ここに至り、深田が展開してきたアルピニズムとは対極の山岳逍遥が一つのジャンルとして姿を現わす。それは「山」に対する「高原」という言葉で広まった。この「高原」という言葉はプラトーもしくはテーブル・ランドの訳語であり、明治以前にこんな言葉は無かったというのは驚きである。現代ではもう、高原散策や遊歩道などは生活環境の一部になっていて、私の朝のジョギング・コースにも夜明けと共に多くのハイカー(登山スタイルだが)が歩いている。
深田は美ヶ原を「広濶な山上の草原が果てしも無いように続いている。さあどこでも勝手にお歩きなさい」という広さ、「北アルプス・・・の最重要部分、槍、穂高の連嶺を・・・・まざまざと見ることができる」(文庫の写真の背景は槍・穂高ではなく鹿島槍ヶ岳と五竜岳)という眺めの良さで賞讃する反面、大勢の人々が入り込んできて俗化されてきているとして、「五月さなかというのに人ひとりで会わなかった美ヶ原を知っている私は幸福者だった」と書いている。
当時はもう美ノ塔は立っていたようだが、王ヶ頭に立つ電波塔群やホテルは建っていたのだろうか。しかし、私は美ヶ原を歩いてみて、その林立する電波塔や大きなホテルは今や美ヶ原のシンボルと化し、高原の頂上にすっかり根付いているように見えた。高原の原風景と近代的モニュメントの不思議な融合という感じ。富士山・剣ヶ峰に立つ巨大レーダーも富士山の風景の一部になり切っているのと同じで、これを「俗化」とは言わないだろう。それらが無くなってしまったら(その方がいいという人もいると思うが)かえって違和感を感じるに違いない。
さて、深田は少なくとも美ヶ原を「絵のように美しい三城牧場から・・・・武石峰までさ迷い歩いて」いるのだが、私はまだ東の牛伏山から王ヶ頭、王ヶ鼻、2回目は扉峠から茶臼山を経由して王ヶ頭、王ヶ鼻までしか歩いていない。しかも2度とも霧で遠景は見えていなかった(だから北アルプスを諦めて美ヶ原を歩いたのだが・・・・)。だから、いつか晴の日に三城牧場からの百曲の登りと、武石峰まで歩いてみたい、というのが残された願いになっている(この後、武石峰に登り、石像と一等三角点を見た)。
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ここに至り、深田が展開してきたアルピニズムとは対極の山岳逍遥が一つのジャンルとして姿を現わす。それは「山」に対する「高原」という言葉で広まった。この「高原」という言葉はプラトーもしくはテーブル・ランドの訳語であり、明治以前にこんな言葉は無かったというのは驚きである。現代ではもう、高原散策や遊歩道などは生活環境の一部になっていて、私の朝のジョギング・コースにも夜明けと共に多くのハイカー(登山スタイルだが)が歩いている。
深田は美ヶ原を「広濶な山上の草原が果てしも無いように続いている。さあどこでも勝手にお歩きなさい」という広さ、「北アルプス・・・の最重要部分、槍、穂高の連嶺を・・・・まざまざと見ることができる」(文庫の写真の背景は槍・穂高ではなく鹿島槍ヶ岳と五竜岳)という眺めの良さで賞讃する反面、大勢の人々が入り込んできて俗化されてきているとして、「五月さなかというのに人ひとりで会わなかった美ヶ原を知っている私は幸福者だった」と書いている。
当時はもう美ノ塔は立っていたようだが、王ヶ頭に立つ電波塔群やホテルは建っていたのだろうか。しかし、私は美ヶ原を歩いてみて、その林立する電波塔や大きなホテルは今や美ヶ原のシンボルと化し、高原の頂上にすっかり根付いているように見えた。高原の原風景と近代的モニュメントの不思議な融合という感じ。富士山・剣ヶ峰に立つ巨大レーダーも富士山の風景の一部になり切っているのと同じで、これを「俗化」とは言わないだろう。それらが無くなってしまったら(その方がいいという人もいると思うが)かえって違和感を感じるに違いない。
さて、深田は少なくとも美ヶ原を「絵のように美しい三城牧場から・・・・武石峰までさ迷い歩いて」いるのだが、私はまだ東の牛伏山から王ヶ頭、王ヶ鼻、2回目は扉峠から茶臼山を経由して王ヶ頭、王ヶ鼻までしか歩いていない。しかも2度とも霧で遠景は見えていなかった(だから北アルプスを諦めて美ヶ原を歩いたのだが・・・・)。だから、いつか晴の日に三城牧場からの百曲の登りと、武石峰まで歩いてみたい、というのが残された願いになっている(この後、武石峰に登り、石像と一等三角点を見た)。
p262 新村出(しんむらいずる):(1876―1967)言語学者、文化史家。山口市生まれ。もと関口氏。東京帝国大学博言学科(後の言語学科)卒業。東京高等師範学校(現、筑波(つくば)大学)教授、東京帝国大学助教授として国語学を講じたのちヨーロッパに留学し、帰国後は京都帝国大学教授として長年にわたり言語学講座を担当。ヨーロッパの言語学を踏まえたうえで内外の資料を博捜して、日本語音韻史や近隣の諸言語との比較研究に成果をあげ、それらは『東方言語史叢考(そうこう)』(1925)にまとめられている。また、日本語の語源の考証や外来語の研究にも力を入れ、『東亜語源志』(1930)がこの方面の主著であるが、ほかにも語源に関する随筆風の著作が多数ある。また、キリシタンの残した文献を国語史の資料として利用することに端を発して、広く南蛮文化の研究を行い、『南蛮記』『南蛮更紗(さらさ)』など、文芸的香りの高い考証的随筆集を著した。また典籍に関する著作も多数ある。きわめて多方面にわたる学識をもち、学術・文化に関する諸団体の委員や会長を務め、1928年(昭和3)には学士院会員に選ばれた。また、各種の国語辞典の編者となったが、『辞苑(じえん)』(1935)の増補版である『広辞苑』(1955)は百科事典を兼ねる便利なものとして広く用いられている。おもな著作はすべて全集に収められ、さらに東京帝国大学における講義の筆録が『新村出国語学概説』(1974)として刊行された。1956年(昭和31)に文化勲章を受章。
p263 尾崎喜八(おざききはち)(1892―1974)詩人。東京・京橋の裕福な回漕(かいそう)店を営む家に生まれる。京華商業学校卒業。英語のほかにドイツ語やフランス語を独学し、訳詩や訳文も多い。若くして高村光太郎の知遇を得て、その感化のもとに詩人として出発する。いわゆる芸術派とも民衆詩派とも距離をおいて、その語学力によってロマン・ロラン、ヘッセ、カロッサなどから文学と人生に関する養分を吸収し、現実社会と一歩隔てた位置で、自然と内面の照応に独自の詩境を深めた。『空と樹木』(1922)以下『田舎(いなか)のモーツアルト』(1966)など多数の詩集と『山の絵本』(1935)などの随想集、『近代音楽家評伝』(1916)などの翻訳もある。