようとする女性にいろいろなアドバイスを与えている。最初の手紙では、「山はちっとも危険じゃない。登山には困難は伴うが危険はない・・・・なるほど山に行くと暴風雨に襲われたり苦しい登攀に出会ったりする。しかしそういうことは慎重な注意と万全の準備さえあれば打ち克つことのできる困難です」と語り、二つ目の手紙では服装について、「物々しくなく、さりげない服装、しかも実用と優美を兼ね備えた服装が僕の登山衣装哲学」、履物については「絶対靴に限ります・・・・・奮発してビブラムの底のついたキャラバンシューズ」を勧めている。三つ目の手紙は山に行ってからの行動で、リーダー任せにせず、「自分で地勢を判断しルートを探索する癖をつけないといけない・・・・常に必ず地図は出しやすいポケットに入れておいて絶えずそれを引き出して自分の位置を確かめること」と教える。四つ目の手紙は、最初に登る山として谷川岳、槍ヶ岳、立山を計画しているがどうかと問われ、いずれも日本百名山に選ばれることになるこれら三山について、すばらしい体験ができるだろうとゴーサインを出している。1957年だが、戦後になって女性の登山が増えた時期だったらしい。今はもう山ガールのファッションが山腹を彩る時代になったが、その最初の一歩に深田も一枚嚙んでいたのかもしれない。
「谷川岳・・・高さは二千メートルにもならないが、実に雄々しい高山的風貌をそなえた山です。殊にその東面のはげしく切り立った岩壁は見ただけでも身の引き締まるような壮烈さを感じさせます。君の登山史の第一ページを飾るにふさわしい山でしょう」「槍ヶ岳・・・・すっくと空に突き立った槍の頂上に立って四周の山々を大観したとき、君の心は感激と高揚に震えるだろう。君の眼は清澄に輝くだろう。そして人生にはこんな高い悦びのあったことを悟るだろう」「立山は槍ヶ岳とはまた別のすばらしい景観を持っている。ゆったりした起伏の高原、それこそロマンチストの君なら一日でも寝転んでいたくなるような広々とした弥陀ヶ原、神秘の深いエメラルドを湛えたミクリガ池、見るも凄まじい大地の煮えくり返っている地獄谷。君の詩嚢は数日ではちきれるくらい一杯になるだろう」
湯沢の1年:花や実や魚
p54 まんさくの花
p60 トチの花
p61 アケビの実
p62 鰍(かじか)
剣岳1:栗巣野、剣岳、軌道トンネル
剣岳2:欅平、黒部峡谷鉄道
山の服装:いろんな帽子・・・・深田がかぶっていたのはソフト帽
p110 ソフト帽子
p110 チロル帽
p110 ピケ帽
秋の穂高・槍
p143&152 上高地、西糸屋
ふるさとの山
p179 加賀市から見る白山
勝山-白山温泉ー室堂ー尾添ー小松
市ノ瀬ー室堂ー岩間温泉ー