「(徳合)峠に立ったとき、不意にまなかいに現われる穂高の気高い岩峰群は日本の山岳景観の最高のものとされていた」という穂高を私は霞沢岳に登った時に見ている。
文庫本・日本百名山に載っている写真は徳合峠からのものではなく、蝶ヶ岳のあたりからのものと思われる。徳合峠から見た穂高は前穂高が奥穂高の右手前にかぶさっているはず(私は霞沢岳に登る途中で徳合峠を通過し、木々が邪魔でよくみえなかったが、手前にある明神岳がずっと本峰を隠していたと思う)。
だが、霞沢岳まで行くと西穂を左、前穂を右に従えた奥穂高の姿で、実に気高い岩峰群の穂高連峰が現われ、それまでの苦労や疲れも吹っ飛んですっかり見とれてしまった。
蝶ヶ岳から常念岳の表銀座から見る3,000m峰を並べた穂高連峰、槍ヶ岳から見る重厚な穂高連峰、鏡平から見る鋭鋒を連ねた峩々とした穂高、そして霞沢岳や徳合峠から見る岩峰を高々と立てた姿。私もいろんな山岳景観に接して、いくつもの息をのむような情景に胸を打たれてきたが、確かに、穂高の景観は、南からのみならず四方からのものを含め、最高のものだろうと思う。これに比するのは剱岳(これも四方から違った姿で迫ってくる)くらいだろうか。
この章の最後を深田は「そこで永遠に眠った人も多かった」と4人の名前を挙げ、「死ぬ者は今後も絶えないだろう。それでもなお穂高はそのきびしい美しさで誘惑しつづけるだろう」と書いている。これは美しい文章だが、登山者の心に対する警告である。
私はこの山に5月に涸沢から3度登り、2度は白出コルから、3回目は奥穂高頂上から直登ルンゼをスキーで滑走した。5月の涸沢にはテント村ができ、白出コルまで登ると穂高岳山荘前で生ビールを売っているが、そこから奥穂高までの道は楽ではない。2010年は雪が多くて登路状態が悪く、白出コルから奥穂高へのルート入口に警告表示があり、さらに警備員が立っていて登れなかった。2回目のときは白出コルからの滑走の頃から雷が鳴り、雨が降ってきた。だから、3回目に登った時が快晴で雪の状態も良く、直登ルンゼを滑走できたのは実に幸運だったということになる。調子に乗らず、幸運に頼らず、詳細かつ慎重な判断、そして決断する勇気が必要だ。
HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH
「(徳合)峠に立ったとき、不意にまなかいに現われる穂高の気高い岩峰群は日本の山岳景観の最高のものとされていた」という穂高を私は霞沢岳に登った時に見ている。文庫本・日本百名山に載っている写真は徳合峠からのものではなく、蝶ヶ岳のあたりからのものと思われる。徳合峠から見た穂高は前穂高が奥穂高の右手前にかぶさっているはず(私は霞沢岳に登る途中で徳合峠を通過し、木々が邪魔でよくみえなかったが、手前にある明神岳がずっと本峰を隠していたと思う)だが、霞沢岳まで行くと西穂を左、前穂を右に従えた奥穂高の姿で、実に気高い岩峰群の穂高連峰が現われ、それまでの苦労や疲れも吹っ飛んですっかり見とれてしまった。
蝶ヶ岳から常念岳の表銀座から見る3,000m峰を並べた穂高連峰、槍ヶ岳から見る重厚な穂高連峰、鏡平から見る鋭鋒を連ねた峩々とした穂高、そして霞沢岳や徳合峠から見る岩峰を高々と立てた姿。私もいろんな山岳景観に接して、いくつもの息をのむような情景に胸を打たれてきたが、確かに、穂高の景観は、南からのみならず四方からのものを含め、最高のものだろうと思う。これに比するのは剱岳(これも四方から違った姿で迫ってくる)くらいだろうか。
この章の最後を深田は「そこで永遠に眠った人も多かった」と4人の名前を挙げ、「死ぬ者は今後も絶えないだろう。それでもなお穂高はそのきびしい美しさで誘惑しつづけるだろう」と書いている。これは美しい文章だが、登山者の心に対する警告である。
私はこの山に5月に涸沢から3度登り、2度は白出コルから、3回目は奥穂高頂上から直登ルンゼをスキーで滑走した。5月の涸沢にはテント村ができ、白出コルまで登ると穂高岳山荘前で生ビールを売っているが、そこから奥穂高までの道は楽ではない。2010年は雪が多くて登路状態が悪く、白出コルから奥穂高へのルート入口に警告表示があり、さらに警備員が立っていて登れなかった。2回目のときは白出コルからの滑走の頃から雷が鳴り、雨が降ってきた。だから、3回目に登った時が快晴で雪の状態も良く、直登ルンゼを滑走できたのは実に幸運だったということになる。調子に乗らず、幸運に頼らず、詳細かつ慎重な判断、そして決断する勇気が必要だ。
p241 茨木猪之吉:1888-1944 太平洋洋画研究所で中村不折に師事。不仙と号した。明治40年文部省第1回美術展に入選。日本アルプスなど各地の山に親しみ、山や登山者を描いた。昭和11年日本山岳画協会の創立に参加。19年穂高岳白出谷で行方不明となった。「山旅の素描」「山の画帖」などの著者。