1702年(2024年11月17日読了)
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これは松尾芭蕉と奥の細道にインスパイアされて創られた詩人や作家の作品集である
これは日光の裏見の滝への紀行文。芭蕉もこの滝を訪れ「暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初め」と詠んでいる。田山花袋は「平服平装」、脚絆も帽子もなく、蝙蝠傘を腰に差す一方、同行の国木田独歩は洋服に草履、短剣(匕首)に酒の入った瓢箪という格好。漢文調の文章がやたら読みにくいが、風景の様子は実物を見ているように迫ってくる:「門を出でて数歩、右に男体女峰の屹然として深碧なる大空に聳立したるを認む」。そして小説家らしい文章「国木田君われに先立つこと数歩、路傍に山吹の花の美しく咲出でたるを折りてこれを帽の上に挿みたり。われ後よりこれを見つつ行く、ああこれ一幅の図画にあらずや」。
これは全くの叙景文。昔の、まだ車が無くて人力車に乗り、その人力車の親父ののんびりしすぎた様子、人力車から見る道沿いの景色、何軒もの温泉宿が高く軒を連ね、湯治客たちが露天に裸で入っている様子、鏡花自身も風呂に入り、そこで客たちの話を聞いて書いた想像の情景、とってつけたような言い回しに、やたらに良く分からない言葉が飛び出す:河鹿(かじか)、すぼいすぼい、鄙唄・・・・。
藤村は「日本百名山」の恵那山の章に出てくるが、彼の郷里が恵那山の麓だったとは知らなかった。仙台に戻った藤村は名掛町の三浦屋の宿に移り、「仙台雑詩」を書き始めたとある:「まだ年若な私の胸によく浮かんできたものは『詩歌は静かなるところにて想い起したる感動なり』の言葉であった。古い万葉の諸歌人と芭蕉とはここまで私を連れて来た良い教師であった」。詩人・島崎藤村は実は相当な歩く旅人で、私などの登山家よりも余程長い距離を歩いていたらしい。その藤村が芭蕉を忍ぶ:「それにしても、長途幾百里の風雨を凌ぎ尽くして殆んど生涯を旅に終わったと言ってもいいような、あの芭蕉翁とは果たしてどんな足の持主であったろう」。
井上ひさしがこの東北の琵琶法師について書いた「藪原検校」はたぶん芭蕉を意識して書いたものではない。ここに当てられたのはたぶん編者の考えであろう。井上ひさしの文章はジョークに満ちていて、だから現代人、若者に人気があるのだろう。「キンギョ池」は「検校池」の訛、同様に、「ローマの休日」は「老婆の弓術」、「クオ・ヴァディス」は「工場です」、「シミーズ」は「清水」というのは本人も脱線であると宣言している。その琵琶法師や座頭たちが村人たちに池や沼に突き落とされて溺死し、それが元で「座頭池」「琵琶ヶ池」「盲池」「キンギョ池」などの名がついている、という悲しい話の背景には、当時、奥浄瑠璃を語るだけで生活していた座頭や琵琶法師たちの数が増え、飢饉や凶作のときなど、村人たちの手に負えなくなってきたことがある、と井上は指摘。村人たちも生きるのに必死なのだ
これは一つ前の井上ひさしに輪をかけて、芭蕉の「奥の細道」の内容とはまるで無縁である。芭蕉の「塩釜」では、伊達政宗が再興してきらびやかに輝いていた塩釜神社の立派さに感動したことや、義経に従って死んだ藤原忠衡の忠孝が語られているが、坂口のは「塩釜神社というのは実に景気の良い神社であった」に始まり、「まるで境内に鹿を放し飼いにしておくような要領で・・・白衣赤袴の娘さんの幾群かが庭掃除をしていたり、サイセン箱をのぞいたり、散歩していたり、放し飼いにしてある」「仙台藩の城下から追放した遊女屋はこの神様の真下、表参道の鳥居両側にズラリとある」という外れっぷり。何の脈絡もなく出てくる「新婚の井上君」というのは井上ひさしなんだろうか?
高村光太郎が源義経を語るとは珍しいと思ったら、全く義経は出てこない。高村が語るのはまず石巻の旧北上川河口付近にある仲の瀬島を建物が密集した日和山地区の旅館から眺めた情景。高村が感心しているのは江戸時代の北上川治水工事で、この日和山地区に流れている部分は三つの川を運河を開削してつないだらしい。すさまじい大工事だが、高村の見方は少し違う:「日本的なところはスエズのような索漠たる運河状態でない点にある・・・・自然をどづかないでしかも自然を左右する。機械文明の世界においても日本人は結局機械性そのものの自然を求める事によって機械の単純化を高度の洗練にまで持ちゆかずにはいない」。やや難しい。
おそろしく細かく生き生きとした情景描写に、見たこともないものがあたかも目の前で動いているかのような写実描写。水上勉という作家を読むのは初めてではないと思うが、こんなにも衝撃的な文章を持つ作家だとは知らなかった。ウラジミール・ナボコフのような、生きた情景描写だと思う:p233「小さな桐箱の蓋をあけると、紅花の図柄のある盃が伏せてある。糸底を指でつまんで、内側をかえすと、一刷毛(ひとはけ)撫でたように、心もち橙色がかった「紅」が浮いてくる。むかしの女性は、この盃に薬指を差し入れて、わずかな「紅」をつけとってさらに自分の口にさした。『嬉遊笑覧』に『唇の色は玉虫の如く光るを良し』という化粧法である」。ここでのテーマは芭蕉が山形で詠んだ「紅」。
奥の細道のオマージュが出てくるのは冒頭である。山寺立石寺の石段を登り始めると、「おあつらえむきに蝉が鳴き出した。どうもタイミングが良すぎる・・・どこか作りものめいた感じがある・・・・『あの蝉の声・・・有線放送で流してるんじゃ・・・』・・・・呆れ顔のMさんをおいて、そこらの草むら、ここの岩かげと杖でつきまわす様、わがことながらいと見苦し・・・・・頑張ったが無駄だった・・・・がっかりして戻りかけると、すぐそばの幹からチュッと小便をひっかけて本物の蝉が飛び立つ。口惜しさや肌にしみ入る蝉の何とかだ」というのは見事なコメディ奥の細道。まさか芭蕉のように創作では、と思えるほどのユーモアとオリジナルとの符号がある。だが、奥の院への途中で出会ったものが五木の、そしてこの短編の心を一変させる:「異様なものがあった。背後が森になっている岩崖の切り立った斜面を、見渡す限りの卒塔婆が一面に覆い尽くしている」。
これは山形の詩人、斎藤茂吉が上山(かみのやま)小学生生徒であったときの紀行文。なんと、小学校の先生(訓導というらしい)が生徒5人を引率して、1日目は寒河江にある最上川河畔のドメキ(こんなところも最上川が流れていたとは知らなかった)、2日目は湯殿山近くの志津、六十里峠を越え、3日目は鶴岡、4日目は湯浜、そして最終日は酒田。酒田まで「最上川の支流を舟」で下ったのを除き、この5日間を全て徒歩で歩いたというからすごい。最上川は上山の北の長井を南から北に流れていて、少年茂吉の見た最初の最上川はそのあたりだったのだろう。
この文章には驚いた。最初の4ページは湯殿山を訪れた情景描写に溢れる紀行文。さすがに芸術家の目だなと敬服する:「瞳孔が攪乱されるような朱、紅、黄、濃く深く乱れ輝く紅葉が山いっぱいに噴き上がっていた」。ところが、青年の禰宜に案内されて湯殿山の御神体を目にした後、3ページにわたり、前半の紀行文は全く途絶え、ただ日本文化に秘められた神秘の発見が語られる:「この透明なだけの空間。しかしピーンと、こちらの胸にひびいてくる。神秘の直感である。私はかつて沖縄に旅行した時、もっとも神聖な場所、ウタキ(御岳)で、これとほとんど同質の感動を受けたことがある。その思い出が鮮烈な流れのようによみがえり、突然、全身をひたすのを覚えた。それは心の中に透明な形をつくり、ふくらみとなって急速に広がっていく」。そして最後に岡本は、修験道とはこういう神秘を実感する体験ではないのかと気づく:「修験道はこの根源的な気配の、直接的・積極的な体験なのではないか。私には、修験のそもそもの意味が、突然明らかになった思いだった」。こういう神秘体験をした芸術家は岡本など一部の人たちだけなのだろうか。たぶん、神秘体験そのものは語らずとも、神秘体験を通じて、作品を思いつき、作品を創作した芸術家は多いに違いない。霊感と同義なのかも。
これは珍しい、山でないものの深田久弥の紀行文。語られるのは親不知・子不知の海沿いを、義経や芭蕉たちと同じように歩くところが核になっていて、そこの限りない寂しさを語るのに、中野重治の詩を二つも引用している。「ここにあるのは荒れ果てた細長い磯」で始まる最初の詩を思い浮かべながら、深田はその海辺を歩く:p266「誰もいない。犬っこ一匹見えない。見渡す限り自分だけだ。時折長々と車をつないだ貨物列車が山腹のトンネルから出てきて、ホッと息をつくようにとぼけた反響を立てるが、すぐまたのろくさとその黒ずんだ胴体をトンネルに吸い込まれていく。そしてあとはまたもとの静寂に返って、聞こえるものは波音だけ。沁み入るようなさみしさである。そこが一番の難所なのであろう。
ここには「お婆さん」と「若者」が出てくるが、おそらく堀田善衛の祖母と若き日の堀田自身と思われる。お婆さんの語る「種(いろ)の浜の天屋さん」という廻船問屋は「43敦賀」ではなく次の「44種の浜」に出てくるのだが、当時隆盛を極め、芭蕉を舟に乗せ、酒宴でもてなしたこの天屋がもはや「きれいさっぱいと潰れてしもうてあとかたもなかった」とお婆さんは若者に語る。このお婆さんはどうやらそういう廻船問屋の末裔らしく(ということはつまり、若者も、堀田善衛自身も廻船問屋の末裔ということだ)、その祖先はもともと奈良の吉野に住んでいて、南朝壊滅後に皇子の一人を守って北陸に逃れ、皇子は寺の坊さんに仕立て、自身は廻船業を始めたのだという。
MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM
これは3ページの詩。ここでは芭蕉は汽車に乗り、どこかの大学や工場のある都市に行き、学生や市民に俳句の話を弁じ、それから喫茶店や酒場に繰り出す。芭蕉は生涯、旅を栖としているから、その都市がらもまた先に進まなければならない。ところがそこから先にはもう町もなく、出迎えてくれる弟子もいない。なんてことだ、曽良はいないのか、曽良が旅のスケジュールを組み、旅先で泊めてくれそうな知人を調べるはずなのだが、ここには曽良はいないらしい。しかももう秋になって、線路脇には農家と赤いとうがらし。こういう歌枕はあったっけ? そこで詩は終わってしまうが、たぶんこの芭蕉はまたどこかの都市に行きつき、そこで俳句を知っている者、知人や弟子を見つけることもできるだろう。だが、詩神はそこに訪れるだろうか。
これは日光の裏見の滝への紀行文。芭蕉もこの滝を訪れ「暫時(しばらく)は滝に籠るや夏(げ)の初め」と詠んでいる。田山花袋は「平服平装」、脚絆も帽子もなく、蝙蝠傘を腰に差す一方、同行の国木田独歩は洋服に草履、短剣(匕首)に酒の入った瓢箪という格好。漢文調の文章がやたら読みにくいが、風景の様子は実物を見ているように迫ってくる:「門を出でて数歩、右に男体女峰の屹然として深碧なる大空に聳立したるを認む」。そして小説家らしい文章「国木田君われに先立つこと数歩、路傍に山吹の花の美しく咲出でたるを折りてこれを帽の上に挿みたり。われ後よりこれを見つつ行く、ああこれ一幅の図画にあらずや」。そして、p186「路傍に突出したる大石の下をくぐりて、漸くにして向ふに出づれば少しく広き谷俄然としてあらはれ出でて、其処に一条の大瀑匹練の如くかかる.これ則裏見の滝なり・・・・我等は茶店の牀頭に踞して、共に数杯の瓢酒を飲み、少しく酔ひてその深谷を出づ。滝や、日光や、深緑や、躑躅や、渓流や、ああ山中のうつくしさよ」。男体山とはいわないが、鳴虫山くらいは登ってほしかった。でも芭蕉は裏見の滝まで行ってるんだから、これが正しいのだ。私も裏見の滝を見に行かねば。
p184 匕首(ひしゅ):短剣・懐剣の類で、また剣の最短なるものをいい、長さ一尺八寸ともいう。 曲尺では一尺三寸六分七厘になる。 匕とは匙(さじ)、首とは日本刀でいえば、鐔のあるところのことで、中国の短剣は、そこが匙に似ていたため、または頭が匙に似ていたため、匕首と呼ばれた。
p184 覆盆子(ふくぼんし):ヨーロッパキイチゴ
p187 床頭・牀頭(しょうとう): ねどこのそば。枕もと
これは芭蕉が白河の関を越えるときの様子を、正に第三者の視点から語ったもの。そこで芭蕉は、全く新たなる未知の世界、開かれた明るい活気に満ちた新世界に、希望に満ちて歩んでいく。中山氏はまず、当時の関東から奥州への旧街道が八溝山系の中を通じていたことを指摘し、もし芭蕉がこの旧街道を辿っていたら、「突如としてひらけつづく、山あひの田野をのぞんだならば、まるで別天地へ足を踏み入れたかのやう、思はず息を飲んで佇んでしまったに違いない」と言う。つまり、芭蕉が信州や関東で経験してきた「天地寂寥(せきりょう)」の感は当時の奥州には無かったということだ。次に中山氏が語るのは同じ道を辿った宗祇の地味な情景描写、寂しさを強調した文に対し、芭蕉の「奥の細道」は「白河の関にかかりて旅心定まりぬ・・・・古人冠を正し衣裳を改し」と固い決意表明になっていることを指摘する:「リズミカルに綴られた漢詩文調の美文である」。そして「ここにはもう天地寂寥といった気配はなく、沃野が果てしなく続き、人里は楽し気で明るい。昔は蝦夷の国とされ、日本半国の広がりをもつ未開の地域とされてた面影はどこにある。白河の関を越え、初めて目にするみちのくの世界を前にして芭蕉は心がはずんだ」。最後に中山氏が語るのはこのときの芭蕉の心意気:「芭蕉は・・・・俳諧に別天地を求めて奥の旅へでてきた。白河の関は・・・俳諧の道の新たな関所でもあった。いたづらに古人にならって関路のあはれを歌ひ、みちのくの旅愁を句にするのは、陳腐にすぎない。・・・・『風流の初』は・・・彼の心意気をもしめしている・・・・」。福島の沃野が開かれていたのは、江戸時代にに入ってからの藩主伊達政宗らの活動の結果と思われるが、おそらく伊達政宗が開発着手する前は中山氏が書いているように、未開の荒地だったのだろう。
p187 高爽:① 土地が高く、四方の眺望(ちょうぼう)がはればれとしているさま。高燥で爽快なさま。 ... ② 志がけだかく、気のさわやかなさま。高潔なさま
小杉氏は画家だから、安積沼で芭蕉が見た黒塚や鬼などの絵を何か描いたのかと思ったが、そうではなく、当時の二本松や阿武隈川が寂しかったということ(仙台や山形はそうではなかったと書いている)、巧みな情景描写:「町の中をまっすぐに通って、やがて阿武隈川の岸となる。川幅一杯の水量もて、静かにしかも速やかに此川は流れていく・・・」。次は黒塚の鬼婆の話。お寺に鬼婆の続き絵があり、坊さんの語りが「山寺の怪異話にしっくりと合っていた」という小杉氏は怪異話が好きらしい。一方、「芭蕉翁は此の黒塚をば、黒塚の岩屋を一見し、とだけで片付け去った。彼の翁は涙を忠臣節婦に流すが、耳を山野の怪異には傾けない」と評す。しかし小杉氏はめげず、この黒塚の鬼婆が東京場末の活人劇に出てくること、京の尼寺でこの類いの物語の連図を見たことがある、老いたる尼さんが物語を語り聞かしたと続ける。まあ、こういう人がゴジラやウルトラマンを造ることになるのだろう。二本松には安達太良山に登った時に寄ったことがあるが、高村光太郎のことばかり考えていた。黒塚にも行ってみようか。
p191 小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。
p191 宿志(しゅくし):かねてからの志。長く持ち続けてきた願い。
p191 百草居:たぶん岸浪百草居(ひゃくそうきょ)。日本画家。群馬県館林に生まれる。南画家であった父・岸浪柳渓(1855-1935)や、同郷で近代南画のリーダーであった小室翠雲(1874-1945)に学び、大正から昭和の文展、帝展、日本南画院展などで活躍した。長く使用した号に「静山(せいざん)」「百艸居(ひゃくそうきょ)」「百草居」がある。
p192 袷(あわせ)袷(あわせ):単(ひとえ)に対して表地に裏地を縫い合わせた衣服。袷羽織,袷帯などもあるが,一般には袷の長着(きもの)をさす。袷仕立は保温,表地の補強,すべりをよくするなどの目的 .
これは全くの叙景文。昔の、まだ車が無くて人力車に乗り、その人力車の親父ののんびりしすぎた様子、人力車から見る道沿いの景色、何軒もの温泉宿が高く軒を連ね、湯治客たちが露天に裸で入っている様子、鏡花自身も風呂に入り、そこで客たちの話を聞いて書いた想像の情景、とってつけたような言い回しに、やたらに良く分からない言葉が飛び出す:河鹿(かじか)、すぼいすぼい、鄙唄・・・・。「5月13日の午後である。志した飯坂の温泉へ行くのに、汽車で伊達駅で下りて、すぐに俥をたよると、三台、四台、さあ五台まではなかったかもしれない・・・・」「芭蕉が奥の細道に『飯坂に泊まる・・・・土座に筵を敷いて、あやしき貧家なり。灯もなければ、いろりの火影に寝所を設けて云々・・・』と言ふのと三百有余年を経てあまり変わりは無さそうである」「づらりと並んだ温泉の宿の幾軒幾軒・・・・三階どころではない、五階七階に座敷を重ね、欄干(てすり)を積んで、縁側が縦にめぐり、階子段(はしごだん)が横に走る・・・」「やがて一浴した。純白な石を畳んで、色紙形に大きく湛えて幽かに青味を帯びたのが、入ると、さっと吹きこぼれて玉を散らして潔い」「なきしきる河鹿の声・・・・嘗て・・・箱根で此の声を聞いた。が趣(おもむき)が違ふ。彼処(かしこ)のは、横に靡いて(なびいて)婉転として流れを操り、此処のは、縦に通って喨喨として滝を調ぶる」・・・・・「河鹿」はカエル、「調べる」は音律を合わせるというのは、初めて知った。学問は実に奥深い。
p196 河鹿(かじか):カジカガエル
p196 すぼいすぼい・・・・・・鳥の鳴き声、意味不明
p196 鄙唄(ひなうた):田舎の素朴な歌のこと
p196 喨喨(りょうりょう):音の明るく澄んで鳴り響くさま
p196 滝を調べる・・・・調べる:1.わからない事や不確かな事、また罪などを、あれこれと捜したり問いただしたり見比べたりして、考える。2.音律を合わせ整える。
これは藤村の詩集の冒頭部分のようである。藤村は「日本百名山」の恵那山の章に出てくるが、彼の郷里が恵那山の麓だったとは知らなかった。藤村は25歳のときに仙台の東北学院の教師に赴任し、広瀬川の畔に同僚の画家の教師、布施淡氏と共に移り住み、詩作を始めた。その秋に東京本郷に残してきた母が亡くなり、郷里の恵那山の麓に遺骨を納めに行ったとある。そして、仙台に戻った藤村は名掛町の三浦屋の宿に移り、「仙台雑詩」を書き始めたとある:「まだ年若な私の胸によく浮かんできたものは『詩歌は静かなるところにて想い起したる感動なり』の言葉であった。黙しがちな私の唇はほどけてきた。そしてこれらの詩が私の胸から迸るように流れて来た・・・・・小さな経験がすべて詩になった。一日は一日より自分の生涯の夜が明けていくような心持をいまだに私は想い起すことができる。何を見ても目が覚めるようであった。新しい自然、新しい太陽、そして新しい青春」「心の宿の宮城野よ 乱れて熱き吾身には 日影も薄く草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ 独りさみしき吾耳には 吹く北風を琴と聴き 悲しみ深き吾目には 色なき石も花と見き 古い万葉の諸歌人と芭蕉とはここまで私を連れて来た良い教師であった」。最後に藤村は、足を洗っているところを宿の娘に見つけられ、「アスが太すぎる」と笑われたことを書いている。詩人・島崎藤村は実は相当な歩く旅人で、私などの登山家よりも余程長い距離を歩いていたらしい。その藤村が芭蕉を忍ぶ:「それにしても、長途幾百里の風雨を凌ぎ尽くして殆んど生涯を旅に終わったと言ってもいいような、あの芭蕉翁とは果たしてどんな足の持主であったろう」。
「奥の細道」の「末の松山」の中で芭蕉が書いているのはまずその「末の松山」にある「相生の松」、そして「入相の鐘」、実朝の「つなでかなしも」。芭蕉が琵琶法師の奥浄瑠璃を語るのを聞いたことはその後に書いてある。井上ひさしがこの東北の琵琶法師について書いた「藪原検校」はたぶん芭蕉を意識して書いたものではない。ここに当てられたのはたぶん編者の考えであろう。井上ひさしの文章はジョークに満ちていて、だから現代人、若者に人気があるのだろう。「キンギョ池」は「検校池」の訛、同様に、「ローマの休日」は「老婆の弓術」、「クオ・ヴァディス」は「工場です」、「シミーズ」は「清水」というのは本人も脱線であると宣言している。その琵琶法師や座頭たちが村人たちに池や沼に突き落とされて溺死し、それが元で「座頭池」「琵琶ヶ池」「盲池」「キンギョ池」などの名がついている、という悲しい話の背景には、当時、奥浄瑠璃を語るだけで生活していた座頭や琵琶法師たちの数が増え、飢饉や凶作のときなど、村人たちの手に負えなくなってきたことがある、と井上は指摘。村人たちも生きるのに必死なのだ:「座頭の来訪が年に数回というなら辛抱のしようもあるが・・・・・250人に及ぶ座頭がいて、今でいうならスケジュールを綿密に組み上げ、次から次へほとんど毎日のようにやってくるのであるからたまらない」。井上は笑い話風に書いているが、この後も「座頭と奥浄瑠璃との関係」について、「聖徳太子が施薬、療病、悲田、敬田の四院を設け、当時の盲人がいずれかに収容されるようになった」という歴史を解説している。つまり、教養書、雑学書ということだ。
p200 検校(けんぎょう):検校は、平安時代・鎌倉時代に置かれた荘官、社寺や荘園の監督役職名である。室町時代以降、盲官の最高位の名称と定着した。檢校あるいは建業とも書いた。 江戸時代になると、国の座をまとめる総検校を最高位として京都に置き、江戸には関東の座の取り締まりをする総録検校を置いた
p200 藪原検校:井上ひさしさんの『藪原検校』は〈盲人〉たちの物語です。ひとりの座頭が社会の逆風に抗い、貪欲に、手段を選ばず金・地位・権力を手に入れていく
これは一つ前の井上ひさしに輪をかけて、芭蕉の「奥の細道」の内容とはまるで無縁である。芭蕉の「塩釜」では、伊達政宗が再興してきらびやかに輝いていた塩釜神社の立派さに感動したことや、義経に従って死んだ藤原忠衡の忠孝が語られているが、坂口のは「塩釜神社というのは実に景気の良い神社であった」に始まり、「まるで境内に鹿を放し飼いにしておくような要領で・・・白衣赤袴の娘さんの幾群かが庭掃除をしていたり、サイセン箱をのぞいたり、散歩していたり、放し飼いにしてある」「仙台藩の城下から追放した遊女屋はこの神様の真下、表参道の鳥居両側にズラリとある」という外れっぷり。何の脈絡もなく出てくる「新婚の井上君」というのは井上ひさしなんだろうか? 最後に2ページ弱に渡って書かれているのは塩釜神社の祭礼のミコシの話で、「16人で担ぐ・・・このミコシが天下無類の荒れミコシで・・・・市街へ飛び出すと・・・人家へヒンパンに飛び込んで戸障子を破壊し置物をひっくり返し人々を突き倒す・・・・あんまり暴れ方が激しいので大問題になった。検察陣が出張して取り調べ・・・・」というのはありそうな話だが、その次は坂口の創作だろうか。まるでSF:「神社側やミコシの担ぎ手は・・・・ミコシが自然に走り出すことで、神意だという。検察側はそんなバカな、人意だ、こう疑るのは尤も千万なことだろう。神意か人意かという水カケ論になって、論より証拠、自分で担いでみなさいということになった。・・・・そこで検事と判事が16人ハチマキを締めて現われ、これを担いだ・・・・・すると・・・そのミコシが検事と判事に担がれてヒューと一気に表参道の急坂を駆け下り・・・・それから市街へとびこんでメッチャクチャ暴れたとさ。裁判所へ行って記録を調べた訳ではないから、ホントかウソか請け合いませんよ。しかしむろん、伝説だろうねえ。伝説中の新型だね・・・・」。いやはや。
これは北村透谷が芭蕉と同じ4月10日に松島を訪問したときのものだが、悪天候のため透谷は宿にこもりきりで松島の景勝も全く見ていない。5ページにわたって難しい漢語を並べて論ずるのは、松島で芭蕉が俳句を読めなかったこと、詩人や文人の詩作、創作の難しさについてである。最初の夜、透谷はまず枕元の灯火が気になる:「枕頭の燈火誰が為に広間を守るぞ・・・・燈火われを愚弄するか、われ燈火を愚弄するか。人生われを愚弄するか・・・・詩、文。是等の者果たして魔か、是等の者果たして実か」。頭の中でぐるぐる妄想しているらしい。透谷は燈火を消す。すると今度は小鬼大鬼の気配がする:「小鬼大鬼われを囲めり・・・・・余りにうるさくなりたれば枕を蹴って立ち上がり・・・・大小の鬼等再び来たらず。静かに思えば、我が身を纏う百八煩悩の現身なりける」。煩悩を払うため、透谷はしばらく静座する。すると、「破笠弊衣の一老叟(ろうそう)わが前に顕わる」。この芭蕉の幻影は無言で消え去るが、これもまた透谷の見た幻想であろう。しかし透谷はこの幻との邂逅でインスパイアされる。「彼の無言こそは我に対して絶高の雄弁なりし」というのは、芭蕉が松島で句を読めなかったことを指し、ここから景勝や「美」と芸術家の創作についての考察が始まる:「古より名山名水は詩客文士の至宝なり、生命なり。然れども造化の秘蔵なる名山名水は往々にして韻高からず調備はらざる文士のために其粋美を失却する事あるを免れず」。これは芭蕉も陥った現象であるが、透谷の追求は当時の作家、詩人の批評に及ぶ:「所謂詩客なる者多くは勝景をもって詩を成さざる可らざる所と思ふ。勝景をして自然に詩を作らしめず、自ら強いて詩を造らんとす・・・・人間の運命を極めんとする近代の意味においての文学家が筆に没せられて文の神を失うも皆此理に外ならず」。こうなってしまうともう哲学的瞑想であり、じゃあどうやって詩や小説を書くのかは分からないのだが、透谷は更に突き進んで「冥交契合」という概念に至る:「絶大の景色は独り文字を殺すのみにあらずして『我』をも没了する・・・・・玄々不識の中にわれは『我』を失うなり。而して我も凡ての物も一に帰し、広大なる一が凡てを占領す・・・・・この時に当たって句を求むるも得べからず・・・・詩人は斯かる境界にあって句なきを甘んずべし」。こうして、透谷は松島で何も創作せず、家に帰る。最後に「奥の細道・松島」からの引用:「ちはや振神のむかし大山つみのなせる業にや造化の天工いづれの人か筆をふるひ詞を尽くさむ」。
p206 無何有郷(むかゆうきょう):自然のままで、何の作為もない理想郷。 [解説] 「無可有」は自然のままで何の作為もないこと。
p207 梗概(こうがい):小説・戯曲などの大要を短くまとめたもの。あらすじ。あらまし。
p207 稍漸(久)(ややひさし):長時間の傾向を帯びる意。 かなりの時間が経過したさま。 だいぶん時が過ぎている。
p207 破笠(やれがさ、はりつ): 破れた笠。やぶれ笠。
p207 敝衣・弊衣(へいい):やぶれた衣服。ぼろぼろの衣服。
p207 老×叟(ろうそう):年とった男性。 老翁 (ろうおう)
p209 盖し(けだし=蓋し): 1 物事を確信をもって推定する意を表す。まさしく。たしかに。思うに。「—その通りであろう」. 2 (あとに推量の意味を表す語を伴って)もしかすると。あるいは。
p210 斯る=斯かる(かかる)
高村光太郎が源義経を語るとは珍しいと思ったら、全く義経は出てこない。高村が語るのはまず石巻の旧北上川河口付近にある仲の瀬島を建物が密集した日和山地区の旅館から眺めた情景。高村が感心しているのは江戸時代の北上川治水工事で、この日和山地区に流れている部分は三つの川を運河を開削してつないだらしい。すさまじい大工事だが、高村の見方は少し違う:「日本的なところはスエズのような索漠たる運河状態でない点にある・・・・自然をどづかないでしかも自然を左右する。機械文明の世界においても日本人は結局機械性そのものの自然を求める事によって機械の単純化を高度の洗練にまで持ちゆかずにはいない」。やや難しい。次も俳句じゃなくて、結婚式の話:「今晩は・・・珍しく神前結婚式・・・・・『だんだんそういうことになる・・・経済だもん』・・・一週間飲んだり食べたりの地方の嫁入り騒ぎもまづここらで滅びる。当たり前だ」。昔の地方の結婚式はたいへんだったんだ。最後は夜の仲町を歩いていて、老舗料理屋・鳥文の二階から甚句が聞こえてくるところ。「スットコ在このコケあんこメツバにカテ飯、たあんとたあんと・・・」というのはメニューの宣伝だろうか。
p213 甚句(じんく):日本の伝統的な歌謡の一形式である。「甚九」とも表記する。
p213 鳥文:創業は明治45年。石巻で多くの人が知る老舗料理店。店名は今は「とり文」だが、当初は、「鳥文」。長年の伝統に裏打ちされた日本料理の技と味が売り
この人の文章を読むのは初めてかもしれないが、なんというか、論理が良く分からない。不明点1、中尊寺の廃墟に感動していない? 「人間世界の無常」は感動的でなく、「通俗」なものは論外としている。光堂や藤原氏の遺品は魅力的としながら、社会教科書的な案内人の説明は嫌う。不明点2、「奥の細道」をそんなに評価していない? 「『奥の細道』の堅固な文体にささえられた平泉と現実の平泉とがまったくの別物」には同意できない。もしそうなら、誰も平泉に芭蕉を探しに行かないだろう。「『奥の細道』はただの旅行記ではなく、先人の文体に触発されながら芭蕉の想像力が描いた細い軌跡」にも同意できない。フィクションの部分はあるのだろうが、芭蕉が自分の足で歩いて、月山の頂上まで歩き、日本海に出たのはまぎれもないノンフィクションであり、全ての俳句は彼が詠んだものだ。だから、「平泉は金色に輝く幻の都」を想像する必要もない。寺や史跡や山や川を眺めて、先人の書き残したものの一片をそこに見つけ、感動することも、何も見いだせないことも、いろいろ体験するだろう。それが旅というものでは。
p214 パルミラ:パルミュラともいう。シリア砂漠のほぼ中央に位置するオアシス都市で、ペルシア湾方面からダマスクスと地中海東岸の海岸都市を結ぶ隊商貿易の中間の要衝として栄えた。
p215 讃衡蔵(さんこうぞう):1955年(昭和30年)に開館した中尊寺と山内寺院の文化財を収蔵・展示する施設。 その名称は、奥州藤原三代(清衡・基衡・秀衡)の偉業を讃える
えらくSF的な題名からフィクションっぽい文章を想像したのは全くの間違いで、小松左京は実に理路整然とした自説を展開していく。メイン・テーマは「古来西方より陸奥に入る三つのメインコース」。一つ目の「東山道」というのは今の東北道、R4号沿いの道。芭蕉もここを通った。二つ目は霞ケ浦北西から常陸海岸沿いに北上する道で、ヤマトタケルの東征はこの道。霞が関の北端からいったん南下して鹿島神宮に武運を祈ることになっていたという。三つ目は越の国から日本海側。阿倍比羅夫が通り、源義経が奥州藤原に下った道。そして、義経を追う頼朝の軍勢はこの三つの道全てを押し寄せたとある。ここまでは前置きで、本論はここから。左京は四つ目のルートの「空からの道」で仙台空港に降り立ち、そこから車で山形に抜けようとする。運転手に断わられた「柴田から笹谷街道を山形へ抜けてくれないか」というのは「律令期の東北幹線道」であり「有耶無耶の関」というのがあるという。次に左京が言った「古川から鳴子峠を越えて赤倉を回って尾花沢」というのが芭蕉の通った尿前の関の道で、ここで左京は同行のY君と「蚤虱馬の尿する枕元」について思い出す。結局、左京はY君の勧める「作並から関山峠を抜けて天童へ出る」という、私も何度か通った、船形連峰の南側を通る道を選ぶ。まあ、それがいちばん近いだろう。最後に左京が語るのは海路の話で、日本海側は夏季のおだやかさに北前船や弁済船が500~600年に渡って開運の主役を果たした。だが太平洋側はオホーツク寒流が夏でも南下して海は荒れ、霧を発生させるため、蒸気船の出現まで海運は発展しなかったとある。
p220 有耶無耶の関:関跡は、宮城県と山形県の県境の標高906mの笹谷峠にある。 東の笹谷宿まで一里半、西の関根(関沢)宿まで一里半、笹谷峠の八丁平と呼ぶ平坦地の南東側にある。
おそろしく細かく生き生きとした情景描写に、見たこともないものがあたかも目の前で動いているかのような写実描写。水上勉という作家を読むのは初めてではないと思うが、こんなにも衝撃的な文章を持つ作家だとは知らなかった。ウラジミール・ナボコフのような、生きた情景描写だと思う:p233「小さな桐箱の蓋をあけると、紅花の図柄のある盃が伏せてある。糸底を指でつまんで、内側をかえすと、一刷毛(ひとはけ)撫でたように、心もち橙色がかった「紅」が浮いてくる。むかしの女性は、この盃に薬指を差し入れて、わずかな「紅」をつけとってさらに自分の口にさした。『嬉遊笑覧』に『唇の色は玉虫の如く光るを良し』という化粧法である」。ここでのテーマは芭蕉が山形で詠んだ「紅」。芭蕉の「紅」は一瞬の美であったが、水上の「紅」は生きていて、その色合いまでが見えてくる:p223「むかしの人はいまのような毒々しい「赤」を好まなかった。玉虫色というのか、深みのある紅染めの地を好んだ。朱は「紅花」からとった「紅」なのである」。そして、水上は産業革命がかつてない暮らしやすさをもたらしたのにもかかわらず、貧富の差や不便はあっても、古い良き時代を選ぶ、いわゆる GOOD OLD DAYS を愛する人間のようだ:p224「この紅が・・・・戦後にいたって『棒紅』の出現で失われた。いちいち盃や貝に入れた紅に薬指をそわせ優雅なシナではくようなまどろこしい化粧はさげすまれて、公園のベンチでも駅の待合室でもハンドバッグから取り出してつけられる棒紅が全盛となっては、いまは盃紅などみることは少ない」。戦時中になると、この棒紅すらも人々の生活から消え、紅も赤もなくなってしまう:p224「私にだって日本女性からあらゆる紅が消えたかなしい一時期の光景がある。男たちは草色あるいはカーキ色の国民服をまとい、女性は黒ずくめの木綿にもんぺをはき、頭を防空頭巾で被ったものである。バケツリレー、竹槍訓練などでチラと眼を射た赤い布に私はほっとしたことをいつわれない」。つまり、水上は「美」そのものを鑑賞しているのであって、「盃紅」が善で「棒紅」は悪と決めつけている訳ではない。このあたりはつきつめると不合理、非合理なところもでてくるだろうから、水上はいわば女性的な思考の持主なのかもしれない(こう書くと女性蔑視になっちゃうかな?)。戦後になっても、皇室を中心に山形紅を注文しつづける顧客がいるということで水上は一安心(私も安心、今もそうなのだろうか)。2部で水上は山形に行き(芭蕉が何日もかけたところを、水上は半日で達している)、紅花農家、桜井家を訪れる。紅というのはやたらに手間のかかる作物らしい(新日本風土記で少し見た覚えがあるが、かなりの手間)。江戸時代、紅花は気候や土壌が最も適していた山形が大生産地で、そこで「紅花餅」までに仕上げられた紅の原料を京都からやってきた商人が買い上げ、馬や船で京都まで運ぶ。その様子が「紅花屏風」というのに話絵風に描かれているのを、これまた水上が滔々と目に見えるように描写する。そして水上は、「紅」の利益はほとんど豪商人や仲買人に吸い取られ、その利益金で農地を買い占めた豪農がいたことを語る。そして3部でその豪農の末裔、東村山の稲村家を訪ねる、その頃はもう戦後の農地解放でかなり寂れていたようだが、それでも「敷地内に寺を残すほどの広大な屋敷」だった。好人物そうなご夫婦:「若いものはもうこんな山奥の白蛇の住む家にはいたがりません。大学を出た娘は山形へ嫁に行き・・・老夫婦と末っ子の三人きり」という稲村邸宅は今はどうなっているのだろう。最後に水上は紅花摘みの歌を載せ、稲村家の帰りに最上川に寄る:「日本三大急流の一つといわれる最上は昔ながらの水しぶきをあげて流れていたが、さみだれを集めて早い川の水だけれど、大石田へ下っても、いまは、紅舟はうかんでいない・・・」。
p223 一刷毛(ひとはけ):一息にやってのけること。
p224 帷子(かたびら)
p227 サンベとは何?
奥の細道のオマージュが出てくるのは冒頭である。山寺立石寺の石段を登り始めると、「おあつらえむきに蝉が鳴き出した。どうもタイミングが良すぎる・・・どこか作りものめいた感じがある・・・・『あの蝉の声・・・有線放送で流してるんじゃ・・・』・・・・呆れ顔のMさんをおいて、そこらの草むら、ここの岩かげと杖でつきまわす様、わがことながらいと見苦し・・・・・頑張ったが無駄だった・・・・がっかりして戻りかけると、すぐそばの幹からチュッと小便をひっかけて本物の蝉が飛び立つ。口惜しさや肌にしみ入る蝉の何とかだ」というのは見事なコメディ奥の細道。まさか芭蕉のように創作では、と思えるほどのユーモアとオリジナルとの符号がある。だが、奥の院への途中で出会ったものが五木の、そしてこの短編の心を一変させる:「異様なものがあった。背後が森になっている岩崖の切り立った斜面を、見渡す限りの卒塔婆が一面に覆い尽くしている」。五木は奥の院で卒塔婆を買い、母の永年供養を依頼する。母の実名ならともかく、戒名と亡くなった日まで覚えているのは、何か事情があることを思わせるが、それは語られない。卒塔婆の代金、一年供養、永年供養の代金を書いているところは妙な感じもするが、実生活じみていて実感がある。「私は宗教を信じているのでも、否定している人間でもない・・・・無関心な人間である・・・・私はただ、何となく背後に広がる卒塔婆の壁の中に、その無数の木片の海の中に、私の十数年間中断されていた記憶を突然、呼び起こされたことへの返答を投げ返したかっただけだった。一本や二本の卒塔婆には感じなかった何かがそこにはあり、私の内側をノックしたのだろう」。最後に、「山の対面にある芭蕉園という遊園地」のジェットコースターが「ごうっという地鳴りのような凶々しい(まがまがしい)轟き」渡らせたのは、冒頭のオマージュの対なのだろう。ユーモアと母への思いが同居する不思議な一編。
p233 卒塔婆:お墓の後ろに並べて立てる縦長の木板のことです。 本来、「塔婆」は仏塔のことを意味し、卒塔婆は実は仏塔を簡略化した形をしています。 卒塔婆という呼び名はサンスクリット語(梵語)の「ストゥーパ」から来ています。 ストゥーパとは、釈迦の遺骨を納めた塔を意味しています。
p234 民草(たみぐさ):人民
これは山形の詩人、斎藤茂吉が上山(かみのやま)小学生生徒であったときの紀行文。なんと、小学校の先生(訓導というらしい)が生徒5人を引率して、1日目は寒河江にある最上川河畔のドメキ(こんなところも最上川が流れていたとは知らなかった)、2日目は湯殿山近くの志津、六十里峠を越え、3日目は鶴岡、4日目は湯浜、そして最終日は酒田。酒田まで「最上川の支流を舟」で下ったのを除き、この5日間を全て徒歩で歩いたというからすごい。最上川は上山の北の長井を南から北に流れていて、少年茂吉の見た最初の最上川はそのあたりだったのだろう。それが寒河江のドメキまで来ると「最上川畔のドメキ・・・までくると川幅はもう余ほど広く、こんな広い川を見るのは初めて」となり、そこで茂吉は曳船や「帆を張った舟が・・・矢のように下る」のを見る。「最上川は日本三大急流の一つ」と先生が言い、茂吉たちは鮎や鮠(はや)を食べる:「その日の夕食には鮎の焼いたのが三つもついたし、翌朝はまた鮠の焼いたのが五つもついた」。六十里越えで山形から庄内に入ったとき、少年たちは先生のことを「福島中佐みたいだ」とたとえたのは、シベリアを単独横断した有名な陸軍軍人。庄内で初めて海を見た少年たちは、最後に酒田で再び最上川を見る:「酒田は最上川が海に入るところである。ドメキで見た威勢のいい最上川の水がここにくるともうのぺりとしてしまって・・・何か正体の知れぬものを目前に見たのであった」。同じ川でもこんなに姿形が変わってしまう。ここで茂吉が引用するのはその急流の最上川ではなく、夕陽が海に沈む最上川:「芭蕉が奥の細道で『あつき日を海に入れたり最上川』と詠んだのはこの酒田の日和山というところであった」。芭蕉も「川舟に乗りて酒田の湊に下る」。これが最上川の支流赤川とすれば、茂吉たちと同じ。だが芭蕉が「暑き日を海に入れたり最上川」を詠んだ時は夏の山形の日中の暑さによほど参っていたときだから、夕陽に感動したのではなく、これでやっと涼しくなる、という感じか。
p239 尠ない(すくない)
p239 鮠(はや)
p239 福島中佐=福島安正:父は松本藩士。大学南校で学んだ後、明治7年陸軍省に出仕。情報収集に手腕を発揮し、朝鮮半島・満洲などの調査を命じられた。特に、25年ベルリンからウラジオストクまで1年4ヶ月をかけて単騎で横断し、シベリア鉄道の建設状況を視察したことで知られる。
この文章には驚いた。最初の4ページは湯殿山を訪れた情景描写に溢れる紀行文。さすがに芸術家の目だなと敬服する:「瞳孔が攪乱されるような朱、紅、黄、濃く深く乱れ輝く紅葉が山いっぱいに噴き上がっていた」。ところが、青年の禰宜に案内されて湯殿山の御神体を目にした後、3ページにわたり、前半の紀行文は全く途絶え、ただ日本文化に秘められた神秘の発見が語られる:「この透明なだけの空間。しかしピーンと、こちらの胸にひびいてくる。神秘の直感である。私はかつて沖縄に旅行した時、もっとも神聖な場所、ウタキ(御岳)で、これとほとんど同質の感動を受けたことがある。その思い出が鮮烈な流れのようによみがえり、突然、全身をひたすのを覚えた。それは心の中に透明な形をつくり、ふくらみとなって急速に広がっていく」。その日本の神秘とは何か、通常は見ても語ってもいけないはずのこの神秘について、岡本は実にシンプルに、その姿を語る:「かすかに赤っぽい岩が見えた。『あれが御神体です』と禰宜さんが指さす。風が谷を吹きわたっている。べつだん、これという景色でもないのに、しかし何と清々しいのだろう。空気がつやつやと光っているような清浄感だ。おそらくあそこまで行っても、何もないに違いない。本当にただ湯が噴き出ているだけなのだろう」「沖縄のウタキ(御岳)は神のおりる場所だが、しかしまったく変哲もない、森の中の小さな広場で、その真ん中に石ころが二つ三つ、落葉に埋もれてころがっているだけ。祭壇も偶像も何もない。そこにかえって強烈な神秘があった」。そして最後に岡本は、修験道とはこういう神秘を実感する体験ではないのかと気づく:「修験道はこの根源的な気配の、直接的・積極的な体験なのではないか。私には、修験のそもそもの意味が、突然明らかになった思いだった」。こういう神秘体験をした芸術家は岡本など一部の人たちだけなのだろうか。たぶん、神秘体験そのものは語らずとも、神秘体験を通じて、作品を思いつき、作品を創作した芸術家は多いに違いない。霊感と同義なのかも。
p243 禰宜(ねぎ): 1 神社で、 宮司 ぐうじ ・ 権 ごん 宮司を補佐する職。また、一般に神職の総称。 2 昔の神職の一。神主の下、 祝 はふり の上の位。 3 バッタの別名。
p244 清々しい(すがすがしい): すっきりしていて人を心地よくさせる様子、心が洗われるような気分を表すときに使う言葉です
森敦がこれほど山に詳しい文人だとは知らなかった。鳥海山の標高に関する記述は深田久弥が日本百名山で述べているのと同じ理屈である:p247「たんに標高からすれば、これほどの山は他にいくらもると言う人があるかもしれない。しかし、鳥海山の標高はすでにあたりの高さによって立つ大方の山々のそれとは異なり、日本海からただちに起こってみずからの高さで立つ、いわば比類のないそれであることを知らねばならぬ」。「その高さは海際から盛り上がっている。山の裾は海に没している。つまり我々はその足元から直ちに2240mを仰ぐのであるから、これは信州で日本アルプスを仰ぐのに劣らない」。ただし、鳥海山の標高2236mの記述は両氏とも誤っている:森敦2229m・・・これは七高山の一等三角点の標高、深田久弥2240m、2237m・・・過去の新山の標高と思われる。森敦は鳥海山には登らず、麓の吹浦の海岸や丘から鳥海山を眺め、目を返して日本海を眺める。ここの記述は論理的:p248「渚に降りようとすれば水平線に飛島を見せた日本海が広がって、なんともいえぬ雄大さに胸を打たれないではいられない。だが、雄大さとはすなわち単調ということで、やがてこれを単調と感じ始めると、あれほど感動させた海もまた、ただ海らしく安穏にそこにあるというだけのものとしか思えなくなる」。次に森敦は酒田に行き、芭蕉が泊まった鐙屋(あぶみや)という宿に泊まる。芭蕉の頃は豪商で、句会が開かれた:p250「鐙(あぶみ)屋玉志亭にして、納涼の佳興に瓜をもてなして、発句を乞ふて曰く、句なきものは食ふことあたわじと戯れければ、初真桑四つにや断らん輪に切らん ばせを」。真桑とはマクワウリ、芭蕉は瓜が好物で、「句なき者は喰うべからす」と言われて詠んだらしいが、あせっている心境は伝わってくるが、名句とは言えまい。今の鐙屋は記念館になっていて、人形の商人が座っているらしい。現在(2024年10月)は改修中とある。森敦が泊まった頃は年老いた「ばさま」が一人で応対していたらしい:p251「地方まわりの行商人・・・・あるじのばさまに、ここは芭蕉や西鶴にもゆかりのある家だなどと話していた。当家のばさまに行商の客が話して聞かすというのもおかしなものだが、この家がどんなに古く由緒があるかを知っているということで、ばさまを喜ばせるつもりなのであろう」。芭蕉もまた、句を詠むことで泊めてもらったり路銀を得たりしたであろうから、「これらの行商人となんの変りもない」といいつつ、「これも風流と解して深く問わぬことであろう」と結ぶ。
p246 初真桑(はつまくわ):真桑はマクワウリ、初物だったのであろう。前詞に「句なき者は喰うべからず」というのだから、真剣にならざるを得ない。とにかく、芭蕉は瓜が好物であった。 (山梨県立大学)
p247 相俟って(あいまって):互いに働きかけあって。いっしょになって。
p248 亭々として:非常に遠いさま。 遥かなさま。
p248 密植:密植(みっしょく)」とは|タネ(種)・苗・園芸用品なら【サカタのタネ】 面積当たりの植え付けした株数が普通の栽培より多いことです。 反対語は「疎植」です。 畝幅、株間を狭くして栽培することを密植栽培と呼びます。
p250 鐙(あぶみ)屋:今は記念館になっていて、現在(2024年10月)は改修中。「江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たした姿を今に伝えています。屋敷は石置杉皮葺屋根の典型的な町家造りとなっており、内部は通り庭(土間)に面して、十間余りの座敷、板の間が並んでいます。当時の鐙屋の繁栄ぶりは、井原西鶴の「日本永代蔵」にも紹介されたほどでした。また、鐙屋は酒田三十六人衆の筆頭格として町年寄役を勤め、町政に重要な役割を果たしました。 」(酒田さんぽ)
ほとんど古文なので全く読みにくい。ネットで調べてばかり。露伴もまた象潟を訪ね、かつて松島にも勝ると言われた象潟の「九十九社八十八潟」が鳥海山の噴火で失われたことを最初に記している:「花の上漕ぐ釣り船の跡絶えて玆に(ここに)殆ど百年。稲の穂浪のよるばかりなり」。芭蕉は神功皇后(p53)の御陵のある「干満珠寺」に寄り、そこから鳥海山を見ているが、この干満珠寺=蚶満寺に露伴も寄り、蚶満寺の「満」は「潟」の誤記だろうと指摘する。蚶潟=象潟ということだから、この露伴の指摘は当たっている可能性が高い。次に露伴が訪ねるのは三崎にある有耶無耶の関跡。R7沿いにあるこの「三崎」という岬にはパーキングがあって、数え切れないほどその前を通っているのだが、パーキングに入ったことはない。地理院地図を見ると、なんと「有耶無耶の関跡」とあるから、今度是非寄ってみよう。露伴は、この「三崎」が険峻な地形をしていて、海から直ちに山になっており、軍勢通過を阻止が容易であることから、ここに有耶無耶の関があったに違いないと言い、この険しいところに道を付けた人々の労を讃えている:「南光院永順、佐藤藤蔵、服部外右衛門、曾根原六蔵、本間宗善、堀善蔵」。
p252 夙に(つとに):1. つとめて、あさはやく、月を拝する儀礼。 2. つとに、はやい。
p252 玆に(ここに):さて。
p252 抔(など)
p253 諱む:①いむ。いみきらう。避ける。はばかる。「諱忌」「諱言」 ②いみな。 参考生存中のなまえを「名」といい、死んでからは「いみな(諱)」という。
p253 湯の田:湯の田温泉、山形県飽海郡遊佐町吹浦字湯ノ田
これは夏の暑い日に誰もいない浜辺を二人で歩いている情景らしい。「闃として(げきとして)」で静かなことをことさら強調し、「熱き陽炎」がゆらめいているくらいに暑い。誰もおらず干してある網も力なく魚の臭いだけが漂っている。この情景に川路が「言ひ知らぬ白日(ひる)の悲み」を感じるのは、まぶしいほどに明るく熱いのに、動くものの気配がないからだろう。この詩はそんなことよりも、5-7、5-7の繰り返しの、和歌や俳句のリズムを持っていることだろう:「言ひ知らぬ 白日(ひる)の悲み 胸にくれ 日は照り渡る 北海の 夏の磯浜」。
p254 川路柳虹(かわじりゅうこう):本名・誠(まこと)。東京芝三田台町(現・港区三田)生まれ。曽祖父は幕末の外交官として有名な川路聖謨。父は英学者で教育者の川路太郎(寛堂)。淡路洲本で少年期を過ごし、級友の大内兵衛らと回覧雑誌を作り、「中学世界」に小説、俳句、短歌等を投稿していた。京都美術学校を経て、東京美術学校を卒業。京都在学中に河井酔茗(すいめい)の関係した「文庫」「詩人」も寄稿。特に「詩人」に初めて口語詩を発表して注目された。また、学生時代に処女詩集『路傍の花』を刊行。卒業後も詩作、画業に取り組む。結婚後、1度は入選した二科会で野心作が落選したことにより、絵筆を捨てて詩と 美術評論に専念し、曙光詩社を起こす。困窮に苦しむ時期もあったが、美術雑誌の編集業に就く傍らで精力的に詩誌、詩集を刊行。大正末期に上落合に新居を建て、戦災で全焼するまで居住。この頃の作品には詩集『歩む人』、評論『近代芸術の傾向』がある。代表的詩集としてはほかに『曙の声』『波』など。
p254 闃として(げきとして):静まりかえったさま。 ひっそりとして人けのないさま。
亀井が最初に語るのは芭蕉の「佐渡の句」。芭蕉はこの句を奥の細道の他に、「銀河序」という作品にも載せているらしい:「此島は黄金多く出でて遍く世の宝となれば、限りなきめでたき島にて侍るを、大罪朝敵の類い遠流(をんる)せらるるに由りて唯だ恐ろしき名の聞こえあるも本意無き事に思いて、窓押し開きて暫時の旅愁を労わらんとする程、日既に海に沈みて月ほの暗く、銀河半天に掛かりて星きらきらと冴えたるに、沖の方より波の音しばしば運びて魂削るが如く、腸ちぎれて漫ろに(そぞろに)悲しみ来れば草の枕も定まらず、墨の袂何故とは無くて絞るばかりになん侍る。 荒海や佐渡に横たふ天の川」。亀井は「凄絶(せいぜつ)な寂蓼感をもったこの文章が、佐渡の遠望を決定してしまった」と語る。だが、「芸術の力は恐ろしい。描かれた風景に、現実の風景が従うのである。・・・・「『荒海や』の一句は人口に膾炙(かいしゃ)し、我々の裡なる『まだ見ぬ佐渡』は芭蕉を模倣するに至った」と書いてから、亀井は良寛の歌を挙げる:「また別の『佐渡』がある」。亀井は4首あげ、これらが芭蕉の凄絶な句と異なり、「のびやかで懐かしく・・・・童心の裡に年老けていよいよ悲しい・・・・悲哀が海と同じように渺茫と広がって、それとは気づかせぬところがいい」と語る。「いにしへにかはらぬものはありそみの向かひに見ゆる佐渡が島なり」 次に亀井が語るのは佐渡に流された人たちについて。遺跡が残っている流人は順徳院、日蓮、世阿弥元清くらいらしい。承久の変に敗れて壱岐に流された後鳥羽院の息子の順徳院の佐渡での生活について亀井は「最低限度の待遇」と書いているが、付き人12名というのは平民や受刑者のレベルとはずいぶん違う。日蓮の待遇はこれより悪かったらしいが、日蓮は佐渡にいた3年で書物を三つ「立正安国論」「開目鈔」「観心本尊鈔」も書き、「彼の出発はここから始まった」と亀井は断ずる。「仏法は時に依るべし。日蓮が流罪は今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には大楽をうくるべければ、大いに悦ばし」という言葉にその気概が表れている。そして世阿弥の遺跡というのは、国中平野の黒木御所の近くにある正法寺にある「世阿弥腰掛岩」。「苔に覆われた見るからに老齢を思わせる石」をいつか見てみたい。世阿弥が足利義教に流された理由は不明だそうだが、義教が殺されたのちに赦免になっている。彼のそのときの舞はどんなものか分からないが、歌は残っている:「声もなつかし時鳥(ほととぎす)、唯啼けや啼けや老いの身、我も故郷を泣くものを」。最後に亀井が挙げているのは、江戸時代の大定という大工の罪人で、彼が佐渡で書いた「秋の夜」という端唄で、亀井の時代には歌われていたという:「秋の夜は、長いものとは、まんまるな月見ぬ人の心かも、更けて待てども来ぬ人の、おとづるものは鐘ばかり、わしや照らされてゐるわいな」。まあ、川柳だな。
p256 偶々(たまたま)
p257 遍く(あまねく):ひろく。すべてにわたって
p257 人口に膾炙する(かいしゃ):《膾 (なます) と炙 (あぶりにく) とが、だれの口にもうまく感じられるところから》人々の話題に上ってもてはやされ、広く知れ渡る
p258 渺茫(びょうぼう):広々として果てしないさま。渺々(びょうびょう)。
p258 垂乳根(たらちね):1.母親。2.親。
p260 黒木御所跡:佐渡ヶ島の中央、国中平野の中央やや西より
p261 鬼界ヶ島:「俊寛流刑の地,鬼界ヶ島伝説」が残る三島村硫黄島. 三島村は,薩摩半島の南端から南西にのびる南西諸島の最北部に位置し,竹島・硫黄島・黒島の三つの島 ...
これは珍しい、山でないものの深田久弥の紀行文。語られるのは親不知・子不知の海沿いを、義経や芭蕉たちと同じように歩くところが核になっていて、そこの限りない寂しさを語るのに、中野重治の詩を二つも引用している。「ここにあるのは荒れ果てた細長い磯」で始まる最初の詩を思い浮かべながら、深田はその海辺を歩く:p266「誰もいない。犬っこ一匹見えない。見渡す限り自分だけだ。時折長々と車をつないだ貨物列車が山腹のトンネルから出てきて、ホッと息をつくようにとぼけた反響を立てるが、すぐまたのろくさとその黒ずんだ胴体をトンネルに吸い込まれていく。そしてあとはまたもとの静寂に返って、聞こえるものは波音だけ。沁み入るようなさみしさである。そこが一番の難所なのであろう。突出した岩と打ち寄せる波とが戦って、丈余のしぶきをあげている。波のひるんだ時をねらって素早く通り越せないこともないが、遊覧派的服装の私はそこで引き返した」。このとき深田は市振駅から海辺を東に歩いているが、海辺に降りる前、村外れの小高いところにある寺(グーグルマップの「仏堂」だろうか)で芭蕉の句碑「一つ家に遊女も寝たり萩と月」を見ている。今は市振漁港のあたりに「芭蕉宿泊市振桔梗屋跡」というのがあるようだ。深田は引き返した箇所(たぶん「先ヶ鼻」か「竹ヶ鼻」)の東にある親不知駅で見た夕陽(たぶん別の日)についても印象的な文章を書いている:p266「親不知駅は私の学生の頃はまったく寂しい海岸の小駅だった・・・・その駅の近くまで歩いてきて、私は微塵の邪魔物もない日本海の入陽を見た。水平線に燃える赤いかたまりが完全な円形からきらめく一点となるまで、私は息をつめて眺めていた。北陸に珍しいのどかな晩秋の一日の、それがピリオドであった。これは、さみしさだけの親不知の海辺とは対極的な、束の間の情景である。市振から晩秋の親不知の海辺を歩いた翌年の春、深田は親不知・子不知の東にある能生を訪れる:p287「汽車の窓からは寒々とした屋根の連なりに見えた能生の町も、実際に歩いてみるといろいろの店の並んだ割合繁華な一筋町であった。今日はお祭りで、どの家も明けはなって表通りから突き抜けに海が見えたりした。長い通りを行き尽くすと、人でいっぱいのお宮の境内が現われたが、それが私の長い間あこがれていた場所であった・・・・溢れた人々は線路を越えた丘の斜面にも群がっている。獅子舞その他の余興が行われていて、時々そのすぐそばを汽車が通っていくのもなんとなく童画じみたのどかさであった。境内の一隅には私にとってなつかしい見覚えのお堂があって、どこもここも人で埋まっていた。まれに晴れたみごとな春の一日、海端のこの古いお宮はあまりにうららかすぎてかえって旅人に哀愁を生じさえした。芭蕉の句碑があり、その句に詠まれた汐騒の鐘もあった」。奥の細道の越後で詠んだ芭蕉の句二つにこの能生の句は含まれていないが、ネットによると、能生の白山神社に芭蕉の句碑があり、それは「曙や霧にうつまく鐘の声」であり、その汐路の鐘というのは「人の手を触れずに潮の満ちてくるのに共鳴して鐘が自然に音を出していた」というものらしい。芭蕉は話に聞いただけでこの句を詠んだらしいが、もしかすると夜明時にこの鐘の音を聞いたのかもしれない。そして深田は能生駅から青海駅まで汽車に乗り、青海駅から西に歩く:p269「親不知の駅を過ぎてから小道を辿って海辺に降りた。そして磯伝いに歩き、この前通れなかった難所へ、今度は逆の方から近づいた。そこは大きな岩が打ち重なっていて、そこへ波が押し寄せてきている。私はしぶきに濡れながら、岩を攀じ、わすかの砂地を拾ってようやくそこを通過した。今度も海岸はひっそりかんとしていた。昨年の晩秋とこの春の酣なわと季節の変りはあったが、同じ調子の波の音と時々それにアクセントをつける汽車の響きとのほか、このひっそりかんを破るものは何も無かった。本当に誰もこんな何にもない海辺などへやってくるものはないのだ。なんにもないけれど私にはすべてがあるような気がする。名勝などとと呼ばれるまとまったものはないけれど、名勝以上のものがあるような気がする」。ここで深田は、前年にはさびしさに包まれていた親不知・子不知の完全な静寂の中に、何かがあるのを発見している。「すべてがあるような気がする・・・名勝以上のもの」というのは具体的ではないが、これは芸術家が何かを生み出すときのキイのようなもの、原動力のようなものなのかもしれない。それは、一見して何も無いようにみえるもの、単純な繰り返しであり、深田はそれをもう一つの中野重治の詩の引用で語っている:p270「浪は走ってきてだまって崩れている 浪は再び走ってきてだまって崩れている」。
p263 中野重治:一九〇二(明治三五)年、福井県生まれ。小説家、評論家、詩人。第四高等学校を経て東京帝国大学独文科卒業。在学中に堀辰雄、窪川鶴次郎らと詩誌『驢馬』を創刊。日本プロレタリア芸術連盟やナップに参加。三一年日本共産党に入党するが、のちに転向。小説「村の家」「歌のわかれ」「空想家とシナリオ」を発表。戦後、新日本文学会を結成。四五年に再入党し、四七年から五〇年、参議院議員として活動。六四年に党の方針と対立して除名された。七九(昭和五四)年没。主な作品に『むらぎも』(毎日出版文化賞)、『梨の花』(読売文学賞)、『甲乙丙丁』(野間文芸賞)、『中野重治詩集』などのほかに、『定本中野重治全集』(全二八巻)がある。
p268 能生の芭蕉の句:白山神社には汐路の鐘を詠んだ芭蕉の句がありますが、神社の別当であった泰平寺の梵鐘のお話です。「曙や霧にうつまく鐘の声」ですが、芭蕉はこの鐘を見ていませんが話に聞いただけでこの句を残しました。その時の宿は「玉屋」さんであったようです。人の手を触れずに潮の満ちてくるのに共鳴して鐘が自然に音を出していたと言うので「汐路の鐘」と言われています。ジオ的な場所の条件がうまく適合したものなのでしょう。偶然が重なった貴重な現象です。(糸魚川ジオパークおじさんのブログ)
これは狂言の台本のようである。ここには芭蕉と市振の宿の主人、遊女三人、それに「地」というのは(最初は曽良のことかと思ったがそうではなく)「地謡」という合唱隊で、情景や心理描写を受け持つらしい。宿の主人の最初の問に対する芭蕉の最初の台詞は「奥の細道」の冒頭から引用されていて、「奥の細道尋ね来て・・・・夫れ月日は百代の過客にして、行き交う年も旅人なり・・・・」である。それを「地」が引き継ぎ「やうやうここに越中の、市振とかやに着きにけり」と囃す。ここで芭蕉が「万葉の昔より、歌の流れに二つあり」と始め、「地」が語る「人麻呂赤人之なり。人麻呂は情を叙べ。赤人は景を舒ぶ。心を描くは一つなり。其赤人の流を引き。ここに俳諧起これり」というのは虚子の持論なのか、それとも通説なのか? 場面が変わり、遊女二人の会話となる。寂しさをまぎわらそうと一人が唄い、一人が舞う。これは狂言の見どころの一つなのだろう。そして最後の場面は遊女の夕顔が芭蕉に同行を頼み、芭蕉が断わるところ。「我等は賤しき遊女なるが。女ばかりのやるかたなく。これより伊勢に赴かんに。お僧の伴ひ賜はんこと。ひとえに頼み申すなり」という願いに対し、芭蕉は最初、心を動かされる:「物の道理をわきまえぬ。愚かの願いに似たれども。うき川竹の流れとは。人の情けに寄る習ひ。一つ家に。遊女も寝たり萩と月。これぞ今宵の風雅なる」。しかし「地」が「情けも隔てもあるものを。其のことわりを思し召せ」と囃し、芭蕉は「不便の人の頼みをも。見捨てて我は行く雲の。とどまるところも多き身ぞ」と言って宿を発つ。もちろん芭蕉は辛い。その辛さを「地」が最後に語る:「雨に笠。風に杖。よろよろととして立ち出づる。あとを見送りて。とどまる人もやがて行く。心寂しき景色かな。心寂しき景色かな」。狂言の舞を見てみたい。
p271 シテ、ワキ、地:能楽は、能楽師によって演じられます。能の主役を「シテ」、その相手役を「ワキ」、シテの助演役を「ツレ」、進行役や助演役を「アイ」と呼びます。謡(うたい)を合唱する「地謡(じうたい)」や、器楽を演奏する「囃子(はやし)」など、音楽を担当する人もいます。それぞれ、シテ方、ワキ方、囃子方、狂言方(きょうげんかた)という4つのグループに分かれて専門の役割を演じています。 せりふを発するのは、おもにシテやワキなどですが、情景や心理描写は「地謡」という合唱隊が受け持ち、ときにはシテやワキなどとの掛け合いも行われます。舞台へ向かって二列に座る合唱隊を、地頭(じがしら)というリーダーが統率しています。
ここには、芭蕉が金沢を訪れたときの様子が語られているが、最初に有磯海の句が出てくる。「早稲の香やわけ入右は有磯海」というのは、地名を間違えているのでなければ富山東部(越中黒部)のはずだが、芭蕉はこれを加賀で詠んだと書いているらしい。私は北陸道の有磯海SAによく寄っているので、気になる句である。もしかするとSAにこの句の石碑があるのかもしれない。さて、室生犀星の本文での趣旨は、金沢に入って大歓迎を受けた芭蕉の取った態度であった。当時の金沢は加賀藩主前田家のもとで繁栄し、文化全般が隆盛で、俳人も大勢いて、「芭蕉歓迎の宴」を開き、金沢の「数奇な凝った料理を饗応」したらしい。一方、我らが芭蕉はそんな贅沢な暮らしとは無縁で、当時すでに全国に名声が知られていたにもかかわらず、江戸では貧しい暮らしをしていたらしい。最初の饗応に芭蕉は応ずるが、「酒肴一巡の後」芭蕉はこう言ったらしい:「今宵の馳走のもてなし大名方の高膳の如く重々し。我をもてなさんには一碗の粗菜と一膳の飯にてこと足れり。なんぞ珍味を選び山海の魚菜を望まんや。後の日の会にはかかる心づかひと無益の費ひは必ず仕給うな」。そして、この後の吟会には粗菜をあしらった茶漬け料理が出され、芭蕉はこれを我が望むものと言い、加賀の油揚げや秋茄子の鴨焼きに「舌鼓をうった」とある。なかなか、芭蕉のキャラクターが良く分かる。ところが犀星はこの次に、この芭蕉の歓迎の句会に出席しなかった俳人、山茶花友琴のことを書いている。それは、古来から引き継いできた俳句「貞門」を大事にするため、新進気鋭の芭蕉の俳句は受け入れないということらしい。今では、古いものも新しいものも含め、多様性重視が当然になっているから、こういう姿勢は視野の狭い排他的なものとされるだろうが、江戸時代の頃は、こういう初志貫徹の姿勢も排除されなかったようだ(今でもそうかもしれない)。芭蕉本人も「人その門に随うことの清節を愛した」と犀星は書いている。江戸時代の俳人の生活、そこに現われた芭蕉はまさにスーパースターであり、なおかつ質素堅実な生活を守っていたことが良く分かる。
p279 生駒万子(まんし):生駒 万子は、江戸時代前期から中期の俳人。加賀藩士。諱は重信、通称は伝吉、藤九郎、万兵衛。別号に此君庵、水国亭、水国庵、亀巣など。 ウィキペディア
これは詩人安西均が永平寺を訪れたときの9行詩である。たぶん安西は永平寺に泊まり、夜明け前に鈴を鳴らして走る音が聞こえ、雲水たちは眠そうな顔だけれどもしっかり仕事を始めるのを見る。五体を象った七堂伽藍というのは、法堂、仏殿、僧堂、大庫院、東司、山門、浴司の七つの建物であり、安西はそこになにかがあるような気がして捜し歩くのだが、見つからない。だが、杉林の匂が漂ってるのに気づく。山門を出ると鞄が重くなったというのは、歩き回った挙句に張りつめていた気力が薄れ、一気に疲れを感じたのだろう。そうすると、それまで気づかなかった沢のせせらぎが聞こえてきた。それを「聖者の寝息」と感じたこと、それに杉林の匂を感じたことの二つが、安西が永平寺で見つけたことのようだ。だが、この二つは芭蕉に通じるものがあると思う:「ただ杉林の匂が漂ってゐるばかり」「聖者の寝息のような谷水のせせらぐ音」。
p281 古刹(こさつ): ( 「刹」は寺の意 ) 由緒ある歴史の古い寺。古寺。こせつ
p281 安西均:一九八一年に日本現代詩人会会長を務め、第七回現代詩人賞受賞詩集「チェーホフの猟銃」等で著名な安西均は、福岡県筑紫野市で生まれました。万葉集の時代、九州の広域を指していた筑紫の国の呼び名の発祥の地です。安西均は幼少の頃から郷土史や万葉集に興味を持っていました。
p281 永平寺の七堂伽藍:永平寺の中心建物は七堂伽藍(しちどうがらん)と呼ばれます。これは中国禅宗の様式に由来するもので、永平寺のように古式に準じて整った伽藍を備える寺院は全国でも数少ないといわれます。
p281 芭蕉と永平寺:おくのほそ道では丸岡天龍寺の記述の後、永平寺について 「五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かかる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや」 と記してあり、参拝したと思われるが、曾良が同行していないので裏付けになる資料が無く、実際の道程や真偽のほどは不明である。 芭蕉の行く先々を先行して訪れている曽良は永平寺には参詣していないし、永平寺にも芭蕉の足跡を偲ぶものは何も無いのである (奥の細道漫遊紀行)
ここには「お婆さん」と「若者」が出てくるが、おそらく堀田善衛の祖母と若き日の堀田自身と思われる。お婆さんの語る「種(いろ)の浜の天屋さん」という廻船問屋は「43敦賀」ではなく次の「44種の浜」に出てくるのだが、当時隆盛を極め、芭蕉を舟に乗せ、酒宴でもてなしたこの天屋がもはや「きれいさっぱいと潰れてしもうてあとかたもなかった」とお婆さんは若者に語る。このお婆さんはどうやらそういう廻船問屋の末裔らしく(ということはつまり、若者も、堀田善衛自身も廻船問屋の末裔ということだ)、その祖先はもともと奈良の吉野に住んでいて、南朝壊滅後に皇子の一人を守って北陸に逃れ、皇子は寺の坊さんに仕立て、自身は廻船業を始めたのだという。お婆さんは自分たちの祖先や天屋などの廻船問屋がどうなったのか、「京都や伊勢や尾道」さらに「境港」などを歩いた結果、「十のうち八までなかった」と語る。これは尾花沢で水上勉が語った紅の豪農の末裔の話と似ている。彼等は江戸時代に隆盛を極め、明治維新によって過大な利益、土地や財産を失ったのだ。もう一つ、若者がお婆さんに「なぜ芭蕉さんは越後から一足跳びに加賀の金沢に行ってしまったのか」と訊ねると「それぞれに縄張りがあってやな。俳諧じゃと越中は京のテイモン(貞門)が多かったんや」、テイモンとは京都の松永貞徳の門ということ。解説p148には、かつて京都で芭蕉が「伊賀時代・・・貞門の本拠地である京の数年間でいくらかの箔をつけ」「江戸邸に集う上方系俳団に交わり」「江戸俳壇をも席巻した(西山)宗因新風の波に乗り幽山とは対立して地歩を築いた」という経緯が書いてあるが、同じ俳句でもこういう縄張り争いがあるというのは驚きである。人間の義理人情、しがらみの類いは昔ほど多いらしい。これは、室生犀星が加賀で語った貞門の俳句師、山茶花友琴が芭蕉の歓迎会に出席しなかったことにも関連する。出席しなかったことの理由として、犀星は「友琴の押しの強さ」「金沢人には左ういふ頑ななところがあった」と書いていたが、「縄張り争い」による締め付けみたいなものもあったのかもしれない。堀田はこれに関連し(保田与重郎の芭蕉論について)、「そのへんに捩曲がった形而上学の展開を面白いと思い、独特な才があるとは思いながらも心底では何を大袈裟なことを言いやがる」と書いている。つまり、縄張り争いなんてつまらないということだ。しかし、そういう世を実際に生きていた芭蕉にとっては無視する訳にはいかなかったのだろう。
p282 堀田 善衛:日本の小説家、評論家。中国国民党宣伝部に徴用された経験をもとにした作品で作家デビューし、1951年に芥川賞受賞。 慶應義塾大学仏文科卒業。上海で敗戦を迎えた体験から『広場の孤独』を発表し、芥川賞受賞。スペイン内戦から民族問題を考える国際的視野をもつ作家。
これは校注・現代語訳の板坂元氏の短いコメントで、当時既に100冊を越えていたと思われる奥の細道の解説書を更に出すことの理由として、白石悌三氏と二人で20年近く進めてきた成果をまとめたいということ、読み直しの提唱をしたいという二つを挙げている。その読み直しとは、それまで「わび・さび」主流の地味な芭蕉だけでなく、「飾りの多い、色彩豊かな」芭蕉もあるんだということらしい。それはたぶん、まず日光で見た東照宮の華麗さ、塩釜や松島で芭蕉が出会った伊達政宗が創り上げた荘厳な世界、そして金沢では前田家が培った豪華絢爛な衣装や料理などのことだろう。芭蕉は簡素・質素な生活を常としたが、彼をとりまく世界はもっと多様な価値を発見していて、それを芭蕉も俳句に詠んでいる。最後に板坂氏は、恩師杉浦正一氏について語ることを忘れない。このあたりの師と弟子の関係は、芭蕉とその弟子たちを連想させる。俳句とは、人間関係に深くかかわるものらしい。
p286 花鳥諷詠: ( 「花鳥」は目に映ずる自然。「諷詠」は心におこる詠嘆 ) 四季の変化による自然界や人間界のさまざまな現象を、ただ無心に、客観的にうたいあげること。 高浜虚子の造語
p25 栗の花「世の人の見付けぬ花や軒の栗」
p26 黒塚:二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る
p27 しのぶもぢ摺の石:「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」
p31 武隈の松:「桜より松は二木を三月越し」
p34 十符の菅菰(すがこも):「今も年々十符の菅菰を調へて国守に献ずといへり」
p34 壺碑(つぼのいしぶみ):「つぼの石ぶみは高さ六尺余横三尺ばかりか.苔をうがちて文字幽かなり」
p35 末の松山:末の松山は寺を造りて末松山といふ.
p36 塩釜神社:早朝、塩釜の明神に詣づ.
p38 雄島が磯:地つづきて海に出でたる島なり.
p40 雄島(見物聖が庵住していた)、瑞巌寺、松島
p41 金鶏山:平泉館の西、秀衡が平泉鎮護のため金鶏を埋めて富士山の形に築いた山
p42 経堂と光堂:かねて耳驚かしたる二堂開帳す.経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す
p45 紅粉(べに)の花:「まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉の花」
p53 能因島:「まづ能因島に舟を寄せて三年幽居の跡を訪ひ・・・」今は陸地
p58 くりから峠:歌枕、木曽義仲が平家を追い落とした古戦場
p59 多太神社:多太の神社に詣づ.実盛が甲・錦の切あり
p60 那谷寺(なた):山際に観音堂あり・・・大慈大悲の像を安置して那谷(なた)と名付け給ふとなり
p60 那谷寺庫裡公園の石山:「石山の石より白し秋の風」
p62 全昌寺:大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる
p63 汐越の松:終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松(西行ではなく蓮如上人)
p63 北潟湖:越前の境、吉崎の入江を舟に掉さして汐越の松を尋ぬ
p63 柳の花:折節庭中の柳散れば、庭掃いて出でばや寺に散る柳
p64 天龍寺:丸岡(松岡が正しい)天龍寺の長老、古き因あれば尋ぬ.また金沢の北枝(ほくし)といふ者、かりそめに見送りてこの所までしたひ来る
p65 帚木:あやしの小家に夕顔・へちまの延えかかりて鶏頭・帚木に戸ぼそをかくす
p66 日野山:漸(ようよう)白根が岳かくれて比那が岳あらはる
p66 鶯(うぐいす)の関:鶯の関を過ぎて湯尾峠と超ゆれば燧が城、帰山に初雁を聞きて十四日の夕暮敦賀の津に宿を求む
p67 気比神宮:あるじに酒すすめられて、気比の明神に夜参す
p68 チドリマスオ貝:空晴れたれば、ますほの小貝拾はんと種(いろ)の浜に舟を走らす
p68 本隆寺:浜はわづかなる海士の小家にて侘しき法華寺あり
p69 須磨海岸:寂しさや須磨に勝ちたる浜の秋
p69 大垣:美濃の国へ・・・駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曽良の伊勢より来たり合ひ、越人も馬をとばせて如行が家に入り集まる
p148 芭蕉:日本橋小田原町・・・を引き払って深川の草庵に移る・・・庭前の芭蕉は人呼んで草庵の名となり、やがて彼の俳号となった。
p165 蔦の細道=宇津ノ谷峠:業平の東下りに名高い「蔦の細道」は旅の本意を象徴する歌枕であって、東海道紀行に欠かせないばかりか、謡曲や画題としても当時広く知られていた
p186 日光・裏見滝:路傍に突出したる大石の下をくぐりて、漸くにして向ふに出づれば少しく広き谷俄然としてあらはれ出でて、其処に一条の大瀑匹練の如くかかる.これ則裏見の滝なり
p196 河鹿(かじか):カジカガエル:なきしきる河鹿の声、一匹らしいが、山を貫き、屋を衝いて、谺(こだま)に響くばかりである
p211 仲の瀬島と日和山:「仲の瀬島を中州に・・・此川を誰が人工の川と思おう・・・日和山は河口を扼する昔からの物見台・・・」
p211 北上川の治水工事:伊達政宗の家臣川村孫兵衛は元和2年(1616)から寛永3年(1626)にかけて和渕山と神取山の間で北上川・迫川・江合川を合流させ、鹿又から石巻までの流路を開削して舟運路を確保した