1999年(2025年3月8日読了)
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これは「日本百名山」に50座を追加して「日本150名山」に増やそうという意図があるように思える作品であるが、「日本百名山」の各章のように推敲を重ねて練られた末の、洗練された作品とは言い難い。長さもまちまちで、笈岳や笊ヶ岳のように長い紀行文もあれば、短いものもあり、越前と大和の二上山のように和歌満載のものもあり、戦前の若い頃のエネルギーが溢れ出している文章、戦時中に人目をはばかっての登山、そして晩年の、不二さんたち老童仲間との山行。特に晩年の山行は、疲労に苦しみながらも、仲間たちとの山旅を実に楽しんでいる深田の様子が伝わってくる。結局、深田は、一度選んだ「日本百名山」をどれも外すことなく、増やすことを選んだ。少なくとも「ペテガリ」はそうだし、「笈岳」や「桜島」には強烈な個性、魅力が感じられる。
今の名寄はかなり大きな都市になっているが、当時の名寄はそうではなかった。深田たちは谷のずっと西にある名寄線・智東駅(今はもう無い)からまず九度山に向かう。九度山の「山の家」で深田は素晴らしい景色に出合うが、「美しいとか素晴らしいとかいう単語を並べるほか能のない」ことに困り果てた挙句、ジイドを引いている:「芸術は節度には耐えられるけれども、法外なものは嫌う。ある描写が一の代わりに十のものを含ませたとしても、そのために一層人を動かすことにはならない」。
九度山から滑走し、今度はピヤシリに向かう。若い二人が深雪を交代でラッセルしたらしい。頂上が近づくと雪はクラストし、「雪は吹き払われてカリカリ・・・・カランカランとスキーの音を立てながら、ついに頂上に達した」。「頂上は寒くてたまらない」のに情景描写は忘れない:「東に大きく伸びた原に林立している樹氷が見事だった。どちらを眺めても知らない山ばかり・・・」。
ピヤシリから滑走し、九度山にもう一度登り、そこから最後の滑走。「ピヤシリの頂上を出て停車場の前でスキーを脱ぐまで・・・一回の転倒もしなかった・・・・いかに愉快な滑降であったことが分かる」と言う深田。ここでは会心の滑走を楽しんだようだ。
冒頭で深田は、「『日本百名山』を出したとき、私はまだこの山を見ていなかった。ニペソツには申し訳なかったが、その中に入れなかった。実に立派な山であることを、登ってみて初めて知った」と書いている。私も深田と同様、前天狗のコルから初めてニペソツを見て、驚いた、深田と同じように、目を奪われてしばらく目が離せなかった。そんなに、前天狗から見るニペソツは強烈である。だからもし、深田がニペソツについて知っていたら、間違いなく日本百名山に入れていたに違いない。
初めてニペソツを見たときの感動は、短い記述の中に凝縮されていて、その時の深田の驚きが直に伝わってくる:「天狗のコルに近づくと、皆が何かを私に期待する面持ちで待っていた。それも道理、コルで初めて私はニペソツを見た。全く意表を衝くニペソツの現れ方だった。それはスックと高く立っていた。私は息を飲んで見惚れた。天は私に幸いして、しばらく山巓にまとう霧を払ってくれた。流れるガスの間に隠見するニペソツは高く、そして気品があった。峩々たる岩峰を連ね、その中央にひときわ高く主峰のピラミッドが立っている。豪壮で優美、天下の名峰たるに恥じない」。
「要塞地帯で五万分の一地図はない」「うっかりそんな山に登ったらどんな目にあうかもしれない」というから、これは戦前もしくは戦時中の記事と思われる。しかも大湊線に乗った深田は終点大湊駅の手前の「田名部駅」で降り、そこには「ガタ馬車が客を呼ぶラッパを鳴らしている」とあるが、今は田名部町はあるが田名部駅は無い。たぶん今の下北駅であろう。
深田の心を捕えたのはその姿であった。「それは下北半島の中に駱駝の背のように三つばかりコブを並べてひときわ高く立っている山・・・・僕は直ぐそれが有名な恐山であることが分かった」というのは釜臥山の描写である。しかし当時は要塞であったこの山には登れないから、深田は麓にある宇曾利山湖までで我慢する。今でも釜臥山、北国山、障子山には自衛隊の基地があり、特に釜臥山のガメラ・レーダーは有名だが、登山道を登って釜臥山の三角点頂上まで行くことができる。それは頂上を占めている自衛隊基地を囲う金網の外にある。
深田は湖畔で山を眺めることで我慢する:「最も整然として姿のいいのは大尽山、その左に小尽山、北国山(ほっこく)、屏風山等が連なり、西の方には丸山がある。名高い釜臥山はここからは見えない」。
恐山や釜臥山の描写は少ないが、旅で見聞した様々な情景や風物の描写が盛りだくさん。まるでしゃべりちらかしているように次から次へ、脈絡もなく書き綴られている:「・・・・・横浜という駅を過ぎると、静かな波の彼方に恐山が見えてきた大湊湾を前に控えて、ここから望んだ恐山は一幅の名画をなしている・・・・・小説家の習癖であろうか、僕はこういう見知らぬ土地の寂びれた待合所で、土地の人々の話すのを聞いたり観察したりするのは、はなはだ興味がある・・・・・・・・参詣人はたいてい黄色い手拭を襟に巻いたといったふうの団体で、これらは皆田名部の町から湯坂を越えてバスで直接やってくる。こちらの方が普通の表道なのだ」。
深田たちが向かった「保村」というのはもう無いが、地図上には「保」という地名は残っている。そして深田の辿った笊ヶ岳への道は今の奥沢谷から布引山を経て行く道ではなく、その北にある保川に沿って行くものであった。
笊ヶ岳は双耳であり、確かに東側の小笊は、東側からだと目立つだろう:p214「突兀と立った円頂が初めて見えた。これは笊ヶ岳の前峰で、小笊あるいは保ノ笊と呼ばれている」。ここから4ページほど、苦しい登山の詳細が語られる。まるで自分で登っているようで、深田たちの苦しみが感じ取れる:p214「靴を濡らすのが嫌で、できるだけ徒渉は避けていたが、とうとうハダシになって冷たい水を一度だけ渡らねばならなかった・・・・」p216「二股の右の沢は黒棚、左の沢は本棚と呼ばれているが、道はその中間の尾根に通じている。坂は急で、初めジグザグ道がおぼろに認められたが、やがて雪の下に消されてしまった」。
苦しみながらも登り続ける深田。ほっと一息ついて眺める景色、これこそが山に登る目的なのかもしれない:p216「富士見小屋に着く・・・屋根も周囲もはがれた哀れな体・・・・しかしここから振り返った富士山はすばらしかった。全く冨士という奴は、他の山々との均衡を破って図抜けて大きい。
そして深田たちは、頂上を眼にしたところで引き返す。登山をしていて、特に苦労して登っている時、こういう決断をするのは難しい。引き返してから後悔することもあるだろう。だが、この決断は正しいし、とても勇気がこもっていると思う:p217「ようやく限界がひらけて深い谷を距てた向こうに笊の頂上が見える地点に達した。まだだいぶある。時刻は二時半、この進行状況であ頂上まで行けそうもない・・・・・登山の英雄主義者であるためには、私たちはもうあまり苦しい目にあいたくない年になっていた。『このへんで引き返そうか』茂知君の提言に、もちろん私は不服がなかった」。
これは深田が晩年、郷里で登り残していた笈岳に登った紀行記である。日本百名山を出した時はまだ登っておらず、それが日本百名山に選定しなかった理由になっている。
中宮温泉手前の小屋に泊り、尾添川沿いにの道を歩き、籠渡しで一人づつ対岸に渡り、そこからガムシャラなまっすぐな急な道を登ったというのは、たぶん中宮から尾添川の右岸を歩き、二つ目の二股の先で左岸に渡り、山毛欅尾山に登ったのだろう。これは私が笈岳に登ったときと同じルートである。深田が書いているのと同じに、途中から残雪で山は白く覆われた。私は山毛欅尾山から更にヤブの細尾根の先まで進んでテントを張ったのだが、深田たちはもう少し先まで進んだようだ。
私はクラストしていた冬瓜平からシリタカ山北コルまでの急斜面トラバースをアイゼンで登り、帰りはスキーで豪快に滑走した。当時のメモ「スキーを履いて滑り込むと結構な斜面で、(先に降りて行った徒歩の)二人の間をぬってハデな連続ターンとなる。驚かせてしまったのか二人は降りて来ずに戻っていってしまった。急な固い下り斜面なので楽ではなかろう」。
今では、笈岳西尾根に日帰りルート(かなりの難路らしい)が付けられているらしい。ネットには「二百名山最難関」とある。
深田たちは尾根通しでなく、トラバースしてヤブに悩まされたとあるが、無事狭い頂上に到達し、快晴にも恵まれ、「長い間あこがれていた山の頂上に立って私の喜びは限りなかった」と感動に包まれている。そして登ることができた幸運に感謝することを忘れない:「笈ヶ岳登山の好期はわずかの期間である。もう少し早かったらまだ十分に雪が締まっていなかっただろう。もう少し遅れたらブッシュが出て邪魔をしただろう。ちょうど良い条件の時に登りしかも快晴に恵まれて幸運だったと言わねばなるまい」。
驚いたことに、深田は桜島の頂上に立っていた。今は立入禁止になっていて登れないが、この桜島の登頂記はすごい迫力。当時も登山道が整備されていた訳ではないようで、途中までは指導標があったようだが、途中からは道なき道を、地元の田中敏治君の案内で歩く。
深田は九州に、霧島山、開聞岳、屋久島に登りに来たのだが、鹿児島に来た時に桜島を見て、登らねばならない、と決意したようだ:p293「桜島という名に捕らわれて、僕はただの島くらいに思っていた。だがこれは一つの山なのだ。海ぎしから直ぐそびえ立つ大きな山なのだ。高さは1,000mを越えている」。
そして、屋久島から帰ってきて、すぐに桜島に向かい、上陸してすぐ登りにかかる。靴に小石が入るのでゲートル(たぶんスパッツ)を付け、小石のザラザラ道を登り、遂に最高峰の北岳に着く。これだけでも喝采だが、この日のハイライトはこの後にやってくる:p298 「三つの噴火口が一列に並んでいる・・・北岳、中岳、南岳と呼んでいる・・・北岳の・・旧噴火口へ降り、対岸に登った時、思わずあッと声を立てた。すぐ目の前の中岳を越えて向こうに、南岳の噴火口があんぐりと大きい口の中を見せて、濛々と激しく噴煙が立ち昇っているのだ。豪壮というか凄惨というかとにかく感動的な景観である。しばらくはただ魅されたように眺めていた」(地図11)。
深田はいつも往路を戻らず、違う道を辿るのだが、この日はなんと、p299「西に向かって雪崩れ落ちた砂礫の急斜面を下った・・・・この降りはあまり楽でなく、初心者には勧め難い」。玄人でも嫌だろう。さすがにこの日のうちには鹿児島に帰れず、桜島の「林芙美子さんの生家」の温泉宿に泊る。「前は南国の海で、その遥か海の果てに三角形の開聞岳が小さく浮いていた。こんなに景色のいい海の温泉宿は初めてである」。この桜島登頂記は少なくともこの「百名山以外の名山50」のなかのハイライトの一つだろう。
HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH
これはどうやら、日本百名山の一番初めの、利尻岳に登った直前の山旅のようである。その利尻岳の章は鴛泊から登るところから始まっていて、その前段の細かな旅程などは省かれているが、この礼文岳の記述によると、深田は「利尻と礼文、十勝と大雪山を20日間」で廻ろうとして北海道の山友たちと連絡をとり、小樽から30トンの定期船「おたる丸」で利尻島に向かっている。私が稚内から乗ったハートランド・フェリーは3,555トン、長さ95.7mと比べるとなんとも頼りない。
狭い部屋で「トウキビをかじり、トリスを傾けて、首途の杯(かどでのさかずき)をあげた」というのは威勢がいいが、利尻島に着いてみると利尻岳は雲で隠れていた。そこでまず、礼文岳に向かう:「今日のうちに礼文島へ渡ろう」。深田たちはジープで沓形から鴛泊に向かうのだが、このときの鴛泊の風景描写がなつかしい:「鴛泊は海へ突き出た岩山の岬のかげに紺碧の水を湛えた、明るい港であった。青い芝で覆われた岬の背に細い道が通じ、その道の果てにお宮が見える。少し離れて灯台の白堊の建物が立っている」。これはまさに私が2018年4月29日に登ったペシ岬のことである。背中の曲がった細い岬のてっぺんに三角点と展望台があり、その奥に白堊の灯台があったが、お宮は見なかった。私はフェリーで渡って車で移動したが、深田は現地で「トラックに便乗して」香深港から登山口のある内路に向かう。「礼文島は南北に細長く、サソリの形をしている。北に向かって二つの角を差し出し、南は利尻島の方へ尾を振っている」という表現はおもしろい。だが正確には「角」ではなくて「ハサミ」だろう。深田は礼文島の「人口約1万」と書いているが、本当だろうか。現在の礼文島の人口は2,182人(利尻島1,865人)だが、昔はもっと多かったのか。
1948年5月9日の金環食の観測で科学者や報道陣が千人余りも押し寄せ、そのときの記念碑が道沿いに立っている(写真2)。私もその道を通っているのだが、記念碑には気づかなかった。深田たちは校庭のすぐ脇から始まっている登山道を登る。私が登った登山道と同じはずだが、校庭ではなく、登山口の立派な標識が立っている。因みに私はスキーを担いで登ったが、4月末の礼文岳には雪は無かった(利尻岳にはたっぷりあったのに)。だが、深田と同じく、標高490mの頂上で一等三角点に会った。深田が登った時は北が晴れていて「ゴロタ岬がみごとな岩の絶壁を見せ」、下山途中では南も晴れて来て利尻岳を見ている:「今まで曇って見えなかった利尻岳が海を隔てて夕空にスックとそびえているのを眼にして、私の喜びは完成された。それは利尻富士と呼ばれる整った姿というよりむしろ鋭い岩峰の形で立っていた」。この鋭い岩峰の利尻岳を、私は礼文島のゴロタ岬から、そして東海岸から何度も目にした。
深田はこの後、トラックで北の船泊港まで行き、その途中で久種湖(くす)を見ている:「たそがれの柔らかな光の中で、その静かな湖はひどく神秘的に見えた」。この久種湖を私も礼文岳からゴロタ山に向かう途上で見ている(写真1)。深田はサソリの二本の角のスコトン岬にも金田岬にも行っていないが、今では補装車道が通じているので簡単に行ける。
翌日、深田は西海岸の名所桃岩に行く:「250mの三角点のある巨大な一個の岩山」は私も見たが、登る道はついていなかった。深田は西海岸の漁港元地に行き、地蔵岩という高さ50mのオベリスクを見ている。私はトンネルを抜けて元地の西海岸に出て、車道の終点メノウ浜まで行ってみた。そこから北の海岸沿いの写真に写っているのが、たぶん地蔵岩なのだろう(写真4)。前日夜はガヤ(エゾメバル)のサシミを食べ(写真3)、この日も昼食の御馳走を食べていた深田は、香深に戻って利尻島に向かう:「香深に戻ってくると、定期船が今にも陸を離れようとするときだった。私たちは大慌てで飛び乗り、再び利尻島へ向かった。海上から明日登ろうとする利尻岳が良く見えた」。
p10 ハートランド・フェリー:3,555トン、95.7m、19.6ノット、就航H15年5月(元東日本フェリー)
p10 首途の杯(かどでのさかずき)
p12 白亜・白堊:1.白壁。「―の殿堂」2.土質石灰石。貝がらなどから成る柔らかい白色の土。白墨の原料、白壁の塗料などになる。
p13 礼文島の人口:約2,600人(利尻島は4,700人)
この山に私は2011年3月20日に登っている。「北海道雪山ガイド」にスキーで登れる山として紹介してあり、シールで登って帰りは滑走。深田は北海道庁からの講演旅行依頼に応じて、函館、江刺、室蘭、浦河、旭川、留萌、稚内を巡ったときに登っているが、函館以外は初めてというのは意外。これはまだ、日本百名山執筆よりも前だったのだろう。そして、深田もまたスキーで登り、滑走を大いに楽しんでいる。
今の名寄はかなり大きな都市になっているが、当時の名寄はそうではなかった:「ガランとした夜半の名寄駅前の雪の上へ放り出されたように一人立った時には、少し後悔に似た気持ちもあった」。小学校の教師二人の案内と共に深田が最初に向かったのは九度山。ここには今はピッシリ・スキー場があり、南の谷向かいには円山ジャンプ競技場がある。従って、私はそこまで谷沿いの車道を入り、駐車場からピヤシリに向かってシールで登り始めたのだが、深田たちは谷のずっと西にある名寄線・智東駅(今はもう無い)からまず九度山に向かう:「この寒駅を出てみて驚いた。停車場以外に家なんか一軒もない。しかも駅前から直ちにスロープになっていて、その上が落葉松の林だ。僕等は直ぐスキーを着けて登り始めた」。九度山の「山の家」で深田は素晴らしい景色に出合うが、「美しいとか素晴らしいとかいう単語を並べるほか能のない」ことに困り果てた挙句、ジイドを引いている:「芸術は節度には耐えられるけれども、法外なものは嫌う。ある描写が一の代わりに十のものを含ませたとしても、そのために一層人を動かすことにはならない」。なのにまた次のページで「この美しい」と書いてしまい、「また出た!」と釈明している。
九度山から滑走し、今度はピヤシリに向かう。若い二人が深雪を交代でラッセルしたらしい。頂上が近づくと雪はクラストし、「雪は吹き払われてカリカリ・・・・カランカランとスキーの音を立てながら、ついに頂上に達した」。「頂上は寒くてたまらない」のに情景描写は忘れない:「東に大きく伸びた原に林立している樹氷が見事だった。どちらを眺めても知らない山ばかり・・・」。こういうことは、慣れ親しんだ本州の山では無かったことだろう。甲信越あたりでは、深田は周囲の山をいちいち名指しして同定することができた。かくいう私も、北海道では知らない山ばかりということが多い(最近はだいぶ同定できるようになってきた)。
ピヤシリから滑走し、九度山にもう一度登り、そこから最後の滑走。「ピヤシリの頂上を出て停車場の前でスキーを脱ぐまで・・・一回の転倒もしなかった・・・・いかに愉快な滑降であったことが分かる」と言う深田。ここでは会心の滑走を楽しんだようだ。
p22 智東駅(ちとうえき):北海道(上川総合振興局)名寄市字智恵文智東にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)宗谷本線の駅(廃駅)である。 電報略号はチト。 事務管理コードは▲121820。 冬期休業の臨時駅を経て、2006年(平成18年)3月18日に廃駅となった。
ここで深田は羽田からYS11で帯広に飛び、そこで北海道の山友たちと落ち合う。コンテッサ1300(写真7)の平野明と高沢光男、真っ白なコロナの氏家民雄と浅利欣吉。そして糠平湖を過ぎ、十勝三股の手前を西に入り(たぶんR273no三股橋)、通称「御殿」と呼ばれる飯場跡で帯広エーデルワイスの4人と落ち合い、テントを張る。翌朝の夜明けは早い:「ふと目が覚めるともうテントの外は明るくなっている。時計を見ると3時前、なるほど北の国である・・・鳥がしきりに鳴いている」。だが、総勢9人が歩き始めたのは5時20分。このときの沢沿いの道は良く分からないが、行き会った登山道、沢から尾根の上に取付くまでが凄い急坂で「熊ころがし」という名がついてるのはたぶん今の十石峠への道だろう。
私は深田たちと同様、この急坂に苦労してようやく稜線の十石峠に着き、そこからまず北東に登ってユニ石狩岳に登ったが、深田の記述には十石峠もユニ石狩岳も出てこない。当時はまだ名前が付けられてなかったのか? 深田たちはさっさと音更山まで行ってしまう。私はこの日は音更山手前の稜線上でテント泊。翌朝にまず音更山頂上に到り、立派な一等三角点と深田たちがウイスキーで乾杯した「岩石の散らばった、ゆったりとした平地・・・・積んであったケルン」のところにザックを降ろし、向かいの石狩岳を見ていた(写真5)。
私が登った時は遠景は見えていなかったが、深田はそこから「大雪山の連峰・・・武利・武華の山々・・・クマネシリの連山・・・ニペソツとウペペサンケ」を見ている。そして「雪の中に冷やしておいたユデアズキを金時にして食べてから」あっという間に石狩岳の頂上に着いてしまう。深田は石狩岳の頂上に坂本直行画伯からゆだねられたヒマラヤの高山植物の種を埋めているが、それは何だったのか? 私が登ったのは5月末で、ハイマツの他、花は全く見なかった。私が覚えているのは、石狩岳の頂上標識のあるピークの先に、もっと高いピークが見えたので、そこまで行ったこと(写真6)。
そこから私が下ったシュナイダー・コースは深田の頃はまだなく、深田は往路を戻り、「熊ころがし」の急坂で「つまづいた途端、完全に1回転してモンドリ落ち」ている。下手に手を使わず、1回転したのが良かったのだろう:「泥だらけになったほか何の怪我もなかった」。下山した深田たちは洋風に改装された幌加温泉でなく、「いかにも湯治宿らしい平屋建ての昔風の」山田温泉まで行く(地図1)。もう8時を過ぎていたのにエーデウワイスの別組の4人が待っていて、岩風呂で汗を流した後、「渡り廊下の横の空き地で鍋を囲んだ。化粧柳が青く、ツバメが盛んに飛び交っていた」。この頃の深田は登山と仕事に加えて友人たちとの団欒を楽しみ、大切にしていたようである。
冒頭で深田は、「『日本百名山』を出したとき、私はまだこの山を見ていなかった。ニペソツには申し訳なかったが、その中に入れなかった。実に立派な山であることを、登ってみて初めて知った」と書いている。私も深田と同様、前天狗のコルから初めてニペソツを見て、驚いた、深田と同じように、目を奪われてしばらく目が離せなかった。そんなに、前天狗から見るニペソツは強烈である。だからもし、深田がニペソツについて知っていたら、間違いなく日本百名山に入れていたに違いない。どの山を外したかまでは分からない。北海道を10座に増やしたかもしれない。
ところが、この章の7ページのうち、最初の4ページは帯広から十勝三股経由で登山口にテントを張るところまでの記述に費やされている。帯広でエーデルワイスという山の会の人たちと合流し、平野明氏のコンテッサ1300(写真7)で糠平湖まで行ったこと、そこから鉄道で十勝三股まで行き(まだR273が出来ていなかったらしい)、トラックで沢沿いの道を登山口まで行ってテントを張り、そこで待ち受けていた札幌の日本山岳会員の人たちと一緒に饗宴を張ったことなどなど。このときの深田にとって、愛すべき山の友人たちとの交歓は余程嬉しかったに違いない。
しかし、この後の3ページで語られるニペソツ登山の中で、初めてニペソツを見たときの感動は、短い記述の中に凝縮されていて、その時の深田の驚きが直に伝わってくる:「天狗のコルに近づくと、皆が何かを私に期待する面持ちで待っていた。それも道理、コルで初めて私はニペソツを見た。全く意表を衝くニペソツの現れ方だった。それはスックと高く立っていた。私は息を飲んで見惚れた。天は私に幸いして、しばらく山巓にまとう霧を払ってくれた。流れるガスの間に隠見するニペソツは高く、そして気品があった。峩々たる岩峰を連ね、その中央にひときわ高く主峰のピラミッドが立っている。豪壮で優美、天下の名峰たるに恥じない」。
最後に深田が書いているニペソツの意味、村上啓司氏の「もとは沢の名・・・・ニペシ・オツとはシナノキが多いという意・・・・・シナノキはアイヌにとって生活上重要だった」というのは、今でも通説のようである。「ニペソツは下界からあまりよく見えない」というのもその通りだと思うが、私はニペソツをオプタテシケなどの周囲の山から見たことが何度かある。その姿は前天狗から見たあの豪壮な姿とはかなり違っていて、最初はニペソツだとは分からなかった。もう一度登ってみたい山である。
深田がこの山に登ったのはだいぶ晩年のことらしく、山旅の途中で何度もへばって休んでいる。石狩岳やニペソツのときはそんな記述はないが、このときは調子が悪かったのかもしれない。当時はもう暑寒ダムや南暑寒荘ができているが、雨竜から先は小型トラックでも難儀しているから、道は良くなかったのだろう。「モダンな自炊制のヒュッテ」というのはたぶん今のものと同じだろう。「夜明けの空に城塞のようにキリッと立っている岩峰がいかめしい。名は円山だが、角形をしている」というのも見た。白竜の滝も見たが深田の書いている「一本、棒のように落ちている」という姿でなく、二本に分かれているように見える。季節によって、もしくは年を経るにつれて変わったのかもしれない。
そして広大な雨竜沼湿原が眼前に現われ、驚く深田:「天上の楽園というありふれたことばも、ここでは真実であった。私たちはまず一つの沼にありついてその美しさに見惚れたが、そんな沼はそれから次から次へと現れた。湿原の中に点々と象嵌されたそれらの鏡面には、山が影を落とし、真っ黄色のコウホネの花が咲いている・・・・」。傾斜はそれほどでもないが、長い登り下りに深田は疲れる:「鞍部から暑寒別への長い急な登りでついに私の精も尽きかけた・・・・・最後の一番急なところでヘコタれていると、上から迎えが来た・・・・・岩の道を登ると、そこが頂上であった・・・・・頂上は広々として、暑寒別山群の主峰たるにふさわしい風格を備えていた。浜益岳、浜益御殿、雄冬山、天狗岳(たぶん幌天狗)などの山々が前面に連なり・・・・この眺望だけで私には十分であった・・・・・・下りは増毛側の道を採った・・・・1076mの三角点は『炭釜ノ上』と呼ばれ、そこの道端に座って休んだ」。
翌朝、深田は案内されて海岸沿いの道を車で南下し、「歩古丹」というところまで行っているが、当時はまだR231は建設中、「歩古丹」というのは雄冬岬や銀鱗の滝よりも北にあるから、当時はまだ増毛から浜益へは道が不便だったのだろう(地図2)。もっと昔は「駅逓」という制度で郵便を人力で運んでいたという記述もある。(「駅逓」配達で使われた「掃き古したツマゴ」とは分厚いワラ草履らしい(写真8))
私は夏に暑寒別岳に深田と同じように南暑寒荘Pから登り(往復)、春に増毛方面からスキーで登った。どちらの登山でも最高の眺めは郡別岳であり、深田が書いている「(南暑寒別岳の頂上に達して)第一の眺めは郡別岳、谷を隔てて颯爽と立っている。あんな山に登った人はごくわずかだろう(p40)」と同じ気持ち。ただし、夏道はまだないものの、雪山でこの山に登っている人は少なくない(ネットにはたくさん載っている)。深田は「暑寒別の山群のあらゆるルートが開拓整備され、『未踏』と題する山岳会の年報も出ている」と書いているが、夏道が整備されている増毛連峰の山は暑寒別岳と南暑寒別岳くらい。それでも、雪山で登ることができ、その眺めは最高だから、これでいいのかもしれない。
p38 オシラリカ川:尾白利加川
p39 闇汁(やみじる):互いに持ち寄った食料を、暗闇(くらやみ)の中で鍋(なべ)で煮て食べる、遊びの会食。闇鍋。
p39 円山:853m、南暑寒荘の北西700mほどの近くにある岩峰
p40「(南暑寒別岳の頂上に達して)第一の眺めは郡別岳、谷を隔てて颯爽と立っている。あんな山に登った人はごくわずかだろう」
p41「1076mの三角点は『炭釜ノ上』と呼ばれ、そこの道端にすわりこんで休んだ」
p42 駅逓(えきてい):1.宿駅から次の宿駅へ人や馬をかえて送ること。2.郵便。
p42「目下建設中の新しい道」・・・・R231
この山を深田は「北海道のめぼしい山」の一つと紹介し、「北海道の山はたいていなだらかな稜線をもつ鷹揚な山容である中に、芦別岳はこごしい岩根をもって知られている。北海道の谷川岳とも言われ、道内のロック・クライマーを集めている」と紹介している。深田は当時の山辺村の山辺山岳会の若い五名と共に山に登るが、彼らもクライマーなのだろう。彼らが往路にとったユーフレ川(勇振川)沿いの旧道は、私は歩いたことがないので見ていないが、深田が何度か書いている「夫婦岩(みょうと)」は私も何度も見た。
砂防ダムの下に吊橋がかかっていて、深田は頼まれてそれに「カッコウ橋」と名付け、その表札を書いたという。「横板」とあるから、もう痛んでなくなっているだろう。二股600mの近くにあるユーフレ小屋も私は見たことが無いが、深田は「鉄筋コンクリート造り、その壁は玉石で積んである。大きくはないががっちりしていて山小屋としては一級品と称していい。中もきれいに整頓されていた」と褒めている。
二股600mから芦別岳1726mまでは水平距離5㎞、標高差1100mだから、かなりの急傾斜。深田はしかし「尾根伝いは長かったが、それにしても退屈せず、あまり疲労も感じなかったのは移り行く景観のためであろうか」と元気だったようだ。「右手にはビャクシン山の迫力の岩壁」というのは槙柏山1184mのことだろう。ついでに俳句の連句を載せている:「鶯の声の巧拙尾根を行く、万緑の上に突兀夫婦岩、雪つけて鋭し芦別岳の穂は、鶯や登りつつ摘むアイヌ葱、雪渓や挙る芦別岩峰群」。
午後おそく頂上に着いた時、霧が巻いて一面白濁とあるから、景色は見えなかったのだろう。私は深田が帰路にとった新道を春にスキーで2度登り、2度とも頂上は晴れていて、迫力の景観を見ることができた。このとき新道の途中で私が見た屏風岩やX(エックス)ルンゼを、もし深田が見ていたら、「新道は・・・・面白みのない道であった」とは書かなかったと思う。
これは深田が昭和19年3月に軍隊に召集される直前の紀行である。小林秀雄は戦時中も招集されることなく、軍の依頼や指示で公演を行ったり、記事を書いたりしているが(たぶん何か患っていたのだろう)、深田は士官となって中国に渡り、2年半、従軍している。深田はこのときのことを全く明るく、すがすがしい雰囲気で語っており、「部下には危ないことは決してさせなかった」と書いていたと思う。なんだか上官に怒られそうな態度だが、そこはたぶん上手に立ち回っていたのだろう。
さて、この戦時中に北海道でスキーなどできる状況ではない、というのが最初の書き出しにあり、それでも鉄道省からの依頼の仕事を済ませた後、「札幌鉄道局K君とB君」と落ち合い、ニセコに向かう。当時は狩太駅と言ったらしい:p50 狩太駅:今のニセコ駅。1906(明治39)年12月15日に真狩駅(まっかりえき)より改称して狩太駅。1968(昭和43)年4月1日に狩太駅(かりぶとえき)より改称してニセコ駅 。
翌朝、ニセコから三人はシール・スキーでニセコアンヌプリの南に広がる雪原を登り、南斜面を西にトラバースして「ニセコ山の家」に泊まる。これはイワオヌプリの麓の五色温泉で見た覚えがあるが、残念ながら今はもう閉館しているようだ:p51 ニセコ山の家:五色温泉郷、 山の家の前身は 国鉄ニセコ山の家. 昭和12年12月創設。現在閉館。
なにせ、深田たちがトラバースしたニセコアンヌプリの南斜面には今はニセコアンヌプリ国際スキー場があり、ニセコ山の家の南にもニセコモイワスキー場があり、周囲には温泉や宿はたくさんある。そもそも日帰りの人が多いだろう。
ここで突然、深田はニセコアンヌプリという山名考証を始める。深田の解釈は「ニセコアン=左側の」「ヌプリ=山」、つまり左側の山。ネットによると、 「『ニセコ』とは、アイヌ語で『切り立った崖』という意味があります。 また『ヌプリ』とはアイヌ語で『山』という意味があり、『ニセコアンヌプリ』とは、アイヌ語で『切り立った崖(とその下に川)がある山』という意味になります」とある。
深田はここでマッカリヌプリ=後方羊蹄山(しりべしやま)の山名考証に踏み込み、羊蹄を「シ」と読ませることを牧野富太郎氏が書いていること、 更に万葉集にもこの用法が使われていることを指摘する。ここまで調べるとは、もの凄い文書量だと思う:p53 「毎年に梅は咲けども現身の世の人君羊蹄春なかりけり」:(漢文)毎年梅者開友空蝉之世人吾羊蹄春無有来 (和文)年のはに梅は咲けどもうつせみの世の人君し春なかりけり (現代語訳)毎年変わらずに梅は咲くが、現世の人であるあなたには春がないことだ。
三日目の朝、深田たちがニセコアンヌプリではなく、イワオヌプリに向かったのは、当時のニセコアンヌプリには国防上の機密施設があって侵入禁止になっていたため。私がニセコアンヌプリに登ったとき、頂上にレーダードームを見た覚えがある。今はもう、頂上のすぐ下までリフトが伸びているから、機密ということはない。「切歯扼腕の思い」の深田はイワオヌプリに2時間ほどで登り、ニセコアンヌプリやチセヌプリ、ワイスホルンを眺め、更に西に尾根を伝って1040m峰から南西の急斜面を何度か滑ったとある。これがイワオヌプリ西峰1039mだとすると、本峰から西に900mくらい離れている。
私がイワオヌプリに登った時はそれほど晴れておらず、イワオヌプリ本峰の南西斜面から登り、外輪にある頂上標識峰から浅い火口底を越えて最高点峰に達し、帰路では登ってきた南西斜面を滑ったが、急斜面だった記憶がある。
この後、ニセコアンヌプリへの思いが断ち切れぬ深田は、禁札の立っているニセコアンヌプリの標高900mまで登り、そこから滑走して昆布温泉に下っている。その斜面は北大や小樽高商の練習場と書いているが、そこはまさに現在、ニセコモイワスキー場になっている。二人と別れて函館の妹の家に泊まった深田は、そこで召集令状が来たという電報を受け取る:「敗戦前の最後の山旅として、このニセコアンヌプリ行は僕にとっては書き残しでおきたい記念なのである」。
p54 切歯扼腕(せっしやくわん):歯をくいしばり、自分の腕を握りしめて、ひどくくやしがったり怒ったりすること。
これは9月末、20日間の北海道の山旅の最後に、羊蹄山の北にある倶知安高校で講演した後、講演に同行していた風見氏と倶知安高校の天野時次郎先生の3人での山旅の話:「倶知安高校はまことに羨ましい位置を占めてた.後方羊蹄山の真下にある・・・一点の雲もない空を背景にその美しい形の山はまともに大きく立っていた」(地図3)。
3人は前日にチセヌプリの麓にある湯元温泉に向かう。「湯元温泉には直営のチセハウスが一軒あるきり、ヒュッテ風のガッシリした建物である」とあるが、その後ここにはスキー場ができ、温泉宿も並んだ。今ではスキー場はリフトからキャットに変わり、チセハウスも閉館している。
とまれ、深田たちが登ったのは9月、しかも当日の天気はあまり良くなく、ニトヌプリとの鞍部から急坂を登ってチセヌプリの頂上に立ち、シャクナゲ岳を見ながらそれとの鞍部に下り、長沼まで下って引き返している。私は雪山以外のニセコに登ったことが無いが、夏や秋にも行くべきなのかもしれない。シャクナゲ岳との鞍部付近について深田は当時「娘の股」「ヴィーナスの股」と呼ばれていたと書いているが、今では「ビーナスの丘」と名付けられている。
あとは山名考。「チセヌプリのチセは『家』、ヌプリは『山』で、住居の屋根型をした山という意、ニトヌプリは・・・・ニットクヌプリではないか・・・・細い棒状に凸起した山の意・・・」というあたりはいつもの調子だが、「ニセコアンヌプリの語義について・・・・天野先生が笑いながら手渡された生徒会誌を見ると、先生の験べによってやんわりやりこめられているではないか」というのはたぶん、深田の「左側の山」というのは誤りで、「切り立った崖の山」が正しいという指摘だったのだろう。
これは暑寒別岳の帰りに渡島駒ヶ岳に登った記録。冒頭に札幌から函館に向かう汽車から眺めた渡島駒ヶ岳の立派な姿、奇術師のように見える位置が変わり、姿が変化することが語られるが、これは私が車で道央道から何度も見た渡島駒ヶ岳の印象そのもの。その中で深田は代用的な二つを挙げている:「大沼公園で駒ヶ岳は代表的な形をとる。馬の背と呼ばれるなだらかな曲線の左端にキッと槍の穂を立てた岩峰、この岩峰がおだやかな山の全体を引き締めて言うに言われず潔い」「森町あたりから望んだ駒の形を推す人もある。そこからは主峰と砂原岳とがラクダのこぶのような双耳峰を作って、派手ではないが落ち着いた調和のとれた山に見える。山の玄人はこちらの眺めが好きかもしれない」。
次は噴火の歴史。寛永17年(1640年)、安政3年(1856年)、昭和4年(1929年)。最近では「 1929年には大規模なマグマ噴火、1942年には中規模な噴火、2000年に小規模な噴火を起こしています」とあり、2000年以降数年間は登山禁止となり、今でも馬の背までしか登ることができない。今は住宅街の広がる斜面を車で標高380m付近の登山口まで登れるが、深田も車で砂礫の道を六合目近くまで登ったとある。私は登山禁止期間中に登山口までいって「登山認定」した後、馬の背までの登山をまだ果たしていない。
羨ましいことに深田は、あの剣ヶ峰の頂上まで登っている:「剣ヶ峰に近づくにつれてだんだん傾斜が急になり、もはや一つの岩の三角錐ではなく、岩ブスマを立てつらねたような壁になった。その壁を登って頂きに立つ」。「一匹の蝉がすぐそばの岩にきて、かまびすしい声をあげたが、すぐ飛び去って行った」というのも北海道の夏山ならではのものかもしれない。
p62 はろばろ(遥遥):遠く隔たっている。 「はろはろなり」とも。 [訳] はるか遠くに思われることだよ。 白雲が幾重もの重なりになって隔てている筑紫の国は
1968年6月とあるから、これは深田が亡くなる3年前の山旅である。同行者は中川泰助、草刈信行、塩田良仲の三名。途中で寄った当別の男子修道院というのはたぶん「灯台の聖母トラピスト大修道院」で、今でも健在。この修道院に寄り、紙面の半分を江戸時代のキリシタン迫害、金山で働いていたキリシタン106名が処刑されたことに充てているのは、たぶん同行者にキリスト信者がいたためだろう。塩田氏は登山の途中にある千軒金山跡の十字架で大きな声で賛美歌を歌ったとある。ただし深田自身は付記で、その後、鞍部のお花畑に大きな十字架が立ったことについて「なぜあの素朴な原を原始のままにしておけなかったのであろうか。大へん残念である」と書いているから、キリシタンに肩入れしている訳ではない。誤解されないように付記を付け加えたのかもしれない。
さて、深田たちが函館から車で走ったのは福山街道とあるが、たぶん今の松前道(R228)であろう。青函連絡船ができる前は津軽半島の三厩から松前に船で渡るのがメインルートであったため、当時の松前は「上方」にも劣らないほどだったという。深田は「海底鉄道が出来上がれば再びこの地は活気を取り戻すであろう」と書いているが、函館駅の手前の新幹線の駅は木古内で、松前と函館の中間付近。深田たちが前夜に泊まった知内温泉は今も健在。
翌朝は小雨が降っていて、深田たちは登山を諦めようと思ったが、女中さんに「こんな天気の日はきっと晴れます」と言われ、その「女中さんの予言は当たった・・・・空は見事に晴れてきた」。今なら気象庁の天気分布予報を調べるところだろう。今は便利になった。だが、登山そのものは今も昔もそう変わらないようだ:「林道は知内川を渡る所で終わり、そこに車をおいていきなりジャブジャブ川を渡るところから登山が始まった。それから先ずっと川岸を伝ったりしていくのではっきりした道はない」。
私が登った時は、深田が最初にジャブジャブ渡ったところには橋ができており、川の岸に登山道が付いていたが細く頼りなく、あぶなっかしい渡渉を繰り返さねばならなかった。深田たちが朝食を食べた広河原は、帰路では二股と書いているところと思われるが、今ではキャンプ場もあるらしい。そこから大きく左カーブした3㎞ほど先の千軒金山跡の古い石垣(その上には十字架)は私も見た。私が登ったのも6月だったが、そこからは残雪が出てきて花もたくさん咲いていた。薄紫のシラネアオイ、白いハクサンイチゲ、黄色いキンバイソウ、紫のアズマギク。1.3㎞くらい登った大千軒と前千軒の鞍部には大きな十字架が立ててあったが、それほど派手でもない。アンテナみたいな感じで、それほど周囲の景観を損なってはいないと思う。
p64 男子修道院・・・・灯台の聖母トラピスト大修道院:19 世紀の赤レンガの修道院。修道士の作ったバター、ジャム、クッキーを販売する店がある。
p64 トラピスト:カトリック修道会の一。厳律シトー会の俗称。1664年、フランスのシトー会ラ‐トラップ修道院改革に始まり、1892年に分離して独立の修道会となった。
p65 毛氈(もうせん):獣毛を原料としたフェルト。敷物用とされる。中国伝来とみられ,赤色に染めた緋(ひ)毛氈が多い。花氈(かせん)は獣毛の代りに木綿糸を用いて花文を表したもの。
「要塞地帯で五万分の一地図はない」「うっかりそんな山に登ったらどんな目にあうかもしれない」というから、これは戦前もしくは戦時中の記事と思われる。しかも大湊線に乗った深田は終点大湊駅の手前の「田名部駅」で降り、そこには「ガタ馬車が客を呼ぶラッパを鳴らしている」とあるが、今は田名部町はあるが田名部駅は無い。たぶん今の下北駅であろう。
深田の心を捕えたのはその姿であった。「それは下北半島の中に駱駝の背のように三つばかりコブを並べてひときわ高く立っている山・・・・僕は直ぐそれが有名な恐山であることが分かった」というのは釜臥山の描写である。しかし当時は要塞であったこの山には登れないから、深田は麓にある宇曾利山湖までで我慢する。今でも釜臥山、北国山、障子山には自衛隊の基地があり、特に釜臥山のガメラ・レーダーは有名だが、登山道を登って釜臥山の三角点頂上まで行くことができる。それは頂上を占めている自衛隊基地を囲う金網の外にある。
田名部駅で下りた深田は田名部町でバスに乗り、下北半島の北岸の大町に出て、更に北西に海岸沿いをバスに乗り、下風呂の温泉宿に泊まる。大町で下風呂行きのバスを待合所で長く待たされた深田は、「本当の人生は都会より田舎にあるような気がする・・・・本当の人生の喜怒哀楽は田舎の方に多く存在するものだ」というのは、まるでその理由を書いてないところからすると、待たされたこと、それを我慢したことへ八つ当たり的、皮肉的表現なのかもしれない。下風呂からどうやって宇曾利山湖までいくのかな? と思っていると、翌日、深田は大町まで戻り、なんとそこから正津川沿いの道を歩き始め、いつの間にか宇曾利山湖についてしまう。
ここで山名考を本文と注に書いている:「恐山というのは火口湖の宇曾利湖からの転訛であろう・・・・・菩提寺の略縁起には、宇曾利山は鵜翦(うそれ)山から由来したと書いてある。すなわち開山の慈覚大師が釜臥山に草庵を結んで修行していると、ある日鵜の鳥が両翅を翻して北方の山上に至った。大師がその鵜のあとを追うと一つの湖水を発見した。鵜の鳥が翦(そ)れて知らせたのだから、以後鵜翦山と名付けたという・・・・・」。
深田は湖畔で山を眺めることで我慢する:「最も整然として姿のいいのは大尽山、その左に小尽山、北国山(ほっこく)、屏風山等が連なり、西の方には丸山がある。名高い釜臥山はここからは見えない」。「釜臥山は北西にある朝比奈岳と同じく火口壁の外側にある寄生火山であって、双方とも火口を欠いた円頂丘である」というのはやや疑問。火口は無いのだから、外輪山の一角ということでは?
恐山や釜臥山の描写は少ないが、旅で見聞した様々な情景や風物の描写が盛りだくさん。まるでしゃべりちらかしているように次から次へ、脈絡もなく書き綴られている:「蔦温泉を引き上げたのは空気の澄み切った実に惜しいくらい晴れ渡った日だった・・・・・横浜という駅を過ぎると、静かな波の彼方に恐山が見えてきた大湊湾を前に控えて、ここから望んだ恐山は一幅の名画をなしている・・・・・小説家の習癖であろうか、僕はこういう見知らぬ土地の寂びれた待合所で、土地の人々の話すのを聞いたり観察したりするのは、はなはだ興味がある・・・・・下風呂は本州最北の温泉である。二つの共同湯があって、そのうち大湯は食塩泉、新湯は硫黄泉である・・・参詣人はたいてい黄色い手拭を襟に巻いたといったふうの団体で、これらは皆田名部の町から湯坂を越えてバスで直接やってくる。こちらの方が普通の表道なのだ」。
この4ページの紀行記で深田は仲間(不二さん、茂知君、コンちゃん、ペンちゃん、夏ベエ)にアプローチを全て任せていて、目が覚めると八郎潟の脇、鷹ノ巣で阿仁合線(今は秋田内陸線)に乗り換え、阿仁前田駅(たぶん今の阿仁前田温泉駅)で降りるのだが、そこからバスを2度乗り換えて行った「様田という村」というのがどこだかわからない。どうやらこの村は森吉ダム(阿仁前田温泉から東に5㎞弱)ができたときにダムの底に沈んだらしい。ネットで調べると、森吉ダムの縁だと出るが、グーグルマップにも地理院地図にも地名は載ってない。
正午に様田村に着いた深田たちはそこから歩き始める。森吉山まで11㎞ほどだからそれほどでもないが、深田たちは6月の東北の猛暑に遭遇して苦労:「森林地帯に入って少しホッとした」。ここで、「五人の老童」に一人加わった若い夏ベエの話:p80「大学山岳部というところは穂高とか剣とか合宿だの荷上げだのそんなことばかりに根を入れて、山を楽しむことを知らない。少しは小父さんたちの山登りの仕方も見習いなさいというようなことで、近頃は時々一緒に山に行く。若いから強い。頂上での乾杯用の缶ビールはたいてい彼のザックの中にことづけられる」。
深緑に混じる白い花はコブシ:「本当はタムシバという花だそうだが、私にはその区別が良く分からない」。そして野鳥の話:「一番よく聞くのはウグイス、それに混じってホトトギス、それにカッコウ、これくらいは誰にでもわかる。少し複雑になるともう分からない。同行のペンちゃんは近頃野鳥の会に入って、小鳥の声や姿にやや詳しくなったようである。あれは何? と囀りが聞こえるごとに彼に訊く」。
「私たちがあてにしていた小屋が閉まっているということを道で出会った山仕事の人から聞いて当惑したが、その人の親切でその人たちの小屋・・・『ぶな帯林道作業場』」に深田たちは泊まるのだが、これらはどのあたりなのだろう。「翌朝・・・小屋を出発して2時間ほどで一ノ越に着いた」とあるから、たぶん一ノ越の手前3㎞ほどのところの森吉スキー場跡のあたりではなかろうか。私はこのスキー場で滑ったことはあるが、その後、そのスキー場から森吉山に登ろうとして行ったときにはもう閉鎖していた。
「小さなお社」というのはたぶん森吉神社。そこから深田は正面に森吉山を見る:「それは1454mの山とは思えぬほど堂々とした山容で、大きく根を張った独立峰の美しさを備えていた。やはり名山だった。1時間後にその頂上に立った。私の歓喜は無限であった、と言えば誇張になろうか。いや、そうではない。中学生のときからその名を知っていた山に、50年後初めてその頂上に立ったのである。嬉しくないことがあろうか」。
ヒマラヤから帰った年の深田はかなり饒舌になっているようだ。世界一の山岳景観を目の当たりにしてきて、日本の山の風景描写はほとんどない。最初は地名考:p82「オボナイとはアイヌ語で『霜の深い沢』の意の由。この詩的で音楽的な名前が付近の三町村合併して田沢湖町という散文的な名前に変わった。町村合併は近年の流行だが、そのためユニークな地名を捨てるのは惜しい」。
なお、深田たちが乗ったローカル線は今では秋田新幹線にグレードアップしており、生保内駅は田沢湖駅に変わっている。これが深田は気に入らないのである:p83「古い名を蔑(ないがし)ろにして取っつきやすい名称に変えることに私は反対である・・・・私の生まれ故郷の町も・・・合併して加賀市となった。しかし私は故郷へ出す手紙には決して新名称は使わない。旧来の大聖寺町と書く」。
バスで田沢湖畔に着いたとき、深田には「大して変哲もない平凡な丸い湖」と映った田沢湖は、次のページで展望台から眺めると「美しく見渡せた。すべて湖の一番美しいのは湖畔よりも高みから見下ろした時である」。だが私には、山を背景にした田沢湖や八郎潟、琵琶湖などもなかなかいいと思う。
深田はそこからポンポン蒸気(たぶん船で田沢湖東岸から北岸の)御座石神社に行き、「神社は荒れ果てていた」と書いているが、今の御座石神社には大きな赤鳥居が立ち、田沢湖を背景にフォト・スポットになっている。そのポンポン蒸気船から深田は秋田駒と乳頭山を見ている:「湖上から駒ヶ岳を望んだのが・・・この日第一の収穫であった。雄大というのではないが、品のいい、形の美しい山であった・・・・乳頭山も見えた。可愛らしい乳首のような格好をしている」。
ここで山名考:「乳頭はニュウツムリと呼ぶのが本来で、それを漢音読みにニュウトウとなったのだろう。物の本には『におつもり』の転訛だと書いてある。『にお』は刈稲を円錐形に高く積み上げたもので、所によっては『にょう』とも『にゅう』とも言う」。
一方、田沢湖畔から見たとき、田沢湖畔から乳頭温泉まで標高差600mを登るバスの中で、バスガイドさんが「案内・・・それとも野球・・・」と尋ねると、p84「野球、野球という声が異口同音にあがった。ちょうど日本シリーズの西鉄と巨人の決勝戦であった。プロ野球の魅力はかくも大であるか」。さもありなん、この年(1958年)の日本シリーズは西鉄の三連勝、0章3敗から4連勝して逆転勝ちした伝説の試合だった(*)。
次の朝、深田たちは温泉から乳頭山に登り、秋田駒までの縦走に向かうが、笊森山のあたりで「アラレ混じりの雨風」に襲われ、引き返す。最後のページは野球が無かったのか、バスガイドさんの話二つ:「田沢湖の深さは世界でバイカル湖に次ぎ、風景の美しいことはコモ湖に匹敵するそうでございます」。もう一つは恋仲だった八郎潟の八郎太郎と田沢湖の辰子姫の話。八郎潟の干拓で居所がなくなった八郎太郎は「先日の22号台風に乗じて辰子姫のもとへ婿入りしてきたそうでございます」。
p82 さもあらばあれ(然も有らば有れ): どうなろうともかまわない。 どうとでもなれ。
(*)p84 1958年の日本シリーズ:西鉄は後世に語り継がれるパ・リーグでの大逆転優勝と巨人との伝説の日本シリーズを制し、3年連続日本一を達成、記憶に残る一年となった。 最強軍団として確固たる地位を確立した西鉄のV3は揺るがないと予想されたが、雪辱に燃える南海ホークスに一時10.5ゲームの大差をつけられる。しかし、8月以降、西鉄は36勝10敗2分という驚異的な勝率で南海を追い抜き、3連覇を達成する。 巨人との日本シリーズは、さらに伝説を生んだ。2年連続して三原監督率いる西鉄に敗れていた水原監督率いる巨人が闘志むき出しで対峙し、巨人の3勝0敗と一方的な展開となる。しかし、ここから西鉄の反撃が始まる。 雨で流れて順延になった第4戦、序盤に巨人に先制されるも、豊田泰光を中心とした打線の奮起、稲尾和久の力投により、ようやく“1勝”を手にする。この勝利の背景には逸話がある。雨で順延になった試合、午前8時半には試合の中止が決定した。実は、午前10時には雨があがっていたという。水原監督が「稲尾を休ませるために故意に雨天順延とした」と訴えたが中止は覆らず、翌日の西鉄の1勝へと繋がった。稲尾和久は第1、3戦と先発しており、順延がなければ第4戦で快投することができなかったかもしれない。稲尾和久はこのシリーズで6試合に登板し(うち5試合は先発)4勝すべてを挙げている。
この山を語るのに、深田はまず万葉集の歌を挙げる。もしかすると、この万葉集の歌がこの小編の核心なのかもしれない:「伊夜彦 おのれ神さび 青雲の たなびく日すら 小雨そぼふる あなに神さび 伊夜彦 神のふもとに 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮衣きて 角つきながら」。「神さび」=神々しいさま、という言葉が2回でてくるこの歌は、まさにこの山が神そのものとして崇められていたことを示している。しかし、この神の山が観光地化でホテルが建ち、ロープウェイが架けられ、自動車道路が建設中で、公園になりつつあることを深田は嘆く。これは「日本百名山」の中で、この山を選ばなかったことの理由としても挙げている。
ただし、植林や治水事業で道が山奥まで伸び、それらを利用して登山することについては深田は利便性をおおいに活用しており、自然破壊との矛盾について「原始的な自然が壊されるなどと嘆く資格はない」と「日本百名山・幌尻岳」の中で述べている。そして深田は、南西に50㎞も離れている柏崎からローカル線越後線に乗り、海沿いに、途中から内陸に入り、弥彦山に向かう。その線路は昔の主街道に沿っていて、義経・弁慶や芭蕉もこの道を通ったという。越後線は昔、良寛が隠棲していたという国上山(くがみ)の脇を通り、次に弥彦山が現われ、深田は弥彦線に乗り換えて終点に着く。
そこではなんと藤島玄が待っていて、神社にお参りしてから弥彦山に登る:「ロープウェイなどの世話にはならない」。ここで掲げられる良寛の歌は二つ目の核心かもしれない:「いやひこの 杉のかげ道 ふみわけて われ来にけらし そのかげ道を」。まさにこの良寛の心境で、深田は弥彦山に登ったのだろう。この小編のクライマックスはこの後にやってくる。
頂上に着く前に、深田は高頭仁兵衛(高頭式)の記念碑とレリーフに寄っているのだが、越後山岳会は毎年、弥彦山で「高頭祭」を開催していて、「越後各地の山岳会の若者たちが続々と集まっていた」。そして山岳会の人々は松明をかざして頂上から麓まで行進する。深田が「成り行き上私が先頭に立たされた」のは、「日本百名山」が世に出て、広く名前が知られていたからだろう。「暑かった」と書いているが、大勢の登山者を従えて先頭を歩いたのは気分が良かったに違いない。
一方、私がこの山に登ったのは雨の日で、ロープウェイのやっかいになって頂上まで登り、高頭翁の記念碑にすら寄らずに降りている。情けない。もう一度、国上山と共に登るべきだろう。
p87 神さび(かみ‐さび): 神らしく振舞うこと。神々(こうごう)しいさまであること。また、古めかしくて閑寂であること。かんさび。
p89 稍(ようやく、やや):1. すえ、木には梢といい、稲の茎などには稍という。 2. やや、やややや、ようやく。 次第を以て、順次にあらわれることをいう。
これは深田の山スキーの記録である。深田は勿論、ゲレンデスキーなどよりも山スキーを愛していた:p94「スキーの醍醐味はそれからである。彼岸を過ぎると日は長くなる、空気の中に春の光が溢れる。もう寒風に身を背けることもなければ、かじかんだ手で締め具を外すこともない。全身に明るい陽を浴びて日いっぱい滑り降りる。まだそんなに雪がある? あるとも。ただしそれはリフトのある普通のスキー場ではない。山である」。p95「だいたいリフト利用のゲレンデ・スキーは私の性に合わない。私のスキーは山登り用であって、大きな山を舞台に滑るのでなければ甲斐がない」。
そして深田は守門岳(ここでは守門山と書いている)と浅草岳に登ろうと新潟に行く。長岡で乗り換えた栃尾鉄道というのはもう無いが、その終点の栃尾には今は道の駅があり、バスで向かった栃堀というのは今の大岳登山口のある大平の南よりも北に7㎞ほどのところ。そこから案内を頼んだ明大生の佐藤玄作君と「道院ヒュッテ」まで行き、一泊するが、たぶん今の「道院自然ふれあいの森」のあたりだろう。
翌日はあいにくの天気だったが、深田たちは西尾根をたどり、途中で今もある保久礼小屋の近く(仏教の発起折(ほっきおれ)の宛字とある。小屋は雪に埋まっていたらしい)を登っていく。滑降距離選手権が大岳頂上から栃堀まで15㎞で行われ、45分の新記録が出たとある。途中で立ったまま弁当:p100「さすがにじっとしていると寒い。魔法瓶の熱いお茶。世の中に何がうまいといって、寒い雪の上で飲む、のどを焼く熱いお茶にまさるものはあるまい」。
そして、だだっぴろい大岳の頂上に着く。雲の中で視界は全くない:p100「『ほら吊鐘が見えます』と先に立った佐藤君が指さした。目の前に雪面上2,3尺突き出た棒の先に欠けた鋳物の鐘が下がっていた。それが大岳の頂上だった」。守門岳・本峰を諦めて深田たちは往路を滑走し、道院ヒュッテでもう一泊し、翌日、五味沢から浅草岳を目指す。このとき深田たちが通った大平牧場というのが、今の登山ルートになっている大平だろう。深田たちは只見線入広瀬駅から大白川駅まで電車に乗っているが、今は日本屈指のローカル路線となった只見線は、この時はなんと小出から大白川までしか通じていなかったらしい。
ここでなぜか、深田は八十里越、六十里越について触れ、「それらの峠道も今は通る人もなく、荒れ果てるに任せ、断続して道跡を探し出すのさえ困難な箇所もあるという」と書いている。「八十里越」は現在、会津百名山に選定され、やや荒れてはいるが、道は存在し、私は数年前、その道を歩いた。六十里越というのはどうだろう。
私は大原スキー場から登ったときと大岳経由で登った時で、全く違う守門岳の姿を見ていたが、深田もまたこの二つの違う守門山の姿を見ていた:p103「橋の上で、私はふたたび守門山に出会ったが、今度はすっかり風貌が変わっていた。あの広々とした前景をもった遥かな守門山ではなく、ここからは直ちに仰ぎ見る守門山であった。前に見たような優しい線を持った純白の山ではなく、こごしい岩を交えて切り立った屏風であった。・・・・同じ山でも、それを望む方面によって、これほど性格の違う山になる。しかしどちらも守門の立派さにかわりはない」。
結局、深田は浅草岳にも登れずに帰路につくが、守門岳の二つの違う姿、初めて見る浅草岳の姿など、この小編は感動と情景描写に満ちている。最後の文章にも余韻が残る:「荷物をまとめて雪の道を大白川駅に引き返し、只見線に乗った。小出に着いたのは正午、町を流れる魚野川は雪解けの水を満々と湛えて川幅一杯に流れていた」。
p96 薪炭(しんたん):たきぎとすみ。たきもの。燃料。
p99 更代(こうたい):改め代えること。 また、入れ代わること。
この短い小編で深田は小出山岳会の友人二人と出かけながら、未丈ヶ岳には登れずに終わっている。それなのになんとも味わい深い紀行文になっている。深田がルートに選んだトンネル「只見川にダムをつくるときその資材を運ぶために作られたもの」は今の奥只見シルバーラインに違いない。当時はまだ一般解放されていなかったらしいが、深田は只見ダム完成直前にこのトンネルを通ってダムまで歩いており、今回は山岳会の友人の功労のおかげでトンネルに入っている。
そして、「トンネルを三分の一ほど進むと、左手に外へ出る口が開いていた」というのは今でも未丈ヶ岳への登山口になっている。そこは泣沢という沢の中腹で、そこから登山道は沢沿いに下り、黒又川を渡った対岸から未丈ヶ岳の西尾根を登るのだが、深田たちは新雪で道に気づかず、ようやく道を探し当てて黒又川まで下ると吊橋が取り外されており、時間も遅くなってしまったので諦めて引き返す。
私が登ったのはこのルートではなく、銀山平からスキーで日向倉山、未丈ヶ岳の南尾根を登って頂上に達した。シールの止め具が壊れてしまい、ずっと歩いて登ったのでえらく時間がかかったが、素晴らしい景観だった。
この小編のテーマは「道は近きにあり」ということで、散々探して分からなかった道が実はすぐ近くにあった、ということ。要は探し方が悪いと山には登れないということだろう。今ではGPSがあるから、こんなことは起こりえないように思えるが、それにもかかわらず私は今でもよく道を間違え、長い距離を引き返したり大回りしたりする。まあ、深田の格言の一つに挙げてもいいかもしれない。
最後に深田の、失敗したけれどもなお楽しむ心境:「私たちは未丈ヶ岳の登山を断念して、白い石の河原に寝転んであたりの紅葉を賞した。よい気持であった」。
「男体山、大真名子山、小真名子山、女峰山、太郎山、この五つの山を私は男体一家と呼んでいる。お父さんの男体山とお母さんの女峰山の間に二人の愛子(まなご)があり、少し離れて長男の太郎山がある」というのは実に的を射ている。「この五つの山を一巡するのは修験者の入峰禅譲のコースであった。どの頂上にも祠が置いてある」というのももっともだ。だが深田が登った頃は太郎山だけはあまり登られていなかったらしい。
「太郎山はどうやら『忘れられた山』の部に属するようである。男体や白根に登る人は多いのに、案外太郎山は知られていない」というのが、実は、男体と奥白根は日本百名山だからだということなら、原因は深田自身にあるのだが。これら五つの山は接近しているのだが、大真名子、小真名子、女峰山は尾根続き、太郎山は小真名子から3㎞、男体山は大真名子から4㎞弱離れている。私は大真名子、小真名子、女峰山は縦走し、男体山と太郎山は個別に登った。
太郎山については、今では山王峠から山王帽子山経由の登山道が付いているが、深田たちの頃はその道は無かったようで、山王峠の手前から山王帽子山と太郎山の間のコルまでガレ沢とナギを登っている。今の地理院地図を見ると、このナギには砂防ダムや岩壁の印がたくさん付いており、とても登れそうには思えない。一方、尾根筋は笹原になっているから、伐分の道が無ければとても登れないだろう。ともかく深田たちはコルに達し、深い霧の尾根を登り、頂上に着いた。御料局三角点があったのでそこが太郎山の頂上と思ったが、一瞬霧が晴れると、「目の前にもっと高い別の山頂が現われた。あ、あれが本当の頂上だ」。こういう経験を私も昔、味わった記憶があるが、今ではGPSがあるから思い違いをすることはない(いや、電波障害でGPSが使えないこともまれに起こるのだが)。
「太郎山のてっぺんには誰もいなかったが、長い年月に行者の山としての人間臭がしみこみ、頂上の純粋性を失って、どこか擦れたような感じだった」というのは、「登山道では誰にも会わなかったのに、頂上に着いてみると大勢人がいた」ときに感じる、あのちょっぴりがっかりという感覚だろうか。私が登った時はまさにこんな感じで、小太郎山まではほとんど人に会わなかったのに、太郎山の広い頂上には大勢人がいた。
深田が最後に書いている「帰りは御沢へくだる道をとった・・・・明るい草地に出た。直径100mくらいの円形の気持ちのいい原である・・・・どんな山でもどこかに一つは美しい場所があるが、太郎山ではこの草原であろう・・・・いろいろな色の草花が咲いていた」というのは頂上の南東にある「花畑」と思われるが、私はそれを上から見て、一瞬行こうとしたものの、途中で引き返してしまった。もう11月だったから、花は咲いていなかったと思うが、是非もう一度登って、この花畑を訪ねてみたい。
この、深田が弟と二人で三日かけて登った焼山登山については、もう何度か読んだ記憶がある。ここと全く同じ文章ではなかったかもしれないが、とにかく日帰りできるところに三日もかかった理由として、「万山の紅葉の盛り、絶好の天気に幸いされて頂上から倦くことない眺望」に恵まれ、道中何度も長時間、景色の鑑賞に浸りきっていたことを挙げている。だから、この焼山登山は深田にとって会心の登山であった。
だが、人生には楽あれば苦もある:p120「『一度でいいから会心の山登りをしてみたい』と書いた人がある。人々によって会心の内容は違うだろうが、この焼山登山はまず僕の会心の部類に近かった。満月を仰いで登り、万山の紅葉の盛りを眺め、そして絶好の天気に幸いされて頂上から倦くことない眺望を享楽した。もうこのあとはただ下り一方だ。途中で日が暮れたところで月あかりで道を辿れる、ところがそうではなかった」。
つまり、三日もかかった理由はもう二つあるらしい。その一つはゆっくりしすぎたことらしい。深田はもう堪え性がない年になっており、p117「何しろこの頃は山に登るのに急ぐのは大嫌いである。できるだけ楽をしてゆっくり行く。だから息が苦しくなると、堪え性もなく道端に腰を下ろしてしまう」というのがかなり旅足を鈍らせたのに違いない。最初に笹倉温泉に泊まった日も、p116「明日の負担を軽くするため、今日のうちに少しでも山に入って野宿するつもりであったが、宿で靴を脱ぐともうそんな勇気はたちまち消失し、温泉に浸かっていい気持になって、夕方まで眠った」とある。これは最近の私の山旅にも言えることだが、完全に羽目を外して、目標を定めずにのんびり登山にしてしまうと、飛ぶように時間は過ぎ去ってしまう。
三つ目の理由は、下りの道(登りとは違う方向)の踏跡が消えてしまったこと。今ならGPSやヘッドランプがあるが、当時はそんなものはない。かなり危険な状況である。しかし、いざとなったときの深田の危機回避能力は健在であった:p123「地図を眺める。ここから次の滝沢との出会いまで、点線は約80mくらいの高いところを通じている。つまりこれは沢通しには歩けぬということを証明しているようなものだ・・・だが(道は見つからず)・・・こうなったら仕方がない、沢を下ることに決心した・・・・果たして両岸から岩が迫って深い淵をなしている個所にぶつかってしまった。・・・滑りっこい岩を攀じて高廻りをする・・・・こんなことを繰り返していちゃ堪らないと思ったので、今度は沢を捨てて上へ登り始めた。急な崖を藪を分け枝につかまりながらどこまでも登っていった。その甲斐があって、やがて尾根に出ると何と嬉しいことに小径が見つかった」。この文章こそが、この深田の焼山登山の核心であり、ハイライトなのかもしれない。
あとは最近、火山活動が静まって登れるようになった焼山の頂上の様子:p119「やがて旧火口の一端に着いた。深い火口の底の一部に水が溜まっていた。そこから危岩の積み重なっているところを伝って、三角点のある頂上に達した。この頂上は火口壁の一部が残ったもので、北東から南西に細長く、北西は直ぐ絶壁になって旧火口に落ち込んでいる。頂上の岩陰に、地蔵さんをレリーフにした丸い古い石碑があった」。この紀行はやはり、深田の会心のものの一つだと思う。
p115 扼す(やくす): 1 強く押さえる。締めつける。「ランスロットは腕を—・して」〈漱石・薤露行〉 2 要所を占める。
p117 染んだ(しんだ、そんだ):1 色が他のものについたり、しみ込んだりする。そまる。 ... 2 他から影響・感化を受ける。そまる。 ... 4 病気になる。感染する。
p117 堪え性(こらえしょう):忍耐する意地、忍耐力
p117 笹倉温泉から焼山頂上:9km、標高差1950m、10h
ここには深田の志賀高原のスキー登山が三つほど記されている。一つ目は発哺の文芸春秋社ヒュッテから焼額山を越え、竜王から西に下るもの。その前に小林秀雄と二人で発哺でスキー練習した話があり、小林の「カヤノ平」を「読むと誰でも噴き出す名文」と紹介している。それはこの頃のことだったらしい。さて、文芸春秋の井上良氏らと共に焼額山に登った深田は、途中でシールが不調になり、同行の二人を先に行かせ、シールなしで焼額に登り、竜王(たぶん最高峰でなく、今のゴンドラ頂上駅ピークだろう)に登り、「竜王から有名な六キロ以上の大滑降になるのだが」疲労と腹具合悪化により大苦戦。21時近くやっと着いた「夜間瀬」というのは、今の竜王スキーパーク麓駅から更に西に6㎞ほどのところにある長野電鉄夜間瀬駅のことだろう。長野駅で井上氏が待っていてくれたが、深田は半病人で、「酒も煙草も欲しくなかった。何の苦もなく1ヶ月ほど禁煙した」とある。
二つ目は、今やリフトが何本もかかった高天ヶ原の寺子屋からシールで岩菅山に向かう話。「尾根伝いでは長すぎるという判断で、いったん谷に下って向こう側の斜面に取付こう」というのは判然としないが、アライタ沢の源頭付近とすれば、登り返しはかなり辛いだろう。回り道でも尾根伝いが正解と思われる。だから、谷に下った深田たちは岩菅山を諦め、雑魚川沿いに下っている。
この日の翌々日が三つ目の話で、深田は不二さんと二人で焼額山を越えて帰るコースを辿る。最初の話と同じ、竜王から夜間瀬に下るコースなのだが、今度は「昨日一日降り続いた深い雪」に阻まれ、結局、頂上を諦めて下っている。ここで深田が書いている山スキーの労苦は、私もいやというほど体験した:「雪は膝を没し、時には腹までもぐる。やわらかな深雪の中につっこんで見えなくなったスキーをかわるがわる持ち上げるときの辛さ。雪を漕ぐとはうまく言ったもので、そんな時は両手で雪をかき分けるような恰好になる。少しでも雪の浅そうな場所を選んでみるが、どこも大差はない。ようやく吹き曝しの尾根に出ると、そこはカチカチに凍ってスキーのエッジを立てるのも困難なくらい・・・・」。この最後のアイスバーンにスキーエッジを立てるところは、今のスキーとブーツは深田の頃よりも数段、優れているだろう。ゲレンデブーツと変わらない性能をもつ山スキーブーツ(最初はアドレナリンだった)が出る前のバックルが緩い山スキーブーツでは、アイスバーンにエッジを立てるのはひどく難しかった記憶がある。
この紀行文にはそんな限られた性能のスキーしかなかった時代の深田たちの苦労が、楽しい思い出として語られている。
この作品は永井龍男の引用から始まる:「凄い月夜だ。黒姫がその名のように黒々と、打掛を着た姫の姿で眼のまえにある。実に艶やかしい姿の山だ」。深田はこの山に60代を過ぎてから、妻を連れ、知人たちと共に9人で登っている。「妙高、高妻、戸隠、飯綱には登ったが、その間にある黒姫はまだだった」には、登りのこしてしまっている、元気なうちに登っておきたい、という心情が感じられる。これらのうち、妙高と高妻を日本百名山に選んでおり、まだ登っていない黒姫山を外したのに悔やみがあったのかもしれない。
その頂上に立ち、「360度の見晴らしには、いささかの遺憾もなかった。遠きも近きも見える山々のあらかたに私の思いでがあった。私の足を逃れた傲慢な山は、もう無い」というのはやや極言だと思うが、つまり、黒姫山は長い間、深田にとって「まだ登っていない名山」として心のしこりになっていたのだろう。これは冒頭で深田の言う「宿題の山」よりもはるかに強い感情だったに違いない。
そして、頂上から火口原に下った深田は、そこに予期せぬものを見出してハッとする:「火口原の方へ雪のある急斜面を下った。降りついたところは、そこに天女が遊んでいたとしても不思議でないような、静かな美しい別天地であった。ところどころに残っている雪が端の方から溶けて、きれいな池塘を作っていた」。この景色に囲まれて、深田はどう感じただろう。黒姫山もまた、日本百名山の資格はあるかもしれないと思っただろうか。
なお、この文には私には解けない謎がある。それは「自動車に分乗して国道8号線を柏原に向かって走った・・・・柏原で国道を離れて、真正面に黒姫を見ながら走る。車の行き止まりの地点まで行って、そこから歩き出す」というところで、R8号は日本海沿いの道なのだが、柏原という地名は見当たらない。上越市付近なのかもしれないが、上越市から真正面に黒姫は見えない。R18沿いの信濃町ならば、正面に黒姫が近く、登山口も近い。
深田たちが登ったのはたぶんスキー場の南の登山道で、その道なら外輪に着いてから頂上まで300mほどである。火口原に下った深田たちは「北から外輪山の低い鞍部を越えた」とあるのは、今のスキー場の中に続く道だろう。
最後に心休まる一文:「緑の中に、清楚な真っ白な花を枝一杯につけたコブシが輝くように混じっていた」。別のところで深田は「コブシとタムシバの違いが分からない」と書いているので、これはタムシバだったかもしれない。
p133 永井龍男:永井 龍男は、日本の小説家、随筆家、編集者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 俳名、東門居。 懸賞小説に応募した『活版屋の話』、『黒い御飯』などで菊池寛に推賞される。人情の機微を精緻に描写する短編小説作家として活躍。作品に『朝霧』、『風ふたたび』など。
p133 艶やか(あでやか)
深田は赤城山、榛名山、子持山を上越線で眺めるとき、それぞれに万葉集の歌を引用してみせる。今の名前で歌われているのは子持山だけで、赤城山は久路保の嶺(くろほのね)。これが黒檜岳というのは分かるが、伊香保嶺(いかほね)が榛名山というのはピンとこない。
これらの間にある二つの山、子持山と小野子山に深田はまだ登っていなくて、それが「書棚で気にかかる一冊」「読もうと思いながらその暇がない」、つまり登りのこしていて、気にかかる「目障りな山」であった。「どうせ登るならお隣の小野子三山もついでに片づけておこう」と書いてあるが、ここでは子持山に登ったことしか書いていない。
因みに私は2012年と2014年にこれらに登っている。最初に小野子に登ったとき、隣に見える子持がえらく気になったという記憶がある。深田は渋川駅からタクシーに乗り、「車の幅いっぱいの狭い道」の参道を子持神社まで行っているが、私も車でこの狭い道をたどった。子持神社の大きな赤い鳥居の脇を通り、登山案内のある駐車場に停めたが、もっと奥にも駐車場はあり、やたらに賑わっていた。
深田は子持神社から大黒岩の横の尾根に出て、いったん急な下りとなり、それから頂上への登り、小さな石の祠を過ぎるとあとわずかだった」とわずか半ページで頂上に達しているが、屏風岩(役行者の像がある)の長い石段を登って尾根に上がり、そこからはるか先にもの凄い尖峰が立っていて、それが獅子岩(大黒岩)、そこからまた大きく下って登り返したところが頂上だった。それでも、8時に歩き始めて10時半に着いているからたいしたことはないのかもしれない。
私は周回路になっている別の尾根を下った(浅間というピークがあった)が、深田は反対側(北側)の小峠に下っている。中山新田の素朴で親切な宿に泊まったとあるが、そのあたりには今は道の駅がある。子持山の北には「ぐんま天文台」というのもできているから、北側からも登りやすいのかもしれない。
「たいていの山の本には『陸上の朽ちた船』というふうに形容してあるが、僕はむしろ颯爽たる航空母艦といいたい」で始まるこの山に登ったときの深田はまだ若く、戦前であろう。「上州側から見た荒船山は超弩級の航空母艦・・・甲板の広さは長さ1000m、幅200~300mもあろうから、加賀級の航空母艦を数十隻その上に積むことさえできる勘定になる」というのは軍艦オタクのような口ぶり。深田は高崎に向かう車窓からのこの山の情景を1ページ弱に渡って書いているが、私は高速を走っているときにこの山を見た記憶、というか撮影したことが無い。次は注意してみよう。
私はこの山にR254を内山峠まで車で入り、艫岩の北西方向に付けられた登山道を登ったが、深田はバスで終点、市野萱まで行き、そこから歩いて神津牧場に泊まり、翌朝、内山峠手前の艫岩の真下にる小屋場という標高700m弱のところ(神津牧場は1000m弱)から艫岩の北東尾根に取付いて登っている。今でも北東尾根に登山道はあるようだが、艫岩の真下からは付いていない。深田は急傾斜に苦労したと書いているが、急すぎるので廃されたのだろう。
そして深田は艫岩の上に着く:「ついに荒船甲板の一角にたどり着いた・・・広々とした高原、なんという開豁爽快(かいかつそうかい)な頂上だろう」。今は荒船山の頂上は経塚山1423mとされているが、当時はこの艫岩の上が頂上と考えられていたのだろう。私が登ったときも、艫岩の上には展望所という木柱と、「荒船山頂上」と印された頂上標識兼方位盤があった。「原の中央あたりまで来ると、高い石の柱が立っていて『皇朝家古修武之地』と刻んであった」というのも私は見ている。だいぶ古くなって文字は読みにくくなっているが、読みやすい案内があった。
この後、深田は最高点の経塚山まで行き、そこから南に下っている。私は南の星尾峠から兜岩山まで行き、そこで引き返して車を停めた内山峠に戻っているが、南に下る道はあるようだ。一方、深田の頃はこの南に下る道はほとんど歩かれていなかったらしい。「尾根伝いに行くと、大きな一枚岩の上に出る」というのは、立岩1265mのことかもしれないが、「なお尾根を辿っていくうちに少々道が怪しくなってきた」とある。今は立岩の先は尾根に道はなく、西斜面を谷に下っている。だから「尾根を捨て」というのは正解だが、「小さな空沢に下りこんだ」というのはかなり外れていて、滝に出くわしている。
なんとも豪快なのは、若かりし深田が「一人のんきに勝手に休んだり立ち止まったりして」降りて行くところ。滝を巻くのにはだいぶ苦戦したっようだ。苦労した挙句に着いた星尾集落は今でも健在。それにしても若き深田は元気いっぱいで、こんなに苦労したのに紅葉の景色の美しさを満喫している:「振り返った紅葉の美しさは何とも言えなかった。すぐ背後に大きな岩峰がそそり立っていて(たぶん立岩)、それを中心に照り渡るような色とりどりの紅葉の映えであった。どんな名画もこれほど僕を有頂天にし幸福にしたことはない」。
最後に書いているのは、バスに乗った六車集落で見たこんにゃく:「薄く刻まれた芋は串に輪刺にされ、その串が幾本も並べられて、串柿のように藁で吊られている。どこの家にも軒いっぱいにこれが吊られて、まるでこんにゃくのお祭りのようであった」。
p146 開豁爽快(かいかつそうかい):快活 ... ① 心持ちよく、いきいきとしていること。また、そのさま。 ... ② 性質が明るく、物事にこだわらないで元気のよいこと。また、そのさま。
これは深田の晩年の、不二さんともう一人(たぶん茂知君)の三人で、二泊三日の山旅に出た初日の話である。だが、全6ページの大半は長老でリーダーであった不二さんのキャラクターや、当時のつつましくも楽しさいっぱいの山旅の様子の記述である。まず最初は、新宿駅に集合すると、不二さんが妙な服を着ていたのだが、責めている訳ではない:p151「私たちも、普通登山用品店で売っているような見てくれが良く便利良さそうで、実はあまり役に立たない品はほとんど使わない。各人各様のなりをし、それぞれ違った妙なものを持っている」。
次は満員電車での過ごし方、優雅な旅ではまるでなく、それでいて実に楽しそうだ:p151「私たちは人を押しのけて有利な位置につく精神に欠けているから、辛うじて長老の席は確保したものの、あとの二人は座席のひじ掛けを腰掛とせねばならなかった。私たちの仲間の大半はもう60を越えている。平生(へいぜい)は自動車で送り迎えされる要職についている。出張とあれば一等寝台であろう。しかるに山行の時は常に普通車で、立ちん坊はしばしばのことである。急行を避けて鈍行を選ぶのは、その方が座席にありつき易いからである。長老は言う『親の死に目に会いに行くわけでなし、3,4時間を争う必要がどこにある』。なるほど鈍行は空いている。私たちはかたまって席を取り、酒類(スピリット)をたしなみながら、閑談に耽る楽しみを持つ。しかしいつか信州から上野まで帰るのに、急行に三本も追い抜かれた時には少々腹が立った」。
晩年の彼等は、世間に気を使いながらも同時に、世間を批判することを忘れない。そして、長老、不二さんの話:p152「何を隠そう、この人はある週刊誌に連載されて好評を博した『ヘソまがり太平記』の作者藤島泰輔氏の父君である。ヘソまがりとはすなわちこの父君にほかならない。当人は、決してヘソは曲がっていない、なんなら出してみせようかと言うのだが、たしかに曲がっているのは世間一般のヘソで、その標準で計るから彼のヘソが異様に見えるのだ、という長老の説に私も加担する・・・・・この長老はわが国枢要のコースを停年までキチンと並んで過ごしてきたから、発言には自信がこもり世紀溌溂としている」。どうやら不二さんは日本サラリーマン、いや団塊の世代のトップを忠実に勤め抜いた人らしい。彼の辛辣な言葉の陰には、その数倍の我慢と忍耐があるに違いない。
そして5ページ目になってようやく山に向かって歩き始める。だが、強者ぞろいの童老たちは簡単には歩かない:p155「小海を出たバスは私たちを山口という山あいの村まで運んでくれたが、そこが終点でそれから先は歩かねばならない。こんな場合私たちを助けてくれるものにトラックがある。歩き出して間もなく、後ろからそれがやってきた。有無を言わせず乗せてもらう」。
四方原山は、今では茂来山との縦走コースが定番(いまやクラシック・コース)であり、登山道も茂来山の西側の登山口から整備されていて、私は2018年に登っているのだが、深田の頃はそうではなく、茂来山のことはここには全く出てこない。深田たちが登ったのは四方原山の南にある白岩からだが、今の地理院地図には破線は見当たらない。深田たちが下った北へのコースは、鍵掛への荒れた道を避けて古谷(こや)への道をたどったとあるが、今は鍵掛沢沿いの尾根に破線があるが、古谷へは何もない。
三日間の山旅で一人の登山者にも会わなかったというのは、当時のそのあたり(長野東部)はあまり山が知られていなかったことに加え、山はまだ半分雪という時期のためであろう。山旅を楽しみ方がたくさん書いてある実に面白い一編である。例えば、四方原山の山頂に着くと、「猛烈な北西風に曝されていた」にもかかわらず、まず第一に慣例の乾杯:p155「瀬戸引きやベークライトのコップでアルコールは飲むべきものでない、という不二さんの強い主張で、私たちは必携物の一つとしてグラスを用意している。そのグラスがザックの中で割れない仕組みもちゃんとしてある」。
ここでは冒頭に連絡のための「掲示板」が出てくる。池袋で東上線と西武線を間違え、仲間にはぐれた深田が秩父駅で「日向大谷で待つ」という伝言を見てほっとするのであるが、スマホのある今ではもうこんなことは起こらない。電話に出られなくてもメールがある。
ここでの二人も前篇と同じく不二さんと茂知君。11ページもあるこの章では、深田は秩父駅からバスで納宮(おさみや)に行き、そこから尾根を歩いて越え、日向大谷に下る。それは両神山の登山口にあたるところで、今では谷沿いに車道が走り、下流には道の駅両神温泉というのもあるのだが、深田の頃は納宮から楢尾沢峠を歩いて越えていたようだ。そこの社務所で二人と合流し、翌日、深田たちはまず両神山に登る。
このときはもう、「日本百名山」は世に出ていたはずだが、深田はそのことを少しも触れずに、淡々と同じことを書いている。例えば「イザナギ・イザナミの二神を祀るから両神山という説もあり、日本武尊東征の折、この峩々たる岩山を眺めること八日に及んだので八日見山と名付けられたという説もある」。両神山頂上で見た三国山には三人のうち茂知君だけが登っていたとあるが、この後、深田は登ったのだろうか。不二さんが火入れ式を行った新しいパイプを海外で買ってきた息子というのは、前篇に出てきた藤島泰輔であろう。
両神山から尖峰の北尾根を八丁峠に下った深田たちはくたくたに疲れて赤平川沿いの宿に着く。だが、「一風呂浴びて食膳に向かうと」いつもの快気談が始まる。今回のテーマの一つは「秀才と銀行員」だが、ここで不二さんと茂知君の職歴が少し:p161「不二定義によれば、秀才とは学校の勉強以外何もしなかった男である。どんなに立身出世しても人間に味がない。ことに銀行員にはそれが多い。日本では銀行員は有難られているが、外国では低級な職業とされている。などとさんざん三人で秀才のコキオロシをやったが、豈はからん、不二さんんは日本で最重要な銀行の監事をつとめて今はタンティエの身分であり、茂知君はこれも有名な信託銀行の東京都内某支店長の現職にある」。
八丁峠というのは諏訪山1207mに近く、そこから御座山との間にはもう一つの諏訪山1550mもあるのだが、ここではどちらも出てこない。今ならR289、R462、県道124を車で走るところを、深田たちはバスと徒歩と、トラックへの便乗とで、30数kmを数日かけて走破するのである。そんな彼らにとって、文明の利器など邪魔物としか映らない。志賀坂トンネルもその一つ:p162「工事場の人は親切にも作業中のトンネルに私たちを通してくれたが、しかしこれは私たちには不本意であった。私たちはトンネルを潜りに来たのではない。鄙びた峠の上に立ちたかったのだ。
そこでトンネルの向こう側へ抜けると、逆に峠の上まで登り直した。その甲斐はあった。志賀坂峠はいかにも山村をつなぐ昔からの峠らしい懐かしさをもっていた」。R462の乙父というところが当時のバスの終点。今は運動公園グランドがあり、道の駅上野というのもある。
深田たちは乙父の近くて三日目の宿に泊まり、翌日は県道124沿いの道を、トラック2台にも乗せてもらって進み、ぶどう峠に登る。今は御巣鷹山展望台があるらしい:p165「ブドー峠・・・・その峠の上にひょいと出たとき、思わず私たちは大きな嘆声をあげた。全く不意打ちの景色がそこに広がっていた。今までの上州側の森林帯に引きかえ信州側は眩しいような明るいカヤトだった。峠を仕切りにあまりにハッキリした明暗のけじめが私たちを驚かせたのだ。新しい展望は広闊だった。空の果てを硫黄岳から北八ヶ岳に続く連峰が区切っていた。硫黄の頂は新鮮な雪で飾られていた。眼前には狐色の斜面が広がり、その下の高原風な台地には木次原の2,3の人家がひっそりと静まっていた。その台地から黒い尾根を上げて、私たちの山旅の大詰めの御座山がドッシリと立っていた。・・・・見渡すものが多すぎた。こんなに良い峠だとは予期しなかった。峠の品評会に出したら金牌は請合いである」。
ぶどう峠の西側の宿から、沢筋と北尾根をたどり深田たちはついに御座山に達する。私が登った時(2009年8月9日)は南側の登山道からで、あいにく天気は悪かった。深田たちは台風による倒木に悩まされたが、好天の頂上で「1時間あまりも眺望を享受した」とある。「御座山には人一人見えず、紙屑や空き缶一つなく、目障りな指導標すらない。山は完全に私たち三人のものだった」とあるが、今では御座山は日本二百名山に数えられており、登っている人は多くなっている。それにしても、昔の山旅はたいへんだった。今はなんと楽に登れるようになったことか。
p165 広闊(こうかつ)
ここでも深田は不二さんといっしょで、最初はコンちゃん、ペンちゃんと四人で両神山に登る。前夜に泊まったp169 白井差の山小屋というのは、両神山の南東、小森川の上流のようである。両神山頂上から尾根伝いに向かおうとしたp169 天理ヶ岳というのは、おそらく両神山の北東にある天理岳1150mと思われるが、地理院地図に破線は無い。当時は道はあったらしいが、凍り付いていたので諦めたとある。アイゼンを持ってなかったのか?
深田たちは、今の両神山登山口の日向大谷に下って泊まり、コンちゃんとペンちゃんはそこで帰り、深田と不二さんは二子山に向かう。辛かったと書いているp170 日向大谷から奈良尾峠を越え納宮は約3㎞、標高差200mだからそれほどでもない感じだが、バスで移動してからの坂本から二子山への登頂はなかなかハード:p170「魚尾道の鞍部から取りつく道・・・・凍り付いて登れない・・・・西岳の岩壁の下まで行き・・・裾の斜面をトラバースして左の方へ・・・細々とした踏跡程度の小径が上へ続いている・・・・荷を残して軽身になってその道へ」:地理院地図には、坂本から二子山のコルに登る魚尾道(よのう)の記載があり、更に、コル付近から分岐して西岳斜面の南側を西に回り込み、頂上尾根を三角点に向かう破線の記載がある。よって、深田たちはアイゼンもなしに、このハードな道をなんとか登り切ったのであろう。約3㎞、標高差約600m。
頂上から荷物デポ地点に戻った深田たちはルールに則り、登ってきた道を戻らず、トラバース路を更に進み、叶後という二三軒の部落に出るが、それはたぶん石灰岩採取場のある叶山の東端の台地であろう。地理院地図には建物マークがある。「その東面は垂直に切れ落ちてそこに深い窓をつくっている。神業とでも言いたいような自然の傑作である。その窓は牢ノ口と呼ばれている」という叶山を私も見た記憶がかすかにある。「その牢ノ口が通れないばかりに・・・迂回せねばならなかった」と深田は書いているが、今ではそのあたりはだいぶ掘削が進んで深い窪地になっている。当時は平だったのかもしれない。現在の叶山962mは、「石灰鉱山のため表口からは入山禁止。裏からは登れるけれど、山頂は作業範囲になるため正月の操業停止期間しか拝めない (ヤマップ平四郎)」ということである。よって、深田たちのたどった道は地理院地図に記載はない。
p171 東岳:両神山の北、1660m
p172 叶山: 石灰鉱山のため表口からは入山禁止。裏からは登れるけれど、山頂は作業範囲になるため正月の操業停止期間しか拝めない (ヤマップ平四郎)
p169 コンちゃんとペンちゃんとは?
雪がまだ降っていない群馬と埼玉の県境の山に、深田は妻と二人で登る。楽しい「日本百低山」のような山旅:p173「父不見山というちょっとロマンチックな名前の山もかねてから私の低山散策の予定リストの中にあった。地図には道がついていないが、なに千メートルぐらいの山だ、ごそごそヤブをかき分けて行けば頂上に立てるだろう」。
高崎線の本庄からバスを二つ乗り継ぎ、神流川沿いの万場というところから歩き始め、父不見山の西にある坂丸峠経由で頂上に向かう:p174「霜柱が銀色に光っている道、落葉が靴の埋まるほどたまっている道、そんな道を踏んで峠の上に立った。上州と武州の境である」。深田は群馬と埼玉とは書かない。私は2010年9月12日、坂本峠の西にある矢久峠から尾根をたどった。ちゃんと尾根伝いの道があり、スギ植林の中を進んでまず坂丸峠。祠を見ているが、深田の見た「小さな祠」ではないかもしれない。そしてたどり着いた三角点ピーク1066mには「長久保ノ頭」「大塚」という標識があり、いったんコルに下って標高点頂上1047mに立つと、「父不見山」という頂上標識が三つほどあった。深田の見た「私製三角点」は見た覚えがないが、写真に写っている標柱の根本の石柱がそれだったのかもしれない。
深田は標高点1047mピークから両神山、武甲山から雲取山の秩父連山、御荷鉾山から赤久縄山の山なみを遠望しているが、私のときは樹々に囲まれていて眺望はなく、尾根の途中で樹間にわずかに見た程度。深田は帰路をさらに東に、杉峠に下り、「石の祠」を見ているが、私は車を駐車した矢久峠に戻った。けれども、たぶん同じように軽い日帰り登山の雰囲気だったと思う。
これはなんと、太平洋戦争が始まった直後の山旅紀行。12月7日の真珠湾攻撃の年の暮、深田は呑気に奥武蔵の山に西武池袋線に乗って出かける:p176「今までの冬の山行と言えば、スキーと決まっていて、こんな低山へ冬行くことなぞ滅多になかったのだが、行ってみると案外の楽しみがある。冬だからたいていカラリと晴れているし、日中は歩いていれば上着を取りたいほどだし、それに春にも秋にも無い物寂びた風情があってこれなら道中辛い目をしてスキーに行くよりこんな低山をブラブラ歩いているのも悪くはないと感じ出した」。
この頃の小林秀雄の作品を読むと、国民意識高揚のための講演や記事などを書いていて、それがどうにも小林の本意に合わないらしくて分かりにくい。だが、小林は(たぶん健康上の理由から)幸い徴兵されなかった。呑気な深田はこの後、徴兵されて中国に行くのだが、その当時の様子も書いていて(どの短編だったか思い出せないが)、自分の部隊の若者たちになるべく危険なことはさせなかったと書いていたと思う。ともかく、おおらかで心優しい人だった。これには、かつて八ヶ岳で後輩を亡くしたことが関係しているのかもしれない。
さて、深田は正丸峠と伊豆ヶ岳に向かう:「今年もどこかの山で元旦を過ごそうと思い、あまり辛くないところと、選んだのが、広告でよく目にしている正丸峠・伊豆ヶ岳だった」(地図4)。深田は西武線の電車の中で真珠湾攻撃について書いてある新聞を読みながら奥武蔵の吾野駅で下りてバスに乗り換える(地図5)。今では西武線は飯能を越えて三峰駅まで通じているが、当時は吾野が終点だったようだ。深田は畑井というところでバスを降ろされて(木炭バスなので、余り停車しないらしい)そこから歩くが、車道をショートカットしていくその道は今でも地理院地図の破線で残っている。
正丸峠に上がった深田はそこから武川岳と武甲山を見ていて、武川岳は三角点の山と書いているが、これはたぶん誤り。正丸峠から伊豆ヶ岳までは「はじめわずかな登りがあるだけであとはダラダラの尾根道・・・春秋の土曜日曜にはこの道はハイキングの人で続くそうだ・・・」というのどかさで、深田は俳句まで詠んでいる:疎林行きしばし元日忘れゐたり。
伊豆ヶ岳の頂上直下には男坂と呼ばれる岩場(*1)があるのだが、深田は軽くこれを越えている:「岩場なんて言うのは大袈裟だが、岩まじりの急峻な坂で、鎖などついている。そこを攀じ登れば、間もなく頂上に出る」。頂上には茶屋があって、深田は悠然と茶屋のおやじさんの出してくれた渋茶を飲んでいるが、今はもう茶屋はないようだ。下りは東にとって畑井に16時前、池袋には18時過ぎに着いたとあるから、ずいぶん速足の紀行である。この頃の深田は体力も十分だったようだ(尾根道で学生二人に抜かれたのは、その学生が余程速かったのだろう)。私はまだ伊豆ヶ岳に登っていないが、たぶん深田と同じ北尾根を辿らねばなるまい。
(*1)伊豆ヶ岳は低山ながら本格的な岩場登りが楽しめる山として、非常に有名かつ人気の山です。男坂と呼ばれている山頂直下のクサリ場は、全長がおよそ50メートルほどあります。傾斜はそこまで急ではなく、難易度もさほど高くはありませんが、過去に死亡事故も発生している場所なので、気を引き締めて登る必要があります。(週末は山を目指す)
p176 真珠湾攻撃:1941年12月7日
これは1968年に、仲間のFさんやM君たちと総勢5人で、夏の北アルプス蓮華温泉から朝日岳に登り、朝日小屋に泊まり、北又谷から小川温泉に下った山旅の紀行記である。私は朝日岳には2度登った。最初は5月、栂池池から乗鞍岳を越えて蓮華温泉に3泊し、雪倉岳と朝日岳に登った。この時はスキー。もう一度は晩夏に、蓮華温泉から長峰山と朝日岳まで日帰りで登ったが、このときのコースが深田が登ったコースに一致する。
だからまず、p181「兵馬平という台地を過ぎて瀬戸川の河原」に下る。私のときにはがっしりした橋がかかっていて、それを渡ったが、深田の頃は「滑車で吊られた一枚の板の座に乗って、綱で手繰り寄せる仕掛け」という所謂籠渡し。こいつは時間がかかる。それから深田は「白高地沢」を渡り、「急坂」を苦労して登り、「カモシカ平」と呼ぶ原に着くが、これは今の五輪高原のことだろう。そこからの眺め、「すぐ前に谷を隔てて雪倉岳、貫禄のある山だ」というのは私も同じだったが、私のときは遠景は曇っていて、妙高や雨飾山は見えなかった。そのあたりからは花の楽園というのも同じだが、晩夏だった私の時に比べ、深田はもっと多くの花を見たようだ。
深田は苦しみながらもちゃんと朝日岳の頂上に着いて楽しんでいるが、私は深田の言う「山の腹を巻きながら登り道」、つまりトラバース路の急登の途中で立ち眩みに襲われ、まず長峰山に行き、それからやっとの思いで朝日岳の頂上に着いた。深田は快晴の朝日岳頂上から白馬岳や毛勝岳を見ており、私も5月に登った時は全方位の景観に囲まれて絶句状態だった。一方、疲労困憊だった晩夏の朝日岳頂上のときは雲が広がり、眺望はほとんど無かった。
私は2度とも、往路を蓮華温泉方面に引きかえしているが、深田はそこから西に下って朝日小屋に泊まり、更に西に下っている。そのコースは私も検討したが、北又ダムまで車で入れるとしても、そこからテントを担いで登らなくてはならない。深田たちの頃はバスが許可されないので代わりにトラックが有料で走っていて、それで登山者たちは小川温泉まで下っている。今ならみんなマイカーだろう。
深田の最後の記述は当時の小川温泉の様子。当時鉄筋に建て替えられた小川温泉は、木造のときからずっと巨大な湯治場温泉であったらしく、「ほとんどが自炊で、百以上も部屋があり、多い時には1000人以上の自炊客・・・自炊客が自分の借りた部屋に看板をかけて営業している・・・・あんま、床屋、雑貨屋、みな揃っていた」というのはすごい。「この湯治場で一部落を形成している観があった」というのはその通りだと思う。
p182「最後に地形の詐術が私を待っていた。もう頂上が近いと思わせながら先が長かった。『ここまでおいで』が何度も続いて、ほとんど根気が尽きようとしたとき、やっと本当の頂上が現われた」
p184 無聊:たいくつ。 「―をかこつ」
ここで深田はまず立山に登っている。立山は、深田にとってほとんど地元の山であり、「私がその頂を一番多く踏んだ山の一つ」と「日本百名山」で書いているが、戦後に立山に登った深田はその変貌に驚いている。「全く変わったものである。立山はもう山ではなく観光地である」というのはそのときの正直な気持ちなのだろうが、「日本百名山」のときには気持ちを整理し、こういう主観的表現は避けて、具体的、客観的表現を選んでいる。
深田は山の観光地化を嘆き、「日本百名山」後記の中でも「御在所岳はもう遊園地化していた」と書いており、戦前は芦峅(あしくら)から弥陀ヶ原を歩いて登っていたコースにいまやケーブルカーやバス道路が走っているのは気に入らなかったに違いない。一方、そんなに開発を嫌っているくせに、林道でトラックに遭遇すると乗せてもらう、というのはだいぶ矛盾していると思う。深田はこのことを自覚していて、「日本百名山・幌尻岳」の章で、「私たちはそこ(静内)からトラックで新冠川上流のダムサイトまで運ばれた・・・・原始的な自然が壊されるなどと嘆く資格はない。私たちはそのおかげで、数年前は2,3日もかかったところを僅か半日」と書いている。
今でも、立山を目指す登山者やスキーヤーはこういうケーブルやバス、それにロープウェイなどを当然のものとして、大いに活用している。もはや登山の一部になったと言ってよいのだろう。しかし、ここの文章を書いた時の深田はそこまで心の整理ができておらず、「戦前よく立山へ出かけ・・・その後遠ざかっていた・・・旧式登山者」の姿を借りて、この便利になった立山になじめない様子を正直に書いている。「その人は登山者の列をなす道を避け、弥陀ヶ原の旧道へ踏み出す」のだが、「その夜の宿を求めるために再び混雑の中に入らねばならない。地獄谷は静かだろうなんて考えるのは時代錯誤である」、ところが、「幸いにして、営業小屋ではなく頂上の社務所に泊めてもらった」というのは、神主と知り合いだったか、名前が売れていたからだろう。夜明け前に神主と深田はご来光を拝みに登ってきた大勢の登山者に起こされ、「大勢の登山者」に混じって「完全無欠の日の出」を眺める。
しかしその後、別山の方角に歩き、「幹線道路を離れて大日の方へ踏み入ると・・・全く人を見ない。静けさに帰った」。ここからが奥大日岳の話になる。深田と同行していたのは佐伯延一という芦峅の人で、立山には詳しかった。二人は奥大日岳の三角点頂上2606m(「尾根の長い山・・・その中腹を行って・・・」とあるから、最高点2611mには行ってないようだ)で、剱岳を見ながら弁当を食べる。
芦峅は立山の信仰登山の拠点であり、佐伯さんの家は日光坊といって、日本各地からの参拝者の宿泊を受け持ち、檀那廻りで諸国に立山のお札を売って歩いたという。今はもう、立山駅の手前にある芦峅に寄る人はほとんどいないだろう。剱岳の頂上で錫杖の頭と槍の穂が見つかったのは有名な話だが、奥大日岳の頂上で、この佐伯さんが剣とクサリの断片を見つけた、とある。「前大日岳(たぶん大日岳2501mのこと)の頂から少し下ったところにカザエモン岩屋と呼ばれる、八畳くりの広さの岩窟がある」というのは気になる。私は奥大日岳の二つの頂上(2611m&2606m)には登ったが、まだ大日岳2501mには登っていない。この山に登って、このカザエモン岩屋を確認しなければ。
餓鬼岳と唐沢岳には私は2022年に登っていて、餓鬼岳小屋(餓鬼小屋)から餓鬼岳と唐沢岳を往復したルートはほぼ同じと思われるが、餓鬼小屋までのルートは今の白沢からのものではない。深田たちは高瀬川上流の葛温泉から滝ノ沢(滝沢)沿いの道に入り、丸山峠(地図では確認できない)を越え、現在の登山道がある大凪山の稜線の道に上がっている。
白沢登山口(標高990m)から餓鬼小屋(2600m)まで標高差1600mに私は11時間かかり、疲労困憊だった。深田も疲労困憊、エグゾーストだったと書いているが、葛温泉(900m)から丸山峠の登り返しを加え、標高差は1800mだったとしている。珍しく不二さんも足は重かったらしいが、「うちのカミさんは先頭グループに加わっているのか、影も形も見えない」とある。深田よりも奥さんの方が体力はあったようだ。
今の餓鬼岳小屋は木造の古い建物で、ホテルのような燕山荘とはまるで対照的だが、深田の頃からあまり変わっていないのかもしれない。この小屋の主の丸山忠芳さん(丸山峠とその道を切り開いた人らしい)が登場し、丸山さんが少年の頃に中村清太郎らしき画家が十数日間滞在して毎日絵を描いていたという箇所は「日本百名山」黒部五郎岳を思い起こさせる。
私は二日目の、餓鬼岳小屋から唐沢岳への往復にも疲労困憊だったのだが、深田の記述はえらくあっさりしている:「格別難路というわけではない。天気が良く眺めが素晴らしいので昨日の辛苦など嘘のようである」。深田の頃は尾根通しの道だったのだろうか。私は、険峻な尾根から大きく下ってトラバースし、登り返していくルートに苦労した。しかし、私が片道4時間で往復し、その日のうちに下山したのに対し、深田は片道3時間だったのにもかかわらず、その日も餓鬼小屋に泊っている:p197 「雨風の中を昨晩の二人が出て行った。今日のうちに下山しなければ勤めに差し支えるのであろう。その点私たちはのんきな身分で、茂知君だけが社会の要職にあったが、山登りのためにはいつも幅のある自由を獲得していた」。
私は働いている訳ではないが、1泊分の用意しか持って行かなかった。まあ、ザックを軽くするためだ。それに、山の上で時間をつぶすより、マイカーに戻って過ごす方が余程快適だ。温泉にも入れるし、スーパーで買物もできる。一方、呑気な深田たちは嵐の日をもう一泊して過ごし、四日目に燕岳に向かっている。
私は2008年に大天井岳から燕岳を経て餓鬼岳まで歩いていて、ケンズリをトラバースし、東沢岳を越えて東沢乗越に下り、そこから燕岳に登り返すルートは深田のときと同じようである。このときの私の燕岳の印象「燕岳は予想通りとても美しい花崗岩の山であった。白と緑の積み木を複雑に積み上げたような形」というのは、深田の記述には比べるべくもないが、同じものを見ていたことは分かる:p198「果たして燕の本領はそのあたりから開けた。燕岳は北アルプスの中でも独自の景観を持っている。それは緑のハイマツの間にニョキニョキ立っている白い岩の群れである。それは野性的な岩ではなく、造化の神が長年かけて入念に手を施したようなすべすべした肌をしている。大坊主小坊主が思い思いの形で立ち並んだところは岩の展覧会場へ入ったような気がする。写真家はしばしばここで夢幻的なオブジェの傑作を物する」。
深田の最後の記述は、40年前に初めて燕岳に登った時のこととの比較。燕山荘も合戦尾根の道(深田は「燕山荘から中房温泉に下る道」と書いている)も近代的に、公園のような立派な道に変わっていたと書いている。別に近代的になったことを嘆いている訳ではないが、昔の自分の一部が失われたような気がして、寂しさを感じたのだろう。
p195 溌剌:はつ‐らつ【×溌×剌/×溌×溂/×蹳×剌】. [ト・タル][文][形動タリ] 1 生き生きとして元気のよいさま。「―とした声」「生気―たる若者」 2 魚が飛び跳ねるさま。
この山は、「日本百名山」が雑誌に連載されていたときに掲載され、単行本に編集されて出版されたときに「奥白根山」と差し替えられた山である。内容からいってその「歴史」の深さは「日本百名山」の選定基準に大きく適っていると思われる。そして、もう二つの選定基準、「品格」や「個性」についても、「街道筋からよく目につく山」「頂は三つに分かれ、そこから左右に引いた線が美しい」などで満たしていると思われるからこそ、深田はこの山を雑誌掲載したのだろう。だが、深田はこの山に自分の足で登っていない。そのことが最終的に外した理由であろう。
3ページ強の記載の大半を占めるのは有明山の歴史関連のもので、まだ北アルプスが人に知られていない昔から和歌に詠まれていること、天照大神を引き出したときの天岩戸であるという伝説、享保6年(1721年)に初めて登山路が付けられたときのことが語られる。
そして最後に、自分自身の登攀記録に代え、大正元年(1912年)のウェストンの有明山登頂について書いている。背後に並ぶ北アルプスの諸峰を差し置いてウェストンがこの山に登っているのは、重視したということもあろうが、登るのが比較的楽ということもあったのではなかろうか。深田は当時の有明山が「今は時勢に取り残されてガイドブックの類いさえその存在を無視している」と嘆いているが、この後、有明山は「日本二百名山」に選定され、ガイドブックも多数出ており、登っている人も少なくないだろう。
p200 terra incognita:人に知られていなくて開拓されていない地方(an unknown and unexplored region).
これは南アルプス、聖岳への入口になっている遠山川と上村川の合流地点から北東に伸びる尾根のあたりの紀行記録である。現在(2024年)、遠山川沿いの林道が一部通行止めになっていて、その北東尾根を高巻きする迂回路を通って上流に行くのだが、その迂回路を林道に下らずに登った先の尾根の斜面にあるのが、ここで深田が語っている「下栗」である。グーグル・マップにも「下栗の里」と出ているから、観光名所になっているのだろう。
今では皆、車で狭い車道を登るが、深田の頃は皆、歩いて登ったのだろう:p204「故郷を持つ者は幸いなるかな。年末年始の阿鼻叫喚的な交通機関の混雑も懐かしいわが家へ急ぐ彼らにとっては何物でもない」。その歩いて登る山道は、やがて車で登れるようにするために作った車道に取って代わられる:p205「30余年前私は南アルプスに登るため下栗に行ったことがある。そのときは粗末な山道で、急な尾根を越えて村へ出た。今度は尾根越えの代わりに山腹を巻く迂回路ができていた。道はよくなったが、倦き倦きするほど長かった」(地図6)。
この、遠山川と上村川の間の尾根には今は「しらびそ高原」というのができ、下栗から地蔵峠まで道がついていて、たぶん車で走れるのだろう。この尾根にある御池山1906mからしらびそ高原1918mを経て尾高山2213mまで登るというプランを私は持っているのだが、深田の頃はまだ登山道すら無かったようだ。
初日に深田は下栗から御池山に登るが、結構大変だったようだ:p206「私はいよいよ辛い。斜面の上に出て、頂上がまだはるか彼方にあるのを見たとき、私は消え入る思いであった。一人だったらここまで来ないうちに引き返してしまったろう。こんな時ほど仲間のいるのを恨めしく思うことはない・・・・・まことに苦しい。私と同年配が他にもいて、それらが弱音をふかないかと待っているのに、いっこうにその気ぶりを見せない。ことに私より七つも上の不二さんが元気に登っていくのを見ては、どうして私が降参できよう。山登りはやせ我慢である。法悦はやせ我慢の末に来る」。下栗の標高1050mから御池山1906mまで距離5㎞、標高差900mくらいだから、そんなに大変いうことはなかろう。当時の深田は若い頃に比べ、だいぶ体力を失っていた。
だが、一晩寝た、翌日は快晴だった:p207「果たして翌朝は雲一片ない快晴・・・・遠山川の谷の奥にそれこそ一目千両の荘厳な景色が待っていた。中央に大きく高くそびえているのは聖岳、その左には兎岳、右は上河内岳に続いている」。この、遠山川の尾根筋から見る聖岳や上河内岳を私も今年、はるかに見ることができた。それは林が切れた瞬間に見え、すぐ隠れてしまうので、車を停めて眺めなくてはならない。
二日目、深田たちは道の無い尾根から下り、バスで上村まで北上し、そこから歩いて地蔵峠に登っている:p209「沢を離れて急な雪の斜面をジグザグで二曲がりか三曲がり登ると、不意に地蔵峠の上に出た。いい峠だななあ、と言う声がいっせいに皆の口から出た。いかにも昔の人が、こちらの谷から向こうの谷へ越すために、最低鞍部を探し当てたといった感じである。せまい峠の五六本の立木の下に地蔵尊が安置されて、赤い胸掛けをつけている。・・・・」。
今は飯田から矢筈トンネルを通って遠山川に下るルートができ、上村からR152を北上する道はあまり利用されなくなっている。だから私も地蔵峠には行ったことが無い。さっきの「御池山、しらびそ高原、尾高山」プランの中に加え、いつか登ってみたい。
この紀行記はどこかで一度読んだ記憶がある。だが、そのときには気づかなかったいろんな魅力が見つかった。その一つは、東京方面から甲府に入った時の南アルプスの景観である:p212「勝沼から甲府盆地に駆け下りる汽車の窓から遥か真西の空を区切る南アルプスの大観はいつも昼の中央線で信州の山へ向かうときのすばらしい序曲。白峰三山から鳳凰、駒ヶ岳に連なる精鋭たちだが、澄み切った冬の空に浮かんだ雪嶺の一番見ごたえのある時期である」。
深田たちが向かった「保村」というのはもう無いが、地図上には「保」という地名は残っている。そして深田の辿った笊ヶ岳への道は今の奥沢谷から布引山を経て行く道ではなく、その北にある保川に沿って行くものであった。今の地図には登山道の表記はないが、たぶん開発や防災目的で一時的に道が通じていたのであろう:p212「学生時代私が初めて南アルプスに入った時は早川の谷は全くの辺境であった。山奥の奈良田まで車が通おうとはどうして想像できただろう。日本の山地に辺境を無くしたのは水力発電会社である。事業家の目には山奥のどんな美しい渓流も黄金の水に映るらしい」。
さて深田と茂知君は平山さんという保村の主のような人のやっかいになる。真冬の山奥なのに、麦が生えている。だが、寒さは厳しかったようだ:p211「何しろ厳冬期・・・・1960年1月・・・・表日本の冬はたいてい大体晴天続き・・・・村のすぐ背後には、かなり急峻な斜面の畑が広がっていて、二三寸ほど伸びた麦が青々としていた・・・・平山老の言によれば、この村は毎朝五時、彼が打ち鳴らす太鼓によって目覚めるのだそうである。南の真正面には大きな壁のように七面山が立ち塞がっていた」。
笊ヶ岳は双耳であり、確かに東側の小笊は、東側からだと目立つだろう:p214「突兀と立った円頂が初めて見えた。これは笊ヶ岳の前峰で、小笊あるいは保ノ笊と呼ばれている」。ここから4ページほど、苦しい登山の詳細が語られる。まるで自分で登っているようで、深田たちの苦しみが感じ取れる:p214「靴を濡らすのが嫌で、できるだけ徒渉は避けていたが、とうとうハダシになって冷たい水を一度だけ渡らねばならなかった・・・・」p215「崩れやすいガレ・・・・私たち二人はなんとかそんな道を択っていったが、重荷を負ったあとの二人は・・・冷たいが安全な谷川をジャブジャブ渡る・・・丈の低い平山さんは腿のあたりまで濡れて、凍てついて固くなったズボンには白い氷の粉がふいている」p216「二股の右の沢は黒棚、左の沢は本棚と呼ばれているが、道はその中間の尾根に通じている。坂は急で、初めジグザグ道がおぼろに認められたが、やがて雪の下に消されてしまった」。
苦しみながらも登り続ける深田。ほっと一息ついて眺める景色、これこそが山に登る目的なのかもしれない:p216「富士見小屋に着く・・・屋根も周囲もはがれた哀れな体・・・・しかしここから振り返った富士山はすばらしかった。全く冨士という奴は、他の山々との均衡を破って図抜けて大きい。二人はその図抜けぶりを賞しながら、弁当のサンドイッチを食い、テレモスのココアを飲み、元気をつけてまた登りにかかる」p217「笊から北へ続く山が見えた。これは生木割山と名付けられているが、偃松尾(はいまつお)と呼ぶのが正当だそうだ。堂々とした山である。そんな眺めのある所へ出るとそれを口実に一休みできるのが嬉しい」。
そして深田たちは、頂上を眼にしたところで引き返す。登山をしていて、特に苦労して登っている時、こういう決断をするのは難しい。引き返してから後悔することもあるだろう。だが、この決断は正しいし、とても勇気がこもっていると思う:p217「ようやく限界がひらけて深い谷を距てた向こうに笊の頂上が見える地点に達した。まだだいぶある。時刻は二時半、この進行状況であ頂上まで行けそうもない・・・・・登山の英雄主義者であるためには、私たちはもうあまり苦しい目にあいたくない年になっていた。『このへんで引き返そうか』茂知君の提言に、もちろん私は不服がなかった」。
引き返してからもなお4ページを費やして書いているのは、その日が特に寒い日だったということ、迎えのポーター日高正一君が来てくれたこと、そして保村で暖かいもてなしを受けたことについてである:p220「保から近い大金山鉱業所・・・・熱い湯に浸って・・・いい気持で上がると、鉱業所主の花屋さんが熱燗を用意して待っておられた。笊ヶ岳登山路は鉱業所のある大金山から稜線伝いに通じるべきである、というのが花屋さんの強力な意見であった・・・」。この大金山というのは今の登山口の近くに存在する。だから、今の登山道は、稜線伝いではないが、概ね近いところに通じていると言ってもいいのかもしれない。
p212 保村:山保村は山梨県西八代郡にあった村。現在の市川三郷町山保、南巨摩郡身延町のうち身延線久那土駅の北東の山間部にあたる
この山に私は2008年に登っているのだが、迂闊なことに身延山に登っていない。深田がこの山に登ったのは戦前の若いころで、当時、最優先していた山という訳ではないらしい:p221「なるべく今のうちに困難な山に登っておいて、老後には易しい山を残したい。そういう方針でいるのだが・・・・その時の事情によって変わることがある・・・・ふと思いついて登ってみる気になったのである」。これは今の私の登山方針および実情と全く一緒。今のうちに難しい山に登っておこうと思いながら、易しい山に登ってしまうのは、多くは天候による。いくら時間があっても、天気が悪ければ難しい山には登れない。一方、易しい山なら多少天気が悪くても登れるという訳だ。
深田がこの山を選んだ理由の一つには、七面山が身延山と共に日蓮宗の大本山であったから。日蓮宗に興味はないが、日蓮の生き方には共感をもっていた:p221「身延山といえば知らぬ人はないだろう。日蓮宗の大本山のあるところだからである。七面山はその身延山のさらに奥にある高山で、身延に参拝しただけではまだその信仰心の満足させられない篤志家はさらに進んでこの七面山に登るのである。もっとも僕にはそんな信仰心があった訳ではない、純粋な登山の対象としてこの山を選んだのである」。
身延山の奥に七面山が位置しているのはその通りだが、この二つの山は同じ稜線上に並んでいるのではなく、全く別の稜線上にある。つまり、二つの別の山に登ることになる。従って私は日本二百名山である七面山に北の裏参道から登って往復したのだが、深田はまず身延山に登り、そこから西に下り、表参道から七面山に登っている。ただし、日帰りしたわけではなく、身延山に一泊、七面山でも一泊している。
七面山の頂上手前に敬慎院という立派な本殿があり、深田も私もそこから更に奥にある(三角点1983mまで1.2㎞、最高点1989mまで1.4㎞)七面山頂上まで登っている:深田「その道は随身院門の前から通じているが、よほど物好きな人でない限り伝説も何もないそんな頂上へ行かないと見えて、すこぶる粗末な道である・・・・道端に三角点があった・・・・」、私「ヘリポートらしき広場を横切り、そこから登山道となる・・・・なかなか辿り着かない・・・・丘に何度か登り、ついに林の中の頂上に着く。一等三角点に頂上標識多数。1982mの標識と1989mの標識があったが、後でガイドを見たところ、三角点頂上は1982m(今は1983m)で、最高点1989mピークはもう少し先にあったらしい・・・(だが)そこが頂上ということで文句はない」。
頂上に到達した後、深田は私と同じ裏参道を下るのだが、その前に敬慎院に泊まり、大勢のおばさんたちと「室いっぱいの長い大蒲団」でいっしょに寝て、翌朝「読経」のお勤めをしてから簡素な朝食を食べたことを書いている。私が登ったのは8月中旬、深田も暑い夏の日に登っていて、えらく暑かったという記述が何度もでてくる:p226「なんでも甲府の辺りは百度(摂氏38度)に近い暑さだったそうである」、p231「『「甲府は暑い町だよ』と僕が言い張るのは、この日の経験に基づくものである」。
p225 被て(かぶって)
p226「甲府のあたりは百度に近い温度」:華氏100度=摂氏38度
p227 済度:仏・菩薩(ぼさつ)が、迷い苦しんでいる人間をすくって(=済)、悟りの彼岸(ひがん)にわたす(=度)こと。転じて、苦しみや困難から救うこと。
2ページもない短いこの章で深田は標高差1300mの山に静岡側から登り、十枚山・本峰1726mの更に奥の下十枚山1732mに登り、山梨側に下っている。初冬の無風快晴の日で、富士山が見えていた。富士山の西側には大沢崩れがあるが、深田は自然の力を尊重し、自然に任せるべきという意見:p232「大沢のくずれは今に始まったことではない。昔から有名である。ほっておくと富士山の美しい形が崩れると言うが、笑止な話だ。くずれるものはくずれしめよ。それならばまた別の美観が生ずるだろう。自然の摂理はデタラメではない。一つの美の崩壊のあとには次の新しい美を用意している。自然の美観をこわすのはむしろ人工である」。だが、富士山がデフォルメされたら、たぶん意見百出するだろう。
次は、登山の長旅の話:p233「朝8時に歩きだしてから夜7時半、自動車の便のある山梨県側の村へ出るまでほとんど歩き詰めだった」。これは、今の私にとってはいつものことになっていて、深夜に起きて夜明け前から歩き始めるのはいつものことになっている。これは、マイカーやGPS、ヘッドランプなどのハイテク機器があって初めて可能なことであり、深田の頃には難しいことだったに違いない。正確な天気予報も登山には重要だ。
次の、p233「疲れた、実に疲れた。しかし力を出し切った後の快感があった。ほかのスポーツでは体が苦しくなるとゲームを放棄することができる。ところが登山では、どんなに辛くても頂上まで登らねば終わりにならない。それから更に下りがある」というのにはやや異論がある。登山であっても、頂上まで行かずに途中で引き返すことはありうる。今の私の場合、不整脈という問題を抱えているので、無茶に飛ばして登ることはできず、体調が思わしくなければ諦めて下らなければならない。調子がいいときとそうでないときの落差が大きいのは全く信じられない。
最後の深田の言葉:p233「われわれの平生の生活で全力を出し切るという機会はめったにない。中途で止めてしまう。登山はそれを許さない。しかし当座はいかに辛くても、力を出し切った後のなんという快さ!」というのはもちろんその通りなのだが、不整脈で苦しんで歩ききったときの辛さと、調子が良くて短時間で完了してしまったとき(つまりあまり疲れていない)の落差というのは実に比較が難しい。これが今後の私のライフワークになるだろう。
これは正月から二日連続で雪山に登った紀行である。七人の老童の最年長、74歳はたぶん不二さん。大川入山は「信州百名山」「長野県の山」「日本の山1000」に入っている山だが、蛇峠山というのはこの「百名山以外の山50」で初めて知った山である。だが、どちらもちゃんと登山道はあり、ネットにも記録は載っている。ただし、深田たちが登ったのは正月の厳冬期だということ。裏日本だと雪の合間の晴を見つけて登るのは至難だが、太平洋側だと意外に晴れていることが多いようだ。
それにしても、この年は天気に恵まれたのだろう。まず元旦に蛇峠山に登り、そこから中央アルプスと南アルプスを見る:「東のかた南アルプスの連嶺は私たちの面前に一列横隊で並んでいた。仙丈岳から白鳳三山、塩見、赤石、聖岳に至るまでの3,000mの日本の高峰群がまぎれもなく目に痛いほどの輝かしさで名乗りを上げていた。それらすべての頂にかっての私の足跡が残されている」。
二日目もまた見事に晴れて大川入山に向かうが、深雪のラッセルが長く、途中で引き返している。無理せずに引き返す勇気もまた登山には重要だ:「74翁が先頭に立って歩幅広く雪を蹴って進む様は、まさに懦夫(だふ)を立たたしめる概があった。弱兵の私は30歩ほどラッセル役を引き受けただけで兜を脱ぎ、あとは貨物列車の最後につながる一両のように、ただ曳かれて行くほかはなかった」。
最後に深田が引用している加藤楸邨の俳句は、情景でありながら抒情ももつものに思える:「雪嶺をかぞへあまさずかなしみき」。悲しみがわいてきたのは、悲しいからではなく、その美しさに打たれたからだと思う。
p237 懦夫(だふ)を立たたしめる:意気地なし・臆病者でも、やる気・ヤる気にさせる。 懦夫とは、臆病者の意味。
p237 加藤楸邨 (かとうしゅうそん) 生没年:1905-93(明治38-平成5). 俳人。東京生れ。本名健雄。・・・・水原秋桜子に師事。初期は『馬酔木』に拠ったが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなり、人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれた。
これもまた、正月の雪の無い登山。深田たちが最初に登った秋葉山というのは、私が2018年に竜頭山、常光寺山、そして黒沢山に登った時に通った天竜川沿いのR152沿いにある山で、今では稜線上にも車道が通じているから、車でも行けそうな感じである。深田の頃はマイカーではなく列車とバスで移動し、大晦日に頂上の秋葉神社の近くの三尺坊という宿に泊まり、翌元旦に秋葉神社=秋葉山に登っている(地図7)。この秋葉山を「百名山以外の名山50」にカウントしていないのは、あまりにも簡単な山だからだろう。
そして次に目指すのが京丸山(「静岡の百山」)。深田の頃はまったく無名の山であり、友人の会社重役「村さん」が探し出したとある。今なら登山口までマイカーで行って日帰りだろうが、当時はそうはいかない。バスもないのでハイヤーを雇って石切まで行き、そこから京丸峠というのを歩いて越え、登山口近くの京丸の宿に泊まっている。このとき泊まった「京丸でただ1軒の藤原忠敬さん」というのは貴族藤原氏の子孫とあるが、今ではどうなっているのだろう。
京丸山の頂上は展望がなく、深田たちは「吉例」の缶ビールで乾杯して弁当を食べ、反対側の京丸沢方面に下る。この反対側の道というのは今の地図にも頂上から500mくらいは破線がない。沢筋に出てから「道はよくなった」というのは、たぶん防災・砂防工事の林道であろう。ようやく気田川沿いの門桁という集落に着くが、そこにある二つの宿に泊まれず、深田たちは気田まで車を頼む。車を待つまでの間、「小学校の先生の家」の「玄関」でウイスキーを空にし、気田の宿でも「夜遅くまで・・・・お燗」を飲んだという。この頃が深田の人生で一番楽しい時だったのかもしれない。
深田はこの山を、低いながらも歴史をもつ山として、門前町や参道、縁起などを語りながら紹介している。長い石段を300m登り、ケーブルカーのかからないことを祈る、と深田は書いており、今でもケーブルは架かっていないようだがパークウェイという車道が登山口まで伸びており、ネットで検索しても登山サイトではなく観光サイトが出てくる。つまり、いまや登山というよりは散策の山なのだろう。深田の書いている「仁王門」は徳川家光が造り、「ブッ・ポウ・ソウ」と鳴くのはコノハズクで、今でも生息しているらしい。「杉、檜、樫、栂などの大木」などの密林が今でも守られているのだろう。
「(鳳来寺の)すぐ横にみごとな岩壁が立っていた」という岩壁は、愛知県観光サイトの最初のページに(切り替わり写真だが)登場するから、今でも見所なのだろう。鳳来寺(標高450m)から深田たちは登山道をたどり、鳳来寺山の頂上695mに達する。深田は「三角点のほか何もない平地」と書いているが、鳳来寺山には地理院三角点は無く、標高点が記してあるだけなので、たぶん何か別の石標(御料局三角点?主三角点?)なのだろう。
p244 鳳来寺山:紅葉の名所として名高い「鳳来寺山」は、“声の仏法僧”とも呼ばれる愛知県の県鳥・コノハズクが棲息していることでも知られています。山全体が国の名勝・天然記念物に指定されている自然の宝庫。1300年前に利修仙人が開山したと伝わる霊山でもあり、中腹には古刹・鳳来寺があります。麓から1425段の石段が続く長い鳳来寺の参道には、樹齢800年、現存するものとしては日本一となる高さ60mを誇る傘杉などの見どころがあり、石段を上るごとに広がりを見せる奥三河の自然の風景は癒し効果絶大。徳川家光公によって慶安4(1651)年に建立された仁王門は国の重要文化財です。(愛知県観光サイト)
p245 自在鉤(じざいかぎ)
p245 寒狭川(かんさ):豊川の上流部、アユなどの渓流釣りで有名
p245 御脳(ご‐のう):貴人の病気を敬っていう語。 ご病気。 おんなやみ。
この山に私は2019年3月に登っている。スキーを持って雪山に登ろうとしたのにまるで雪が無く、海岸に近いこの山にも全く雪はなく、梅がきれいに咲いていた。この山は大友家持と万葉集の山と言ってよいだろう。この越中二上山を語る前に、深田はまずダイヤモンド・トレールの二上山について触れ、その雄岳頂上に大津皇子の墓があること、万葉集に皇子の姉の大来皇女(おおくのひめひこ)の歌があることを語る。深田はこれを「悲痛の歌」と書いているが、過去を振り返らず、未来に向けて生きようという現実的な決意の歌のようにも思える。
さて、越中二上山に向かった深田は高岡から海老坂に向かう途中で「二つの峰を並べた美しい二上山を望むことができた」と書いている。私も高岡付近でR8からR160に右折し、北上するあたりで二上山を見ているが、それほど顕著な双耳には見えない。たぶんいい具合に見える展望スポットがあるのだろう。
最初に深田が触れる家持の歌は「二上山の賦一首」という長歌で、「全文を引用するのは長すぎる」として大意を書いているのだが、それでも7行。それは二上山を讃える歌で、射水川、春の花、秋の紅葉、荒磯の白波や夕凪の情景を連ねている。大伴家持の言う射水川というのは今の小矢部川であり、その川は庄川と並んで富山湾に注いでいるが、昔は二つの川が合して富山湾に注いでいたらしく、それを深田は「昔の射水川は庄川を入れていて・・・・大河だった」と書いているのだろう。
二上山の二つのピーク、城山259mと二上山273mに順に登っているのは深田も私も同じだが、深田の頃には城山は「広く平に均した城址」で、そこから氷見の海岸や蛇行する小矢部川を見ている。二つ目の家持の歌は氷見の海岸の歌:「英遠(あを)の浦に寄する白波いや増しに 立ち重(し)き寄せ来東風(くあゆ)をいたみかも」。私が登った時は遠景は曇っていて見えず、そのかわりに大きな平和観音像が立っていた。
深田は城山から尾根道を歩くが、今は二上山の尾根沿いに伸びる「二上山万葉ライン」という舗装路ができていて、私は車でそれを辿る。二上山の頂上で深田が見たのは「二上山頂上(標高273m)と書いた棒杭、粗末な木の鳥居と荒れた堂のほか何もなし」であったが、今ではそこに巨大な大伴家持像が立ち、えらくハンサムで現代風、この万葉の詩人はマンガや映画の主人公のような感じだった。ただしここで深田は三つ目の家持の歌を引用しているから、その歌の表示はあったのかもしれない(今はもちろんある):「玉くしげ二上山に鳴く鳥の 声の恋しき時は来にけり」。
私はこの後、二上山の更に別の峰、摩頂山254mと鉢伏山179mにも行ったが、深田は東の海岸の伏木の町に下っていて、この町にも大伴家持と万葉集の雰囲気を感じ取っている。ここで四つ目の家持の歌:「東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉の海人(あま)の 釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」。
p248 うつそみの人にあるわれや 明日よりは 二上山を弟世(いろせ)とわが見む: この世の人である私は、明日からは二上山をわが弟と見ようか。
これは深田が晩年、郷里で登り残していた笈岳に登った紀行記である。日本百名山を出した時はまだ登っておらず、それが日本百名山に選定しなかった理由になっている。今は加賀市になっている深田の郷里大聖寺町に5年先輩の稲坂健三という人がいて、深田が登山に魅かれた原因になった人で、あの佐伯平蔵と共に残雪の白山山脈を縦走したというのはなかなかの記録である。明治の始め、陸地測量部が剣岳頂上で槍と鉾の頭を見つけたというのは有名な話だが、笈岳でも陸地測量部が経筒二個、和鏡、太刀などを見つけたと深田は書いている。
結局、深田は長い間、笈岳に登る機会を逃し、やっと登ることにしたときの同行者は稲坂氏ではなく(当時も健在だったと書いてある)、当時の深田の山仲間のコンちゃんとペンちゃん。三菱系会社の副社長、石油会社の重役というのはなかなか重みがある。若者二人にテントや荷物の荷役二人を雇ったというのは、三人が老齢だからというよりも、資金が潤沢だからという理由からだろう。
中宮温泉手前の小屋に泊り、尾添川沿いにの道を歩き、籠渡しで一人づつ対岸に渡り、そこからガムシャラなまっすぐな急な道を登ったというのは、たぶん中宮から尾添川の右岸を歩き、二つ目の二股の先で左岸に渡り、山毛欅尾山に登ったのだろう。これは私が笈岳に登ったときと同じルートである。深田が書いているのと同じに、途中から残雪で山は白く覆われた。私は山毛欅尾山から更にヤブの細尾根の先まで進んでテントを張ったのだが、深田たちはもう少し先まで進んだようだ。
p257「新緑の山の美しさにはまだ早かったが、木々の芽はもうはち切れんばかりに膨らんでいた。いい天気だった。五月の太陽は燦燦としていて大気に光の粉をふりまいていた。顔がヒリヒリと焦げていくのが分かる。一休みして軽食を取る。周囲のあらゆるものがこれから始まる自然の大ドラマの開幕前の前奏曲のようにそくそくと息ぶいている気配である。こういう幸福があるから、山登りは止められない。
p253 京洛(きょうらく)とは。意味や使い方、類語をわかりやすく解説。みやこ。京都
p253 綺語. 1 仏語。十悪の一。真実に反して言葉を飾りたてること。 2 美しく飾った言葉。多く、小説・詩文の美辞麗句をいう
「春の山」という副題から始まる後半は、テントを張ったところから始まる。p258「前山の下にテントを張った。そこから頂上まで距離にして2キロ半くらい、標高差にして250mくらいだからたいしたことはあるまいと思ったのに、なかなかそうではなかった」とあるが、深田たちがテントを張ったのはおそらく冬瓜山1628mを越えた先のシリタカ山1699mの手前あたりと考えられる。冬瓜山を越える尾根通しは難しいと思うが、そこからシリタカ山から北コルまでのトラバースは、深田の記載の通り気の抜けないトラバース斜面に違いない。
深田たちは帰路ではこの「前山(シリタカ山)のトラバースも止めて谷川の近くまで急斜面を降りてそこの平地(冬瓜平1430mと思われる)を歩いた」とあるが、私は往路も帰路もこのコースを進んだ。私はクラストしていた冬瓜平からシリタカ山北コルまでの急斜面トラバースをアイゼンで登り、帰りはスキーで豪快に滑走した。当時のメモ「スキーを履いて滑り込むと結構な斜面で、(先に降りて行った徒歩の)二人の間をぬってハデな連続ターンとなる。驚かせてしまったのか二人は降りて来ずに戻っていってしまった。急な固い下り斜面なので楽ではなかろう」。
北コルから笈岳までは雪の尾根が繋がっていて、私はそれを辿った。というか、私は北コルで突然、大勢の登山者に出会い、太いトレースがついていた。彼等はたぶんシリタカ山の南側から日帰り?で来たものと思われるが、今ではそのルートは登られておらず、笈岳西尾根に日帰りルート(かなりの難路らしい)が付けられているらしい。ネットには「二百名山最難関」とある。
深田たちは尾根通しでなく、トラバースしてヤブに悩まされたとあるが、無事狭い頂上に到達し、快晴にも恵まれ、「長い間あこがれていた山の頂上に立って私の喜びは限りなかった」と感動に包まれている。そして登ることができた幸運に感謝することを忘れない:「笈ヶ岳登山の好期はわずかの期間である。もう少し早かったらまだ十分に雪が締まっていなかっただろう。もう少し遅れたらブッシュが出て邪魔をしただろう。ちょうど良い条件の時に登りしかも快晴に恵まれて幸運だったと言わねばなるまい」。
この紀行文にはやたらに万葉集の歌が出てくるが、それはこのとき同行した妻がp263「近年万葉集の勉強を始めた」かららしい。全部で九つ。妻が来る前に深田は福井中学の同窓会に出ていて、「同じクラスであった石田和外君が最高裁判所長官に任じられた」お祝いを兼ねてだというから、優秀な中学校らしい。
さて、深田は日野山に登る前に福井市西大味(福井市の南山際)の祖母の墓にお参り、味真野の継体天皇御宮跡を訪ね、粟田部の宿に泊まっている。ここは越前和紙の産地:p261「越前の万葉古跡味真野(村)・・・・・・・和紙の生産地として有名な岡本(村)・・・元の五満分の一には載っているが、新しいのには抹消されていた。味真野村も岡本村も武生市に編入されてしまったからである。東京の昔から親しみのあった町名がかの忌まわしき町名地番変更の犠牲になったように地方では市町村合併という田舎の行政家の手によって由緒ある古い地名が惜しげもなく消えていくのは傷ましい。画一で簡略なことを直ちに合理的とする浅見と言わざるを得ない」。
そして翌日、深田は日野山に北東の道から登り、頂上の三つの社と三角点を訪れ、西の平吹に下り、日野神社に寄っている。私は昨年、北西にある道から登り、深田と同じく、手前の二つの社に訪れたが、三角点のある南峰には社はなく、代わりに中央の社の西に、休憩所を兼ねた大きな小屋が建っていた。
深田が登った時は誰にも会っていないが、日野山は今や人気の里山になっていて、私が登った時も大勢で賑わっていた。「『奥の細道』に『漸々(ようよう)白根が嶽(白山)かくれて、比那が嵩あらはる』・・・・比那が嵩は日野山の別称・・・・姿の美しい山は詩人の目から逃れることはできない」とある。
そして翌日、深田たちは日野山の南20㎞ほどのところにある木ノ芽峠に行く。北陸道や敦賀経由の道ができる前、平安時代の頃に開かれた歴史の道で、深田の頃はさびれる一方とある。今はスキー場ができていて、私はスキーで歩こうと考えていたが、雪が十分にあれば可能かもしれない。夏なら車で頂上直下まで行けるだろう。深田は雪を踏んで頂上に立ち、そこで「明治天皇の御休憩所として建てられた・・・萱葺の家」と「道元大禅師」という大きな石塔を見ている。石塔は今もあるだろうが、萱葺の家はどうだろう。
これは深田が「日本百名山」のなかで「遊園地化している」として選ばなかった山に、比類のない魅力が存在していて、多くの優秀な日本のクライマーたちを生んだ道場になっていることが語られる。深田は登山を体育会系の競技にすることに反対し、誰でも楽しめるリクリエーションであることを世に示したのだが、一方、ヒマラヤへの強い渇望も持っていた。
若い頃の深田にとっては、当時の限られた移動手段や情報アクセス環境においては、奥秩父や日本アルプスに登るだけでも相当な困難が伴った。ここで深田が挙げている日本三大岩場以外にも、日本には大きな岩場がたくさんある。山奥にいけばいくらでもあるだろう。だが、市街地に住むクライマーたちにとっては、アクセスが容易であり。全景が見渡せるような岩場に足が向くだろう。御在所山は名古屋からも大阪からもごく近くにあり、その岩場、藤内壁の全景も見渡せる。
こういう岩壁を私は日本の各地でいくつも見た。山形の黒伏山、新潟の根知駒ヶ岳、岐阜の錫杖岳、広島の三倉岳、宮崎の鉾岳・・・・・。深田は中京のクライマー高田光政君の名を挙げているが、私が錫杖岳に(登山道で)登った時、頂上には岩壁を登ってきた若い山ガールたちがたくさんいた。深田は「激しい羨望を感じた」と書いているが、私はなんだかカルチャー・ショックを感じた。そう、クライミングは若い女性の世界になっている。
p273 御在所山:「御在所山には表道と裏道がある。藤内壁と呼ばれる岩場はその裏道に沿っている・・・国見尾根を下って行くと、最後の急坂の途中から対岸に藤内壁の全体が見えた。スケールと変化にとんだ岩場で、それぞれのルートに幾組ものザイル・パーティがへばりついていた」(地図8)
この短い山旅で、深田は銀行頭取の加和さんという人と共に、道沿いに見える奈良や三重の山をたくさん見ている。なんといっても、トンネルを抜けたときに見た高見山が一番印象的:p276:「柏木からバスで国栖(くず)まで下り、バスを乗り換えて伊勢街道に入り、終点杉谷部落・・・途中、木津峠という小さな峠をトンネルで抜けたが、その出口から東に鋭い美しいピラミッドの嶺が見えた」(地図9)。
私も高見山のこの鋭いピラミッドを何度が見て、写真も撮った覚えがあるのだが、探し出せない。高見山に登った時は曇で、見ていないから、付近の山に登ったときだろう。頂上直下の高見峠を通っている車道の登山口から頂上まで距離700m、標高差350m。深田もこの「新道の高見峠」に車を待たせて登っている。1時間くらいというのは私と同じ。「山の上としては立派な小祠が立っていた」というのは、石柱に囲われた中に立っている祠で、その前に石柱の頂上標識があった(写真9)。「神武天皇大和平定の時誘導したという八咫烏(やたがらす)建角身命(たけつぬみのみこと)が祀ってある」とのこと。
松坂への帰りのバスから深田が見たのは、長い峰をもった三峰山、美しい尖峰の局ヶ岳、白猪山、烏岳。私は烏岳にだけは登っていないが、道沿いでその姿を写しているから、目立つ山なのだろう。
この章に深田は万葉集の歌を12首も載せているが、やはり一番よいのは最初の「たまくしげ二上山に鳴く鳥の 声の恋しき時は来にけり」である。これは越中・二上山で大伴家持が詠んだもので、私のようなきままな山登りには波長の合う歌である。
深田はもう一つ、岡山の津山の南西にある二上山689mを挙げている。これは「岡山の山100選」に入っているから、いずれ登りに行こう。深田は挙げていないが、私はもう一つの二上山を知っている。それは宮崎にある二上山で、標高1082mと989mの双耳が並んでいるのを見て、なにやら神話に関係しているらしい。本を買ったが、まだ読んでいない。
さて、これら四つの二上山のうち、やはり一番有名で、私も一番多く見て、多く登っているのはダイヤモンド・トレールの二上山であろう。深田の頃はまだダイヤモンドトレールは無かった。二上山に登る前に、金剛山と葛城山に登ろうかと思ったが、ケーブルがついているので止めた、とある。つまり、深田はダイヤモンドトレールどころか、金剛山にも大和葛城山にも登っていないのだろうか。もしそうだとすると、これは、私も含め、関西の登山家にとって悲しいことだ。
深田が最初に書いている、大阪と奈良から見る二上山は、今では高速・南阪奈道からその美しい姿を見ることができる。鉄道よりも標高が高い分、昔よりも良く見えているに違いない。この山の頂上近くにある大津皇子墓に私はまだ(迂闊にも)行ったことがないのだが、悲しい歴史の話や歌をよそに、今の二上山は雄岳も雌岳も大勢の人々で賑わっている。「うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟世(いろせ)とわが見む」という大来皇女(おおくのひめみこ)の歌は、何度も見ていて頭に残るようになってしまった。
雄岳の方が人が少ないが、頂上には立派な葛木二上神社がある。深田が「雄岳の最高点はその社の近くにあった」と書いている「一言主を祀る・・・・荒廃した社」はこれではなかろう。深田の時の雌岳は「登る人が少ないとみえて、あまり道はよくない」とあるが、今では雄岳とのコルの「馬の背」には休憩所やトイレがあり、雌岳へは石段があり、雌岳の頂上には大きな日時計と、その回りにベンチがあり、それがほとんど満席。
深田たちが雌岳から南に下った時に寄った「凝灰岩の洞窟」は今では「史跡岩屋」という観光名所になっている。深田たちはそこから竹内峠に行かず、東に沢沿いに下って当麻寺(たいま)に寄っている。ここにも中将姫という歴史の登場人物がいるらしい。
p288 中将姫:奈良の當麻寺に伝わる『当麻曼荼羅』を織ったとされる、日本の伝説上の人物。平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な芸能・文芸作品の題材となった
深田はちゃんと金剛山に登っていた。夫妻で登っているから、だいぶ晩年のことであろう。深田が登ったのは西側の千早から。ロープウェイはもうあったらしいが、それに乗らず、急な高い石段を登り、千早城跡(*1)と千早神社を経て稜線に達し、その日は山上に泊っている。宿の前には転法輪寺があったというから、あの千回登頂の大きな貼りだしの出ている広場の宿泊所だろう。
翌日、深田は葛木神社に登るが、「その社の裏の小高い所が最高点の1,125mであった」と記しているのは、おそらく実際にそこまで行ったのだろう。現在、その金剛山・最高点は立入禁止になっていて入れない。
それから深田は稜線を北に歩いて大和葛城山まで行っている。この大和葛城山という名が定着したのはその頃らしく、深田は「以前の五万分の一の地図には、今の葛城山のところにはその名も記入されていなかった」と語り、「葛城山」というのは今のダイヤモンド・トレールの諸峰全体を指す言葉だったらしい:「昔から、葛城山と言われてきたのは河内と大和の間を南北に高い壁のように区切っていた山脈の総称・・・・『春楊(やなぎ)葛城山に立つ雲の 立ちても坐(い)ても妹をしぞ思ふ』という柿本人麻呂の歌も、この広い範囲の葛城山を目指したものだろう」。
深田たちはいったん水越峠に下り、登り返して大和葛城山の三角点に立つ。「賑やかな人出だった。遊園地について何も言うことはない・・・・・こんなものがなかったら歩いただろう」と書いたくせに、ロープウェイで下っている。奥さんに言われたのか。
私は金剛山にも大和葛城山にも2度登った。金剛山に最初に登った2005年のことはまるで覚えていない。メモを見ると、タクシーで東側の小和口まで行き、そこから2時間で伏見峠、初めてダイヤモンドトレールの標識を見て、湧出岳の三角点に寄り、葛木神社の「金剛山頂上」標識のところで2礼2拍1礼。山頂広場の上でラーメンを作って食べ、それから千早口に下っている。登りと下りが違うが、ここだけは深田と一致している。そのときの写真を見ると、おぼろげに当時の記憶がよみがえってくる。そうだ、確かに千早城跡や、楠木正成が御祭神の千早神社に寄ったのだ。
このとき、大日岳に登ろうとして果たせず、その19年後に大日岳に到達。深田のときの金剛山頂上は静寂だったようだが、今の金剛山は大和葛城山に劣らず、いやむしろこちらの方が登っている人は多いのではなかろうか。2005年にも1000回登山の達成者の名前が大きな板に貼りだしてあったが、今では2000回というのも加わり、それが何枚にも増えている。
(*1)楠木正成:1331年、正成は後醍醐天皇による倒幕計画・元弘の変に合わせて赤坂城にて挙兵。北条高時の軍勢数十万人(『太平記』では30万人)に対して、たったの500人ですが、正成軍は、籠城しながらの奇襲戦法で圧倒的な兵力差のある幕府軍に好戦しました。主君・後醍醐天皇は笠置山かさぎやまで幕府軍に捕らえられますが、正成は逃亡してきた護良親王もりよししんのうを擁護して戦います。幕府軍による兵糧攻めが開始されると、正成は赤坂城を炎上させて城を放棄。焼死したと見せかけた正成は、護良親王と共に大軍に囲まれた城から落ち延びることに成功しました。翌年には幕府に占領された赤坂城の奪還にも成功しています。【千早城の戦い】1333年に幕府の北条高時は、またもや数万から10数万と言われる正成討伐軍を差し向けます。金剛山こんごうさんに要塞の城を築いて迎え討った正成軍は、奇策を自由自在に操って幕府軍を苦しめます。攻めあぐねた幕府は、兵糧攻めを実行しますが、地元民との強い連携体制を取っていた正成軍は兵糧に困りません。大軍だった幕府軍の兵士のほうがかえって飢えに苦しみ、ついに撤退しました。一人の武将・楠木正成が幕府の大軍を振り回す戦いぶりに、諸国の武士たちが目を覚まします。足利尊氏や新田義貞などを先頭に幕府に不満を持った武士たちが立ち上がり、ついに鎌倉幕府を倒しました。(歴史上の人物.com)
驚いたことに、深田は桜島の頂上に立っていた。今は立入禁止になっていて登れないが、この桜島の登頂記はすごい迫力。当時も登山道が整備されていた訳ではないようで、途中までは指導標があったようだが、途中からは道なき道を、地元の田中敏治君の案内で歩く。
深田は九州に、霧島山、開聞岳、屋久島に登りに来たのだが、鹿児島に来た時に桜島を見て、登らねばならない、と決意したようだ:p293「桜島という名に捕らわれて、僕はただの島くらいに思っていた。だがこれは一つの山なのだ。海ぎしから直ぐそびえ立つ大きな山なのだ。高さは1,000mを越えている」。
そして、屋久島から帰ってきて、すぐに桜島に向かい、上陸してすぐ登りにかかる。標高が上がってくると海が見えてくる:p296 大崎ノ鼻:「見晴らしの良い台地に出た、すぐ真下が・・・錦江湾・・・その向こう側は吉野台の絶壁がずっと海に迫って、大崎ノ鼻が行く手を扼すように突き出ている」(地図10)。靴に小石が入るのでゲートル(たぶんスパッツ)を付け、小石のザラザラ道を登り、遂に最高峰の北岳に着く。これだけでも喝采だが、この日のハイライトはこの後にやってくる:p298 「三つの噴火口が一列に並んでいる・・・北岳、中岳、南岳と呼んでいる・・・北岳の・・旧噴火口へ降り、対岸に登った時、思わずあッと声を立てた。すぐ目の前の中岳を越えて向こうに、南岳の噴火口があんぐりと大きい口の中を見せて、濛々と激しく噴煙が立ち昇っているのだ。豪壮というか凄惨というかとにかく感動的な景観である。しばらくはただ魅されたように眺めていた」(地図11)。
深田はいつも往路を戻らず、違う道を辿るのだが、この日はなんと、p299「西に向かって雪崩れ落ちた砂礫の急斜面を下った・・・・この降りはあまり楽でなく、初心者には勧め難い」。玄人でも嫌だろう。さすがにこの日のうちには鹿児島に帰れず、桜島の「林芙美子さんの生家」の温泉宿に泊る。「前は南国の海で、その遥か海の果てに三角形の開聞岳が小さく浮いていた。こんなに景色のいい海の温泉宿は初めてである」。この桜島登頂記は少なくともこの「百名山以外の名山50」のなかのハイライトの一つだろう。
p296 錦江湾=鹿児島湾
(地図1:音更山、石狩岳)p29 山田温泉:糠平湖畔を過ぎ・・・山田温泉の明かりが見えたのは8時過ぎていた.いかにも湯治宿らしい平屋建ての昔風の建物
(地図2:暑寒別岳)p42 歩古丹:私たちの車は歩古丹の海の見える高台まで行き、そこで持参のビールを飲み西瓜を食べて、また元の道を引き返した
(地図3:チセヌプリ)p57 倶知安高等学校:倶知安高校はまことに羨ましい位置を占めてた.後方羊蹄山の真下にある・・・一点の雲もない空を背景にその美しい形の山はまともに大きく立っていた
(地図4)p176 正丸峠と伊豆ヶ岳:「今年もどこかの山で元旦を過ごそうと思い、あまり辛くないところと、選んだのが、広告でよく目にしている正丸峠・伊豆ヶ岳だった」
(地図5)p177 吾野駅(西部秩父線)、正丸峠、伊豆ヶ岳:「終点の吾野に着くと、運よくバスの連絡に間に合った
(地図6:御池山と地蔵峠)p205 遠山郷の南、上村と下栗「30余年前私は南アルプスに登るため下栗に行ったことがある。そのときは粗末な山道で、急な尾根を越えて村へ出た。今度は尾根越えの代わりに山腹を巻く迂回路ができていた。道はよくなったが、倦き倦きするほど長かった」
(地図7:京丸山)p238 秋葉山:信州街道を北上すると秋葉街道、坂ノ下というところでバス下車、600m登って三尺坊、翌朝100m登って秋葉神社山門R2
(地図8)p273 御在所山:「御在所山には表道と裏道がある。藤内壁と呼ばれる岩場はその裏道に沿っている・・・国見尾根を下って行くと、最後の急坂の途中から対岸に藤内壁の全体が見えた。スケールと変化にとんだ岩場で、それぞれのルートに幾組ものザイル・パーティがへばりついていた」
(地図9)p276 伊勢街道の高見山:「柏木からバスで国栖(くず)まで下り、バスを乗り換えて伊勢街道に入り、終点杉谷部落・・・途中、木津峠という小さな峠をトンネルで抜けたが、その出口から東に鋭い美しいピラミッドの嶺が見えた」
(地図10)p296 大崎ノ鼻:「見晴らしの良い台地に出た、すぐ真下が・・・錦江湾・・・その向こう側は吉野台の絶壁がずっと海に迫って、大崎ノ鼻が行く手を扼すように突き出ている」
(地図11)p298 三つの噴火口が一列に並んでいる・・・北岳、中岳、南岳と呼んでいる・・・北岳の・・旧噴火口へ降り、対岸に登った時、思わずあッと声を立てた。すぐ目の前の中岳を越えて向こうに、南岳の噴火口があんぐりと大きい口の中を見せて、濛々と激しく噴煙が立ち昇っているのだ。豪壮というか凄惨というかとにかく感動的な景観である。しばらくはただ魅されたように眺めていた」