この章も名前の由来から始まる。奈良田というのは奈良時代に7年間滞在した孝謙天皇(剃髪して法皇)が名づけたもので、この間に芦安から登った山が法皇山(鳳凰山)と呼ばれるようになった。深田が書いている「今も残っている北御室、南御室、御座石などの名」というのはそれぞれ今の鳳凰小屋(この章の終わりでドンドコ沢を登った深田たちは「その夜は北御室小屋で明かし」翌日地蔵岳まで行ったとある)、薬師岳の南の南御室小屋、青木鉱泉の北にある御座石鉱泉を指すものと思われる。
そして次に語られるウォルター・ウェストンの地蔵岳オベリスクへの初登攀は、おそらく「日本百名山」の中でも最もワクワクする、ハイライトの場面の一つだろう:「頂上のクラックに向かって、80フィートのザイルの端に結び付けた石を投げかける。幾度も失敗してやっと石がクラックにはさまった。彼はザイルを左手につかんで一歩一歩苦しい登りを続ける・・・・ようやく低い方の岩の上に出る。そこから最高点までは殆ど垂直であったが、比較的易しく、手や足のホールドもしっかりしていた。そして遂にクライミングを完成して頂に立った」。この緊張感溢れる記述について「おそらくこれが我が国でアルピニズムの最初であり、そしてまた岩登りの記事の最初だろう」と深田が記しているのにも納得。今では日本全国で盛んに行われている岩登りはここから始まったのだ。
更に、最後に深田が書いている、小林秀雄と今日出海(ひでみ)とドンドコ沢から鳳凰山・地蔵岳に登った記事もおもしろい:「二人ともワラジに脚絆という甲斐甲斐しい格好・・・・・山に発見参の今君には少し残酷・・・・・『初っぱなからひでえ所へ連れて行きやがった』・・・・・小林君はそれが山の病みつきとなってその後しばしば私と山行を共にするようになった」。この章もまた、私の大好きな章の一つである。
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この章も名前の由来から始まるが、深田がこの本で地蔵岳、観音岳、薬師岳(当時はこの三峰がどの峰なのか定まっていなかったらしい)を当時の五万分の一「韮崎」図幅の通りとし、かつこの三峰を総称して「鳳凰山と呼ぶのが妥当」と書いたことで、今の鳳凰山が確定したようだ。
奈良田というのは奈良時代に7年間滞在した孝謙天皇(剃髪して法皇)が名づけたもので、この間に芦安から登った山が法皇山(鳳凰山)と呼ばれるようになった。深田が書いている「今も残っている北御室、南御室、御座石などの名」というのはそれぞれ今の鳳凰小屋(この章の終わりでドンドコ沢を登った深田たちは「その夜は北御室小屋で明かし」翌日地蔵岳まで行ったとある)、薬師岳の南の南御室小屋、青木鉱泉の北にある御座石鉱泉を指すものと思われる。
そして次に語られるウォルター・ウェストンの地蔵岳オベリスクへの初登攀は、おそらく「日本百名山」の中でも最もワクワクする、ハイライトの場面の一つだろう:「頂上のクラックに向かって、80フィートのザイルの端に結び付けた石を投げかける。幾度も失敗してやっと石がクラックにはさまった。彼はザイルを左手につかんで一歩一歩苦しい登りを続ける・・・・ようやく低い方の岩の上に出る。そこから最高点までは殆ど垂直であったが、比較的易しく、手や足のホールドもしっかりしていた。そして遂にクライミングを完成して頂に立った」。この緊張感溢れる記述について「おそらくこれが我が国でアルピニズムの最初であり、そしてまた岩登りの記事の最初だろう」と深田が記しているのにも納得。今では日本全国で盛んに行われている岩登りはここから始まったのだ。
更に、最後に深田が書いている、小林秀雄と今日出海(ひでみ)とドンドコ沢から鳳凰山・地蔵岳に登った記事もおもしろい:「二人ともワラジに脚絆という甲斐甲斐しい格好・・・・・山に発見参の今君には少し残酷・・・・・『初っぱなからひでえ所へ連れて行きやがった』・・・・・小林君はそれが山の病みつきとなってその後しばしば私と山行を共にするようになった」。この章もまた、私の大好きな章の一つである。