この山について深田は、なんと登山前日に道後温泉の中で見た山部赤人の長歌から始める。「難しくて読めなかった・・・ただその中に『伊予能高嶺』という文字を見つけ、うれしくなってそこばかりみつめていた」というこの長歌は、今ではネットで全文を読むことができる。神=天皇の祖先を讃える歌で、「・・・温泉が豊かで山が多く、なかでも伊予の高嶺・・・・」という感じらしい。
この伊予能高嶺が石鎚山であることを疑問視する井上通泰は柳田国男の兄で、歌人・国文学者ということだが、山部赤人の歌の「伊予の高嶺」はやはり深田が言う通り、石鎚山で間違いないと思う。松山周辺にも山は多いが、皿ヶ嶺にしても平だし、際立って「高嶺」とは言えないだろう。なにせ松山城から見えるのだから、山部赤人も石鎚山を見て「高嶺」と感じたに違いない。
さて、松山に泊まった深田は西条ではなく南の面河渓に回って石鎚山に登っている。
仁淀川の上流沿いに登るこの道の起点には今や「石鎚スカイライン」(県道12)の入口があり、このスカイラインを登ると文庫本にあるこごしい尖峰の石鎚山を望むことができる。
深田は三ノ鎖の下で表参道に出て、書いてないがたぶん三ノ鎖を登ったのだろう。この大きくて太い鎖は意外に登りにくい「途中で足場が全くないところがあり、鎖の輪に足をかければ良いことに気づく。これで三ノ鎖は楽に登れる」というのが私の経験。
そして深田は弥山から「四国最高の地に立つために」天狗岳まで登っている。日本百名山にこう書かれてしまっては、今では皆が天狗岳まで登っているに違いない。
私も同様。2回目のときは天狗岳の先の南尖峰まで足を延ばしてみたが、二回とも霧に包まれていて視界はなし。
深田は秋の好天に恵まれて心が躍っている:「有象無象の山々のかなたに遠く土佐湾があった。東の方には無数の山並みが続いて、その果てに阿波剣山の連嶺も望まれた・・・・四国一円がわが眼中に収まっているような気がした。それにしてもなんと山の多い国だろう・・・」。
深田はこの後、表参道を下り、成就の拝殿と黒瀬ダムの北側の黒瀬峠から石鎚山を見ている:「拝殿の屋根の上に石鎚の岩の頂がスックとそびえ立っていた・・・・ふと見ると、たそがれの空にぼかしたような石鎚山の姿が遠く浮かんでいた・・・・感動した」。
私は最初に登った時に成就も黒瀬ダムも通っているが、あいにく雲で石鎚山は隠れていた。だが私は、東に続く尾根上の笹ヶ森や瓶ヶ森付近から、西に連なる二ノ森から、要塞のような岩峰の姿の石鎚山を見た。連峰の諸峰を従えて雲海の上に浮かんでいるその姿は、まさに四国の屋根だった。
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII
この山について深田は、なんと登山前日に道後温泉の中で見た山部赤人の長歌から始める。「難しくて読めなかった・・・ただその中に『伊予能高嶺』という文字を見つけ、うれしくなってそこばかりみつめていた」というこの長歌は、今ではネットで全文を読むことができる。神=天皇の祖先を讃える歌で、「・・・温泉が豊かで山が多く、なかでも伊予の高嶺・・・・」という感じらしい。
この伊予能高嶺が石鎚山であることを疑問視する井上通泰は柳田国男の兄で、歌人・国文学者ということだが、山部赤人の歌の「伊予の高嶺」はやはり深田が言う通り、石鎚山で間違いないと思う。松山周辺にも山は多いが、皿ヶ嶺にしても平だし、際立って「高嶺」とは言えないだろう。なにせ松山城から見えるのだから、山部赤人も石鎚山を見て「高嶺」と感じたに違いない。
さて、松山に泊まった深田は西条ではなく南の面河渓に回って石鎚山に登っている。仁淀川の上流沿いに登るこの道の起点には今や「石鎚スカイライン」(県道12)の入口があり、このスカイラインを登ると文庫本にあるこごしい尖峰の石鎚山を望むことができる。深田は三ノ鎖の下で表参道に出て、書いてないがたぶん三ノ鎖を登ったのだろう。この大きくて太い鎖は意外に登りにくい「途中で足場が全くないところがあり、鎖の輪に足をかければ良いことに気づく。これで三ノ鎖は楽に登れる」というのが私の経験。
そして深田は弥山から「四国最高の地に立つために」天狗岳まで登っている。日本百名山にこう書かれてしまっては、今では皆が天狗岳まで登っているに違いない。私も同様。2回目のときは天狗岳の先の南尖峰まで足を延ばしてみたが、二回とも霧に包まれていて視界はなし。深田は秋の好天に恵まれて心が躍っている:「有象無象の山々のかなたに遠く土佐湾があった。東の方には無数の山並みが続いて、その果てに阿波剣山の連嶺も望まれた・・・・四国一円がわが眼中に収まっているような気がした。それにしてもなんと山の多い国だろう・・・」。
深田はこの後、表参道を下り、成就の拝殿と黒瀬ダムの北側の黒瀬峠から石鎚山を見ている:「拝殿の屋根の上に石鎚の岩の頂がスックとそびえ立っていた・・・・ふと見ると、たそがれの空にぼかしたような石鎚山の姿が遠く浮かんでいた・・・・感動した」。
私は最初に登った時に成就も黒瀬ダムも通っているが、あいにく雲で石鎚山は隠れていた。だが私は、東に続く尾根上の笹ヶ森や瓶ヶ森付近から、西に連なる二ノ森から、要塞のような岩峰の姿の石鎚山を見た。連峰の諸峰を従えて雲海の上に浮かんでいるその姿は、まさに四国の屋根だった。
p394 山部赤人「至伊予温泉作歌一首並短歌」:訓読 皇神祖(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 敷きませる 国のことごと 湯(ゆ)はしも 多(さわ)にあれども 島山の 宣(よろ)しき国と 極(きは)みこぎ 伊予(いよ)の高嶺(たかね)の 射狭庭(いさには)の 岡に立ちて 謌(うた)思(しの)ひ 辞(こと)思(しの)ひせし み湯(ゆ)の上の 樹群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代(よ)に 神さびゆかむ 行幸(いでまし)処(ところ) 私訳 天皇の皇祖である神が宣言なされた、神に継ながる天皇が治めなさる大和の国中に温泉はたくさんあるけれど、島山の立派な国とここにかき集めたような伊予の高き嶺の、神を祭る射狭庭の岡に立って、昔に詠われた謌を懐かしみ、述べられた詞を懐かしむと、温泉の上に差し掛ける樹群を見ると樅の木も育ちその世代を継ぎ、鳴く鳥も昔も今も声は変わらない。遠い時代に天皇が神として御出でになられた、御幸された場所です。 (竹取翁と万葉集のお勉強)
p394 井上通泰(みちやす):歌人,国文学者,眼科医。兵庫県姫路の生れ。松岡家の三男。弟に柳田国男,松岡静雄,松岡映丘がいる。帝国大学医科大学(現,東京大学)卒。1877年,医師井上碩平の養子となる。1889年,森鴎外らの訳詩集《於母影》に参画。1892年,香川景樹に傾倒して《桂園叢書》を刊行,以後生涯にわたって歌道にいそしむ。1906年には歌会〈常磐会〉を設立,翌年,御歌所寄人となり,勅任官待遇となる。《明治天皇御集》《昭憲皇太后御集》を編纂(へんさん)。歌集に《井上通泰詠草》《南天荘歌集》など,研究書に《万葉集新考》《播磨風土記新考》《上代歴史地理新考》などがある。