日光連峰で最高峰、関東以北でも最高峰のこの山を深田は最初、日本百名山に含めておらず、新聞連載されなかった。それが、文庫本編集に際して有明山から奥白根山に差し替えられたのは、深田自身が有明山に登ったことがなかったからだったという。
だから深田は、この山が中禅寺湖方面からは見えにくく、注目されたのは1836年の日光山志の頃からだとする一方、「東西南北の山々から望んだ時、真に日光群山の盟主にふさわしい威厳と重厚をそなえた山容が得られる・・・・・・浅間よりも高い」とその優れた資格を語る。
一方、勝道上人にも一般にも注目されてはいなかったが、「日光山志」の頃には奥白根には上州側から登拝していたらしい。だが、男体山や女峰山への縦走路からは奥白根はよく見え、男体山よりも高く、威厳と重厚を具えている姿は、勝道上人は見なかったのかもしれないが(彼が登ったのは4ー5月の頃だから、視界のない天候だった可能性はある)修行僧たちは見たはずである。深田は「男体山の奥の院」と一言触れているが、頂上にあるのは上州側の白根権現だけだと思う。上州側と日光側で境界を定めていたということなのだろうか。
2ページ終盤から深田は奥白根に登り、遠くから眺めた優れた山容に加え、登山路から次々に現われる様々な景観について語る。最初は「日本山岳会の大先輩、高野鷹蔵氏」の前白根から見た「兀々然と赤黒の半身を擡げる」という美辞麗句の描写、火口湖の五色沼、「巨岩の散乱した頂上」、そして深田は上州側に下り、「御釜大割れ」という大ナギを見る。
今では上州側にはスキー場があり、深田が大ナギを見上げた七味平のあたりまでロープウェイがあり、私はそこからその大ナギを見た。そしてその大ナギの中の雪斜面を登り、巨石の散乱した頂上に立ち、そこから男体山と中禅寺湖を見降ろした。深田がそのことに触れていないのは、たぶん見えなかったからではなかろうか。
私は有明山にも登り、立派な祠がいくつも置いてあるその山も立派だとは思うが、奥白根の「威厳と重厚」には比べるべくもないと思う。たぶん男体山よりも山としての魅力があり、NHKのにっぽん百名山の回数や登っている人の数も多いのではなかろうか。そういう私は、スキー場から一度しか登っていない。錫ヶ岳に登った時も前白根を経由し、奥白根を間近に見たが(これが高野鷹蔵の見た奥白根)登らなかった。もう一度、登らなければ。
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日光連峰で最高峰、関東以北でも最高峰のこの山を深田は最初、日本百名山に含めておらず、新聞連載されなかった。それが、文庫本編集に際して有明山から奥白根山に差し替えられたのは、深田自身が有明山に登ったことがなかったからだったという。
だから深田は、この山が中禅寺湖方面からは見えにくく、注目されたのは1836年の日光山志の頃からだとする一方、「東西南北の山々から望んだ時、真に日光群山の盟主にふさわしい威厳と重厚をそなえた山容が得られる・・・・・・浅間よりも高い」とその優れた資格を語る。
一方、勝道上人にも一般にも注目されてはいなかったが、「日光山志」の頃には奥白根には上州側から登拝していたらしい。だが、男体山や女峰山への縦走路からは奥白根はよく見え、男体山よりも高く、威厳と重厚を具えている姿は、勝道上人は見なかったのかもしれないが(彼が登ったのは4ー5月の頃だから、視界のない天候だった可能性はある)修行僧たちは見たはずである。深田は「男体山の奥の院」と一言触れているが、頂上にあるのは上州側の白根権現だけだと思う。上州側と日光側で境界を定めていたということなのだろうか。
2ページ終盤から深田は奥白根に登り、遠くから眺めた優れた山容に加え、登山路から次々に現われる様々な景観について語る。最初は「日本山岳会の大先輩、高野鷹蔵氏」の前白根から見た「兀々然と赤黒の半身を擡げる」という美辞麗句の描写、火口湖の五色沼、「巨岩の散乱した頂上」、そして深田は上州側に下り、「御釜大割れ」という大ナギを見る。
今では上州側にはスキー場があり、深田が大ナギを見上げた七味平のあたりまでロープウェイがあり、私はそこからその大ナギを見た。そしてその大ナギの中の雪斜面を登り、巨石の散乱した頂上に立ち、そこから男体山と中禅寺湖を見降ろした。深田がそのことに触れていないのは、たぶん見えなかったからではなかろうか。
私は有明山にも登り、立派な祠がいくつも置いてあるその山も立派だとは思うが、奥白根の「威厳と重厚」には比べるべくもないと思う。たぶん男体山よりも山としての魅力があり、NHKのにっぽん百名山の回数や登っている人の数も多いのではなかろうか。そういう私は、スキー場から一度しか登っていない。錫ヶ岳に登った時も前白根を経由し、奥白根を間近に見たが(これが高野鷹蔵の見た奥白根)登らなかった。もう一度、登らなければ。
すごい快晴の青空に奥白根山と五色沼が美しい。空と山と湖が作る絶景。
ゴンドラ頂上駅に着くと、真正面に奥白根山が見える。圧倒的な迫力!
大真名子山頂から見る奥白根山:中禅寺湖畔からは見えず、ここまで登って初めて見える「真に日光群山の盟主にふさわしい威厳と重厚をそなえた山容」
尾瀬笠ヶ岳への途上、次第に視界が開け、背後に奥白根山 。大ナギを見せ、やや左に傾いた迫力の姿
急斜面を南から大きく東に回りこんで登り、噴火口のたくさんある頂上丘に出る
p166 日光山志:五巻五冊からなり、天保七年(一八三六)に刊行されたもので、日光に関する最もまとまった内容を持つ地誌である。その内容は中世以来の山岳霊場としての歴史から書きはじめられ、山内の景観・建物の構造・奥日光の動植物・日光周辺地域の人々の暮らしにまで及ぶ。孟縉は、東照宮だけではなく周辺地域を含めて「日光」であることを示し、江戸幕府の権威の象徴として描いている。こうした、彼の歴史意識は、八王子千人同心という身分集団に属していたことに規定されていると言える。