冒頭の「礼文島から眺めた夕方の利尻岳の美しく烈しい姿を私は忘れることができない。海一つ距てて・・・・鋭い岩のそそり立つ形でそれは立っていた」という簡潔かつ的を得た感動表現が「日本百名山」における深田の技であり彼が追い求めた山岳文章の典型例ではなかろうか。
これに続く「島全体が一つの山を形成し、しかもその高さが1,700mもあるような山は日本には利尻岳以外にはない・・・・島全体が一つの頂点に引き絞られて天に向かって・・・こんな見事な海上の山は利尻岳だけである」という利尻岳評は最初の感動から冷静な観察者になり、感動の理由を分析してみせているのだが、感動を与えてくれるのは分析結果ではなく、やはり自分の目で見たそのものの姿である。
私の場合それは、長官山まで登って突然、正面に現われた白い鋭鋒の利尻岳であり、礼文島から見た、朝焼けに染まる利尻岳、そして海の上を行くフェリーの背後でもやに霞む幻想的な利尻岳であった。
この山のことが志賀重昂(しげたか)「日本風景論」や高頭式(しょく)「日本山岳志」に出ていないことを深田は「たいへん遺憾に思う」と書いているが、今はもう、少なくとも登山者でこの山を知らない人はいないだろうし、登山道も整備され、本やインターネットのガイドはそれこそ山のようにある。
私が登った時は2度とも快晴で風は弱く、頂上からのスキー滑走は忘れられぬ想い出になっている。
頂上からのスキー滑走は忘れられぬ想い出になっている尾根の少し左側を滑走したトレースが微かに見えている
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標高1,719mというのは利尻岳・北峰の夏道終点の標高で三角点と祠と頂上標識があるが、最高点は南峰1,721mである。深田は沓形から登って鬼脇に下るプランだったが、強風のため南峰には行かず、鴛泊に降りている。もし鬼脇の道(今は夏道はない)をたどっていれば、南峰1,721mにも登っていただろう。
冒頭の「礼文島から眺めた夕方の利尻岳の美しく烈しい姿を私は忘れることができない。海一つ距てて・・・・鋭い岩のそそり立つ形でそれは立っていた」という簡潔かつ的を得た感動表現が「日本百名山」における深田の技であり彼が追い求めた山岳文章の典型例ではなかろうか。これに続く「島全体が一つの山を形成し、しかもその高さが1,700mもあるような山は日本には利尻岳以外にはない・・・・島全体が一つの頂点に引き絞られて天に向かって・・・こんな見事な海上の山は利尻岳だけである」という利尻岳評は最初の感動から冷静な観察者になり、感動の理由を分析してみせているのだが、感動を与えてくれるのは分析結果ではなく、やはり自分の目で見たそのものの姿である。
私の場合それは、長官山まで登って突然、正面に現われた白い鋭鋒の利尻岳であり、礼文島から見た、朝焼けに染まる利尻岳、そして海の上を行くフェリーの背後でもやに霞む幻想的な利尻岳であった。この山のことが志賀重昂(しげたか)(*1)「日本風景論」や高頭式(しょく)(*2)「日本山岳志」に出ていないことを深田は「たいへん遺憾に思う」と書いているが、今はもう、少なくとも登山者でこの山を知らない人はいないだろうし、登山道も整備され、本やインターネットのガイドはそれこそ山のようにある。私が登った時は2度とも快晴で風は弱く、頂上からのスキー滑走は忘れられぬ想い出になっている。
(*1)志賀重昂(しげたか)「日本風景論」:初版は、1894年(明治27年)10月に政教社から刊行され、後に文武堂から刊行された。1902年(明治35年)まで増訂が繰り返されつつ、第14版まで至った。初版から第14版までは、青表紙の仮綴じで、木版風景画が折込で収められていた。1903年(明治36年)6月に刊行された第15版からは、クローズ版となった。その後、岩波書店から1937年(昭和12年)1月に小島烏水の解説をくわえたものが刊行され、1995年(平成7年)9月には近藤信行が校訂を加えたものが刊行された。
(*2)高頭式(しょく):高頭仁兵衛たかとうにへえ(1877―1958)登山家。新潟県深沢村生まれ。本名式(しょく)。東京で漢文を学び、1898年(明治31)富士山に登り、志賀重昂(しげたか)の『日本風景論』を読み、登山に意欲を燃やし、富士山、槍(やり)ヶ岳、木曽御嶽(きそおんたけ)など明治の登山の黎明(れいめい)期に多くの登山を行った。日本山岳会発足のときには財政面から強力な支持者となった。第2代日本山岳会会長、名誉会員。新潟県弥彦(やひこ)山頂には銅像がある。日本最初の山岳百科事典として知られる『日本山嶽志(さんがくし)』を著した。