飯豊は朝日と同じ連峰だが、朝日と違って「古来信仰の対象」になっていて、会津からの表登山道は宗教登山の道だった。深田は江戸時代の会津領主蒲生氏郷が「信仰して登山路を開き、社殿を修め、それ以後この山が大いに栄えた」と書いている。蒲生氏郷は戦国の有名な武将の一人で、伊勢松坂から会津領主となり、伊達政宗に対峙したが、彼はキリシタン大名だったらしく、飯豊神社をどのくらい信奉したかはよく分からない。
深田がこの山に登ったのは後段に書いている藤島玄氏との縦走が初めてなのだろうか。それにしても家族4人、藤島氏も娘を連れ(プラスポーター2名)、登山道はできていたといってもあの飯豊連峰を二泊三日で歩き、「賑やかな一隊でのし歩いた・・・・晴天続きで、まことに楽しい山旅であった」というのは、全員が相当山慣れしていたということだ。藤島玄氏のレリーフは朳差小屋の手前にあり(「玄翁碑、松方三郎」とあるので、松方三郎の碑かと勘違いしていた)私は何度も見ている。
飯豊に初めて登ったのは2002年8月で、以後、北股岳、大日岳、朳差岳はじめ40弱のピークにいろんな道から登った。辿り損ねたのは湯ノ平コースで、吊橋が落ちてしまって通行止めになってしまった(それでも登っている人がいるのには驚いた)。
一番印象深いのは石転び沢の雪渓登り&ダイグラ尾根下りという周回コースで、真夏にアイゼンを付けて雪渓を登るというのは(その後白馬岳でも登ったが)、涼しくて気持ちいい。深田の南北縦走というのは、マイカー登山の私にとってもやりにくい選択だが、昨年の朳差岳から地神北峰への縦走では初めてイイデリンドウも見たし、実に奥が深く、これからも登りたい。
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飯豊は朝日と同じ連峰だが、朝日と違って「古来信仰の対象」になっていて、会津からの表登山道は宗教登山の道だった。深田は江戸時代の会津領主蒲生氏郷が「信仰して登山路を開き、社殿を修め、それ以後この山が大いに栄えた」と書いている。蒲生氏郷は戦国の有名な武将の一人で、伊勢松坂から会津領主となり、伊達政宗に対峙したが、彼はキリシタン大名だったらしく、飯豊神社をどのくらい信奉したかはよく分からない。
深田がこの山に登ったのは後段に書いている藤島玄氏との縦走が初めてなのだろうか。それにしても家族4人、藤島氏も娘を連れ(プラスポーター2名)、登山道はできていたといってもあの飯豊連峰を二泊三日で歩き、「賑やかな一隊でのし歩いた・・・・晴天続きで、まことに楽しい山旅であった」というのは、全員が相当山慣れしていたということだ。藤島玄氏のレリーフは朳差小屋の手前にあり(「玄翁碑、松方三郎」とあるので、松方三郎の碑かと勘違いしていた)私は何度も見ている。
飯豊に初めて登ったのは2002年8月で、以後、北股岳、大日岳、朳差岳はじめ40弱のピークにいろんな道から登った。辿り損ねたのは湯ノ平コースで、吊橋が落ちてしまって通行止めになってしまった(それでも登っている人がいるのには驚いた)。
一番印象深いのは石転び沢の雪渓登り&ダイグラ尾根下りという周回コースで、真夏にアイゼンを付けて雪渓を登るというのは(その後白馬岳でも登ったが)、涼しくて気持ちいい。深田の南北縦走というのは、マイカー登山の私にとってもやりにくい選択だが、昨年の朳差岳から地神北峰への縦走では初めてイイデリンドウも見たし、実に奥が深く、これからも登りたい。
石転雪渓と北股岳: 次第に傾斜が増すが、ガスも次第に晴れてくる。正面の北股岳は出会から見えていて、「飯豊連峰の石転雪渓と北股岳」は絵になる
飯豊本山:最終日の朝、本山小屋を過ぎると、本山と駒形山が並んでいる。これもこの2年間で初めて見た。心に想像してきた姿が見れて感激
大日岳は空の一角を占めるほど巨大になり、ゆったりと左右に稜線を伸ばしている。その山腹にへばりついている登山道は、いかにもちっぽけ。
イイデリンドウ:ガスの主稜線を地神山北峰まで歩き、頼母木山のあたりで出会ったのはイイデリンドウだったようだ。飯豊には何度も登ったが、見るのは初めて。首が長く、星のように五角形の小さな紫の花はたくさん咲いていて、夢のような旅になった。
p90 蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)[1]または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン[2](レオ[2]、またはレアン[3])。子に蒲生秀行。天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥国会津に移封され42万石[35](のちの検地・加増により91万石[35])の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初は細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる[35]。
p92 藤島玄:越後支部とは、1946年(昭和21年)に高頭仁兵衛翁を顧問に迎え、藤島玄(1904~1988)初代支部長らにより設立されました。現在越後支部会員は170余名で構成されており、海外の山々へ挑戦する探検的登山、本格的なアルピニズムや積雪期登山を求める上級者登山、健康や精神的リフレッシュするための里山歩き、高山植物や四季折々の山野草などを楽しむ自然観察山行など、自然を愛し山を楽しむ広範囲な人材が、各々の趣味趣向のもとで登山や自然保護の支部活動を実施しています。 (日本山岳会)