この山は私が一番数多く登っている山だが、この文章もおそらく一番多く読んでいると思う。そうして、「青森あたりからその群山を眺めて、その峰の名を一つ一つ指摘できる」ようになった。ただ、4度登った岩木山から一度も八甲田がきれいに見えなかったのは実に悔しい。
「大岳に登ったら、帰りは是非反対側の井戸岳を経て毛無岱に下ることをお勧めしたい。これほど美しい高原は滅多にない・・・・」という深田の指摘は、花や紅葉の時期のみならず、真っ白な雪原は絶品だ。
明治35年の雪中行軍については銅像小屋の近くに雪中行軍碑が立ち、映画も上映され、ロープウェイの建物にはそのときの写真が掲げてある。深田が会ったという鹿内辰五郎老については酸ヶ湯の登山道脇に案内が一つある。地獄沼にある碑はまだ見たことが無いので、是非一度見に行こう。
滑走:頂上のアイスバーン、その下の樹氷帯を抜けると、ほどよいスラローム斜面があり、心地よいパウダー・ターンを刻む。雪原まで降りて振り返ると、真っ白な大岳が青空に輝いていた。
噴火口の大岳:小岳に登っていくと、噴火口の大岳が見えてくる。左右対称で均整のとれた富士型のその姿は、酸ヶ湯やロープウェイ頂上から見た大岳とは全く別の山に見える
ヒナザクラ:仙人岱の大きなベンチにも大勢の団体さんがいて、私が通り過ぎる時に出かける準備を始めていた。私はその手前でヒナザクラを発見し、何度も立ち止まる。大岳のヒナザクラは小さくてかわいい。
赤いショウジョウバカマ(南八甲田・櫛ヶ峰): 木道の湿原には、ショウジョウバカマに加え、チングルマの大群落があった。痛んだ木道と花咲く湿原と残雪の櫛ヶ峰。ここには赤いショウジョウバカマが咲いていた。すごく派手。
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この山は私が一番数多く登っている山だが、この文章もおそらく一番多く読んでいると思う。そうして、「青森あたりからその群山を眺めて、その峰の名を一つ一つ指摘できる」ようになった(ただし、弘前あたりから見るとかなり違って見える)。一方、4度登った岩木山から一度も八甲田がきれいに見えなかったのは実に悔しい。
「大岳に登ったら、帰りは是非反対側の井戸岳を経て毛無岱に下ることをお勧めしたい。これほど美しい高原は滅多にない・・・・」という深田の指摘は、花や紅葉の時期のみならず、真っ白な雪原は絶品だ。
このほかにも、心に残る記述は多い:「いずれも1,500m前後だから、山として高いとはいえないが、これら多くの峰々が頭状花序のように集まった一つの山として見る時、やはり名山として推すに足りよう」「本州の一番北にある山だけあって頂上はコケモモやガンコウランの褥を敷く高山帯である。見晴らしは素晴らしい・・・・」「第二の高さをもつ高田大岳・・・・は睡蓮沼を前に控えて、八甲田の代表的な風景を作り出している」「八甲田の風景を個性的にしているのはその広大な高原性とそれを覆うアオモリトドマツの群であろう。この針葉樹は厳冬の強風に吹き曝されるため、決して大きくならない。まるで侏儒の形で、その先端が枯木のようにそそけて、それが一種独特な北方的風景を作り出している」。
明治35年の雪中行軍については銅像小屋の近くに雪中行軍碑が立ち、映画も上映され、ロープウェイの建物にはそのときの写真が掲げてある。深田が会ったという鹿内辰五郎老については酸ヶ湯の登山道脇に案内が一つある「・・・浜館村(現青森市)に生まれる・・・・辰五郎の正装には笛やラッパ、尺八、それに鉄砲などの七つ道具と胸には多数のクンショウがつけられていた。ラッパは明治35年・・・・の雪中行軍・・・・捜索隊に加わった名残であるという。大正10年・・・・大町桂月等を案内・・・・また棟方志功画伯との交友も深く、数々のエピソードが残されている。・・・・地獄沼の北側に棟方志功画伯の揮毫による『鹿内辰五郎頌徳之碑』が建立されている」。この地獄沼にある碑はまだ見たことが無いので、是非一度見に行こう。
滑走:頂上のアイスバーン、その下の樹氷帯を抜けると、ほどよいスラローム斜面があり、心地よいパウダー・ターンを刻む。雪原まで降りて振り返ると、真っ白な大岳が青空に輝いていた。
噴火口の大岳:小岳に登っていくと、噴火口の大岳が見えてくる。左右対称で均整のとれた富士型のその姿は、酸ヶ湯やロープウェイ頂上から見た大岳とは全く別の山に見える
ヒナザクラ:仙人岱の大きなベンチにも大勢の団体さんがいて、私が通り過ぎる時に出かける準備を始めていた。私はその手前でヒナザクラを発見し、何度も立ち止まる。大岳のヒナザクラは小さくてかわいい。
赤いショウジョウバカマ(南八甲田・櫛ヶ峰): 木道の湿原には、ショウジョウバカマに加え、チングルマの大群落があった。痛んだ木道と花咲く湿原と残雪の櫛ヶ峰。ここには赤いショウジョウバカマが咲いていた。すごく派手。
p54 東遊記:江戸後期の紀行。二編一〇冊。橘南谿(たちばななんけい)著。寛政七~九年(一七九五‐九七)刊。天明四年(一七八四)、医学修行のため東海・東山・北陸の各道を旅したときの見聞録。姉妹編として「西遊記」があり、合わせて「東西遊記」ともいう。