まずこの崇高で魅力的な名前の由来について始まるが、それが文学的なものでなく、「ヘズって」が変わったものだと論じ、ついでに日本人はこういう即物的な名前しかつけないとまで書いた挙句、深田は考えを改め、「聖岳に関してはこんな語源など忘れてしまったほうがいい」と約1ページ分を全否定する。
だったら最初から書くなよという感じ。なお、この語源の出所である冠松次郎の作品はたぶん「峰と渓」ではないかと思うのだが、まだこの本をよく読んでいないため、その箇所が見つからない。
さて、2ページ目からは聖岳への登山の苦労話が最後まで続く。今では東側の聖沢沿い、西側の西沢沿いのどちらにも立派な登山道ができているが、当時はどちらかの沢を遡行しなければならなかった。
これ以外にも南北の稜線を辿る方法があり(当時は今のような登山道は無かったはずだが)、深田は南側の易老岳から北上しようとして果たさず、北側の赤石岳から南下しようとして断念している。
次に深田が聖沢に向かったのは、当時ダム工事が進んでいて、「田代や小河内のあたりまでダムに堰かれた川は人造湖になって今や観光地に化しつつあり、発電工事はなおその上流にまで及んでいる」とあるのはおそらく井川湖で、畑薙第一ダム、第二ダムはまだできていなかったのだろう。
最初に泊った「田代」というのはR362から県道77に分かれる道の駅御戯の国、千頭駅のあたりだから、静岡市や島田市からそこまで行くにも当時は楽ではなかったのだろう。聖平小屋は既に建っていたとあるが、今のモダンで広いテントサイトをもった聖小屋とはだいぶ違っていただろう。
そして終節において、深田は念願の山の頂に立った喜びを歌い上げる:「まだ残雪のある絶頂へ達したときの喜びは限りなかった・・・・数える山が多すぎた。その山々からかって私は聖岳を眺めて、その頂上に立つ日を待ち望んでいた。そしてその願いが果たされたのである」。
私はもう一度、この山に登らねばと、来年も計画を立てる。
HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH
まずこの崇高で魅力的な名前の由来について始まるが、それが文学的なものでなく、「ヘズって」が変わったものだと論じ、ついでに日本人はこういう即物的な名前しかつけないとまで書いた挙句、深田は考えを改め、「聖岳に関してはこんな語源など忘れてしまったほうがいい」と約1ページ分を全否定する。だったら最初から書くなよという感じ。なお、この語源の出所である冠松次郎の作品はたぶん「峰と渓」ではないかと思うのだが、まだこの本をよく読んでいないため、その箇所が見つからない。
さて、2ページ目からは聖岳への登山の苦労話が最後まで続く。今では東側の聖沢沿い、西側の西沢沿いのどちらにも立派な登山道ができているが、当時はどちらかの沢を遡行しなければならなかった。これ以外にも南北の稜線を辿る方法があり(当時は今のような登山道は無かったはずだが)、深田は南側の易老岳から北上しようとして果たさず、北側の赤石岳から南下しようとして断念している。
次に深田が聖沢に向かったのは、当時ダム工事が進んでいて、「田代や小河内のあたりまでダムに堰かれた川は人造湖になって今や観光地に化しつつあり、発電工事はなおその上流にまで及んでいる」とあるのはおそらく井川湖で、畑薙第一ダム、第二ダムはまだできていなかったのだろう。最初に泊った「田代」というのはR362から県道77に分かれる道の駅御戯の国、千頭駅のあたりだから、静岡市や島田市からそこまで行くにも当時は楽ではなかったのだろう。聖平小屋は既に建っていたとあるが、今のモダンで広いテントサイトをもった聖小屋とはだいぶ違っていただろう。
そして終節において、深田は念願の山の頂に立った喜びを歌い上げる:「まだ残雪のある絶頂へ達したときの喜びは限りなかった・・・・数える山が多すぎた。その山々からかって私は聖岳を眺めて、その頂上に立つ日を待ち望んでいた。そしてその願いが果たされたのである」。私はもう一度、この山に登らねばと、来年も計画を立てる。