この山には私は二度、山スキーで登った。どちらも記憶に深く刻み込まれている。更に、深田が書いているようにこの山は八海山と中ノ岳と合わせて越後三山(深田は魚沼三山と記している)として、関越道を南北に移動しながら簡単に眺めを楽しむことができ、私も数限りなく何度も眺めた。
深田は八海山についてずいぶん書いているが、「ギザギザ並んだ岩峰群」は八ツ峰、「その右に続く最高点の丸山」は入道岳のことだろう。当時はまだ大日岳や入道岳という呼称が根付いていなかったのかもしれない。深田は11月初旬にテント1泊で三山縦走を果たしている。枝折峠から歩き始め、小倉山を経て駒ヶ岳、中ノ岳に立ち、そこから難所のオカメノゾキまで急降下し、八海山に登り返し、八ツ峰を越えて下った大崎口というのは薬師岳の北西6㎞以上あるから、夜の9時過ぎというのもうなずける。
私は三山縦走はまだ果たしておらず、銀山平から駒ヶ岳を越え(深田は頂上に「小さな祠」と記しているが、私が登った時は像が立っていた)、天狗平にテントを張って(深田がテントを張ったのはたぶん檜廊下の南だろう)中ノ岳まで。八海山へはロープウェイで薬師岳まで登ったが、そこからスキーブーツで八ツ峰を越えるのは私には難しく、その翌年、阿寺山から尾根を辿って入道岳(八海山最高峰)まで登った。だから、八海山のシンボルである大日岳にはまだ登頂を果たしていない。
だがこの二つの八海山登山のとき、そこから眺めた駒ヶ岳と中ノ岳の真っ白な姿は素晴らしかった。それは深田が書いている通り「水無川を距てて見る駒ヶ岳は実に見事である。中ノ岳の丸みを帯びた柔らかい山容に引き換え、駒は切り立った大障壁の上に大きく立っている」であった。
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この山には私は二度、山スキーで登った。どちらも記憶に深く刻み込まれている。更に、深田が書いているようにこの山は八海山と中ノ岳と合わせて越後三山(深田は魚沼三山と記している)として、関越道を南北に移動しながら簡単に眺めを楽しむことができ、私も数限りなく何度も眺めた。
深田は八海山についてずいぶん書いているが、「ギザギザ並んだ岩峰群」は八ツ峰、「その右に続く最高点の丸山」は入道岳のことだろう。当時はまだ大日岳や入道岳という呼称が根付いていなかったのかもしれない。深田は11月初旬にテント1泊で三山縦走を果たしている。枝折峠から歩き始め、小倉山を経て駒ヶ岳、中ノ岳に立ち、そこから難所のオカメノゾキまで急降下し、八海山に登り返し、八ツ峰を越えて下った大崎口というのは薬師岳の北西6㎞以上あるから、夜の9時過ぎというのもうなずける。
私は三山縦走はまだ果たしておらず、銀山平から駒ヶ岳を越え(深田は頂上に「小さな祠」と記しているが、私が登った時は像が立っていた)、天狗平にテントを張って(深田がテントを張ったのはたぶん檜廊下の南だろう)中ノ岳まで。八海山へはロープウェイで薬師岳まで登ったが、そこからスキーブーツで八ツ峰を越えるのは私には難しく、その翌年、阿寺山から尾根を辿って入道岳(八海山最高峰)まで登った。だから、八海山のシンボルである大日岳にはまだ登頂を果たしていない。
だがこの二つの八海山登山のとき、そこから眺めた駒ヶ岳と中ノ岳の真っ白な姿は素晴らしかった。それは深田が書いている通り「水無川を距てて見る駒ヶ岳は実に見事である。中ノ岳の丸みを帯びた柔らかい山容に引き換え、駒は切り立った大障壁の上に大きく立っている」であった。
未丈ヶ岳途上から見るごつごつした駒ヶ岳。こちら側は比較的緩やかでスキー滑走も可能
八海山・入道岳付近から見る「切り立った大障壁」の駒ヶ岳。
中ノ岳への途上から見るアシンメトリーな駒ヶ岳。雪のついた東側に対し、西側は黒い岩肌を見せている
駒ヶ岳の頂上手前で雲の上に出て、雲海の上に避難小屋が浮いている
p118 高頭 式:高頭仁兵衛(タカトウ ジンベエ) 明治〜昭和期の登山家 元・日本山岳会会長。生年明治10(1877)年5月20日 没年昭和33(1958)年4月6日 出生地新潟県三島郡深沢村 別名別名=高頭 式(タカトウ ショク),字=義明 経歴豪農の嗣子に生まれる。幼時より登山に親しみ、探検時代の日本アルプスに足跡をのこす。日本古来の地誌紀行等の文献を収集し、明治39年「日本山嶽志」を刊行。38年には小島烏水、高野鷹蔵らと日本山岳会を創立し、その機関誌「山岳」の編集長を創刊号から永く務める。昭和8年第2代日本山岳会会長に就任。他の著書に「日本太陽暦年表」「御国の咄し」などがある。