この章には一つの謎がある。由緒ある「甲斐の白根」「白根三山」あるいは「甲斐ヶ根」はいずれも北岳、間ノ岳、農鳥岳の三山の総称であり、その最北にあるから「北岳」というのが山名の由来である。
一方、「悪沢岳」の章では、この山を「東岳」と呼ぶことに深田は猛烈に反対し、「いったい東岳という平凡な名はいつ付けられたのであろう」と嘆いている。
謎というのは、なぜ深田は「北岳」は良くて、「東岳」は平凡なのかということである。
白鳳三山(もしくは「甲斐の白峰」「甲斐ヶ根」)の北にあるから「北岳」とするのが良いのなら、荒川三山の東に位置する悪沢岳を「東岳」と呼んでも良いように思えるのだが、どうだろう。これは感覚的なもの、最初に印象付けられたものに対する心理的な愛着心なのかもしれない。
最後の4ページ目で深田は北岳に登ったときのことを記していて、「池山小屋から吊尾根と呼ばれる山稜を登った」というのは、広河原の南5㎞のあたりから始まる登山道(池山吊尾根コース)で、そこから登れば確かにバットレスを正面から見ることになる。
「頂上は静かだった・・・・澄んだ空に富士山はもちろん、南アルプスの山々が、私たちを取り巻くように勢揃いしていた。頂上の至福であった」という経験は、私の3度の北岳登山のときの良き思い出でもある。
白根三山の縦走路、特に北岳から間ノ岳への道は今では「標高3,000mの縦走路」として人気コースになっており、私は2度(1度目は広河原から農鳥岳まで往復、2度目は周回して奈良田Pに下る)このコースを歩いた。
富士山を除き、周囲の風景よりも高いところを歩き、見渡す限りの景観に囲まれ、足元には花がたくさん咲いている。アップダウンは大きくてなかなか厳しい。あの道の素晴らしさは歩いてみなくては感じ取れないだろう。
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この章には一つの謎がある。深田は我が国第二の高峰のこの山について、平家物語で「甲斐の白根」と呼ばれていたこと、平家物語の手越(静岡市付近)から北岳は見えなかったが、六郷川鉄橋(多摩川鉄橋)からは白峰三山が見えたこと、中央線で甲府盆地を駆け下ると「白峰三山が威厳と優美を兼ねて連なっているのを望んでは、山の好きな人で胸の高鳴らぬ者はあるまい」と断じ、「甲斐国志」では「甲斐ヶ根」と呼ばれていたこととを2ページに渡って記し、3ページ目ではこの山の高い気品について褒めたたえる:「形がスッキリしていて清秀な高士のおもかげがある・・・吃と天を突くような鋭い頭角をあげ、颯爽として軽薄でなく、ピラミッドでありながら俗っぽくない。惚れ惚れするくらい高等な美しさ・・・・」。
この由緒ある「甲斐の白根」「白根三山」あるいは「甲斐ヶ根」はいずれも北岳、間ノ岳、農鳥岳の三山の総称であり、その最北にあるから「北岳」というのが山名の由来である。一方、「悪沢岳」の章では、この山を「東岳」と呼ぶことに深田は猛烈に反対し、「いったい東岳という平凡な名はいつ付けられたのであろう」と嘆いている。謎というのは、なぜ深田は「北岳」は良くて、「東岳」は平凡なのかということである。白鳳三山(もしくは「甲斐の白峰」「甲斐ヶ根」)の北にあるから「北岳」とするのが良いのなら、荒川三山の東に位置する悪沢岳を「東岳」と呼んでも良いように思えるのだが、どうだろう。これは感覚的なもの、最初に印象付けられたものに対する心理的な愛着心なのかもしれない。
最後の4ページ目で深田は北岳に登ったときのことを記していて、「池山小屋から吊尾根と呼ばれる山稜を登った」というのは、広河原の南5㎞のあたりから始まる登山道(池山吊尾根コース)で、そこから登れば確かにバットレスを正面から見ることになる。「頂上は静かだった・・・・澄んだ空に富士山はもちろん、南アルプスの山々が、私たちを取り巻くように勢揃いしていた。頂上の至福であった」という経験は、私の3度の北岳登山のときの良き思い出でもある。
白根三山の縦走路、特に北岳から間ノ岳への道は今では「標高3,000mの縦走路」として人気コースになっており、私は2度(1度目は広河原から農鳥岳まで往復、2度目は周回して奈良田Pに下る)このコースを歩いた。富士山を除き、周囲の風景よりも高いところを歩き、見渡す限りの景観に囲まれ、足元には花がたくさん咲いている。アップダウンは大きくてなかなか厳しい。あの道の素晴らしさは歩いてみなくては感じ取れないだろう。
p338 六郷川鉄橋:六郷川橋梁(ろくごうがわきょうりょう)は、東京都大田区西六郷から神奈川県川崎市幸区堀川町にかけて多摩川に架かる東日本旅客鉄道(JR東日本)東海道本線の鉄道橋である。多摩川橋梁とも呼ばれる。