この山についても深田は山名について紙面を割き、地理院には「東岳」とあるが「どうあっても悪沢岳でらねばならぬ・・・・読者にお願いしたいのは、どうかこれを東岳と呼ばず、悪沢岳という名で呼んでいただきたい」と懇願する。その根拠は、大井川上流西俣から悪沢岳を眺め、案内の漁師の言う通りにその山名を最初に「山岳」に報告した萩野音松氏の記事なのだが、その名を「確定的なもの」と深田が認識するようになったのは、「小島烏水、高野鷹蔵、高頭式、中村清太郎、三枝威之介という日本山岳会初期の錚々たるメンバーが登頂したからである。
彼らは声を揃えて「吾々は悪沢岳に登った」と報告しているのに、後輩の深田が「いや正しくは東岳だ」などとは言えまい。因みに、大井川上流西俣というのは、現在の登山口、椹島の先の二軒小屋の少し先で大井川から分岐しており、その分岐から2.5㎞ほど上流に「悪沢」が実在している。よって、その「悪沢」の源頭にあるから「悪沢岳」だという論拠は正しいと思う。
二つ目に深田が語るのは「頂上には既に人跡があった」ことで、深田が登った時には「明治19年」以来の「開山50年記念碑」があったという。更に深田は赤石岳の開山も明治19年だったことを記しているが、塩見岳で言及した三伏峠と伝付峠を繋ぐ伊奈街道も明治19年だとすると、これら明治19年の開山、開通は何か関連があるのかもしれない。
三つ目の深田の話はこの山が遠くから見えること。なんと東京・新宿三越屋上から悪沢岳を見たのは小暮理太郎、深田も伊豆の天城、沼津から清水までの列車から、静岡の海岸から見ているが、私がこの山を同定したのは奥秩父や北岳、塩見岳、笊ヶ岳、青薙山それに深南の大無間山などからであり、特に笊ヶ岳、青薙山、大無間山からは冠雪の巨人たちが勢揃いした中の悪沢岳は強烈だった。
最後に深田は悪沢岳の山容のすばらしさについて「頂上から北へ向かった尾根の屈託のない伸び伸びした姿勢、頂上から東へ進んで大岩石の散乱した異様な眺め、さらにそこから千枚岳の方へ下る広々とした高原、あるいはまた荒川岳から悪沢岳に続く尾根南面の圏谷状の大斜面。いずれも目を見張るような風景」と絶賛しているが、私の見た最高の悪沢岳は赤石岳から見た姿で、「やや左に傾いた巨大な三角形は不思議な魅力を持っていて、目が離せない」ものだった。
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この山についても深田は山名について紙面を割き、地理院には「東岳」とあるが「どうあっても悪沢岳でらねばならぬ・・・・読者にお願いしたいのは、どうかこれを東岳と呼ばず、悪沢岳という名で呼んでいただきたい」と懇願する。その根拠は、大井川上流西俣から悪沢岳を眺め、案内の漁師の言う通りにその山名を最初に「山岳」に報告した萩野音松氏の記事なのだが、その名を「確定的なもの」と深田が認識するようになったのは、「小島烏水、高野鷹蔵、高頭式、中村清太郎、三枝威之介という日本山岳会初期の錚々たるメンバーが登頂したからである。
彼らは声を揃えて「吾々は悪沢岳に登った」と報告しているのに、後輩の深田が「いや正しくは東岳だ」などとは言えまい。因みに、大井川上流西俣というのは、現在の登山口、椹島の先の二軒小屋の少し先で大井川から分岐しており、その分岐から2.5㎞ほど上流に「悪沢」が実在している。よって、その「悪沢」の源頭にあるから「悪沢岳」だという論拠は正しいと思う。
二つ目に深田が語るのは「頂上には既に人跡があった」ことで、深田が登った時には「明治19年」以来の「開山50年記念碑」があったという。更に深田は赤石岳の開山も明治19年だったことを記しているが、塩見岳で言及した三伏峠と伝付峠を繋ぐ伊奈街道も明治19年だとすると、これら明治19年の開山、開通は何か関連があるのかもしれない。
三つ目の深田の話はこの山が遠くから見えること。なんと東京・新宿三越屋上から悪沢岳を見たのは小暮理太郎、深田も伊豆の天城、沼津から清水までの列車から、静岡の海岸から見ているが、私がこの山を同定したのは奥秩父や北岳、塩見岳、笊ヶ岳、青薙山それに深南の大無間山などからであり、特に笊ヶ岳、青薙山、大無間山からは冠雪の巨人たちが勢揃いした中の悪沢岳は強烈だった。
最後に深田は悪沢岳の山容のすばらしさについて「頂上から北へ向かった尾根の屈託のない伸び伸びした姿勢、頂上から東へ進んで大岩石の散乱した異様な眺め、さらにそこから千枚岳の方へ下る広々とした高原、あるいはまた荒川岳から悪沢岳に続く尾根南面の圏谷状の大斜面。いずれも目を見張るような風景」と絶賛しているが、私の見た最高の悪沢岳は赤石岳から見た姿で、「やや左に傾いた巨大な三角形は不思議な魅力を持っていて、目が離せない」ものだった。