最初に派手に書かれている「甲武信岳の遭難」は「奥秩父集団遭難事故」としてネットに載っており、1916年7月に東京帝国大学の学生ら5名のうち4名が低体温症で死亡とある。なにせ7月だから、薄着で登ったのだろう。
次に深田の語るのは「なぜ甲武信なのか」。「昔から名山とたたえられた山ではない。頂上に祠もなければ、三角点もない。奥秩父でも甲武信より高い峰に国師や朝日があり・・・・山容から言ってもすぐ北の三宝山の方が堂々としている・・・・にも拘わらず奥秩父の山では金峰の次に甲武信をあげたくなるのはどういう訳だろう」というのは、周辺からの姿を見ても確かにその通り。深田は、遭難事件があったこと、コブシという名前のよさ、千曲川、荒川、笛吹川の源頭になっていることを挙げているが、今ではもちろん、深田がこの山を日本百名山に選定したことがこの山を「名山」に確定していて、登山者の目標になっている。
深田は上京した頃の「山行の大半は奥秩父・・・・登山路も整備されず、山小屋にも乏しく、・・・・鋸や鉈を持って無人の山に出かけた」というから、当時は実にワイルドな登山をしていたことになる。私は甲武信に2回登り、最初は西沢渓谷入口から戸渡尾根というスタンダードなコースを登ったが、2度目は東沢から釜ノ沢を遡行して二日目に両門ノ滝の正面に立ち、そこからも長い急傾斜を登ってやっと頂上直下に到達し、三日目が下山だった。このときの魚止滝、千畳ナメ、両門ノ滝などはすばらしかったが、なにせ時間がかかって大変だった。それでも、私が登った時は要所に簡素な道標があり、巻道や残置ロープもあった。
この東沢・釜ノ沢を、深田は不便な時代に二度も登っている。しかも最初のときは新緑の頃、初日に頂上に立ち、「頂上から少し下ったところの・・・粗末な山小屋」に泊まり、翌日は木賊山、破風山を越えて雁坂峠、二度目のときは紅葉の頃、初日に頂上に立ち、同じ笹小屋に泊まり、北東側の真ノ沢に下って「荒れ果てた小屋に」2泊目、3日目に雁坂峠を経て帰っている。
まあ、私も若ければ、そのくらいのことはできたのかもしれない。最後に紙面が余ったのか、深田はまた山名の話をして三宝山と国師岳のことを書いているが、北の「梓山から十文字峠に至り、それから三宝山を越えて甲武信岳への道」は私が次に狙っているコースである。
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最初に派手に書かれている「甲武信岳の遭難」は「奥秩父集団遭難事故」としてネットに載っており、1916年7月に東京帝国大学の学生ら5名のうち4名が低体温症で死亡とある。なにせ7月だから、薄着で登ったのだろう。
次に深田の語るのは「なぜ甲武信なのか」。「昔から名山とたたえられた山ではない。頂上に祠もなければ、三角点もない。奥秩父でも甲武信より高い峰に国師や朝日があり・・・・山容から言ってもすぐ北の三宝山の方が堂々としている・・・・にも拘わらず奥秩父の山では金峰の次に甲武信をあげたくなるのはどういう訳だろう」というのは、周辺からの姿を見ても確かにその通り。深田は、遭難事件があったこと、コブシという名前のよさ、千曲川、荒川、笛吹川の源頭になっていることを挙げているが、今ではもちろん、深田がこの山を日本百名山に選定したことがこの山を「名山」に確定していて、登山者の目標になっている。
深田は上京した頃の「山行の大半は奥秩父・・・・登山路も整備されず、山小屋にも乏しく、・・・・鋸や鉈を持って無人の山に出かけた」というから、当時は実にワイルドな登山をしていたことになる。私は甲武信に2回登り、最初は西沢渓谷入口から戸渡尾根というスタンダードなコースを登ったが、2度目は東沢から釜ノ沢を遡行して二日目に両門ノ滝の正面に立ち、そこからも長い急傾斜を登ってやっと頂上直下に到達し、三日目が下山だった。このときの魚止滝、千畳ナメ、両門ノ滝などはすばらしかったが、なにせ時間がかかって大変だった。それでも、私が登った時は要所に簡素な道標があり、巻道や残置ロープもあった。
この東沢・釜ノ沢を、深田は不便な時代に二度も登っている。しかも最初のときは新緑の頃、初日に頂上に立ち、「頂上から少し下ったところの・・・粗末な山小屋」に泊まり、翌日は木賊山、破風山を越えて雁坂峠、二度目のときは紅葉の頃、初日に頂上に立ち、同じ笹小屋に泊まり、北東側の真ノ沢に下って「荒れ果てた小屋に」2泊目、3日目に雁坂峠を経て帰っている。
まあ、私も若ければ、そのくらいのことはできたのかもしれない。最後に紙面が余ったのか、深田はまた山名の話をして三宝山と国師岳のことを書いているが、北の「梓山から十文字峠に至り、それから三宝山を越えて甲武信岳への道」は私が次に狙っているコースである。
それは、今は車道が通じている三国峠にMTBを置いておき、梓山から西沢沿いの登山道を登って甲武信岳、そこから三宝山、十文字峠、三国峠まで歩き、あとはMTBで出発点まで下ると言うツーリング周回。前半の歩きが17㎞もあるのがやや気がかりだが・・・・。
p286 甲武信岳の遭難:奥秩父集団遭難事故(おくちちぶしゅうだんそうなんじこ)は、1916年7月に東京帝国大学の学生ら5名が山梨県の奥秩父山塊を登山中に遭難し、うち4名が低体温症にて死亡