この山には深田は何度も登っているはずだが、百名山の章のなかには登山記録は記載されていない。4ページの半分は「那須」という名前についての記述で、景行天皇の時代から那須国と呼ばれ、文武天皇のときに没した那須直韋提(なすのあたいいで)の国造碑は日本最古、源実朝の「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」の歌、殺生石にまつわる芭蕉の句(登山口のだいぶ手前にあるらしい殺生石には私は行ったことはない、機会があったら寄ってみよう)。
次は街道や汽車から眺める那須連峰。これは私も東北道から何度も眺め、深田の言う那須五岳(黒尾谷岳、南月山、茶臼岳、朝日岳、三本槍岳)には早い時期に順に登った。深田は那須には温泉が11(従来の那須七湯プラス4)もあると記しているが、今ではどれだけになってるだろう。
深田は触れていないが、那須連峰の西側にある流石山、大倉山、三倉山、そして北側の甲子山、旭岳もそれぞれに個性ある魅力をもっていて、これらの山に登った時の景観と感動も格別の想い出。
県道17のカーブを回り込んで行って、最後に現われたのが巨大な図体の茶臼岳。急峻な翼の朝日に対し、茶臼は分厚く豪快そのもの
朝日岳は中央の鋭い岩尾根の左右に急峻な谷が翼のように広がっていて、実に見事。自然美の極致の一つではなかろうか。
三本槍岳は、そのなだらかな姿は茶臼や朝日に比べるとやや平凡に思えるが、よく見ると西側にナギ斜面を落としていて、強烈なアクセントになっている。
青空が広がり、白く輝く鋭鋒まであと少し。しかし森林限界を越えてシュカブラ帯に入ると風が強くて煽られるので、ザックとスキーを400mほど手前にデポし、空身で頂上に向かう。ところがそこから少し登ると南峰1,710m頂上で、旭岳頂上の東側に気持ちよさそうな急傾斜の雪斜面が伸びているのが見えた。
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この山には深田は何度も登っているはずだが、百名山の章のなかには登山記録は記載されていない。4ページの半分は「那須」という名前についての記述で、景行天皇の時代から那須国と呼ばれ、文武天皇のときに没した那須直韋提(なすのあたいいで)の国造碑は日本最古、源実朝の「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」の歌、殺生石にまつわる芭蕉の句(登山口のだいぶ手前にあるらしい殺生石には私は行ったことはない、機会があったら寄ってみよう)。
次は街道や汽車から眺める那須連峰。これは私も東北道から何度も眺め、深田の言う那須五岳(黒尾谷岳、南月山、茶臼岳、朝日岳、三本槍岳)には早い時期に順に登った。深田は那須には温泉が11(従来の那須七湯プラス4)もあると記しているが、今ではどれだけになってるだろう。
深田は触れていないが、那須連峰の西側にある流石山、大倉山、三倉山、そして北側の甲子山、旭岳もそれぞれに個性ある魅力をもっていて、これらの山に登った時の景観と感動も格別の想い出。
県道17のカーブを回り込んで行って、最後に現われたのが巨大な図体の茶臼岳。急峻な翼の朝日に対し、茶臼は分厚く豪快そのもの
朝日岳は中央の鋭い岩尾根の左右に急峻な谷が翼のように広がっていて、実に見事。自然美の極致の一つではなかろうか。
三本槍岳は、そのなだらかな姿は茶臼や朝日に比べるとやや平凡に思えるが、よく見ると西側にナギ斜面を落としていて、強烈なアクセントになっている。
青空が広がり、白く輝く鋭鋒まであと少し。しかし森林限界を越えてシュカブラ帯に入ると風が強くて煽られるので、ザックとスキーを400mほど手前にデポし、空身で頂上に向かう。ところがそこから少し登ると南峰1,710m頂上で、旭岳頂上の東側に気持ちよさそうな急傾斜の雪斜面が伸びているのが見えた。
p114 那須直韋提:(なすのあたいいで)【那須国造碑】より、…栃木県那須郡湯津上村大字湯津上の笠石神社境内にある古碑で,700年(文武4)に没した那須直韋提(なすのあたいいで)の頌徳碑。長らく草むらの中に埋没していたが,1676年(延宝4)僧円順,庄屋大金重貞らによって発見され,83年(天和3)徳川光圀の知るところとなり世に現れた
p115 野を横に馬引き向けよほととぎす:この句は即興で詠まれたもので、馬の口を引く馬子への呼びかけとも、ホトトギスの鳴く方へと行ってみようという提案とも取れる句です。