私は中学生のとき、鳥取県境港に住んでいたことがある。短いとはいえ3年弱の間、境港から海越しに大山を眺めて育った私にとって、深田の大山の章には少し気にかかるところがある。
まず標高を1,713mとしているのは、たぶん弥山の最高点(三角点1,709mよりも高いはず)なのだろうが、大山の最高峰は剣ヶ峰1,729mである。
もう一つ、大山の東西に長い頂稜に「感嘆させたのはその頂上のみごとな崩壊ぶり」という表現もややしっくりこない。大山の細くて長い頂稜が年々崩壊しているのは、日本アルプスでもヒマラヤでも同じことであり、大山に限ったことではない。
アルプスやヒマラヤと同様に「剣俊な岩峰」、大山の特徴を加えるなら「細くて長い険峻な岩尾根」とでも書いてほしかった。
私は現在、岡山に住んでいるが、日本百名山が中国地方に一つしかないこと、「山陰・山陽では・・・・大山一つしか推し得なかった」という深田の指摘に疑義を抱く地元の愛好家は私だけではあるまい。なにせ、深田は登ったことがないのだ。私が挙げるとすれば、後山連峰、比婆・吾妻連峰、安芸冠・寂地・額々連峰、恐羅漢山。
余談になるが、深田が最初に挙げている「大山は我が国で最も古い山の一つ・・・・国引きのときの引き綱の杭が火神岳(今の大山)」というのは雄大な話で面白いが、深田が「個性的」としながらも「推し得ない」とした三瓶山(佐比売山)は国引きのもう一つの杭だったということが出雲風土記に出ているらしい。
深田が触れている大山寺と大神神社には、大山からスキーで下った後に寄っているが、疲れていて、最初は雪がなくなって歩いたこと、3度目のときは雪の境内を滑走したことくらいしかメモにはない。山伏修験道から始まって江戸時代には繁栄していたというから、次に行ったときはじっくり歩いてみたい。
志賀直哉が滞留した蓮浄院というのは今は蓮清院跡として、夏道登山口と駐車場の間に位置しているから、私もその前を何度も通ったことはあるはず。なにせ古い建物や史跡がたくさんあるので気づかなかったことになる。
毎回、剣ヶ峰までの雪道やスキー滑走のことばかりで頭が一杯なのだが、一度夏にでも、じっくり腰をすえて歩かないといけないのだろう。暗夜行路の時任謙作が大山で経験した「不思議な陶酔感」「或る感動」とはどんなものだったのだろう。
DDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDDD
私は中学生のとき、鳥取県境港に住んでいたことがある。短いとはいえ3年弱の間、境港から海越しに大山を眺めて育った私にとって、深田の大山の章には少し気にかかるところがある。まず標高を1,713mとしているのは、たぶん弥山の最高点(三角点1,709mよりも高いはず)なのだろうが、大山の最高峰は剣ヶ峰1,729mである。
もう一つ、大山の東西に長い頂稜に「感嘆させたのはその頂上のみごとな崩壊ぶり」という表現もややしっくりこない。大山の細くて長い頂稜が年々崩壊しているのは、日本アルプスでもヒマラヤでも同じことであり、大山に限ったことではない。アルプスやヒマラヤと同様に「剣俊な岩峰」、大山の特徴を加えるなら「細くて長い険峻な岩尾根」とでも書いてほしかった。
私は現在、岡山に住んでいるが、日本百名山が中国地方に一つしかないこと、「山陰・山陽では・・・・大山一つしか推し得なかった」という深田の指摘に疑義を抱く地元の愛好家は私だけではあるまい。なにせ、深田は登ったことがないのだ。私が挙げるとすれば、後山連峰、比婆・吾妻連峰、安芸冠・寂地・額々連峰、恐羅漢山。
余談になるが、深田が最初に挙げている「大山は我が国で最も古い山の一つ・・・・国引きのときの引き綱の杭が火神岳(今の大山)」というのは雄大な話で面白いが、深田が「個性的」としながらも「推し得ない」とした三瓶山(佐比売山)は国引きのもう一つの杭だったということが出雲風土記に出ているらしい。
深田が触れている大山寺と大神神社には、大山からスキーで下った後に寄っているが、疲れていて、最初は雪がなくなって歩いたこと、3度目のときは雪の境内を滑走したことくらいしかメモにはない。山伏修験道から始まって江戸時代には繁栄していたというから、次に行ったときはじっくり歩いてみたい。
志賀直哉が滞留した蓮浄院というのは今は蓮清院跡として、夏道登山口と駐車場の間に位置しているから、私もその前を何度も通ったことはあるはず。なにせ古い建物や史跡がたくさんあるので気づかなかったことになる。毎回、剣ヶ峰までの雪道やスキー滑走のことばかりで頭が一杯なのだが、一度夏にでも、じっくり腰をすえて歩かないといけないのだろう。暗夜行路の時任謙作が大山で経験した「不思議な陶酔感」「或る感動」とはどんなものだったのだろう。