この章で深田は四つの和歌を載せている。島木赤彦の歌は純朴な登山・散策の情景描写だが、「アララギ」の同人、伊藤左千夫と斎藤茂吉の歌には感動や感情が込められている。アララギは万葉集を尊重し、写実主義を継承発展とあるが、目にした情景からいろんな感動、抒情を得ているようだ。
私も初めて蓼科山を見たときは感動した:「松本が近づき、真っ白な常念が見えたときは目が覚めたが、茅野のあたりまで来て蓼科山と北八ツが見えたときにも感動した。蓼科山は予想どうり、頭の白い円錐形だった」。
そして私は白樺高原国際スキー場のリフトトップからスキー・シールで登り、途中でアイゼンに代えて円錐丘を登り、「大きな石がゴロゴロころがっている」頂上に達した。雪質は良くなく、全くスキー向きの山ではない。深田の頃は「中央に石の祠が一つあるきり(現在は小屋ができたそうである)」とあるが、私が登った時は三角点に頂上標識があり、石の祠には鳥居もあった。登山者が集っていて、近くに山小屋の屋根も見えていた。
深田が周囲の情景を書いてないのはたぶん霧で見えなかったためと思われるが、私は頂上から南に、北横岳や縞枯山、天狗岳の双耳峰、その奥で雲をかぶっている南八ヶ岳を見た。深田が「石ばかりの頂上で私は1時間あまり孤独を味わった」とあるのは、霧が晴れるのを待ったのだろうか。だが、そこから深田が下った諏訪側の蓼科高原・親湯温泉というのは7㎞くらいあるから、楽ではなかっただろう。
私はマイカー登山だから往復や周回が基本だが、深田は登ったのと同じ道を下るのをなるべく避け、しかも帰路には往路よりも長いルートを選んでいたようだ。本に記載はないが、深田は帰路の途中で何か歌を詠んだに違いない。
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この章で深田は四つの和歌を載せている。島木赤彦の歌は純朴な登山・散策の情景描写だが、「アララギ」の同人、伊藤左千夫と斎藤茂吉の歌には感動や感情が込められている。アララギは万葉集を尊重し、写実主義を継承発展とあるが、目にした情景からいろんな感動、抒情を得ているようだ。
私も初めて蓼科山を見たときは感動した:「松本が近づき、真っ白な常念が見えたときは目が覚めたが、茅野のあたりまで来て蓼科山と北八ツが見えたときにも感動した。蓼科山は予想どうり、頭の白い円錐形だった」。
そして私は白樺高原国際スキー場のリフトトップからスキー・シールで登り、途中でアイゼンに代えて円錐丘を登り、「大きな石がゴロゴロころがっている」頂上に達した。雪質は良くなく、全くスキー向きの山ではない。深田の頃は「中央に石の祠が一つあるきり(現在は小屋ができたそうである)」とあるが、私が登った時は三角点に頂上標識があり、石の祠には鳥居もあった。登山者が集っていて、近くに山小屋の屋根も見えていた。
深田が周囲の情景を書いてないのはたぶん霧で見えなかったためと思われるが、私は頂上から南に、北横岳や縞枯山、天狗岳の双耳峰、その奥で雲をかぶっている南八ヶ岳を見た。深田が「石ばかりの頂上で私は1時間あまり孤独を味わった」とあるのは、霧が晴れるのを待ったのだろうか。だが、そこから深田が下った諏訪側の蓼科高原・親湯温泉というのは7㎞くらいあるから、楽ではなかっただろう。
私はマイカー登山だから往復や周回が基本だが、深田は登ったのと同じ道を下るのをなるべく避け、しかも帰路には往路よりも長いルートを選んでいたようだ。本に記載はないが、深田は帰路の途中で何か歌を詠んだに違いない。
p271 アララギ:短歌雑誌。《馬酔木(あしび)》を継ぎ,1908年伊藤左千夫らが創刊。左千夫没後は古泉千樫,斎藤茂吉,島木赤彦,土屋文明らが編集,長塚節,中村憲吉,釈迢空らが参加した。アララギ叢書として赤彦,憲吉の《馬鈴薯の花》(1913年),茂吉の《赤光(しゃっこう)》,節の《鍼(はり)の如く》(1914年)などを刊行。《万葉集》を尊重し,正岡子規の写実主義を継承発展させて歌壇の主流をなし,現在に至る。