冒頭で「斜里岳はかねてからその姿を写真で見て、私の憧れの山の一つであった」というのが恐らく深田がこの山を日本百名山に選定したきっかけだが、深田が実際に目にすることができたのは一度きり、「天は私たちのために快く晴れて、青空をバックに左右にゆったり稜線を引いた憧れの山の全容を見せてくれた」。
それでも深田は「五万分の一の地図を拡げ・・・・・北に向かって孔雀の尾のように展げている目の粗い整斉な等高線を見ながらこの山の裾の大きさを想像する。」
私がこの山に登ったのは2005年だが、その後も知床に来た時に斜里岳を何度も見た。ただし、最も印象的なのは深田のいう「ゆったり稜線を引いた・・・裾の大きさ」よりも、遠目に見た姿とは違うその荒々しい山容、深い谷と急な尾根が何本も刻まれ、アルプス的鋭鋒となっている頂上をもつことではなかろうか。
深田が登った「チェサクエトンビ川上流の沢筋」はたぶん今の一の沢川で、深田が泊まったときは建てられたばかりだった清岳荘は今の登山口になっている。
「途中いくつも滝があり、殊に美しい七重の滝は流れる滝の縁をたどっていった」というのも今の登山道を同じで、私もそこを登った。当時のメモには「いわゆるナメ滝というのが次々に出てくる。追い越して行く人たちは慣れたもので、ひょいひょいと石の上を渡っていく。こちらはナメ滝を写していてルートを2回ほど間違える。おっかない滝壷真上の徒渉もあった」とある。
そして「10:04山頂。一瞬ガスが晴れて街並みが見えるが、すぐに隠れてしまう。登山客大勢」という山頂の場面で、景色が見えなかったのは深田のときと同じだが、6人で登った深田のときに比べ、私が登った時は大勢の人が登っていて、百名山登頂を喜び合っていた。
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冒頭で「斜里岳はかねてからその姿を写真で見て、私の憧れの山の一つであった」というのが恐らく深田がこの山を日本百名山に選定したきっかけだが、深田が実際に目にすることができたのは一度きり、「天は私たちのために快く晴れて、青空をバックに左右にゆったり稜線を引いた憧れの山の全容を見せてくれた」。それでも深田は「五万分の一の地図を拡げ・・・・・北に向かって孔雀の尾のように展げている目の粗い整斉な等高線を見ながらこの山の裾の大きさを想像する。」
私がこの山に登ったのは2005年だが、その後も知床に来た時に斜里岳を何度も見た。広大な北海道の山のなかには深田が選ばなかった名山はたくさんあると思う。深田自身が後日認めているニペソツ、日高のカムエクやペテガリ、夕張の芦別岳、増毛の暑寒別岳や郡別岳、札幌周辺の無意根山、漁岳、恵庭岳、ニセコの目国内岳や雷電山、そして道南の狩場山。だが、斜里町や清里町から見た斜里岳は、それらの山々と比較しても遜色ない印象的な姿をしていたと思う。ただし、最も印象的なのは深田のいう「ゆったり稜線を引いた・・・裾の大きさ」よりも、遠目に見た姿とは違うその荒々しい山容、深い谷と急な尾根が何本も刻まれ、アルプス的鋭鋒となっている頂上をもつことではなかろうか。
この山への初登頂は東北麓からのスキー登山と深田が書いているとおり、今でも緩やかな東尾根を登って斜里岳に登れるようだが、頂上部のピラミッドは雪山のときでも黒々としていて手強そうである。深田が登った「チェサクエトンビ川上流の沢筋」はたぶん今の一の沢川で、深田が泊まったときは建てられたばかりだった清岳荘は今の登山口になっている。「途中いくつも滝があり、殊に美しい七重の滝は流れる滝の縁をたどっていった」というのも今の登山道を同じで、私もそこを登った。当時のメモには「いわゆるナメ滝というのが次々に出てくる。追い越して行く人たちは慣れたもので、ひょいひょいと石の上を渡っていく。こちらはナメ滝を写していてルートを2回ほど間違える。おっかない滝壷真上の徒渉もあった」とある。
「次第に緩やかになり、ナメ滝を歩いて登ると、9:13上二股。浅い沢の中を歩き、やがて水が無くなってガレ場となり、9:37胸突八丁。9:44馬の背のあたりでもう降りてくる人と会いだす。ガスで右が左が分からず。左が山頂。すぐかと思ったらまず祠があり、山頂はその先。」の祠というのは、深田が書いている「日本人は尊崇する山の頂上に社をおかないと気が済まないのか、斜里岳に社が設けられたのは昭和十年・・・・・昭和34年、神明造の社が再建された」のことだろう。
そして「10:04山頂。一瞬ガスが晴れて街並みが見えるが、すぐに隠れてしまう。登山客大勢」という山頂の場面で、景色が見えなかったのは深田のときと同じだが、6人で登った深田のときに比べ、私が登った時は大勢の人が登っていて、百名山登頂を喜び合っていた。