最高点2,599m、三角点2,595m
この山についての小暮理太郎の賛辞「裸百貫の貫禄」という表現、深田の「その山容の秀麗高雅な点では秩父山群の王者」という表現は、深田が書いている「一般に奥秩父の山々はこれという特徴がなく・・・一々の山を指摘するのが難しい」という現実、つまり日本アルプスや八ヶ岳の剣俊、豪放な峰々に比べると見劣りは否めない中での最大の賛辞なのだろう。金峰山はそれらの高峰、南北アルプスや八ヶ岳、富士山に囲まれた地点にある。だが確かに、岩峰ばかりの山々の中にあって、緑に包まれた緩やかだが高い標高の奥秩父連峰は目立つ存在でもある。
次に深田が述べている通り、その分かりにくいなだらかな奥秩父の稜線の中に五丈石を見つけることは、慣れた登山者ならば習慣になっているだろう。だが、大弛峠や曲岳あたりからなら大きく見える五丈石も遠く離れた甲斐駒や鳳凰山あたりになるとなかなか見分けるのは難しい。それでも、方角や山の形から金峰の大きな平たい二等辺三角形を見分けるのは難しくはない。
深田は五丈石の説明のところで荻生徂徠の「峡中紀行」を引いているが、これは「難解な漢文」とあるから、訓読文で読んだにしろ、苦労して読んだに違いない。金峰山の頂上が黄金の地で、「ワラジにくっついた一粒の金といえども持ち出すことができない」というのは、その苦読の成果を示したかったのだろうか。
日本各地の金峰山について、深田は大峰の金峰山(山上岳)、羽前(山形)の金峰山(七葉山)、肥後の金峰山、薩摩の金峰山を挙げているが、山形の金峯山は八葉山なのではなかろうか。私はまだ肥後や薩摩の金峰山には登ったことがない。
そして、驚くべきは深田の学生時の金峰山登山である。都内で始発の汽車に乗って甲府着が翌朝4時半、そこからバスはなく、昇仙峡、御岳の金桜神社、黒平村(今は黒平町)まで歩いて泊まり(「脚絆を解きワラジを脱いだ」とある!)、翌日、御室川沿い(今は尾根道があるが、たぶん当時は無かったのだろう)を登って金峰山。JR甲府駅から金峰山まで約30㎞、標高差約2,300mを二日で歩いている。
金峰山頂上からすぐ東にある鉄山に行こうとしてハイマツに遮られ、寒い野しゃがみの一夜を送り、北の梓山に下った(梓山の県道68までは約12㎞)という記述は私の頭に強烈に記憶され、初めて大弛峠(今はそこまで車で登れる)から稜線を辿って金峰山に登ったとき、途中にある鉄山(縦走路はこの山の頂上を迂回している)になんとしても登りたくて、縦走路から分岐した踏跡をたどって木々に囲まれた鉄山の頂上に行ってみた。簡素な頂上標識が地面に置いてあった。3度目の金峰山のとき再び大弛峠から同じ道を歩いたが、今度は頂上に「くろがねやま」とフリガナを付けた頂上標識が木の幹に掛けてあった。
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この山についての小暮理太郎の賛辞「裸百貫の貫禄」という表現、深田の「その山容の秀麗高雅な点では秩父山群の王者」という表現は、深田が書いている「一般に奥秩父の山々はこれという特徴がなく・・・一々の山を指摘するのが難しい」という現実、つまり日本アルプスや八ヶ岳の剣俊、豪放な峰々に比べると見劣りは否めない中での最大の賛辞なのだろう。金峰山はそれらの高峰、南北アルプスや八ヶ岳、富士山に囲まれた地点にある。だが確かに、岩峰ばかりの山々の中にあって、緑に包まれた緩やかだが高い標高の奥秩父連峰は目立つ存在でもある。
次に深田が述べている通り、その分かりにくいなだらかな奥秩父の稜線の中に五丈石を見つけることは、慣れた登山者ならば習慣になっているだろう。だが、大弛峠や曲岳あたりからなら大きく見える五丈石も遠く離れた甲斐駒や鳳凰山あたりになるとなかなか見分けるのは難しい。それでも、方角や山の形から金峰の大きな平たい二等辺三角形を見分けるのは難しくはない。
深田は五丈石の説明のところで荻生徂徠の「峡中紀行」を引いているが、これは「難解な漢文」とあるから、訓読文で読んだにしろ、苦労して読んだに違いない。金峰山の頂上が黄金の地で、「ワラジにくっついた一粒の金といえども持ち出すことができない」というのは、その苦読の成果を示したかったのだろうか。
日本各地の金峰山について、深田は大峰の金峰山(山上岳)、羽前(山形)の金峰山(七葉山)、肥後の金峰山、薩摩の金峰山を挙げているが、山形の金峯山は八葉山なのではなかろうか。私はまだ肥後や薩摩の金峰山には登ったことがない。
そして、驚くべきは深田の学生時の金峰山登山である。都内で始発の汽車に乗って甲府着が翌朝4時半、そこからバスはなく、昇仙峡、御岳の金桜神社、黒平村(今は黒平町)まで歩いて泊まり(「脚絆を解きワラジを脱いだ」とある!)、翌日、御室川沿い(今は尾根道があるが、たぶん当時は無かったのだろう)を登って金峰山。JR甲府駅から金峰山まで約30㎞、標高差約2,300mを二日で歩いている。
金峰山頂上からすぐ東にある鉄山に行こうとしてハイマツに遮られ、寒い野しゃがみの一夜を送り、北の梓山に下った(梓山の県道68までは約12㎞)という記述は私の頭に強烈に記憶され、初めて大弛峠(今はそこまで車で登れる)から稜線を辿って金峰山に登ったとき、途中にある鉄山(縦走路はこの山の頂上を迂回している)になんとしても登りたくて、縦走路から分岐した踏跡をたどって木々に囲まれた鉄山の頂上に行ってみた。簡素な頂上標識が地面に置いてあった。3度目の金峰山のとき再び大弛峠から同じ道を歩いたが、今度は頂上に「くろがねやま」とフリガナを付けた頂上標識が木の幹に掛けてあった。
JR甲府駅、昇仙峡、御岳の金桜神社、黒平村(今は黒平町)、御室川沿いの道、金峰山:約30㎞、標高差約2,300m、金峰山から北へ川端下、梓山(県道68)まで約12㎞
p290 裸百貫:無一文でも、百貫文の値打ちがあるということ。 多く、男をほめていう語。
p290 峡中紀行・風流使者記(きようちゆうきこう・ふうりゆうししやき):荻生徂徠著、成立 宝永三年、 柳沢吉保に仕え、その抱儒者であった徂徠が僚友の田中省吾とともに主君の領地甲斐を見聞して著したもの。本文は難解な漢文である。両書の関係には諸説あるが、一般的には「風流使者記」が先に書かれ、その後「峡中紀行」が成立したと考えられている。両書の異同で最も大きな相違は前者に三〇〇首に及ぶ漢詩が挿入されていることである。
p291 七葉山→八葉山?:金峯山は、その昔蓮華峯とか八葉山などといわれ、また母狩山(751m)・鎧ヶ峯(566m)・摩耶山(1020m)・湯ノ沢岳(964m)・金峯山(471m)は五老峯(閣)と呼び、また熊野三山になぞらえて、金峯山・母狩山・摩耶山を金峯三山といって金峯修験の聖地であった。 (金峯神社佐々木孝善宮司「金峯山とその信仰~連綿とうけつがれてきた金峯山の伝統を語る」 )
p292 薩摩の金峰山:金峰山は、本岳・東岳・北岳の三つの峰からなる標高636mの山で、南薩の名峰・霊峰として古くから知られています。開聞岳、野間岳と合わせて「薩摩半島の三名山」と呼ばれ、九州百名山にも選定されています。