「山には厳しさをもって我々に対するものと、暖かく我々を包容してくれるものと、二種類ある。赤城山はその後者のよい代表である」という深田の紹介は、いかにもこの山が登り易いということを示していて、実際に登ってみて、やや苦労した点もあったが、その通りであった。
赤城山を語る深田は「登山というよりは逍遥」と言う通りにしきりに道草ばかりで、歴史や宗教や文学の話をするかと思えば湖のほとりに出て、今度は車窓から赤城を眺める。私も赤城は高速から、周囲の山から、数限りなく見た。登りに行ったのは3回で、最初は日本百名山の最後の山として、深田が「火口湖の大沼・・・をめぐって黒桧山、地蔵岳、鈴ヶ岳の三つが鼎の形に立っている」と語るその三山に登った。
「黒桧山と地蔵岳は満員状態だったが、鈴ヶ岳だけは静かで誰もいなかった。たまたま私にとって最後の百名山だったが、一人静かに祝いたかったので、三番目に登った鈴ヶ岳の頂上で記念撮影、万歳」というのがその時のメモ。翌日、小沼と長七郎山に登り、深田が車窓から見た描写「鍋割山、荒山、地蔵岳、長七郎山、駒ヶ岳、黒桧山と順次に高くなっていく」の残りの山、鍋割山と荒山に4年後に登った(駒ヶ岳には黒桧山と共に登っていた)。
猪谷六合雄のスキー場というのはもう無いから、あとは志賀直哉の「焚火」(*、この中のKさんとは猪谷六合雄(くにお)であると深田が記している)や関口泰の「山湖随筆」(ネットには出ている)を読むくらいか。いやいや、もう一度大沼や小沼を散策すべきか。
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「山には厳しさをもって我々に対するものと、暖かく我々を包容してくれるものと、二種類ある。赤城山はその後者のよい代表である」という深田の紹介は、いかにもこの山が登り易いということを示していて、実際に登ってみて、やや苦労した点もあったが、その通りであった。
赤城山を語る深田は「登山というよりは逍遥」と言う通りにしきりに道草ばかりで、歴史や宗教や文学の話をするかと思えば湖のほとりに出て、今度は車窓から赤城を眺める。私も赤城は高速から、周囲の山から、数限りなく見た。登りに行ったのは3回で、最初は日本百名山の最後の山として、深田が「火口湖の大沼・・・をめぐって黒桧山、地蔵岳、鈴ヶ岳の三つが鼎の形に立っている」と語るその三山に登った。
「黒桧山と地蔵岳は満員状態だったが、鈴ヶ岳だけは静かで誰もいなかった。たまたま私にとって最後の百名山だったが、一人静かに祝いたかったので、三番目に登った鈴ヶ岳の頂上で記念撮影、万歳」というのがその時のメモ。翌日、小沼と長七郎山に登り、深田が車窓から見た描写「鍋割山、荒山、地蔵岳、長七郎山、駒ヶ岳、黒桧山と順次に高くなっていく」の残りの山、鍋割山と荒山に4年後に登った(駒ヶ岳には黒桧山と共に登っていた)。
猪谷六合雄のスキー場というのはもう無いから、あとは志賀直哉の「焚火」(*、この中のKさんとは猪谷六合雄(くにお)であると深田が記している)や関口泰の「山湖随筆」(ネットには出ている)を読むくらいか。いやいや、もう一度大沼や小沼を散策すべきか。
地蔵岳の登山道を登り、高度が上がると、古い石塔の背後に黒檜岳と大沼が見えてくる
小野子山(西側)から見る赤城連峰:黒檜山(左)、地蔵岳(中央)、荒山(右)
鳥居のある黒檜山神社に着く。岩が重なっているところに、御黒檜大神と彫った大岩などの石標や古い祠がたくさん立っている
モニュメントがたくさんある鈴ヶ岳の頂上に着く。誰もいない一人の頂上。大小の石標に三等三角点と簡素な頂上標識。。一人静かに祝いたかったので、ここで百名山完登の記念写真を撮る。万歳。
(*)「焚火」は、赤城山の大沼で過ごした一夜を描いた作品。赤城大沼はわたしもたびたび出かけたことがある場所なので、いずれ読み返したいと考えていた。小説として分類されているようだけど、随筆、エッセイといった方がしっくりする。丸谷才一さんは「スケッチ」といういい方をする。短編の中に、その種のジャンルがあって、日本の「写生文」はその影響をうけているそうだが、「枕草子」「徒然草」、あるいは江戸期の俳文もあったから、近代における写生文は、それらもろもろが流れ込んで、形成されたのだろう。新潮文庫の現行版で16ページと1/3、400字詰原稿用紙に換算し、12枚弱の短編である。これはまったく付け入るスキのない、志賀直哉の名品の一つである。すでに定評あるものなのでいまさら褒めてどうなるわけではないが、人間国宝といわれる業師がつくったような、文章の工芸品である。登場人物は、自分、妻、Kさん(宿の主)、Sさん(友人の画家)、の4人。ほかにも周辺人物が数人いる。彼にはエッセイ風味のものとして「城の崎にて」、フィクショナルな風味のものとして「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」など、ほかにもよく知られた名品があり、教科書にもしばしば採用されている。「志賀直哉なんて、教科書で読んだ以外しらないなあ」という人が、じっさいには多いだろうが──。キャンプだとか、バーベキューだとか、戦後のアメリカ文化が定着する前の時代。山登り、山歩きというより、焚火しながらの湖畔散策記である。土地の名がいくつか登場するが、わたしには土地勘があるので、位置関係がよくわかる。発表されたのは大正9(1920)年。じつに簡潔で、必要なことばだけで出来上がっていて、ほとんど散文詩に近い美しさを備えたこの作品。何十年かぶりに読み返してみて、志賀直哉の中からもし一編だけ選べといわれたら、これを挙げてもいいかな・・・と思えるほど。ドラマチックなことは何も起こらないが、Kさんが遭難しかけたとき、母の「夢のお告げ」によって救われる挿話には強いインパクトがあり、一読忘れがたい印象を残す。 (二草庵摘録)