1992年 (2020年9月26日読了)
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これは1982~85年の間、ダムに沈む前の三面集落で暮らし、取材した作者のマタギの物語である。民族文化映像研究所というから、就職して間もない研究員としての活動だったに違いない。山登りの経験もなかったらしいが、マタギたちについて熊狩りに行く。
「山が好きだ。特に雪を抱いた山を見るといてもたってもいられなくなる。雪を踏む感触や肌にヒタヒタと張り付いてくる冷気を思い出し、山を歩きたいと思う。・・・・そして雪山を見るたびに思い出す人たちがいる。それは山のことなど何も知らなかった私に山と狩人の世界を初めて教えてくれた人たちである。彼らの村は新潟県岩船郡朝日村三面といった。今はもうない」
「私」はマタギのクマ狩りに初めて参加する。鋲のついた長靴で雪山を歩き、二手に分かれてクマを探すところまではついていけた。だが、いざクマが見つかり、追い込むために尾根を下るとき、あまりの速さの違いについていけず、「私」は滝壺に落下してケガをしてしまう。一人で帰りますと言って歩き始めるが、山人の一人が付き添ってくれて村に戻る。結構大きなケガだったらしく、回復には時間がかかり、精神的にも怖さがあったが、村の人たちは「私」を励まし、クマ狩りに戻ってくるように励ましてくれた。そうして「私」は1年後、再びクマ狩りに同行し、小屋で留守番をする役しかもらえなかったが、獲ったクマの七串焼きの儀式に参加し、新しい力を得る。
次はゼンマイの話。毎年5月の1ヶ月間、三面の人々は総出でゼンマイを採り、茹でて乾かし、それを売って生計の元にしている。それが始まったのは大正の頃だというからだいぶ古い話。このゼンマイ市場の出現で、三面は狩猟から農業主体に生活形態が大変換したらしい。もうマタギという不安定な生活よりも、毎年、そこに行けば必ず得られるものの方がいいに違いない。次は三面の水路と歴史の話。水路を調べていると、三面の集落の構成、ひいてはそれぞれの家の歴史が見えてくる。三面に最初に入ったのは平家の落人かもしれない小池氏の兄弟で、後に高橋氏と伊藤氏が合流し、三氏が顔を合わせたので「三面」ということらしい。
夏の暑い日、中学生たちに誘われてイワナ突きに行く。川の滝の下にもぐり、目を凝らすと魚の銀色の背が見え、夢中でヤスをついてヤマメが取れた。獲れたイワナやヤマメを川原で火を焚き、焼いて食べる。昔、海岸でアサリを取って浜で焼いて食べたのと似ているが、比べものにならないほどワイルド。ダムができる前はマスも漁の対象になっていて、仲間のうちの誰が獲っても平等に分配する慣例があったという。ただし、一人で四匹以上獲ると、『鉤のイヲ』という特権が与えられた。お盆になると三面には親戚たちが戻ってきて、一気に人口が増える。お墓参りをし、お盆が終わると子供や孫たちが三面を去っていくのをおばさんたちがいつまでも見送って手を振り続ける。
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これは1982~85年の間、ダムに沈む前の三面集落で暮らし、取材した作者のマタギの物語である。民族文化映像研究所というから、就職して間もない研究員としての活動だったに違いない。山登りの経験もなかったらしいが、マタギたちについて熊狩りに行く。
「山が好きだ。特に雪を抱いた山を見るといてもたってもいられなくなる。雪を踏む感触や肌にヒタヒタと張り付いてくる冷気を思い出し、山を歩きたいと思う。・・・・そして雪山を見るたびに思い出す人たちがいる。それは山のことなど何も知らなかった私に山と狩人の世界を初めて教えてくれた人たちである。彼らの村は新潟県岩船郡朝日村三面といった。今はもうない」
「私」はマタギのクマ狩りに初めて参加する。鋲のついた長靴で雪山を歩き、二手に分かれてクマを探すところまではついていけた。だが、いざクマが見つかり、追い込むために尾根を下るとき、あまりの速さの違いについていけず、「私」は滝壺に落下してケガをしてしまう。一人で帰りますと言って歩き始めるが、山人の一人が付き添ってくれて村に戻る。結構大きなケガだったらしく、回復には時間がかかり、精神的にも怖さがあったが、村の人たちは「私」を励まし、クマ狩りに戻ってくるように励ましてくれた。そうして「私」は1年後、再びクマ狩りに同行し、小屋で留守番をする役しかもらえなかったが、獲ったクマの七串焼きの儀式に参加し、新しい力を得る。
「高橋猛さんがからかうように言う『今からそんな顔しててはとてももたねぇぜ。リラックスしねば・・・』」
「そこで前を歩く伊藤善康さんの足の運びを意識する」
「1時間余りで尾根の上に出た。ちょうど村の真裏にあたる宇連萩山の尾根であった。」
「高橋源右エ門さんは猟銃を抱くようにして腰を下ろし・・・『山の形覚えたか?オラ衆は見置きっていってる・・・』」
「煙草をくわえていた伊藤昭一さんがつけ加える・・・『今踏んだ自分の足跡ね、帰るときはもう消えてるよ・・・』」
「私たちのすぐ目の前には小松沢の谷が深く切れ込んで奥へと延びている。目指す猟場は・・・源十郎峰付近だ。まだまだ遠い。」
「背後から伊藤覚さんが声をかけてきた。覚さんは山人の中で最も若い四十歳代のはじめであるが、銃の腕前は評価が高い。」
「クマは決してデタラメなコースを歩かないと言う。彼らには彼らの道があるというのだ。」
「後日、小池善茂さんに教えられた『クマ獲るためにはまず、クマになることからはじめねばなんねぇさ。』」
「山人たちは音もたてずにポンッポンッと跳ねるようにブッシュを難なく下って行ってしまう・・・『山の技量ってものは登りではわからねぇもんだ。下りだ。斜面をどう下るか。そこが素人と山人の違いの一つだな』・・・・・アルペンでいうグリセードを杖一本でやってのけるのだ。」
「・・・小池泰男さんが・・・・私のリュックを奪うように取り、背負うと前に立ってグングン歩き始めた。」
「・・・沢を腰まで水に浸かりながら渡り、さらにひと山越えなければならなかった。」
「事故から二週間も経つと、今度は古老たちから声がかかった。高橋利博さんは、・・・『・・・元気のいい若い衆がおっかねえ場所で動けなぐなったこともありますよ・・・どんなちっちゃなことでも失敗したらその原因を考える。考えて今度はこうしようとするんです・・・・あんたこれで諦めたら二度とおっかなくて山行けなくなりますよ・・・また行ってくればいい。素直な気持ちで山に行けばいい。』」
「私は焼きあがって脂がしたたり落ちる肉片を一つとり、思いっきりほおばった。クマの聖なる力が私の中にゆっくりと溶けていった。・・・・・これまでの自分にはなかった新しい力との出会いであった。」
章が変わって雪の三面の生活描写。冬は村上から三面まで入るのは容易ではなく、林道が通れなくなるので三面ダムからダム湖を定期船で遡り、猿田川との合流地点付近の船着き場からまた歩いたという。三面村はもうダムに没しているということで、村のすぐ裏に宇連萩山613mがあったというから、たぶん奥三面ダムの上流にある「あさひ湖」のところに三面村があったのだろう。プロジェクト・チームは一軒屋を借りていて、雪踏みやカンジキの使い方などを教わる。山で狩をするための法令や許可、戦時は毛皮の需要があったこと、狩った動物の解体などは村人は皆できることなど。
・バンドリ=ニッコウムササビ p70
山の狩についての年輩の山人の話。多くは期待できないクマやシカよりもウサギやタヌキが狩の主体であったこと。マタギたちの間には戒律があり、山言葉という特別な言葉が使われ、スノヤマやサルヤマといった狩のための特別な組織が伝承されていた。カモシカの数が減り、猟が禁止され、スノヤマもサルヤマももう存在しない。
「まず肉の料理っていえば汁だごで。ダイコンと肉を味噌味で似るんだな・・・・・村人たちの食生活を支えてきたのは意外にもクマやカモシカなどの大型獣ではなく、ウサギやタヌキなどの中小型獣なのだといった。」
「山に入ってから十二日目を嫌っていた。十二というのが山の神様の数字だからだ。毎年十二月十二日がカグラと呼ばれ山の神の祭りなのである。この日は山の神が一日猟をする日だといい、山人たちは山に入らず村で神を祀り酒宴を開くのである。」
「山言葉では狩人のことをマタギというらしい。山人という言葉は男だけに用いられる日常語で狩人や樵(きこり)なども指すのだが、山言葉では狩人のみをマタギというのである。」
「スノヤマの組織はフジカを筆頭にナガラ、オオマタギ、ホウジョウ、シノボ、コマタギの大きく六つの階級に分かれ、各々きちっとした役割があった。」
「スノヤマ。それは三面の山人を象徴するような寒中の壮絶なカモシカ猟。内容は先祖たちの猟の形を継承し、山の戒律を伝える場であった。山人を養成するための教育の場であり、あらゆる伝承の場でもあった。」
三面の冬の猟場は山形の県境のあたりまでというから、寒江山や竜門山のあたりまで、深い雪の中を歩いていたことになるが、そこを流れる岩井ノ又川というのはえらく険しい沢らしい。いくら雪が積もっても尾根から沢に簡単に行き来はできないだろう。どこかに斜路があったのだろう。狩猟にかかわることについては謎が多く、他人どころか女子供にも話さないしきたりが続いていたようだ。三面で苦労した筆者は、その秘密の一端を見せてもらっている。狩猟の集落の三面ではスゲゴザなどを作り、村上や小国に出かけて物々交換をしていたらしい。車も林道もない時代で、三日がかりだったようだ。
「上泉山から大上戸山、相模山と経て寒江山に至る三面三大峰の一つヒトデ峰を歩いたときには、大上戸山より上流の尾根の上からは岩井ノ又の流れがところどころ見え、この尾根から沢へと落ち込む斜面が下に下れば下るほど傾斜の角度を増し、沢の付近はほとんど垂直に近い角度で一気に落ちていることに気づいた。まさに岩井ノ又は谷底の回廊というのがふさわしい」
「秋田のマタギはそのはじまりを万治万三郎とする日光派とか弘法大師とする高野派というものがあり、『山立根本巻』や『山達由来記』などの巻物が代々伝わっていることで知られているけれども、三面にはそういった巻物などは一切伝わっていないしあるという話も聞いていない・・・・・三面で狩猟の始祖とされているのは・・・山崎伊豆守なのである」
「しかし後年になって、・・・・ボロボロの和紙に綴られた『覚書』を見せてくれた・・・・・『昔であれば絶対に人には見せられなかったもんですけど、今となってはいいでしょう』」
「スゲゴザは三面の産物の一つで、藩政時代は年貢の代わりに物納されていたほどであった。幅三尺、長さ六尺に編み上げられたスゲゴザは、十枚を一束にして人の背中に背負って村上の町へ出されたのである・・・・一口に村上の町へ出ると言っても当時は容易なことではなかった。・・・当時は定期船はおろかスーパー林道さえなく、尾根越えの道をひたすら歩かねばならなかった。三面を出ると集落の向かいにある前山を越え、大沢という沢へと下っていったのである。到底日帰りは無理であった。・・・最低でも往復三日間かけての村上であった。小国もやはり同じであった。・・・・三面の人々が一気に町へと通い出すのは三月下旬から四月にかけての堅雪の時期と、十一月から十二月初旬にかけてのアラレの時期なのだという」
春が来て雪が融け、雪ワリをして雪解けを早めるが、昔は木を切って川に流していたという。塩を作るための薪、鉄道の枕木にはブナを使っていたらしい。丸木舟を作って売っていたという話もあり、丸木舟の復元作業は二十年ぶり。女性はシバを刈り、ゼンマイを茹でたり、畑の野菜の支え木に使ったという。
「枕木なんていうのは主にブナだったですがこれは鉄道がだいぶそのころ延びていったですから・・・・昭和30年代になってチップ材に変わってきたんだだもね」
「塩木っていうのは・・・塩を焚くための薪をここから流送していたんです。材はブナだね。・・・・村上の河口で・・・筏に組んで荒川の河口へ海路を運ぶんです。荒川の河口に塩谷ってとこがありますけども、あっこまで引っ張って・・・・塩谷で塩焚きするんです。」
「昔から三面では丸木舟の材はトチ、ナラ、セン、ヤチダモなどの比較的軟らかい木と決まっていたし、丸木舟を刳るためにはそれなりの大木でなければならない・・・・ところがそんな条件を満たす材はもう村の近くはおろか広大な国有林といえどもなかなかない。・・・・・舟材が決まったのは四月に入って間もなくのことであった・・・・猿田川の奥にあるコヨウサイ沢中流のトチの木であった。」
「四月二十日、丸木舟の復元作業が始まって五日目、とうとう最後の仕上げとなった。見事な舟形に出来上がった丸木舟をヨキで外面を少しずつ削っていく。そして舳(へさき)と艫(とも)の部分に舟綱を縛るための穴を空けて完成した。」
「復元した丸木舟に乗って三面川に浮かべ、実際に村人たちと乗ってみた。思いのほか舟は安定してゆっくりと川面を滑った。・・・・川岸近くの岩に船底が当たってもビクともしなかったし、七、八人乗ってもまだ余裕があった。」
「シバの束をトシコおばさんは脇にひきずって寄せていく・・・・・・ゼンマイ・・・・茹でるときの薪・・・・畑の豆だのトマトだの支える木・・・」「シバにはたくさん種類があって、ハイナラやマンサク、ミズキ、シバキなどが主だという」
クマ猟の話。昔は冬眠中のクマを事前にクマ穴を調べておいて獲ったが、今ではその時期の猟は禁止されており、冬眠を終えたクマが対象。クマが獲れると村人全員で分配するが、収入源は毛皮と胆。筆者はクマが獲れなかった猟の話を聞き、獲られたクマの肉を初めて食べ、そしてついにクマ狩への同行を許され、船に乗って猟場に向かう。
「冬眠してる穴を見て歩くから穴見・・・・・三面では穴見のことをタテシっていったもんだ・・・・・・タテシで獲られた獲物の肉はもちろん、胆や毛皮を売却して得た金銭も村人すべてに等しく分け与えるという考え方が根底にあった」
「しかし最近ではどうしてもタテシの時期が合わなくなってきた。現在の法定猟期は二月十五日までしかなく・・・・有害鳥獣の許可が下りるのは四月中旬以降で・・・すでにクマも冬眠を終えて穴から出てしまっていることが多い・・・・」
「この日のクマの毛皮は・・・・七尺あり、十六万円で売れた。クマの胆は生で一匁(もんめ)あたり1まん千円。占めて46万円・・・参加した人数で割ると一人当たりの収益は6~7万円・・・・数日を費やしてやっと一頭獲ってこの額なのだから得をしたのか損をしたのかわからないということになる。」
クマが見つかると研究所からの同行者二人はそこにとどまるように言われた。山人たちは3㎞離れた石黒山(*)の斜面にいるクマを見つけたのだが、筆者にはどれがクマなのか分からない。2時間以上がたち、銃声が聞こえ、ダムの山小屋で待っているとクマを取った山人たちが戻ってきた。猟に同行したのはここまでだが、クマを大勢で取り巻き、追い立てる方法などが詳しく書かれている。クマは追われても慌てて走り回らずに自分の道をたどり、斜面を登るらしい。ヒトに追われたことも覚えていて、逃げる確率の方が7割と多いらしい。小屋では山人たちと共になみなみと注がれた酒を飲む。
(*)石黒山:朝日スーパーライン沿線に登山口があり、猿田川野営場をベースとした日帰りコースの山です。3.5kmの登山道は、石黒沢に沿ってあり、途中から左に渡って急登となる。(村上市web)
次はゼンマイの話。毎年5月の1ヶ月間、三面の人々は総出でゼンマイを採り、茹でて乾かし、それを売って生計の元にしている。それが始まったのは大正の頃だというからだいぶ古い話。このゼンマイ市場の出現で、三面は狩猟から農業主体に生活形態が大変換したらしい。もうマタギという不安定な生活よりも、毎年、そこに行けば必ず得られるものの方がいいに違いない。次は三面の水路と歴史の話。水路を調べていると、三面の集落の構成、ひいてはそれぞれの家の歴史が見えてくる。三面に最初に入ったのは平家の落人かもしれない小池氏の兄弟で、後に高橋氏と伊藤氏が合流し、三氏が顔を合わせたので「三面」ということらしい。
「ゼンマイは約1ヶ月間の短期間での採取が勝負になる・・・子供たちも宿題をかかえて小屋に泊まりこむ。この年のゼンマイ休みは5月9日から十日間であった。」
「大正二年(1913)ごろのことになる・・・・・その二十日あまりのゼンマイ採りで当時六十円という大金を手にしたのである。・・・米価が一石で十九円八十銭で・・・村の者が見たこともない大金だった・・・以来、三面では本格的なゼンマイ採取が始まり、年収の半分を稼ぐといわれるほど盛んになった」
「大正の半ばから昭和三十年代にかけてのおよそ五十年のあいだ・・・・山に強く依存した自給的生活から市場と強く結びついた消費的生活へと転換した・・・・この間にそれまで村の経済を支えてきた狩猟が衰退し、焼き畑が止み、後には家族構成すら変わってしまったのである」
「そんで小池と高橋と伊藤、三つそろて、三つの顔が一緒になったはで、さんづらで三面ってなったんだとさ」
三面の田んぼと畑の話。水が冷たいので水をできるだけ温めてから田に入るように工夫する。だが、肥料や耕運機により、昔に比べて収穫量は倍増以上に増えたらしい。それに昔は米よりもヒエ、それにスゲ(スゲガサなどの原料)を作っていたらしい。今の三面では男たちは林道工事や林業の仕事が主体になっていて、田畑の仕事は昔ほどはやらなくなった。記録のため、焼き畑を実演してもらう。昔は村の共有地を使ってソバやアズキやダイコンを作っていた。
「沢の一角にはひときわ緑鮮やかな丸みをおびた葉を広げ、小さな白い花をつけたシナノキが見える。その横には白い花の散りかけたヤマボウシの木がまるで沢に飛び出したテラスのように岡のテーブルサンゴといった風情で枝葉を広げている。もうすっかり夏なのだった。」
「昔はよくソバ食べたもんだどもねー・・・・今は・・・ソバも町さ行って買ってくるんだホニ。情けねえような気がすっどもなー。」
夏の暑い日、中学生たちに誘われてイワナ突きに行く。川の滝の下にもぐり、目を凝らすと魚の銀色の背が見え、夢中でヤスをついてヤマメが取れた。獲れたイワナやヤマメを川原で火を焚き、焼いて食べる。昔、海岸でアサリを取って浜で焼いて食べたのと似ているが、比べものにならないほどワイルド。ダムができる前はマスも漁の対象になっていて、仲間のうちの誰が獲っても平等に分配する慣例があったという。ただし、一人で四匹以上獲ると、『鉤のイヲ』という特権が与えられた。お盆になると三面には親戚たちが戻ってきて、一気に人口が増える。お墓参りをし、お盆が終わると子供や孫たちが三面を去っていくのをおばさんたちがいつまでも見送って手を振り続ける。
「目を凝らしていると奥の暗い中にキラキラと光る魚の背が見え隠れする。すると私の右頬のすぐそばに二十数センチもあるヤマメが口をぱくぱくさせながら奥に入っては押し出され、また奥に泳ぎ入っては押し出されしているのに気づいた。体をひねってヤスで狙って突くとグッという手応えがあり、ヤスはヤマメを捉えていた。」
「一人の人がマスを四本突くと『鉤のイヲ』なんていって、突いたマスの中から一番いいものを選んでもらえた」
秋になると、今はもうないが、オソというクマやカモシカやムジナを獲る罠を仕掛けた。クマが中を通ると天井が落ちて圧死する仕組みだったらしい。オソで何頭もクマを獲り、毛皮や胆を売って現金を手に入れ、家や田を買った人もいたらしい。
秋から冬にかけて、川を遡上してくる魚を捉えたりキノコの採集が始まる。これらの採取をする場所には個人個人に占有権が決められていた。この章の最後に、三面村を去っていく人々の様子と気持ちが書いてある。人々は山の暮らしを続けたいと思いながら、子供達には町で暮らしていくように教育していた。たとえダムができなくても、いずれ三面は過疎で無人になっていただろう。自分たちは慣れ親しんだ山で暮らすのがいいが、子供達には、辛い山の生活よりも華やかな町で暮らす方がいいと、彼らも考えていたのだ。次回は最終章。
・筌(うけ、うえ、セン)川の中にしずめて、魚を捕る竹製の道具
「魚は下流から上ってくるもんだんが。だからドォ場っていうのはその沢全体を持ってることと同じ意味になる訳だぜ・・・・・オソ場も同じ・・・・その尾根全体をオソ場として持ってることと意味は同じになる・・・・」
「荒沢と中ノ沢は部落共有のドォ場・・・・カグラの宿を務める家だけがその年ドォをつけることができた訳だ・・・・カグラのときに・・・その年の宿の衆から杯を次の年の宿務める家の衆に渡す・・・・」
「キノコの採集は夏場のキクラゲ・・・盛りになるのは九月の下旬頃・・・・スギの植林地の中では真っ白なスギワカエが扇のように開いて生え、雑木林ではオリミキが黄色い頭を出し、モタセ、ムキタケ、トビタケなども出る。古木の根元には朱色の巨大なマスタケ・・・」
「十二月に入ったばかりのある日、とうとう雪が降ってきた。この日一日で村は真っ白になった。冬はもう目の前に迫っていた」
「・・・やっぱりここで生きていければ最高だな。ダムの話決まってしまえばもはや家壊して村上に下らんばねぇけどね。・・・・・でもなーいつかは遅かれ早かれ、ここはなくなる部落だ・・・・人は出ていく一方だし、一回出て行ったら帰ってこねぇし。子供らにもここで生きていく教育してねぇもの。平場の町に出て生きていくようにって教育してきたんだもの。子供らも一度出て行ったら帰ってこねぇ。・・・・・んでもやっぱり、ここに残る組にはいりてぇよう。・・・・」
最後の数十ページでは『空間』と『掟』について語る。空間とは集落、耕地、里山、奥山という山人の生活空間のことであり、掟とは、獲物を獲りすぎてしまわないよう、集落の弱者も生きていけるよう定めた不文律のことである。これらを総合し、『山人の世界観がほの見えてくる』と締めくくる。
「空間の中心に村人の拠点、集落がある。ここもまた私的所有の世界である・・・集落から耕地、里山、奥山と遠ざかっていくに従って人の力は弱まっていき、逆に山の力は集落に近づくほどに弱まり、人の力によって管理されるようになる。集落から奥山へと所有の形は私的所有から共有を経て占有的な利用権へとその質を変えていく。」
「猟欲を抑えるためのさまざまな掟があった。・・・・山のことでは、機会均等、権利平等、しかし個人の技量はこの限りでない、という三面の人々の基本的な考え方がこのあたりに見えてくる。人が山を支配するのでなく、山が人を支配している、という山人の世界観がほの見えてくるのである。」
「村はただ放っておけばやがては周囲の山々の森林が押し寄せ、飲み込まれてしまう。村人は山の力を人の力で半分だけ抑え込む。耕地や集落に侵入してくる野生の鳥や獣に対してもある程度を間引くことでバランスを保とうとする。・・・・こうした山と人との関わり方、スタンス、あるいは倫理はなにも三面に限ったものではなかった。その後訪ねた長野県の秋山郷や秋田県の阿仁の村々などでも見ることができた。今は薄らぎつつあるが、私たち日本人にはこうした自然に対する考え方や生き方というものが基本にあるように思えてならないのである。人と山との理想のパワーバランスを求めて、三面の人々が幾世代もかけて築き上げてきた『山人の自然学』といってもいいものではないだろうか。」
あとがき
「あとがき」では、三面村から疎開した山人たちの様子が語られ、作者は阿仁や秋山郷を含めた「マタギ・サミット」を創設しており、刊行10年後の「人間選書あとがき」では、イワナ突きを共にした三面の友人たち(子供だったのがもう三十台)と三面でキャンプを楽しみ、マタギ・サミットは12回目。そして「ヤマケイ文庫あとがき」ではもう観光26年が経過している。民族文化映像研究所から近畿ツーリストの日本観光文化研究所に移って旅をつづけた作者はその後、「人間選書」のときにはシベリア、「ヤマケイ文庫」のときにはケニアに向かうところと書いており、三面から世界に飛び立っている。三面をはるかにしのぐ自然と動物たちの世界で、彼はどう生きているのだろう。興味は尽きない。