冒頭で深田が触れている紀元節(*1)は初代天皇、神武天皇の即位日をもって定めた祝日(2月11日)で、伊沢修二作曲の唱歌(*2)は明治から終戦まで歌われていた。「明治新曲らしい明るく派手な合奏」ということらしい。
終戦後、紀元節は1948年に廃止されたが、1966年に同じ2月11日が建国記念日として国民の祝日になっている。日本百名山が出版されたのは昭和39年=1964年だから、深田が冒頭で「紀元節を復活するかどうか2月11日が近づく毎に問題になっている」というのはその2年後に決着したということだ。
天孫ニニギノミコトが降臨したという高千穂の地名は九州に2箇所あり(これは祖母山の章でも触れている)、神武天皇即位2,600年(*3)を祝った年(紀元2,600年=1940年)にはこの両者(霧島山の高千穂峰と臼杵郡の高千穂)が争ったとあるから、厳密に言うと紀元節唱歌(*2)の歌詞にある「高千穂」は当時はまだ霧島山の高千穂峰だと確定していなかったことになる。
だが、臼杵郡の高千穂は地名であって高千穂峰という山がある訳ではない(高千穂峡という深い峡谷が有名)から、「雲に聳ゆる高千穂の、高根おろしに草も木も」というのはどう考えても霧島の高千穂峰をイメージして書かれたものだろう。
深田はどちらが本物かについて言及を避けているが、「天孫降臨は神話的伝説であろうが、その伝説にふさわしい秀麗な山容を高千穂峰はもっている」「私は天孫降臨の聖峰に一人立って・・・・・去るに忍びないものがあった」と書いているから、霧島の高千穂峰に強く惹かれていることは明らかであり、神話の舞台にふさわしいと感じていたに違いない。
近年、噴火があったものの、霧島連峰には北にえびの高原、南に高千穂河原ビジターセンターがあって登山者のみならず観光客なども大勢訪れる名所となっている。私は霧島連峰の縦走を計画していたが噴火で難しくなり、最初に登った高千穂峰と韓国岳以外では北の白鳥山しか登っていない。だがその白鳥山から眺めた巨大な火口の韓国岳、飛行機から間近に見た秀麗な高千穂峰の姿は忘れられない。確かに何か神秘的な雰囲気をもつ山だと思う。
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冒頭で深田が触れている紀元節(*1)は初代天皇、神武天皇の即位日をもって定めた祝日(2月11日)で、伊沢修二作曲の唱歌(*2)は明治から終戦まで歌われていた。「明治新曲らしい明るく派手な合奏」ということらしい。終戦後、紀元節は1948年に廃止されたが、1966年に同じ2月11日が建国記念日として国民の祝日になっている。日本百名山が出版されたのは昭和39年=1964年だから、深田が冒頭で「紀元節を復活するかどうか2月11日が近づく毎に問題になっている」というのはその2年後に決着したということだ。
天孫ニニギノミコトが降臨したという高千穂の地名は九州に2箇所あり(これは祖母山の章でも触れている)、神武天皇即位2,600年(*3)を祝った年(紀元2,600年=1940年)にはこの両者(霧島山の高千穂峰と臼杵郡の高千穂)が争ったとあるから、厳密に言うと紀元節唱歌(*2)の歌詞にある「高千穂」は当時はまだ霧島山の高千穂峰だと確定していなかったことになる。だが、臼杵郡の高千穂は地名であって高千穂峰という山がある訳ではない(高千穂峡という深い峡谷が有名)から、「雲に聳ゆる高千穂の、高根おろしに草も木も」というのはどう考えても霧島の高千穂峰をイメージして書かれたものだろう。
深田はどちらが本物かについて言及を避けているが、「天孫降臨は神話的伝説であろうが、その伝説にふさわしい秀麗な山容を高千穂峰はもっている」「私は天孫降臨の聖峰に一人立って・・・・・去るに忍びないものがあった」と書いているから、霧島の高千穂峰に強く惹かれていることは明らかであり、神話の舞台にふさわしいと感じていたに違いない。
近年、噴火があったものの、霧島連峰には北にえびの高原、南に高千穂河原ビジターセンターがあって登山者のみならず観光客なども大勢訪れる名所となっている。私は霧島連峰の縦走を計画していたが噴火で難しくなり、最初に登った高千穂峰と韓国岳以外では北の白鳥山しか登っていない。だがその白鳥山から眺めた巨大な火口の韓国岳、飛行機から間近に見た秀麗な高千穂峰の姿は忘れられない。確かに何か神秘的な雰囲気をもつ山だと思う。
(*1)紀元節:紀元節は、古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。日付は紀元前660年2月11日。1873年に定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。 1948年7月20日の「国民の祝日に関する法律」公布・施行により、紀元節を含む四大節は廃止された。1966年に同じ2月11日が「建国記念の日」として国民の祝日となり、翌年から適用された。
(*2)紀元節唱歌:明治22年(1889)の『中等唱歌集』、同25年(1892)の『小学唱歌壱』、その翌年の文部省告示「官報第3037号附録」にも掲載され、終戦までは2月11日の「紀元節」(『日本書記』の蔦悦神武天皇の即位日、現行の建国記念の日)に歌われていました。原曲は明治21年(1888)に伊沢修二によって作曲され、その詞章は四番まであります。山田流箏曲では、全詞章を用いた曲《紀元節》があり、この曲には、一番の歌詞が用いられています。手事部分の箏本手と箏替手は、互いに独自の旋律を保ちながら、複雑で入り組んだ節で構成されていますが、明治新曲らしい、明るく派手な合奏が特徴的な楽曲となっています。唱歌《紀元節》の全詞章 一、雲に聳(そび)ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も 靡(なび)きふしけん大御世を 仰ぐ今日こそたのしけれ 二、海原なせる埴安(はにやす)の 池のおもより猶ひろき めぐみの波に浴(あ)みし世を 仰ぐ今日こそたのしけれ 三、天つひつぎの高みくら 千代よろづに動きなき もとい定めしそのかみを 仰ぐ今日こそたのしけれ 四、空にかがやく日の本の よろずの国にたぐいなき 国のみはしらたてし世を 仰ぐ今日こそたのしけれ
(*3)紀元2,600年:紀元二千六百年記念行事(きげんにせんろっぴゃくねんきねんぎょうじ)とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。本項目では記念行事に記念事業も加えて記述する