深田が最初に紹介する北アルプスは白馬岳。「槍ヶ岳と共に北アルプスで最も賑わう」この山を深田はその眺望のよさ、コースの多彩さ、道も小屋も整っていて易しいと絶賛し、「横から見た・・・・堂々とした貫禄」よりも「南北の縦から望んだ・・・・キッと頭をもちあげた・・・颯爽たる姿」が好きだと言う。
名前の由来となった「残雪の消えた跡の馬の形」について、深田は「小蓮華山の右肩のはずれ」と「主峰と小蓮華山の鞍部の左下」の二つを挙げているが、「信州STYLE」が示しているのは後者の方らしい。
その次の、ウェストンが頂上に立つまで白馬岳は薬草採りや漁師だけの原始的な山だった、というのは、もはや遠い昔の話だが、深田の最初の登頂:「乗物はまだ大町までしかなかった。そこから一日歩いて四谷(今の白馬村駅付近らしい)で泊まり、翌朝山にかかった」というのもまさに隔世の感がある。
私はまだ泊ったことはないが、頂上まで15分という頂上直下の巨大な山小屋が開業したのは1906年だから、深田が最初に登って以降、急速にこの山と北アルプスが開けていったということだろう。
深田は最後に、四季を通じて白馬岳に登ったこと、スキーに行く人が多くなったが登山よりもリフトに乗って滑降だろう、と書いている。私が白馬岳に最初に登ったのは夏の大雪渓の日帰り、二度目は5月初めの大雪渓をスキーで登り、頂上から尾根筋と大雪渓を滑走した。標高差2,000mの登りは楽ではないが、そんな疲れや苦労を全て吹き飛ばしてしまうだけの魅力、比類なき景観に会心の滑走が待っていた。
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深田が最初に紹介する北アルプスは白馬岳。「槍ヶ岳と共に北アルプスで最も賑わう」この山を深田はその眺望のよさ、コースの多彩さ、道も小屋も整っていて易しいと絶賛し、「横から見た・・・・堂々とした貫禄」よりも「南北の縦から望んだ・・・・キッと頭をもちあげた・・・颯爽たる姿」が好きだと言う。この山がかつて「西山」と呼ばれていたというのは、たぶんR148をはさんで東側にある「東山1,849m」と対峙していたからだろう。
名前の由来となった「残雪の消えた跡の馬の形」について、深田は「小蓮華山の右肩のはずれ」と「主峰と小蓮華山の鞍部の左下」の二つを挙げているが、「信州STYLE」が示しているのは後者の方らしい。
その次の、ウェストンが頂上に立つまで白馬岳は薬草採りや漁師だけの原始的な山だった、というのは、もはや遠い昔の話だが、深田の最初の登頂:「乗物はまだ大町までしかなかった。そこから一日歩いて四谷(今の白馬村駅付近らしい)で泊まり、翌朝山にかかった」というのもまさに隔世の感がある。私はまだ泊ったことはないが、頂上まで15分という頂上直下の巨大な山小屋が開業したのは1906年だから、深田が最初に登って以降、急速にこの山と北アルプスが開けていったということだろう。
深田は最後に四季を通じて白馬岳に登ったこと、スキーに行く人が多くなったが登山よりもリフトに乗って滑降だろう、と書いている。私が白馬岳に最初に登ったのは夏の大雪渓の日帰り、二度目は5月初めの大雪渓をスキーで登り、頂上から尾根筋と大雪渓を滑走した。標高差2,000mの登りは楽ではないが、そんな疲れや苦労を全て吹き飛ばしてしまうだけの魅力、比類なき景観に会心の滑走が待っていた。
p200 河野齢蔵:(こうの-れいぞう)1865-1939 明治-昭和時代前期の登山家,植物学者。元治(げんじ)2年2月8日生まれ。日本アルプスや北海道,千島の山にのぼり高山植物を研究,郷里長野県の山岳会や博物学会を指導した。その間,長野高女,諏訪高女の校長などを歴任。昭和14年4月3日死去。75歳。長野師範卒。著作に「高山研究」「日本高山植物図説」など。
p201 四谷(よつや):白馬駅(はくばえき)は、長野県 北安曇郡 白馬村大字北城四ッ谷にある
p201 白馬山荘:白馬山荘は収容人数800人を誇る日本最大の山小屋だ。北アルプスに建てられた初の山小屋としても有名で、1906年に開業した。白馬岳頂上直下に位置しており、約15分で山頂までたどり着くことができる