この山を語るのに深田はほとんど中村清太郎画伯のことに費やしている。それは画伯がこの山をその個性のゆえに愛し、生涯この山を描き続けたから:「一個の山としては全てが貧しく、一言に言えば個性を失った態があるのに比べて、わが黒部五郎岳は連嶺中に位しながら、連嶺の約定に囚われず、立派に自らの個性を発揮した天才の俤がある。自分はこの山が実に好きで耐らないのである・・・・・特異な円錐がどっしりと高原を圧し、頭上のカールは大口を開けて、雪の白歯を光らせてゐる」。
私はこの山を四方から見たが、意外に正面以外の薬師岳や穂高岳からはあの大きなカールが全然見えない。
中村画伯は「白馬の頂上から笠ヶ岳に似たこの山を遠望して、非常に惹かれた」というが、確かに北東の方角からでないとカールの中は見えない。私はそれを黒岳から見て、その美しさに見とれた:「春には見えなかった黒部五郎のカールが黒岳からは良く見える。朝日を浴びて輝くカール。一つの山にこれだけ大きなカールがあるのは珍しいのだろう」。そこにはカールの全景が見えていた」。
中村画伯は初めてこの山に登り、黒部五郎岳を世に紹介したときの「登山記」は「岳人」S32年の「雲ノ平と黒部五郎」であることを突き止めたネット情報があった。ここには確かに、北東の方角から見た黒部五郎とカールが力強い筆遣いで描かれていた。
そうは言っても深田の頃はまだこの山に登る人は少なく、「この強烈な個性が世に認められるまでにはまだ年月を必要としよう。黒部五郎岳が To the happy few の山であることは、ますます私には好ましい」と結んでいるが、今はもう、縦走中に黒部五郎岳を外す人はいないだろう。私が2度、5月に登った時も、泊りがけでないと登れないこの山には何人も登っていた。
最初に黒部五郎に登って太郎平小屋に戻り、「カールは滑らなかった」と言うと、何か大事なことをやり損なったね、という顔をされがっくり。
2度目に登った時は頂上に登った後、北東尾根(肩)よりも少し上の地点からカールに滑り込む:「最初はアイスバーンに切れ込む大きな音がする。何度かターンを切って斜めに滑り込み、柔らかい小さなデブリを蹴散らしながらターンを切る。真下にはカール底。全く気持ちよくて下まで滑りたい心境だったが、登り返しのこともあるので、150mほどで停止」。
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この山を語るのに深田はほとんど中村清太郎画伯のことに費やしている。それは画伯がこの山をその個性のゆえに愛し、生涯この山を描き続けたから(なぜか、ネットには画伯の黒部五郎はあまり載っていないのだが):「一個の山としては全てが貧しく、一言に言えば個性を失った態があるのに比べて、わが黒部五郎岳は連嶺中に位しながら、連嶺の約定に囚われず、立派に自らの個性を発揮した天才の俤がある。自分はこの山が実に好きで耐らないのである・・・・・特異な円錐がどっしりと高原を圧し、頭上のカールは大口を開けて、雪の白歯を光らせてゐる」。
私はこの山を四方から見たが、意外に正面以外の薬師岳や穂高岳からはあの大きなカールが全然見えない。中村画伯は「白馬の頂上から笠ヶ岳に似たこの山を遠望して、非常に惹かれた」というが、確かに北東の方角からでないとカールの中は見えない。私はそれを黒岳から見て、その美しさに見とれた:「春には見えなかった黒部五郎のカールが黒岳からは良く見える。朝日を浴びて輝くカール。一つの山にこれだけ大きなカールがあるのは珍しいのだろう」「『黒部川水源地標』の付近から黒いシルエットの上に浮かぶ黒部五郎岳が見事。そこにはカールの全景が見えていた」。
中村画伯は初めてこの山に登り、黒部五郎岳を世に紹介したときの「登山記」は「岳人」S32年の「雲ノ平と黒部五郎」であることを突き止めたネット情報があった。ここには確かに、北東の方角から見た黒部五郎とカールが力強い筆遣いで描かれていた。
そうは言っても深田の頃はまだこの山に登る人は少なく、「この強烈な個性が世に認められるまでにはまだ年月を必要としよう。黒部五郎岳が To the happy few の山であることは、ますます私には好ましい」と結んでいるが、今はもう、縦走中に黒部五郎岳を外す人はいないだろう。私が2度、5月に登った時も、泊りがけでないと登れないこの山には何人も登っていた。
最初に黒部五郎に登って太郎平小屋に戻り、「カールは滑らなかった」と言うと、何か大事なことをやり損なったね、という顔をされがっくり。2度目に登った時は頂上に登った後、北東尾根(肩)よりも少し上の地点からカールに滑り込む:「最初はアイスバーンに切れ込む大きな音がする。何度かターンを切って斜めに滑り込み、柔らかい小さなデブリを蹴散らしながらターンを切る。真下にはカール底。全く気持ちよくて下まで滑りたい心境だったが、登り返しのこともあるので、150mほどで停止」。このとき、真上から見た黒部五郎のカールは心に残っている:「それは、切り立った強固な峰に囲まれた広大な空間で、頂上直下の垂直な壁が、むき出した岩の間に斜面を延ばし、はるか眼下の真っ平らな雪原のカール底に続いている。そのカール底を行くテレマーカーの小さな点」。もう一度、この景観を見ることがあるだろうか。
p222 中村 清太郎:ナカムラ セイタロウ 明治〜昭和期の山岳画家,登山家 生年明治21(1888)年4月30日 没年昭和42(1967)年12月20日 出生地東京・浅草 学歴〔年〕東京高商卒 経歴府立三中時代より山を好み、画家を志して本郷絵画研究所に学ぶ。明治42年、小島烏水らと赤石山脈を初縦走したのを始め、黒部五郎、聖岳などの初登山など、北アルプスその他に足跡を残す。大正6年にはセレベスのカラバット火山に登る。日本の近代登山黎明期に活躍し、多くの山岳画や「山岳渇仰」「山岳浄土」などの著書がある。昭和11年、日本山岳画協会を創立、25年日本山岳会名誉会員となる。
p222 この時の登山記:出典らしきものが見つかった。「岳人」昭和32年8月号に収録された「雲ノ平と黒部五郎」という中村清太郎の絵と文である。 残念ながら当時の出版物ということで絵もモノクロであるが、その下に短い文章が寄せられていた。その中で「私がこの山に惹かれた初めは、中学生の頃、白馬から遠望した時で、」とある。さらに「山名も私が選んだもの。」という記述があった。 これは上記の初登頂のときに山頂でこの山が「中ノ俣岳」という呼称があることを知るが、以前に嘉門次に聞いた「黒部五郎岳」がふさわしいと思い、「越中アルプス縦断記」をこの名前を登場させてからこの名称が広まったことによる。 実は、これが書かれているかもしれないとこの本(「岳人」昭和32年12月号)をヤフオクで買ってみたのだが、あたりだったので嬉しい・・・。 (Fool Proof)
TO THE HAPPY FEW :日本語に直訳すれば、「幸福なる少数の人々へ」とでもいうことになろう。 恐らくこれは、スタンダールが自分の作品を読んでくれる人々に捧げる言葉ではないか、と私は理解した。 たとえ拙くても己の文章を読んで、なにがしかの評価をしてくれる人がいればこそ作品を書き続けることができるのだ。