深田はこの章でこの山を羊蹄山と呼ぶことに「私は強く反対する・・・・私は山の名前は昔からのものを尊重したいのであって、便宜的な略名を好まない」として、約半ページを割いて「後方羊蹄山(しりべしやま)」という日本書紀に記された歴史的な名前を採用するよう論じているが、残念ながら世の風潮は「羊蹄山(ようていざん)」に落ち着いているようであり、これは悪沢岳とは対極である。
因みに「し」という音文字のために採用された「ぎしぎし」という植物はオンタデみたいな雑草のようだ。
私は「後方羊蹄山」という記載にしばらくこだわったが、深田も記しているすぐ東南にある1,107m峰の尻別岳に登ってから、発音が「しりべし」と「しりべつ」で似ていてややこしくなるのに気づき、「ようていざん」と「しりべしたけ」に帰着した。
この章の後半は登山記録であり、まず松浦武四郎の1858年2月の厳冬期登山。「百年も前の厳冬期に北海道の1,900m近くの山に登ったということはおどろくべき勇猛心と言わねばなるまい」と深田は武四郎をここでも称える。1912年にスキーで頂上近くまで登ったテオドル・フォン・レルヒは記載の通り日本で初めて本格的なスキー指導を行ったとあるから、それまではそもそも日本にスキーなど無かったということだ。
深田が登った時の比羅夫駅は当時「貧弱な停車場」とあるが、今では巨大な駅舎が立っていて、鉄道マニアが騒ぎそうな姿。
私が登ったのは2006年5月4日、南側の真狩の登山口から火口までスキー・シールとシートラーゲンで登り、そこから火口縁沿いに東側にある最高点頂上標識のところまで行った。遠景は霞んでいたが、巨大な噴火口や麓が見えていて、感激の登山だった。もう一度登って、最高点の200mほど先にある三角点に行き、できれば火口底にも滑ってみたい(これは富士山と同じく、登り返しがしんどいだろう)。
SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS
深田はこの章でこの山を羊蹄山と呼ぶことに「私は強く反対する・・・・私は山の名前は昔からのものを尊重したいのであって、便宜的な略名を好まない」として、約半ページを割いて「後方羊蹄山(しりべしやま)」という日本書紀に記された歴史的な名前を採用するよう論じているが、残念ながら世の風潮は「羊蹄山(ようていざん)」に落ち着いているようであり、これは悪沢岳とは対極である。
因みに「し」という音文字のために採用された「ぎしぎし」という植物はオンタデみたいな雑草のようだ。私は「後方羊蹄山」という記載にしばらくこだわったが、深田も記しているすぐ東南にある1,107m峰の尻別岳に登ってから、発音が「しりべし」と「しりべつ」で似ていてややこしくなるのに気づき、「ようていざん」と「しりべしたけ」に帰着した。
この章の後半は登山記録であり、まず松浦武四郎の1858年2月の厳冬期登山。「百年も前の厳冬期に北海道の1,900m近くの山に登ったということはおどろくべき勇猛心と言わねばなるまい」と深田は武四郎をここでも称える。1912年にスキーで頂上近くまで登ったテオドル・フォン・レルヒは記載の通り日本で初めて本格的なスキー指導を行ったとあるから、それまではそもそも日本にスキーなど無かったということだ。
深田が登った時の比羅夫駅は当時「貧弱な停車場」とあるが、今では巨大な駅舎が立っていて、鉄道マニアが騒ぎそうな姿。
私が登ったのは2006年5月4日、南側の真狩の登山口から火口までスキー・シールとシートラーゲンで登り、そこから火口縁沿いに東側にある最高点頂上標識のところまで行った。遠景は霞んでいたが、巨大な噴火口や麓が見えていて、感激の登山だった。もう一度登って、最高点の200mほど先にある三角点に行き、できれば火口底にも滑ってみたい(これは富士山と同じく、登り返しがしんどいだろう)。
p46 ぎしぎし: ギシギシ(羊蹄、Rumex japonicus)はタデ科の多年草。別名、シノネ [1] 、ウシグサ [2] ともよばれる。 生薬名および中国植物名は、羊蹄(ヨウテイ)
p49 テオドル・フォン・レルヒ:テオドール・エードラー・フォン・レルヒ( Theodor Edler von Lerch, 1869年 8月31日 - 1945年 12月24日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。最終階級は陸軍少将。日本で初めて、本格的なスキー指導をおこなった人物である。