深田の語る筑波山は常陸風土記と高橋虫麻呂で半分以上が語られ、これら歴史的価値を有する記事や歌を百名山選定の根拠にしている。則ち、筑波山は奈良時代の頃からすでにその周囲が開けていて人が住み、「大衆の遊楽登山」も行われ、万葉集の題材にも多く選ばれていたということであり、それはその通りだろう。
その「遊楽登山」については、歌垣(独身男女が歌を送り知り合う出会いの場)を越えて、嬥歌(かがい:乱交パーティ?)ではという説もあり、古代の謎ということか。虫麻呂の歌にはそれに踏み込んだものもあるらしいが、深田の選んだ虫麻呂の歌は、筑波山に登って秋の田や海を眺め、雁の鳴き声を聞き、旅の憂いが晴れるというすがすがしい登山の歌である。
後半は「意想外に高い・・・・・美しく眺められる」筑波山の景観。深田は関東周辺の山や東北線から筑波山を見ているが、私の印象に残っているのは飛行機から見た筑波山で、青森から飛んできて羽田に着陸する少し前、降下してきて稜線を縦に東から見ることになり、手前につつじが丘、奥に二つの峰が重なっている筑波山である。
私が筑波山に登ったのは7月の早朝で、つつじが丘のロープウェイ駐車場に駐車し、4時半に登り始め:「モニュメントが現れる。まだ5時だが、もう降りてくる人がいる。予想外の岩の多い登りをこなし、大きな立派な社が見え、そこが女体山の頂上だった。岩の頂上の手前に小さな橋が架けてあり、立派な筑波山の頂上標識に大きな一等三角点。・・・・・・カタクリの里というのがあったが、カタクリはなし。・・・・・・男体山へは急だが短い登山道。大きなアンテナの手前に社があり、その手前に頂上標識がある」、という短いながらも旅人を飽きさせない楽しい散策だった。もう少し花の多い時期にもう一度登ってみたい。
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深田の語る筑波山は常陸風土記と高橋虫麻呂で半分以上が語られ、これら歴史的価値を有する記事や歌を百名山選定の根拠にしている。則ち、筑波山は奈良時代の頃からすでにその周囲が開けていて人が住み、「大衆の遊楽登山」も行われ、万葉集の題材にも多く選ばれていたということであり、それはその通りだろう。
その「遊楽登山」については、歌垣(独身男女が歌を送り知り合う出会いの場)を越えて、嬥歌(かがい:乱交パーティ?)ではという説もあり、古代の謎ということか。虫麻呂の歌にはそれに踏み込んだものもあるらしいが、深田の選んだ虫麻呂の歌は、筑波山に登って秋の田や海を眺め、雁の鳴き声を聞き、旅の憂いが晴れるというすがすがしい登山の歌である。
後半は「意想外に高い・・・・・美しく眺められる」筑波山の景観。深田は関東周辺の山や東北線から筑波山を見ているが、私の印象に残っているのは飛行機から見た筑波山で、青森から飛んできて羽田に着陸する少し前、降下してきて稜線を縦に東から見ることになり、手前につつじが丘、奥に二つの峰が重なっている筑波山である。
私が筑波山に登ったのは7月の早朝で、つつじが丘のロープウェイ駐車場に駐車し、4時半に登り始め:「モニュメントが現れる。弁慶の七戻り、高天ヶ原(社あり)、母の胎内くぐり、出船入船、裏面大黒岩、北斗岩、大仏岩。まだ5時だが、もう降りてくる人がいる。予想外の岩の多い登りをこなし、大きな立派な社が見え、そこが女体山の頂上だった。岩の頂上の手前に小さな橋が架けてあり、立派な筑波山の頂上標識に大きな一等三角点。・・・・・・カタクリの里というのがあったが、カタクリはなし。そしてコルにある大きな広場に着く。ニッコウキスゲ。店が並んでいるがどれもまだ開いてない。・・・・・・男体山へは急だが短い登山道。大きなアンテナの手前に社があり、その手前に頂上標識がある。・・・・駐車場着8時前。ロープウェイはまだ動いていない」、という短いながらも旅人を飽きさせない楽しい散策だった。もう少し花の多い時期にもう一度登ってみたい。
p194 常陸風土記:元明天皇の詔[1]によって編纂が命じられた。常陸国風土記は、この詔に応じて令規定の上申文書形式(解文)で報告された。その冒頭文言は、「常陸の国の司(つかさ)、解(げ)す、古老(ふるおきな)の相伝ふる旧聞(ふること)を申す事」(原漢文)ではじまる。常陸の国司が古老から聴取したことを郡ごとにまとめ風土記を作成したもので、8世紀初頭の人々との生活の様子や認識が読み取れる形式となっている。記事は、新治・筑波・信太・茨城・行方・香島・那賀・久慈・多珂の9郡の立地説明や古老の話を基本にまとめている[2]。編纂者は不明で、現存テキストには「以下略之」など、省略したことを示す記述があることから、原本そのものの書写ではなく、抄出本の写本とも考えられる。 遣唐副使を務め、『懐風藻』に最多の漢詩を残す藤原宇合が常陸国国守であったことから、その編纂者に比定されることもある。 また、『万葉集』の巻6に、天平4年に宇合が西海道節度使に任じられたときの高橋虫麻呂の送別歌があり、巻9には、高橋虫麻呂の「筑波山の歌」があることから、風土記成立に2人が強く関与していると考える説がある(このことについては高橋虫麻呂を参照)。