この章で深田は山形の二人の詩人の蔵王の歌を載せている。斎藤茂吉は蔵王の雲の中に立ち、結城哀草果は柿の木の傍らから蔵王の初雪を見ていて、二人の歌人には蔵王は生活の一部だったのだろう。
深田は数ある蔵王の峰のうち中央の熊野岳、刈田岳、地蔵岳(地蔵山)、三宝荒神山、南蔵王の杉ヶ峰、屏風岳、不忘山を紹介しているが、北にある雁戸山のことには触れていない。標高も低く細尾根なので当時はまだ道も無かったのかもしれない。
深田が蔵王に「毎冬のようにスキーに出かけた」のは戦前のことであり、それは「わが山山」の中の「吹雪く蔵王」に記されていて、当時はまだ高湯と呼ばれていた蔵王温泉から今の蔵王スキー場のゲレンデ(当時はスキー場もリフトもロープウェイも無かった)を登り、当時唯一あったコーボルト・ヒュッテ(当時は山形大学蔵王寮)を経て、地蔵山と三宝荒神山のコル(今のロープウェイ頂上駅のあたり)まで登っている。
私が登ったのは2002年10月に大黒天口から刈田岳、熊野岳に登ったのが最初で、夏山では翌年、雁戸山に登ったが、その後は雪山主体となり、ロープウェイで地蔵山から熊野岳に数回、リフトで後烏帽子岳から屏風岳、不忘山、2021年には水引入道に登っているが、やはり一番印象に残っているのは深田が「蔵王の宝玉」と評している「御釜」で、夏にも見たが、冬の真っ白な雪に縁どられた御釜は実に幻想的で、雪原の上に座り込んでうっとり見つめていた。
なお、深田が「不忘山は昔の歌枕の『忘れずの山』に相当するものかどうか知らないが」と記している不忘山は、昔は御前山と呼ばれ、古今和歌集に出てくる「忘れずの山」(*1)というのは刈田岳を指していたようだ(YAMAKEI)。そして戦争中に御前山にB29が墜落し、それを悼む「不忘の碑」が建てられたことで不忘山と呼ばれるようになったらしい。
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この章で深田は山形の二人の詩人の蔵王の歌を載せている。斎藤茂吉は蔵王の雲の中に立ち、結城哀草果は柿の木の傍らから蔵王の初雪を見ていて、二人の歌人には蔵王は生活の一部だったのだろう。
深田は数ある蔵王の峰のうち中央の熊野岳、刈田岳、地蔵岳(地蔵山)、三宝荒神山、南蔵王の杉ヶ峰、屏風岳、不忘山を紹介しているが、北にある雁戸山のことには触れていない。標高も低く細尾根なので当時はまだ道も無かったのかもしれない。
深田が蔵王に「毎冬のようにスキーに出かけた」のは戦前のことであり、それは「わが山山」の中の「吹雪く蔵王」に記されていて、当時はまだ高湯と呼ばれていた蔵王温泉から今の蔵王スキー場のゲレンデ(当時はスキー場もリフトもロープウェイも無かった)を登り、当時唯一あったコーボルト・ヒュッテ(当時は山形大学蔵王寮)を経て、地蔵山と三宝荒神山のコル(今のロープウェイ頂上駅のあたり)まで登っている。
私が登ったのは2002年10月に大黒天口から刈田岳、熊野岳に登ったのが最初で、夏山では翌年、雁戸山に登ったが、その後は雪山主体となり、ロープウェイで地蔵山から熊野岳に数回、リフトで後烏帽子岳から屏風岳、不忘山、2021年には水引入道に登っているが、やはり一番印象に残っているのは深田が「蔵王の宝玉」と評している「御釜」で、夏にも見たが、冬の真っ白な雪に縁どられた御釜は実に幻想的で、雪原の上に座り込んでうっとり見つめていた。
なお、深田が「不忘山は昔の歌枕の『忘れずの山』に相当するものかどうか知らないが」と記している不忘山は、昔は御前山と呼ばれ、古今和歌集に出てくる「忘れずの山」(*1)というのは刈田岳を指していたようだ(YAMAKEI)。そして戦争中に御前山にB29が墜落し、それを悼む「不忘の碑」が建てられたことで不忘山と呼ばれるようになったらしい。
蔵王の宝玉、御釜:ようやく見えた御釜は氷結していた。快晴の空に白がまぶしく、ひきこまれるような美しい景観。真っ平らに凍った水面、それを円形に囲む傾斜した外輪。まるで彫刻のような自然の造形。神秘的。
屏風岳:稜線上に上がり、背後を振り返ると、波打つ巨大な雪壁がまばゆく輝き、その上の広大な雪原のかなたに熊野岳が見えている。広大無辺な雪世界。
ゴンドラ:ロープウェイ麓駅からは、三宝荒神山と地蔵山が見えている。快晴の雰囲気。樹氷高原駅で山麓線から山頂線に乗換えると、頂上線は新しいゴンドラに変っていた。30分くらいで頂上駅に着く。
(*1)みちのくのあぶくま川のあなたにぞ 人忘れずの山はさかしき 喜撰法師
(*2)不忘の碑:第二次世界大戦末期、米軍の爆撃機が不忘山に墜落しました。米将兵34名が死亡し、それを哀れんだ地元の有志が「米兵の慰霊碑」として建立されました。碑には英語と日本語で死者を悼む言葉がつづられている。 (今日の一歩)