深田は燧岳を尾瀬と共に語る:「広大な尾瀬ヶ原を差し挟んで東西に対立している燧岳と至仏山」「尾瀬沼から燧岳をなくしたら、山中の平凡な一小湖に化してしまうだろう」。そして「尾瀬」の名の由来、「燧」という名の由来を語る。
「燧という名前はそのマナイタグラ東北面に鍛冶鋏の形をした残雪が現われる」というのを私は何度も七入橋を渡る手前のあたりから見た(深田は「七入橋を渡ると見えてくる」と書いているが、少し手前に良い展望所がある)。
平野長蔵、長英両氏が燧岳と尾瀬に尽くしたことを語る深田、長蔵氏は「意気高らかな気焔」、長英氏は夫人と共に短歌を載せていて、ずいぶん性格は違っている感じだが、今は4代目が長蔵小屋にいるらしい。
深田は何度も尾瀬に行っており、「アヤメ平から広い原の向こうの果てに遮るものもなく燧岳の全容を望んだ時は天下一品という気がした。おそらく燧の示す最も美しい姿だろう」と書いているが、私はそのアヤメ平からの燧岳を2019年5月に見ることができた。
だが、私にとって燧岳はスキーの山。これまで6回登っているが全て御池からスキーで登り、滑走しているが、柴安嵓からの緊張感溢れる急斜面滑走がいつもハイライトだった。
車道を尾瀬方面に向かうと、「このあたりだ」と思ったあたりで燧が見える。青空にたっぷり雪を抱き、少し右に傾斜した頂上の左端が俎嵓。その下の斜面に「燧」の縦筋が数本。その縦筋の間のうち、頂上まで雪がついているのを選んで登らないといけない。
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深田は燧岳を尾瀬と共に語る:「広大な尾瀬ヶ原を差し挟んで東西に対立している燧岳と至仏山」「尾瀬沼から燧岳をなくしたら、山中の平凡な一小湖に化してしまうだろう」。そして「尾瀬」の名の由来、「燧」という名の由来を語る。
「燧という名前はそのマナイタグラ東北面に鍛冶鋏の形をした残雪が現われる」というのを私は何度も七入橋を渡る手前のあたりから見た(深田は「七入橋を渡ると見えてくる」と書いているが、少し手前に良い展望所がある)。
平野長蔵、長英両氏が燧岳と尾瀬に尽くしたことを語る深田、長蔵氏は「意気高らかな気焔」、長英氏は夫人と共に短歌を載せていて、ずいぶん性格は違っている感じだが、今は4代目が長蔵小屋にいるらしい。
深田は何度も尾瀬に行っており、「アヤメ平から広い原の向こうの果てに遮るものもなく燧岳の全容を望んだ時は天下一品という気がした。おそらく燧の示す最も美しい姿だろう」と書いているが、私はそのアヤメ平からの燧岳を2019年5月に見ることができた。
だが、私にとって燧岳はスキーの山。これまで6回登っているが全て御池からスキーで登り、滑走しているが、柴安嵓からの緊張感溢れる急斜面滑走がいつもハイライトだった。
車道を尾瀬方面に向かうと、「このあたりだ」と思ったあたりで燧が見える。青空にたっぷり雪を抱き、少し右に傾斜した頂上の左端が俎嵓。その下の斜面に「燧」の縦筋が数本。その縦筋の間のうち、頂上まで雪がついているのを選んで登らないといけない。
スキーを担いで柴安嵓に向かう。さあ、あの白いスロープをもうひと頑張りで、もう一つの頂上だ。そこから、どんな春が見えるだろう。
アヤメ平は広い空間にぽっかり雪原が広がっていて、真っ青な空の下に背後の燧岳が小さく見えるくらいに広い。その真ん中を歩いている人たちは豆粒のよう。
俎嵓はいつもの通り盛況で、柴安嵓から戻ってきたときは満員状態。柴安嵓をバックに記念撮影するパーティ。のどかな小春日和の天気になり、岩の上に横になって少し昼寝する。憩のひととき。
鍛冶鋏:マナイタグラ東北面に鍛冶鋏の形をした残雪が現われる
p132 平野長蔵 :ひらの-ちょうぞう1871-1930 明治-大正時代の地域開発者。明治4年8月10日生まれ。福島県燧ケ岳(ひうちがたけ)開山をこころざし,明治22年頂上に石祠をつくり,尾瀬参籠所や檜枝岐(ひのえまた)燧岳神社を建立。尾瀬沼でのヒメマス,イワナの養殖や長蔵小屋の建設など尾瀬の開発につくした。昭和5年8月20日死去。60歳。福島県出身。著作に「燧岳開山実記」など。