1983年(2024年7月13日読了)
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これは朝鮮人小説家・李恢成の、生まれ故郷サハリンへの帰郷をつづる紀行文のようである。戦時中のサハリン=樺太に4~5万人もの朝鮮人が暮らしていたというのは知らなかったが、終戦によりサハリンの日本人(なんと、40万人もいたらしい)は順次「引き揚げ」ることができたが、朝鮮人は解放されたにもかかわらず、母国からも見放され、サハリンに取り残されたらしい。
「サハリンへの旅」は日本の文学雑誌「群像」に13回に渡って連載された。李氏の祖国を思う気持ち、離散家族たちの真実の描写は読むものの胸を打つ。なんとかして祖国の統合は実現してほしい。しかし年寄りたちには時間がない。せめて母国への帰国、家族たちとの再会だけでもできるようにしてほしい。これは今では、少しは改善されているのだろうか。李氏は作家の立場で、この祖国の問題を真剣に調査し、その解決策を探った。そして彼の心にはいつも文学があった。
巻末に李恢成の本が5冊、「またふたたびの道」「われら青春の途上にて」「約束の土地」「追放と自由」、「見果てぬ夢(全6冊)」、全て在日朝鮮人、帰化朝鮮人関係をテーマにしているようである。首尾一貫、頑固一徹、筋金入りの民族小説家のようである。
そして船はサハリンに近づく:「船舷右手前方にはっきりとサハリン島が見えた。西能登呂岬と昔いった島の鼻から白主(しらぬし)の地点をすでに航海していて、起伏の乏しい山の脊梁を持ったサハリン島が、船の進行方向にそって北へ伸びている。・・・・梯形をいくつも並べたように広がる山嶺にせよ、稜線にせよ、嶮しく海岸に落ち込んでいる絶壁にせよ、それらは晩秋の陽光を受けて焦げ茶色に溶けて遥かかなたにたたずんでいる・・・・・或る者は渡り、ある者は渡ることができなかった海であった・・・・」。
生まれ故郷の山の描写は実に見事:p60 「春風山・・・・この山と対面したとたん、私はまるで自分の秘密に出会ったような気持ちになった・・・この山は標高数百メートルにすぎず、山容も平凡である・・・・けれども私にとってこの春風山は一種の神秘を兼ね備えた山なのであった。この山が私の少年期を知っている・・・・」。
李恢成は3ページにわたり、腕白小僧だった当時を回顧するが、その回顧の中で二つの有名小説を連想している。一つは、自己主張するために大声で泣き喚いたことと、ギュンター・グラスの小説「ブリキの太鼓」(*5-1)。主人公の少年オスカルは異能力を身につけて、泣き叫びながら太鼓をたたくと周辺のガラスが割れたというからすさまじい。もう一つはサハリンの市場で徒党を組んでスリをやっていたソ連人の不良少年ステパンと、レールモントフの小説「現代の英雄」(*5-2)。ステパンは「豹のような野性的な眼をしていて、身のこなしはすばやく、おまけにサンボが強かった」という。レールモントフはたぶんこういう不良や一見して大悪人を、全く違う視点から見て、英雄に仕立て上げて描写したのであろう。
李氏の民族主義考察は「朝鮮人ならば誰しもが自分の故国に行ってみたいと思わない人はいないはずだ」というシンプルな言葉に集約される。各国に散らばる朝鮮人たちの生活水準や活躍状況を論じても、それは最終目標にはつながらない。民族統一こそが最終目標だ。しかし、高齢の海外在住朝鮮人には時間がない。彼等は祖国に帰国・移住できないとしても、一時旅行で訪問したいと思っている。しかし、この李氏の素朴で説得力のある言葉を実現するのは極めて難しい。それは南北に分かれた政権の問題である。
李氏は本書で韓国のことを平然と「ファシズム政権」と呼ぶ:「名だたる反共路線を敷き、光州事件を血のりで弾圧し、政敵や反体制主義者をごっそり監獄に押し込んでいて、アムネスティ・インターナショナルからも『人権白書』で非難されている」、一方、北朝鮮については「離散家族問題の人道主義的解決、面会や往来、書信交換などを、赤十字を通じて図るべき」と比較的穏当である。ここでは明確に書いていないが、韓国政府は信用できない、北朝鮮政府と赤十字などの第三者組織を通じて、海外在住朝鮮人、特に高齢者の帰国実現を図るべき、と言っているように思える。現在の韓国はどうだろう。
この日の朝10時、李氏は作家同盟サハリン支部を訪問している。ここで注目すべきは、まず李氏の尊敬する作家:「ドストエフスキイ・・・・大学の卒業論文にこの作家を選んだ日以来、・・・・この人から離れようとしては再び戻ってきていた」。そして数々のロシア作家たち:「ロシア系アメリカ人であるジョン・J・ステファンの『サハリン』、ギリヤーク(*11-1)出身の詩人ウラジミール・サンギ、ワレンチン・ラスプーチンの『フランス語の授業』、エヴァゲーニャ・ギンズブルグ『明るい夜暗い昼』、叙情詩人エセーニン(*11-2)」。当時のロシア作家、ソルジェニーツィンやショーロホフは国家の弾圧に苦しんでいたらしい。
もう一つ、李氏が語るのは朝鮮民族自身の問題:p342「ロシア人はやることが大まか・・・・日本人は・・・立派なものをつくる・・・・力を合わせるしな。一番駄目なのは朝鮮人だ。ウリたちは誰かが良くなるとすぐに足を引っ張る癖がある・・・この論評は取り立てて新しいものではない・・・・けれども現実をうがっている」。
p289 コルサコフ市とオホーツクの海をのぞむ海岸の湖:魚釣りにでかけた・・・行く先はなんとオホーツク海をのぞむ海岸の湖・・・山小舎に立ち寄ったとき、たまたま居合わせたコルサコフ市のロシア人労働者たちとの交歓は素朴で心暖まるものだった
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これは朝鮮人小説家・李恢成の、生まれ故郷サハリンへの帰郷をつづる紀行文のようである。戦時中のサハリン=樺太に4~5万人もの朝鮮人が暮らしていたというのは知らなかったが、終戦によりサハリンの日本人(なんと、40万人もいたらしい)は順次「引き揚げ」ることができたが、朝鮮人は解放されたにもかかわらず、母国からも見放され、サハリンに取り残されたらしい。日本政府はその後、経済大国となり、冷戦も終了した1995年から21年間にわたり、80億円以上を投じて在サハリン朝鮮人の帰国、旅費支援、永住支援を行っている。
李恢成氏は1947年に去ったサハリンを34年後の1981年に訪問しているのだが、この訪問はその10年後に始まる日本政府の在サハリン朝鮮人の帰国に大きな役割、きっかけを与えているに違いない。1章の冒頭では、サハリンの真岡(ホルムスク)から、日本人と偽り、親類縁者を残し、日本人の引揚船に乗って日本に向かうときの様子が淡々と語られる。父親はソ連の役人に賄賂を使って家族を助けたのだが、その中には祖父や祖母は含まれていなかった。無言で見送りに来ていた祖父の場面は緊張感に満ちている:「長兄がふいに『ハルベだ』と叫び声をあげた・・・・祖父がひっそりと立ち尽くしていた・・・やがて祖父はハンカチを取り出すと老眼鏡をずらし目頭を拭った・・・・父が声を絞って『見るな』と短く命令した・・・」。
そこから34年後に一気にパンする。祖父はもう死に、祖母は85歳、李氏は手紙をやりとりしていて、「今年はなんとか行けると思います」と毎年書いていたらしい。この年、李氏は「サハリン墓参団を取材したドキュメント」を三つ見ている。「こういう番組になると、小学二年生の末の息子は途中で画像から目を離し、父親の顔付を無心に見つめはじめる。判で押したようにきまっている涙もろい父親の表情を確かめるためなのだ」とぼかした書き方をしているが、実はこの故郷の実映像は相当に強力な影響であったに違いない。だから、李氏はそれまでの努力は他人まかせであったと反省し、自ら駐日ソ連大使館に出かける。ここで李氏が日本社会党川村清一議員の力を借りているのは、たぶんソ連との関係は自民党よりも社会党の方がパイプが太いということが理由のようだ。川村議員もサハリン生まれで、樺太公立真岡第一小学校の大先輩というから、世の中は案外狭い。
このあたりからは深田久弥のヒマラヤ遠征のときの雰囲気になり、李氏はパスポートとビザ(出国許可、入国許可)、日程検討、費用負担などに奔走し、そのために数多くの友人知人に頼り、人の名前や様々なトラブル、日付と進展状況が文面を埋める。こういうのは、最終的に成功したから、その後に整理してうまく進んでいるように見えるのであって、どこかで引っかかればそこで終わりになっていただろう。もちろん最大のハードルはパスポートとビザ。李氏は「日本文芸家協会」のメンバーとして9年前の1972年にソ連作家同盟の招待を受けたが、朝鮮国籍のために日本の再入国許可を得られなかったという。
今回最初で最大のハードルはソ連のビザだったようで、李氏は大使館に6月30日に最初に訪問してから数ヶ月待たされ、諦めかけた9月8日に了解の電話が来た:「『モスクヴァは李さんのソ連招待に賛成します。どうぞいらしてください』参事官は晴れ晴れとした口調でそう言った。その話し方はちょうど大相撲の千秋楽で優勝した力士に賞状を読んでいる欧米人のそれに似てぎこちなかった・・・・『ありがとうございます』私は、努めて感情を抑え、げじげじ眉の下でよく動く外交官の愛嬌のある眼を思い浮かべつつそのように答えた・・・・・それからの毎日は戦争であった」。たった2ヶ月だから大したことはないような気がするが、本人にとっては長かったのだろう。
この間のページを埋めるため、李氏はいくつかのエピソードを書いている。反戦平和の集会で自作「証人のいない光景」の一節を読んだこと、数学者・福富節男氏がサハリン豊原(ユジノサハリンスク)出身であったこと、「故郷」と「祖国」の違い:「『祖国』は各国人にとって固有のものであるが・・・『故郷』は各国人が共有できるものであった方がよい・・・・・」。2週間という期限の間に最初はモスクワ、カザフ(ここにも韓国人が多いらしい)、サハリンを回ろうとしたが時間も金も足りないので、サハリンに絞る。息子三人のうち末っ子と、妻との三人:「私は自分の息子に『曾祖母』という人間がこの世にれっきとしていることを教えておきたい・・・・沢山の親類がいることや、そればかりか自分と同い年の子供がごろごろしているという驚くべき事実を見せておきたい」。移動手段は飛行機(新潟からハバロフスク、ユージノ・サハリンスク)ではなく、稚内港からの第一宗谷丸(日本社会党北海道本部がサハリンに赴く日本人墓参団のためにチャーターした汽船)。再入国許可というのは池袋サンシャインビル6階の出入国管理局で申請。そして最後にソ連のビザ(入国査証)は9月28日。李氏は家族三人で、(依怙贔屓だと感じている二人の息子を残し)三鷹を発つ。
p5 終戦後、サハリンには40万人の日本人が存在した。ほとんどの日本人は段階的に引き上げていったが、当時、日本の統治下であった朝鮮半島の朝鮮人も、約4万〜5万人が住んでいた。だが敗戦後、サハリンの朝鮮人は日本国籍から除外され、3万人ほどが取り残されたという。 最近、サハリン韓人協会およびサハリン州韓人離散家族協会などサハリンの韓国人団体が日本政府に対して、サハリン残留韓国人が韓国に帰国して永住するのに必要な費用を負担するよう要求した。 この事実は、サハリンの韓国人団体が日本政府へのさまざまな要求内容を含んだ決議文を日本赤十字社に送付したという、7月4日の韓国マスコミ報道を通じて広く知られるようになった。 多くの韓国人は今日、サハリン残留韓国人について、次のように認識している。「日帝時代、5万人の朝鮮人が日本によってサハリンに連れて行かれ、炭鉱と軍需工場で働いた。日本敗戦後、彼らは帰国することができなくなり、そのまま残された」 このような認識をベースに、日本政府と韓国政府は、1994年に「サハリン韓国人永住帰国事業」を推進することに合意した。この合意によって、日本政府は1995年から2015年までの21年間、サハリン残留韓国人が韓国に帰国して永住を希望する場合、その必要経費を全面的に負担した。 日本政府がサハリン残留韓国人の永住帰国のために支援した内容は多様だった。サハリン残留韓国人の帰国のための旅費を支援しただけでなく、韓国に居住するのに必要な高層マンションも建設している。 高層マンションは「故郷の村」という名称で、2000年当時、30億円に上る日本政府の支援金が投入され、京畿道安山に建設された。 帰国を願わないサハリン残留韓国人が韓国への訪問を希望する場合には、航空料や貸切バスの利用料など、旅費と宿泊にまつわる各種便宜(宿泊用会館の建設)まで支援した。その結果、親戚との面会を口実に、サハリンと韓国を何度も往復することが可能だった。もちろん、日本政府の負担である。 身体が不自由な場合は、利用する施設と看護ヘルパー費用まで日本政府が支援した。 こういった活動に投入された日本政府の支援金は80億円以上になる。おかげで、21年間で約4500人のサハリン残留韓国人が韓国に永住帰国した。そのうちの約2800人は、現在も韓国に暮らしている。(JBpress)
p11 嚆矢(こうし):1 《「嚆」は叫び呼ぶ意》かぶら矢。2 《昔、中国で戦いを始めるとき、敵陣に向かって1を射たところから》物事のはじまり。最初。「二葉亭の『浮雲』をもって日本近代小説の—とする」
p12 訃報(ふほう)
p13 昵懇(じっこん)
p17 忖度:他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること
p17 見るべきほどのことは見つ:- 自分の人生で、味わわなければならないものはすべて味わい尽くしたという、突き詰めた心境を表すことば 。平知盛 ・最期の言葉. 自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にしたとも
p19 慫慂(しょうよう):そうするように誘って、しきりに勧めること。
p26 依怙贔屓(えこひいき)
李氏はまず札幌に住んでいる兄弟と義母を訪ね、それから稚内に行って船に乗る。ここは前章とは異なり、李氏の昔話、生い立ちが語られる。それは、この作家の柔らかな心温まる作風からはまるでかけ離れた、驚愕と驚異に満ちた波乱万丈の人生。驚いた。
それらの前に李氏は当時、1988年のソウル・オリンピック開催が決まったことに触れ、「ちっとも嬉しい気持ちがしなかった」と書いている。当時は南北朝鮮が対峙し「我が民族は分断二国家の支配の下で常に星のつぶしあいのようなことばかり強いられて」いる一方、韓国では金大中氏はじめ人権抑圧が行われていたからと語る:「民主主義と人権抑圧のこと・・・金大中氏・・・詩人の高銀氏・・・徐俊植氏・・・」。最初に語られる家族は義姉トヨ子と義母。実母が死んだとき、義母はトヨ子を連れて嫁いできたが、トヨ子の母親ではないらしい。このとき李氏はトヨ子の素性を義母に尋ねているが、直接聞いてくれと断わられている。父親は祖父母とトヨ子を残し、子供5人と義母を連れてサハリンを出たようだ。祖父母が残ったのは「狂暴な」父とは暮らしたくなかったから、というのが真実らしい。実母が死んだとき、祖父気絶した後に父に殴りかかったというから、実母の死に父も関与していたのかもしれない。この先、李氏が祖母と義姉トヨ子に会えば、それは李氏の人生の謎を辿る旅になりそうだ。
「九人の電話交換手」というのは、ソ連が真岡に上陸したときに青酸カリを飲んで自殺した「うら若い女性たち」で、稚内市の北方記念館にコーナーがあり、石碑と碑文も立っているらしい。私は稚内に二度行ったが、残念ながら見逃している。
そして船はサハリンに近づく:「船舷右手前方にはっきりとサハリン島が見えた。西能登呂岬と昔いった島の鼻から白主(しらぬし)の地点をすでに航海していて、起伏の乏しい山の脊梁を持ったサハリン島が、船の進行方向にそって北へ伸びている。・・・・梯形をいくつも並べたように広がる山嶺にせよ、稜線にせよ、嶮しく海岸に落ち込んでいる絶壁にせよ、それらは晩秋の陽光を受けて焦げ茶色に溶けて遥かかなたにたたずんでいる・・・・・或る者は渡り、ある者は渡ることができなかった海であった・・・・」。「小さな連絡船、第一宗谷丸は総トン数わずか537トンしかない・・・・白竜丸は排水量がたしか2,000トンくらいの引揚船であった。もしかしたら3,000トンに近かったかもしれない」。こんなふうに、旅が進行する様子や風景を語る合間に、作者の頭に浮かんだことが順不同に語られていくようだ。
(p44)サハリンの真岡(ホルムスク)の港に着き、上陸する前に第一宗谷丸は港に投錨してソ連側の審査を受ける。李氏はここで、他国民間に存在する感情的な差別用語の存在、逆に異なる民族でも故郷を失った者同士の共感を語る。ずいぶんナイーブな話に思えるが、船底の食堂でソ連の女性審査官(英語を話す)にパスポートならぬ証明書を出した時の様子とその背景を読んで、納得した:p51 「一回限りのトランジットビザ(通過査証)・・・いずれかの国籍を有する者が普通所持しているパスポート(旅券)とは本質的に異なっている。・・・日本国政府が朝鮮民主主義人民共和国との間に国交を開いていない・・・・一般に朝鮮国籍をもつ者は、日本国が北朝鮮との国交を持たぬ以上、国家を持つ公民として処遇されない。・・・・国家が身の安全を保障する旅券ではなく、日本法務省の入国管理局長の判が押された証明書を所持しているにすぎなかった・・・・単なる難民にすぎない・・・」。
難民というのはあんまりだが、1948年に韓国が独立してから、在日朝鮮人は韓国国籍に変更することが可能になっているはずであり、そうすれば韓国大使館から韓国のパスポートを貰えるはずなのに、なぜ李氏はそうしないのだろう? たぶん、2章冒頭で述べていたソウル・オリンピックを素直に喜べない気持ち、当時の韓国政府に対する不信感のためだろう。
船底食堂にはソ連作家連盟の人が二人(サハリン州の作家連盟書紀ベロウソフ・エミリヤノヴィッチと「レーニンへの道」新聞社の報道部長ハン・クムソプ)いて、クムソプ氏は「鉛のきつい朝鮮語」で通訳してくれた。彼は李氏を「李同務(トンム)」と呼んでいるが、これが本名? もう二つ、李氏は差別について語る。一つはクムソプ氏に「小説を朝鮮語で書いているのか、それとも日本語・・・?」と問われた時、「この質問はいつ聞いても肺腑をえぐる力をもっている」という箇所、「こんな場面を以前どこかで体験した」というのがもう一つで、それは韓国を旅行したとき、「同じ民族でありながらも『本土育ち(ポントベキ)』と『在日(ジェイル)』との間に存在する境遇の違いや感覚のずれが相互理解を妨げる別の原因となり、距離を作っていた」という箇所。思うにこういう差別感覚は100%主観的なもので、社会弱者やハンディキャップ者に対するその他大勢の通常生活者の同情と気遣いを求めるものに外ならないと思う。それとも、このサハリン旅行を機に感覚を修正していくのだろうか。
こういう本筋の合間に、サハリンの情景描写や昔の思い出などが、間欠泉のように挟まれる:「人間は自分の生涯のうちに何回か忘れがたい光景に出合うことがある。私が生まれ故郷の『真岡』いまのホルムスクを船上から眺めたときはおそらく私自身の人生におけるそういう稀有の体験に数えられてよい場面に違いなかった・・・・前方に点滅する明かりが次第に大きくなってくるのを眺めていて、名状しがたい感動を味わった。それは目が痛いような光景でもあった」「ガヤは雑魚であった。全長10㎝そこらのこの焦げ茶色の小魚は夏場になると防波堤べりに群れをなして寄ってきた・・・・私はガヤをバケツに一杯釣って帰った。すると母が大袈裟によろこび腕をふるって食卓に飾ってくれるのだった」「沿岸警備隊らしい兵士たち・・・モスグリーンの外套や軍帽は夜光灯に映えてあざやか・・・昔よく見かけた泥臭いルパーシカを着てゲートルを短く巻いたソ連軍人・・・とは似ても似つかなかった」。
こんなにナイーブなのに、李氏は証明書の行先(ホルムスクとユジノシャリンスク)に記載できなかったドーリンスクとチェホフにも行きたいと作家同盟のクムゾフ氏に頼む。即答は得られなかったが、扉の地図にどちらも記載してあるので、たぶん行くことができるのだろう。カリーリノというのには、別の用事で行くのだろうか。
p49 癒された(いやされた)
p52 在日コリアンについて:現在、日本には在日韓国人・在日朝鮮人(在日コリアン)が約32万人にいます。そのうち、国籍が「韓国」となっている人が約29万人、国籍が「朝鮮」となっている人が約3万人います。 1948年8月15日に韓国が独立(建国)しました。そして、1950年(昭和25年)以降、本人の希望があった場合は、日本における外国人登録上の国籍を「朝鮮」から「韓国」へ変更することができるようになりました。その際に「朝鮮」から「韓国」へ国籍欄を変更した朝鮮人やその子孫たちは国籍欄が「韓国」となり、逆に変更せずにいた朝鮮人やその子孫たちは国籍欄が「朝鮮」のまま現在に至っています。 国籍が「韓国」の在日韓国人が海外旅行に行く場合、日本にある駐日韓国大使館・総領事館でパスポートを発行してもらうことができます。しかし、国籍が「朝鮮」の在日朝鮮人の場合は、当然ですが、駐日韓国大使館・総領事館でパスポートを発行してもらうことができません。そのため、海外旅行に行く場合は、出入国在留管理局(法務省)でパスポートによく似た「再入国許可書」を発行してもらうことができます。
p53 烟らす(けむらす)
生まれ故郷の山の描写は実に見事:p60 「春風山・・・・この山と対面したとたん、私はまるで自分の秘密に出会ったような気持ちになった・・・この山は標高数百メートルにすぎず、山容も平凡である・・・・けれども私にとってこの春風山は一種の神秘を兼ね備えた山なのであった。この山が私の少年期を知っている・・・・」。
私にはこういう山は三つある(岡山に来たから、もしかすると四つに増えるかもしれない)。李氏は次に学生の頃に古本屋で買って読んだロシア小説について語る。サハリンについて書いてあるから買ったのだが、その小説はジダーノフ批判という、社会主義支援の観点から書かれたもので、「他民族の姿を単純化したり卑小化」していて、「疎外感と違和感」を感じた。しかし、再訪したサハリンはそれを上回って大きく変貌していた:p64 「『高層団地の群』・・・・団地は山を削り、段丘をつくり、つまり自然もつくり変えながら、林立している・・・・・とにかく、サハリンは大きく変貌し、朝焼けと共に私の目の前にゆうゆうとその全貌を見せていた」。
p62 ジダーノフ主義:ジダーノフ批判は、1948年2月10日に公にされた、ソビエト連邦共産党中央委員会による文化、芸術に対するイデオロギーの統制である。この批判を推し進めた人物、中央委員会書記アンドレイ・ジダーノフにちなむ。1958年5月28日に宣言が解除されるまでの10年間について、旧ソ連では俗に「ジダーノフシナ」として知られている。
(p64)李恢成はサハリンに30年ぶりに上陸し、祖母や義姉はじめ、30年ぶりに肉親や親戚たちに再会を果たす。この場面こそが、この本の核心なのかもしれない。だがまだほんの初めの部分だ。上陸する前の不思議な感覚を李氏は数ページにわたって書いている。それは一種の不安感:「祖母たち一族との再会の刻がもはや動かしがたいものとして迫ってくるにつれ、その瞬間を誰にも見られたくないとひそかに思い始めていた」。「再従弟のブースの母親がなぜ自殺したのか」というのも突然出てくるが、この再従弟はタシケントに住んでいるので会うことはない。
そして李氏は、日本人訪問団のバスとは別に用意された黒塗りのヴォルガに乗り、サハリンホテルの玄関口で、2時間も待っていたという祖母やトヨ子に会う。ここの表記もかなり混乱しているが、感動が爆発したのであろう:「その二人の顔を見ると、一人はまぎれもなく私の義姉のトヨ子であり、もう一人は私の義従妹にあたるフミ子らしかった。そして、その真ん中に支えられるようにして立っているしわばんだ皮膚をした老婆は私の祖母であった」。
なぜかは書いてないが、祖母は李氏のことを「フェソガ」と呼び、トヨ子は「フェソン」と呼ぶ。まあ、愛称なのだろう。トヨ子の娘のフミ子の方が裕福で、ソ連の「文化住宅」に住み、ジグリーという中級車に乗っている。その夜、その「文化住宅」に李氏と祖母一族、親戚や両親の親友が大勢、それにソ連のベロウソフ氏とハン氏が集まって歓迎会となる。宴たけなわの頃、李氏は彼と父親が祖母やトヨ子を捨てて日本に引き上げたことについて話し始める:「アボジ(義父)は罪を犯したんですよ」。祖母と祖父は父が再婚した義母との仲が悪かったから、捨ててきたわけではないと思うが、ここではそのことは語られず、義母とも仲の良かったトヨ子のことが最大の焦点となる。しかしトヨ子は「それは間違いだ・・・・あたしは・・・自分の意志で残ったんだ」と語る:「その言葉を聞いて私は胸がつまった」。どうやら、李氏の妹とトヨ子は当時、義母の取り合いをして喧嘩までしていたので、そんな争いごとをもっていきたくないということだろう。
もう一つ、李氏はこの日の昼間、墓参団と共にソ連の施設を儀礼訪問するのだが、そのときに中学校の頃の友人、朴享柱(パクヒョンジュ)(当時は福田享柱)に再会している(p79)。事前に手紙を書いておいたので、それでチェホフ市から出向いてきたらしい。朴氏はサハリンで幸福に暮らしている(李氏は日本で成功している)のに対し、李氏の従妹にあたる允成氏は北朝鮮に渡り、脳溢血で47歳で死んだことが話題になる。北朝鮮は暮らしやすくないらしい。一方、「サハリンでは、女性は50歳から定年で、120ルーブルの年金がもらえるんです」というのは朴氏の妻の話。
p67 「再従弟(またいとこ)に当たるブース」・・・・?
p72、73 「『フェソガ』『フェソン』・・・・・私の名前」
p83 ニコヨン生活:「二個四」の意。昭和20年代の半ばに、失業対策事業に就労して職業安定所からもらう日給が240円だったところから》日雇労働者の俗称。
p85 タタール海:タタール海峡=間宮海峡
海の見える丘には祖父の墓があり、李恢成は親戚一同と共に墓参に行く。その前の夜、彼は記憶が鮮明なうちにその日の出来事のメモをとる:p96 「それらの出来事を克明にしるしながら私は時折ペンを休めねばならなかった。酒気を帯びているためになおのこと感情が昂揚し涙が出そうになるのを抑えねばならなかった。私は自分がいつのまにか唸り声をあげているのに気づいた」。
翌朝、親戚一行がやってくるのを待っている間、妻と息子は外で切手を買ってきた:p99 「人工衛星の打ち上げ場面を印刷した四つ折りの切手ブックを子供は手にしていた。開いてみるとそこにはガガーリン少佐の顔写真を刷った切手も入っていた。人類の夢を乗せて世界で初めて宇宙を飛んだこの宇宙飛行士は輝かしい表情で切手に納まっている」。
やってきた富山さんや親戚一行はジグリとモスコビッチ、李恢成家族とハン氏、ベロウソフ氏はヴォルガ2台に乗り込み、墓地を目指す。途中で朝鮮人のバザール(自由市場)を通過したとき、李恢成は平壌家のおふくろのことを思い出す。平壌家の親爺は親分肌で、無聊な雰囲気の食いはぐれ朝鮮人の面倒を見ていた。彼等の挨拶の口上は「香具師(博徒)の口上」そっくりだったという。墓のある海の見える丘にやってくると、ロシア人は車に残り、親戚一同が丘の頂上を目指す。一番高いところに祖父の墓があるのは、祖父が望んだから。そして84歳の祖母が先頭を切って登っていく。祖父の墓に着き、親戚たちが墓参し、供え物をしている間、祖母はずっと哭き続けた:「祖母が哭き始めた。私の動作につれて、それに合わすようなリズムで哭くのである・・・・・けっして身も世も無く嘆き悲しむのではなく、こんなときのしきたり通りに感情移入しているのである」。このとき祖母は「フェンソイのいたずらっ子」李恢成を呼ぶ。彼は祖父が漢書をよく読んでいたのを覚えているが、どんな本だったのか記憶がない。ありそうなものとして例示される「土亭秘訣」は占いの本、「三国遺事」は13世紀後半というから、たぶん高麗から朝鮮への禅譲(李成桂)、「沈清伝」:孝女を主題とした朝鮮李朝後期の古典小説。
そして海の見える丘に後からやってきたのはノブ子という平壌家のおふくろの娘で、李恢成の幼友達だった:「フェンソイのとこにお嫁に行くって言っては母さんを困らせた・・・」。なんとも、いろんなことが起こるものだ。
p99 富山さん・・・・・たぶんトヨ子の夫、李恢成のチョナム(妻男、妻の兄弟)。トヨ子の娘がスンクム、その息子がアンドレイ(p104)。フミ子は祖母の実の一人息子の娘(p105)
p101 無聊(ぶりょう):① 心配事があって気が晴れないこと。また、そのさま。 ... ② することがなく退屈であること。つれづれなこと。また、そのさま
p101 香具師の口上:博徒・香具師(やし)などの初対面の挨拶(あいさつ)をさす。 その挨拶を互いに行うことを「仁義を切る」という。 口上(こうじょう)として、いろいろな文句がみられるが「お控えなさい」ということばをしばしば述べることは共通している。 前口上をいったあと、たとえば「手前生国(しょうこく)と発しまするは江戸にござんす。
p103 碧青(へきせい)
p106 叩頭(こうとう):頭を地につけておじぎすること。
p106 「フェンソイのいたずらっ子」と祖母は李恢成を呼ぶ(p72、73では 『フェソガ』『フェソン』)。そして祖父のことはアイゴ(父さん)もしくはヨンカム(令監)
p110 「土亭秘訣」:朝鮮時代の学者、土亭(トジョン)イ・ジハム(李之咸)が考案した占いで、生年月日から該当の年、月の運勢や吉凶を判断します。
p110 『三国遺事』:13世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた私撰の史書。大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃であり、一然の没後に弟子の無極が補筆・署名し、刊行されたと見られる
p110 「沈清伝」:孝女を主題とした朝鮮李朝後期の古典小説。元はパンソリなどで語り継がれていたものを、18世紀末頃に小説として成立したと考えられるが、作者不明。
p110 甲申政変:1884年12月4日に朝鮮で起こった独立党によるクーデター。親清派勢力の一掃を図り、日本の援助で王宮を占領し新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。(wikipedia) 所謂甲申の変(甲申政変)は金玉均、朴泳孝等の朝鮮独立党の志士が、一部在鮮日本人とも連携して、政権を奪取. し、改革の目的を達成しようとする義挙であった。(早稲田大学リポジトリ)
p114 ノブ子・・・・平壌家のおふくろの娘・・・・「平壌家・・家の中にはいつも食いはぐれた朝鮮人がゴロゴロしていた」p101
(p116)李恢成はサハリンに住む朝鮮人の親戚に取り囲まれ、祖父の墓で楽しい時を過ごす:116「思わぬノブ子の出現によって私の旧悪は露呈されることになった。とんだ災難だ。それなのにこれはなんと楽しい罪の開示であろう。私は、良心の呵責などちっとも感じていないばかりか昔がひどくなつかしく思われるほどだった」。ソ連人が待っているので、一行は墓の丘を下るが、そのとき李恢成はもう一つの在サハリン朝鮮人の実情を知る。義姉夫婦は朝鮮国籍なので自由にサハリン内を移動できない。ユージノ・サハリンスクからホルムスクに来るのにも許可がいる。一方、娘のスンクム夫婦の方はソ連国籍なので、自由に移動できるのだ。
李氏は自宅跡に向かう。姉夫の富山さんは許可のないところに行くのをためらったが、ベロウソフ氏が良いと言ってくれたので皆、ついてきた。だが、鉄柵が設けられていて、自宅跡には近づけなかった:「朝鮮国籍や無国籍お朝鮮人が入ることの出来ない立入禁止区域・・・とくにこのころ激しくなっているレーガン政権の好戦的な政策を考えてみれば、ソ連人が神経をピリピリさせているのは理解できる(p125)」。
この後、李恢成は3ページにわたり、腕白小僧だった当時を回顧するが、その回顧の中で二つの有名小説を連想している。一つは、自己主張するために大声で泣き喚いたことと、ギュンター・グラスの小説「ブリキの太鼓」(*5-1)。主人公の少年オスカルは異能力を身につけて、泣き叫びながら太鼓をたたくと周辺のガラスが割れたというからすさまじい。もう一つはサハリンの市場で徒党を組んでスリをやっていたソ連人の不良少年ステパンと、レールモントフの小説「現代の英雄」(*5-2)。ステパンは「豹のような野性的な眼をしていて、身のこなしはすばやく、おまけにサンボが強かった」という。レールモントフはたぶんこういう不良や一見して大悪人を、全く違う視点から見て、英雄に仕立て上げて描写したのであろう。
さて、ここで李恢成は祖母たちといったん分かれ、二人のソ連人と共にボルガ2台でチェホフ(旧野田)に向かう。アントン・パーブロビッチ・チェホフの名がつけられた理由は不明だが、李恢成は「街路の白樺や街のたたずまいはなぜかチェホフの戯曲の世界を連想させてくれた」と語る。私はチェホフの戯曲を読んだことなどないので分からない。朴亭柱氏(p79)は団地の3階の大きな居間のある部屋に住んでいた。ずいぶん裕福らしい。彼は流暢なロシア語でベロウソフ氏に話しかけ、3人の子供たち(20歳の長男、細面の美しい長女ターニャ、可愛い三女のジェーニャ)を李氏に紹介する。朴氏は、李恢成が文芸春秋に寄稿した朝鮮に関する文章に異論があるらしい:p133「その文章とは、1972年6月に私が韓国を2週間訪問したあと、『文芸春秋』誌に書いた『北であれ南であれわが祖国』というエッセー」。これが次の主題になるのだろう。
p122 富山さん・・・・トヨ子の夫だから姉夫(p99)
p126 こましゃくれる: 子どもが、おとなびたこざかしい言動をする。 子どもがませた様子をする。 こまさくれる。
(*5-1)p126 ブリキの太鼓:1959年に発表された、ギュンター・グラスの処女作である。1927年、ダンツィヒ(現在のポーランド領ダグニスク)に誕生した作者の自伝的要素が強く、後の『猫と鼠』、『犬の年』と合わせて「ダンツィヒ3部作」と呼称されている。ダンツィヒは、第一次世界大戦以後、ドイツから分離され、国際連盟の管轄下にあった国際都市であり、ロシア人、ドイツ人、ポーランド人、そしてさまざまな少数民族の混在する自由都市であった。グラスはドイツ人の父と少数民族の一つ、カシューブ人の母を持ち、親戚にはポーランド人が多かった。この生い立ちは主人公オスカル・マツェラートにそのまま踏襲されている。発表当時には、人物造形、難解な構成、性を含むグロテスクな描写などの要素から、ドイツの文壇では否定的な見解が多かったが、その後見直され、海外における評価が高まるとともに、1999年のノーベル文学賞受賞後は、グラスの文学的な出発点として、さまざまな側面から分析されている。異能者としてのオスカルは、太鼓とともに「大声を上げると、どんな高価なものでも粉々になってしまう」能力を手に入れる。この力は太鼓を奪われるという危機に、無意識の防衛規制の形で初めて発現し、当初は「正当防衛」としてのみ発揮されるのであるが、やがて、自分の行動を阻害する存在への意識的な抵抗、自分の忌避する存在への意図的な暴力へと変質し、ガラス窓を初めとし、花瓶や時計、果ては建造物の一部すら破壊の対象とする「破壊する仕事」へとエスカレートしていく。(DNF障害保健福祉研究システム)
p128 首魁(しゅかい)1.悪事・謀叛(むほん)などをたくらむ中心人物。首謀者。張本人。2.さきがけ。
(*5-2)p128 現代の英雄:帝政ロシアの詩人ミハイル・レールモントフが1840年に発表した中編小説。レールモントフの代表作であるのみならず、その端正な上質の文体は、近代ロシア文学においてロシア語文章語を本格的に確立した作品として、プーシキン後期の作品群と共に高く評価されている。 ウィキペディア
p132 朴享柱(パクヒョンジュ)・・・・・(p79)中学校の頃の友人、朴享柱(パクヒョンジュ)(当時は福田享柱)
p135 柾葺き(まさぶき)の屋根:昭和の初め頃まで使われ、木を薄い板にして屋根に張ったもの。
p135 容喙:(ようかい)横から差し出ぐちをすること。「他人が―すべきことではない」
(p136)ベロウソフ氏らが去り、朴享柱氏はおしゃべりな妻を黙らせて、李氏と朴氏は二人きりになる。サハリンに住んできたとき兄のように慕っていたという朴氏に対し、李氏は、サハリンから家族が引き上げるとき、トヨ子を置いていったことについて疑問を感じ、子供であったとはいえ、「共犯者のはしくれ」と感じているという心境を語る。すると朴氏は、そのときは私も若かったが、「これが人間のすることか」と腹が立ったと語る。二人は素直に、腹を割って話し始めたのだ。朴氏は李氏を散歩に連れ出すところで、この章は終わる。限りなくナイーブな世界。これでは感情が溢れて、身が持たないだろう。
p137 「ロシアの古いことわざに、敷居越しの挨拶は訣別を意味する・・・」
李氏と朴氏は家族たちも連れて一緒に散歩にでる。川にたむろしていた少年たちを朴氏がロシア語で諫めたのは、彼らが禁止されている秋味(鮭)を採っていたから。そして、p145から話は李氏が文芸春秋に書いた「北であれ南であれわが祖国」となる。このエッセイを読んだ朴氏が失望したのは、朴氏が北朝鮮へのサハリン朝鮮人帰国に深く関与していたこと、1959年と1971年に北朝鮮に行き、その変わりように驚いたことに起因していた:p147 「彼はナホトカ(*)にある北朝鮮領事館と連携をたもち、この帰国運動に積極的にたずさわった。このときサハリンから約千名の朝鮮人が帰国している・・・・・しかし、数年経ってみると、豆満江を越えて逃げてくる青年たちが現われた。豆満江はソ連領と中国領に隣接している朝鮮の・・・・最北端の河である・・・・向こう岸から撃たれて死んだ者もいる・・・・・このような事実が重なったことが、朴享柱氏の北朝鮮離れを促進させた一因・・・・」。
つまり、南北共に評価している李氏とは異なり、朴氏は北朝鮮に幻滅してたのだ。しかし、李氏の考え、エッセイの本質はそんな北か南かというものではない。p149「私は南北のいずれかの体制に依存することで、その権力の意志を代弁するような丸抱えの文学者にはなるまいと思っている・・・・・ある時期から私は、現在、朝鮮半島に存在する二つの政治的国家に対していずれかを選択するといった二分法的な思考には立たず、逆に分断が強いたこういう思考形式の枠をこえていくことが今日、朝鮮人に求められている政治的想像力であると考えるようになった」。
それを朴氏に分かってもらうため、李氏は当時行われていた「樺太裁判」について語る:p152 「樺太裁判・・・・サハリンに住む朝鮮人三名を『原告』とし、日本政府を『被告』として1975年末に始まり・・・・『原告』の法的地位は南樺太に連行された当時明らかに『日本国籍』を有していて、その後サハリンではいかなる国の国籍も取得していないのであるから、法律的には日本人である・・・・・いうまでもなく、朝鮮人は1945年8月15日のあの日、日本帝国主義の支配から政治的に解放されたのであった。・・・・明らかにこの日を民族解放と独立の日として記憶している・・・・・根本的な認識として重要なことは、朝鮮人は民族的に独立したということである」p154「ところが、『裁判』を進める人間は・・・・・『原告』ら朝鮮人を・・・・日本人として『日本国』に帰国させようと日本政府に要求しているのである。これは、いったい、正気の沙汰なのであろうか」。
この文章はおそらく李恢成氏の思想、考え方の本質であろう。彼は南、韓国政権をファシズムと呼び、資本主義よりも社会主義に希望を持っているように思える:p148「在日朝鮮人による帰国運動が始まったとき、私はまだ大学生であったが、私もまた熱心にこの運動に携わっていった。それは資本主義国から社会主義国への集団的移動という世界史的に見ても大きな意義を持つ出来事であった・・・・・けれども、この運動を最上部で推進した者は、むやみやたらにバラ色の宣伝文句をばらまき、帰国者の幻想を引き出すきたいがあった」。
しかし、彼が住んでいるのは日本であり、彼の考え方、生活様式には(もちろん軍国主義ではない)日本の影響があるように思える。問題は、彼の思想は正論であるが、ダイナミズムを持たない、人や国を動かすテコもパワーも無いということか。さて、本書の残り半分で、李恢成は何を見て、何を思うのだろう。結局のところ、2024年時点でも南北朝鮮の統一は実現していない。
p144 秋味:鮭は一年中出回っていますが、産卵のため川を遡上する秋が旬です。この産卵前の脂がのった鮭を「秋味(あきあじ)」といいます
p145 言を俟(ま)たない:わかりきったことで、あらためて言うまでもない。
(*)ナホトカ:1991年末にソ連邦が解体し、ロシア連邦が誕生する前までは、ウラジオストクは軍港という理由で対外開放していませんでした。ですから、それ以前にシベリア横断鉄道でヨーロッパに行く人たちは、横浜からの定期船で結ばれたナホトカから上陸し、鉄道に乗っていました。年配の日本人の中にはナホトカを訪れた人たちも多いかもしれません。日本国総領事館も当時はナホトカにあったのです。とはいえ、現在では極東ロシアの中心都市はウラジオストクに移り、水産ビジネス関係の人たちを除くと、ナホトカを訪れる日本人は少ないといっていいでしょう。
(p155)李氏は「樺太裁判」を真っ向から否定する:p155 「あの『裁判』のリーダーたち・・・朴魯学という人物は・・・・悪く言うようだけど、日本人にすがって生きようとする植民地根性みたいなものやその裏返しの事大的(p155 事大的:自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度・考え方。 )なものを僕は感じる・・・」。
だが、李氏の政治的分断を越えた民族主義の論理は、観念的理想であって具体的実現性に欠けるようだ。「アハン」と相槌をうっていた朴享柱氏は実情を語る:p156「朴魯学・・・・今じゃ虚称英雄(ホチンヨンウン)ということになっちゃってるよ・・・・・『帰国運動』とはいうが、こちらでこう長く暮らしていると生活基盤ができてしまい、今更南鮮に帰るという訳にはいかなくなっている。日本に定住するのも同じこと・・・・・子供たちはロシア語しか知らず、生活の習慣や文化が違うんだから・・・・それで、今人々が願っているのは自分の生まれ故郷に行ってみたい、ということなんだ。日本にいる親戚にも会ってみたい・・・・・できるなら、その日が早くやってきてほしい」。これが朝鮮民族の置かれた真の境遇の一面であろう。
さっきまで民族主義の理想を語っていた李氏は突然、それとはかけ離れた実情を語る:「この話は・・・・在日韓国人、朝鮮人の生活状況とも共通している・・・・二、三世の間で日本に同化していく傾向が強くなっている・・・・この『祖国離れ』の現象は・・・・若い世代が日本の文化の影響をモロにかぶっているせいでもあるが、・・・そういう青年から見れば、祖国こそ自分にとって異質の存在であり、文化にしても同化しがたいものであるという言い分になってくる」。これでは、朝鮮人の祖国統一はおろか、世界に散らばった朝鮮人たちの帰国は(親戚訪問、墓参を除き)不要・無用となり、現状容認ということになってくる。
それを打破する糸口を李氏は探す:p158「私の息子は当然ながらロシア語は一言も話せないし、ジェーニャのほうは日本語はわからない。それなのに、不思議な『子供語』を交わしながら楽しそうにもつれあってやってくる・・・・なんと平和で自然な姿だろう・・・・・・・それに比べると、私たち大人の話題は、そんなに篤い友情で結ばれていても、どこかに張りつめた緊張感があり、奇妙に暗いかげりがつきまとう感じがあった・・・・・外部から侵入してくる何かが私たちを邪魔している・・・・」。
朴氏宅に戻った李氏は、文太郎という同世代の朝鮮人(p159 文太郎・・・・・朴夫人の弟、朝鮮名は光日)から、李氏が去った後のサハリン朝鮮人世界について、興味深い話を聞く:p162「メリケン粉・・・・・一番粉ってのは・・・・戦前から樺太に住んでいた朝鮮人・・・二番粉ってのは戦中ソビエト本土にいて戦後サハリンに渡ってきた・・・・連中・・・・ロシア語が得意だから・・・・ソ連軍の通訳とか警察をやって・・・・ひと頃ずいぶん威張っていた・・・・・三番粉は戦後、北鮮からこの地にやってきた契約労働者・・・大量に派遣されてきた・・・日本人の労働者が本土に引き揚げてしまったから、その穴埋めじゃないの・・・・朝鮮戦争が起こると国を守るためにどっと帰っていったけど・・・居残った人間もけっこういた・・・・」。
この話を聞いた李氏は、父がなぜ危険をおかしてまでサハリンを去ったのか、その真の理由が分かった気がした:p163「昔のわが家・・・・ソ連本土からホルムスクにやってきた朝鮮系ソ連人一家が・・・・朝鮮人に対する政治指導をするようになった。その当時から私の父は、ロシア語を話すソ連国籍の朝鮮人を煙たく思っていたふしがあった・・・・・私の父は真岡町で『協和会・・・・日本の軍部がつくりあげた朝鮮人の翼賛組織』の副会長をやっていた・・・・日本が無条件降伏した・・・・あと・・・父が隣家の日本人に呼ばれ・・・青ざめて帰ってくると『なんで俺が腹を切らなくちゃいけないんだ』と口走っていた・・・・敗戦になった以上、潔く自害しろと強要されたのかもしれない・・・・・ということは、父は日本人からもソ連系朝鮮人からも挟み撃ちにされ、父なりに大恐慌をきたしたということだ。・・・・もはやこの地にはいられないと思って、サハリンから逃げ出そうとしたのではあるまいか」
p159 岡惚れ:わき(=おか)からひそかに恋すること。
p160 庇う(かばう)
ここで李氏は、たった二日の間に経験した二つの出来事を述べる。最初はチェホフの児童サナトリウム:p167 「児童サナトリウム・・・・サハリンのあちこちから、ツベルクリン反応で陽性の結果が出た少年少女がやってくるが、完治する日までこの学校で先生たちと一緒に暮らすことになっている」。李氏と朴氏のためにチェホフ市が回してくれたのは旧型の大型ヴォルガで、李氏はこの装甲車のような車に、かつてミコヤン(p166 ミコヤン:アナスタス・イヴァノヴィチ・ミコヤンは、ソビエト連邦の政治家、革命家。アルメニア人である。商工人民委員・第一副首相・最高会議幹部会議長を歴任した。 ヨシフ・スターリンからニキータ・フルシチョフの時代をしたたかに生き延びた、希有なオールド・ボリシェヴィキとして知られる。弟にMiG戦闘機の設計者のアーテムがいる。)がサハリン視察したときに乗ったのではなかろうかと想像する。
明るい室内に入った李氏は真岡の学校に通っていた時の太陽燈(p168 太陽燈:人工太陽灯のことで,医療に用いる水銀灯の通称。太陽光線と異なり熱線をほとんど含まないが,広い波長範囲の強い紫外線を出す。)を思い出す。教室にあったゴーリキーの格言を翻訳しようとして途中で止めたとき、李氏は自分のロシア語について弁明している:p169「大学時代に私はロシア文学科に籍を置いていた。語学の勉強は最初のうちはともかく高学年になるにつれてやらなくなり、留学生運動に熱中していたので、翻訳など到底できる訳がない」。
児童たちの歓迎の辞に対する返礼を話しているとき、李氏はチェホフのことを思い出す:p170「僕はこの地で生まれた。34年ぶりでもどってきた。ここは僕にとっても君たちにとっても同じ生まれ故郷なのです。このチェホフは空気がとてもきれいな美しい町・・・・・すばらしい笑顔をありがとう。健康になってください・・・・・そのとき私が心の中でアントン・パブロビッチ・チェホフを思い出していたのは確かだ。・・・・・チェホフはサハリン島の小学校に多数の図書を送ったり、児童の福祉問題にあらんかぎりの努力をしている・・・・・朴享柱氏が私の言葉を童話でも読んで聞かせるようなやさしい抑揚のあるロシア語で伝えた」。ロシア語を流暢に話すことはできないらしいが、李氏はロシア文学については精通しているようだ。
二つ目はチェホフ市長、彼は李氏と同年配だった:p172「この人はチェホフ市のソビエト執行委員会議長をしているヴィタリー・イヴァノヴィッチ・アブラーモフさん・・・・簡単に言えばチェホフ市長・・・・私は・・・もろもろの印象を述べた・・・・在サハリン朝鮮人の生活水準・・・・衣食住の生活に何の不安もない・・・・『無国籍者』の生活が『ソ連国籍』や『朝鮮国籍』を所持している朝鮮人との生活上の格差はほとんどなくなっている・・・・・自動車・・・モスコビッチであれジグリーであれ、想像した以上の生活水準・・・・市長の話を聞いて感銘を覚えたのは、ほかでもないその率直な態度であった・・・・欠陥を認めるのを恐れない率直な態度・・・・」。アブラーモフ市長はこの直後、李氏と朴氏らを野外パーティに誘ってくれるが、これは李氏の発言が気に入ったからに違いない:「市長から・・・・このまま分かれるのは名残惜しいから、みんなで南沢に遊びに行こうじゃないかと誘ってくれたんだ」。
ハン氏やベロウソフ氏も含め、彼等は大型ヴォルガと市長の愛用ジープで南沢という河岸を遡り、河原で焚火を起こして肉を焼き、ロシア料理に朝鮮料理を拡げ、ウォッカやワインで大騒ぎする。李氏はよほど興奮したらしく、市長に対する答辞の代わりに「プーシキンの有名な恋愛詩」をロシア語で朗読する:「きわめて下手な発音、抑揚にもかかわらず、拍手が起こった。詩人のベロウソフ氏がプーシキンについて喋り、チェホフ市長はレーニンも好んだチェホフの『六号室』について述べた」。余程うれしかったのだろう。
李氏はその日のうちにチェホフからホルムスクに戻り、翌朝はホルムスクの海運局で海運業の話を聞かされる。これは李氏の意図したことではなく、ベロウソフ氏があちこちと連絡をとって都度決まるらしい。この日の夕刻にはユージノ・サハリンスクに行くことも決まっていたが、詳細は知らされていない。海運局議長の話を拝聴したときのことを、李氏はマヤコフスキー(p189 マヤコフスキー:マヤコフスキーは 、1912 年に出版デビューを果たした。彼の詩は、『社会の趣味への平手打ち』という痛烈な表題の未来派文集に収められていた。若い革新的な詩人たちは、その宣言の中で、プーシキン、ドストエフスキー、トルストイ、その他の古典を「現代の汽船から放り出す」ことを提案した。 マヤコフスキーは、「古い」言語と文学的手法を忘れ去ろうと言う。そして彼は、自分の詩をサロンの磨き立てた詩と対比させる。大胆不敵な表現を敢えてし、他の詩人たちを嘲笑する。 ドネツクの鉱山労働者に、プーシキンの「人生に幻滅したロルネット(柄付き眼鏡)」について読み聞かせたり、メーデーのデモで「私の叔父は謹厳実直な人物だった」と叫んだりしても仕方ないではないか、というわけだ(いずれもプーシキンの韻文小説『エフゲニー・オネーギン』より。後者はその冒頭)。)を引き合いに出し、彼なら「正確な解釈が得られるに違いない」と強烈に批判する。
さて、その日の午前11時、李氏たちは二台のヴォルガでカリーニノ(旧多蘭泊)の鮭孵化場に向かう。だが李氏が語るのはまず通訳のハン氏のキャラクターについてである:「ハン氏は朝鮮民族出身ではあるが、モスクワ大学を卒業したソ連国籍をもつれっきとしたソ連共産党員・・・・ソ連共産党の方針に忠実にすべてを見、行動しているのである」。無国籍者について聞くと「二つの形態があります・・・・一つは南朝鮮に行こうとして国籍をとらない・・・・二つ目はソ連人に帰化しようとしている人・・・どちらが多いかといえば、二つ目の方」。民族教育をする朝鮮人学校がサハリンには無いことも訊ねたかったが、李氏は訊ねなかった:「彼は、公的な指示に基づかない場所で個人的な意見を述べる習慣を持っていない人間に映った」。一方、李氏は、前日の河畔パーテイのとき、ハン氏がオツケチュム(肩踊り)(p195 肩踊り:韓国語で「어깨춤」という。韓国の伝統的な踊り。肩を上下に動かして踊ること )を始めるという、「彼の意外な一面」も見ていて、「『チョッタ(すばらしい)』と叫んで一緒に踊り始めた」。李氏は体制や指導者ではなく、人間そのものが好きなのだ。やっと196ページ、残り160ページほど。
p188 拝跪(はいき):ひざまずいておがむこと。
(p196)ここではホルムスクの南、旧多蘭泊の鮭孵化場の訪問、それからボルガ2台に分乗してユジノ・サハリンスクに向かう紀行が語られるが、秋味と呼ばれる大きな鮭に感情移入したり、終戦時の戦争のことを思い出したり、強い信念と共に、心底ナイーブな感情をもつ李氏の心情が次々に語られる:p203「ホルムスクを後にし・・・・ユージノ・サハリンスクを目指し・・・・山間の峠の登り口に差し掛かった・・・・熊笹峠である。・・・・・かってここでは、戦闘が行われた。・・・・ソ連軍が真岡町に上陸シテキタトキ・・・・熊笹峠には2000名の日本軍が布陣していた・・・・どういう経緯をたどって両軍による交戦が行われたのかはよく分からない・・・・8月20日の早朝6時半頃、町民は突然とどろいた艦砲射撃の音に驚いている。それはソ連軍が国際的儀礼に基づいて空砲である礼砲を撃ったものだという。それに反して日本軍が国際信義に反して実砲を撃ったのでソ連軍は応戦したのだという・・・・そもそもこの戦闘の火蓋は最初にどちらが切ったのか、その審判は誰がするのか、私には分からない」、p205「落日の光景はそれ自体は自然の営みにすぎなくても、人間の深淵を考えさせ、そこから甦るべき人間の夢の存在を希求させているように思われた・・・・・そのとき私を襲っていたのは抽象的な観念ではなく、静かに溢れてくる悲しみの感情であった。落日と共に人間の死の影がこの広場に広がり、それが兵士たちの呻き声を地底から誘い出しているように感じられた」、p297「戦勝記念塔もようが、たとえば不戦の塔とか、日本人兵士の霊を祀る碑がこの峠に同時に建っていれば、どんなにか感動的な光景になるだろう。それは侵略戦争を再びこの地上に許すまいという決意の表明になるのだと思った」。
未舗装の道路をボルガは時速80㎞で突っ走り、通訳のハン氏と後の車の祖母は具合が悪くなってしまうが、ユジノ・サハリンスクまであと20㎞のあたりから舗装道路になり、李氏はほっとする。詩人のベロウソフ氏はそんなことを知ってか知らずか、盛んに後部座席の李氏に話しかけ、猟か釣りをしようというので、李氏は(どちらもやったことは無かったが)釣りの約束をする。ベロウソフ氏が途中で車を停めて買物に行ったとき、苦しんでいたハン氏と祖母は一息つけたが、これがベロウソフ氏の好意だったとは李氏は書いていない。
p197 晒す(さらす)
p203 泥濘(でい‐ねい): 泥が深いこと。土がぬかるんでいること。また、そのさまやその所。ぬかるみ
p205 佇立(ちょりつ):たたずむこと。しばらくの間立ちどまること。
p205 重畳(ちょうじょう):1.幾重にも重なること。「山岳―」2.この上なく満足なこと。「御無事で何より―」
ここからはユジノサハリンスク。最初に李氏が語るのは自身のロシア語のこと:p214「ハン氏の身体の調子が回復したのは有難かった。なにしろこの通訳氏がいなくなったとたん、私と詩人はお互いに意思の疎通が難しくなり、・・・・昨夕食事をしようとテーブルに座ったときも・・・・何をどう注文したものかメニューの意味が分からず、お互いに悩みに悩んだ。その結果、私は妻にも、いかに私のロシア語があてにならないか暴露することになり、こんなに話せないとはおもわなかったわとすっかり呆れられた始末であった」。朝鮮語と日本語は自在なのだろうが(難しい漢字がたくさんでてくる)、ロシア語はそうでもないということか・・・・いやたぶん、読み書きはできるが、話し言葉は苦手ということなのかな。次は祖母と同居しているフミ子の話。義姉トヨ子の娘夫婦の家には劣るが、大型のカラーテレビがある。p216「フミ子の家庭はいわば混成家族・・・・旦那さんもフミ子も再婚同士で、おたがいに二人づつの男子を連れてきて、夫婦の間にアンドレイが生まれたので、合わせて五人の子宝に恵まれていることになる」。李氏はフミ子に、戦後駆け落ちしてしまった実母のことを尋ねる。残り140ページ。
(p216)この章では、李氏がユジノサハリンスクで会った何人もの朝鮮人のこと、たまたま会ったロシア人農夫のことが語られる。それは故郷を失った人たちの憂いや願い、人生の楽しみ、知人たちとの交友から、当時の政治的な背景も語られ、実に興味深い。これはもう文学、紀行文を越えて、民俗学、心理学と言えるだろう。最初は李氏の祖母:p219「日本統治時代の朝鮮人にお茶を飲む習慣がある程度あったのは確かである。がソ連領になって30数年経ってみると、お茶は『こんな苦いもの』に変わり、ソ連人のように紅茶に角砂糖を入れて呑む生活に変化している。だが・・・・日常生活では米作民族の伝統が守られ、米が主食であり、キューバから輸入されている細長くてこくのない米を食べている。何よりもキムチを欠かさない。・・・・キムチは逆にソ連人の食生活に入りこみ、『キムチャ』というれっきとした日常用語として通用している・・・」、そして義従妹のフミ子:p220「といってもサハリンの朝鮮人の生活様式はだんだんとソ連のそれに同化していっているのは間違いない・・・・祖父母あるいは一世の年輩者の多くはかたくなに外国語を排斥し、ひたすら朝鮮語を守って生きているが・・・・二世、三世となると事情はがらりと異なってくる・・・・フミ子の息子たちはロシア語を母国語とし、この言語しか解さない・・・・何かが確実に浸透し、何かが確実に死んでいっている」。
祖母とフミ子の家に、思わぬ知人がやってきた:p223「『木村のおばさん』・・・・植民地時代の朝鮮人としては結構いい暮らしをしていて、戦後になると広いその家にソ連人の女将校も泊まったりしていた・・・・・いつも鷹揚に明るく振舞っていた。そこ頃の彼女は40歳をいくつか越したばかりだから、人生の盛りを迎えていたと言えるだろう。私はどんな悪戯をしても彼女から一度も叱られたことはなかったし、彼女が人に肚を立てている姿を見たことがない。女主人の彼女は艶のあるふくぶくしい体を身軽に動かし、いきいきと振舞っていた」、p221「一人の娘がいた・・・・日本が敗戦になって2年後・・・・ある男と結婚すると、日本人にまぎれこんで北海道に渡り・・・・故国(南朝鮮)に帰っていった・・・・老婆も娘夫婦といっしょにサハリンから故国にわたるつもりであったが、・・・パスポートをなぜか婿の親たちに焼かれてしまいユージョノサハリンスクから離れることができなかった・・・」、p231「彼女は自分が置かれている逆境からして多くを望むことは無理だと知っていたので、自分の養女に対しても、まわりの昔馴染みに対してもあまり迷惑をかけまいと心に決めているようだった・・・・一つだけ・・・欲しいものがあった・・・・ラジオ・・・『もしできたら、お前の兄さんに頼んでもらえないかい・・・もしかしたら私の婿になったかもしれない人なんだよ・・・・」。李氏はこの頼みは聞き届けたに違いない。
李氏と祖母、木村のおばさんは散歩に出て、そこでロシア人農夫に会う:p223「大工仕事をしているロシア人の農夫・・・・黒っぽい植物の種をひと掴みづつ分けてくれた。・・・ひまわりの種らしかった・・・・思いがけぬこの贈り物は私の気持ちを和めてくれた。これこそ、ロシア人の善さではあるまいか。素朴でいて親切であり、呑気でいておおらかでさえある。ここには見せかけの礼儀もなければ気取りも勿体ぶったところもない・・・・・私の同伴者たちにあれほど冷淡に振舞っているように見えた祖母が、隣人のロシア人農夫に対してはころりと態度を変え、なんとも自然に対応し、愛嬌さえただよわせて冗談を言い合っている・・・・こういう人間関係は、お互いが平等だと感じているときに初めて生じるものに違いない・・・・」。
ここで祖母のスーパープレイがひとつ披露される:p224「祖母・・・・10歳近く年上にあたる。それなのに・・・・『木村のおばさん』の方が腰も曲がり、猫背にみえる・・・・実際、私の祖母は目を見張らせるようん光景を演じてみせた。蠅が一匹食卓の上に飛んできた途端、祖母は両掌をのばしてパチンと蠅をつかまえ、なんなくひねりつぶしてしまった・・・・実にすばらしい反射神経だ・・・・」。木村のおばさんはラジオを聞くのを人生の楽しみにしていたが、ここで李氏は南北朝鮮のラジオ戦略について述べる:p230「KBS放送は共産国に向けて早朝7時と深夜12時の1時間半にわたって民族の歌や寸劇や時事問題を流しているらしい・・・深夜に女性アナウンサーがしっとりした声で海外の同胞に安否を問いかければ、それだけで高齢の朝鮮人の曇っていた心が晴れる効果はあるというものだ・・・・・サハリン在住のだれそれの誕生日に『生日祝賀』の挨拶が行われ、一日も早く帰郷すうようにと呼びかければ、心はいやでも南に傾くだろう。昔の世代にとって忘れられぬ民謡や流行歌・・・・。・・・・北朝鮮の放送も黙っていない・・・・だが、北朝鮮の文化放送はどちらかといえば勇ましい行進曲とか個人を讃える歌が多く、故郷の香をもとめているサハリンの朝鮮人の間における評判はあまり芳しくないと聞いた。北朝鮮の女性アナウンサーの声の肩さにうんざりするというのだ」。
夕方になって、近所の朝鮮人たちがやってきた。2世、3世の彼らの会話の中に、李氏はなにか寂しさを感じる:p239「『禿頭』というのがフレップの実の愛称だとするならば、いかにもグロテスクな命名であり、そこには明らかに一種の韜晦(とうかい)趣味が働いている。ひとびとは楽しそうに話しているのに、そこか寒々としていた。日常生活のなかで退屈し切っており、そのためにこんな無意味なことに笑い合っているという感じをまぬがれない・・・これは、自民族の文化を失った人々の流謫(るたく)感のあらわれではあるまいか・・・・いわば、ローソクが燃え尽きるようにして同化していくこの島の朝鮮人のやりきれなさが滲んだ笑い、を私は見た。だが、ただこういってすます訳にはいかない。こんな笑いと同時に、この社会の中で生き抜くための涙ぐましい努力を傾けている姿も私は見たと言える」。サハリンの朝鮮人2世3世が傾けている努力の一つはロシア国籍の取得らしい:p239「済州島出身の夫婦・・・・無国籍のパスポートを2年間所持して真面目に働くと、ソ連国籍を取得することができる・・・・しかし、ソ連国籍を得ることは、今日ではそれほど簡単なことではなく、それなりに市民としての資格が問われる・・・・何とかこの資格を円満に得るために交際関係も慎重にしている・・・・カメラを向けると、あわてて席を立ってしまう・・・」。サハリンの朝鮮人の様子はこれでだいぶ分かってきた。4世や5世までいけば、サハリンの朝鮮人はロシア人となるかもしれない。日本の朝鮮人も日本国籍をとりたがっているのだろうか。南北朝鮮が併合すれば、彼等は皆、母国に帰るのだろうか。残りの紙面で、李氏はそのあたりを何か語るだろうか。
p216 この家を購め(もとめ)
p218 義従妹(いとこ)・・・・・従妹、従姉、従兄・・・・みんな「いとこ」
p221 昵懇(じっこん)
p228 朝総聯(在日本朝鮮人総聯合会): 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持する在日朝鮮人[3]のうち、「主体(チュチェ)思想」を指導的指針としてすべての活動、運動を展開しているとする人々で構成される団体[4]。
p239 韜晦(とうかい):自分の才能・地位などを隠し、くらますこと。また、姿を隠すこと。行くえをくらますこと。
p239 流謫(るたく):罪によって遠方に流されること。
ここでも在サハリン朝鮮人の人権がテーマだが、最初にサハリンで朝鮮人と結婚した日本人女性のことが語られる。李氏は日本のある老婦人から、ユージノサハリンスクにいるこの在留日本人女性への手荷物を託されていて、ホテルで待っていたのがその女性だと気づき、手荷物を渡す:p244「ソ連国籍をもつTさんは子供たちがソ連人と結婚している事情も重なってこの地を永久に離れることは無理だが、北海道にいる余命いくばくもない実母に会いにいきたいという切実な念願を諦めることはできなかった・・・・・在サハリン朝鮮人の1世の中には、南朝鮮に帰国するのは無理だとしても、往来の自由があればとひそかに念願している人々が多いのだが、この日本婦人も故国に行ってみたい願望が強いのであろう・・・・・彼女は、自分の死んだ夫が実は朝鮮人であることをそのときになって初めて打ち明けた・・・・・この女性は・・・・墓参団でやってくる日本人にはこのことをあまり語りたがらないのではないだろうか・・・・民族問題における同情は、本質的に優越感のあらわれでしかなく、結局それは差別意識の温存につながる。だからこそ彼女は、朝鮮人と生涯を共にしてきた自分の人生を軽んじられたくないために、本来同胞である日本人には自分の肝心なことを喋らずにいるのではないだろうか」。もしこの女性が日本人男性と結婚していれば、彼女はたぶん日本に帰れていただろう。これは少数の例外的ケースだが、李氏は少数を排除しない。次に李氏は、ハン氏の勤める新聞社を訪問し、在サハリン朝鮮人の現状について詳しい情報を得る:p247「『レーニンへの道』朝鮮語版日刊紙・・・・・成点模(ソンチョンモ)副主筆・・・・30歳代の人が多く、その中には知的な印象を与える女性が思想部(政治部のことか)の責任者であったりした・・・・現在の発刊部数は5400部で朝鮮人は3500から4000名が購読・・・・これはほぼ2軒に1軒の割合・・・・大変な普及率・・・『困るのは、2世、3世と朝鮮語が分からない人が増えているので、どうしても減っていく傾向がある・・・』・・・・サハリンの朝鮮人は・・・・党の幹部になっている者もいる・・・・民族差別はない・・・・若い人々は『文化住宅』指向・・・・冷暖房がついていて、浴室付、水洗トイレ・・・・・生活の心配は永遠になくなった・・・・サハリン州には17の行政区域がありますが、幾つかの区域を除けば・・・・・朝鮮人の代議士がソビエトに選出されている・・・・」。朝鮮人はソ連で優遇され、活躍しているが、それはソ連国籍取得と引き換え、ここで李氏はまだ語らないが、朝鮮民族という視点から見て、ロシア人になりきるというのはどうだろう。この新聞社のように、ロシア語を話しながらも、朝鮮語を話せなくても、朝鮮の民族文化を継承、維持していくことは可能なのか? 次は社会主義と資本主義について:p251「社会主義的制度の長所・・・・社会的生活の分野での国家による恩恵・・・・市街地にあるサナトリウム・・・・年間約4000人のユージノ・サハリンスク市民が休養・・・・ソ連における社会福祉制度の恩恵を受けたのは・・・息子であった・・・・30分もせずに白衣を着て黒い鞄を手にした大男の医師がすっ飛んできた・・・・『肺はなんともない。目の腫れはたぶん披露の蓄積・・・それにアレルギー体質のせいでしょう』と高らかに診断を下した・・・・・『卵やトマトやチョコレートはいけない』・・・・・おかげで、私の子供は今朝になると嘘のように腫れが治り、咳も鎮まってきた・・・・・・・だからといって現在の社会主義制度が凡ての面で資本主義制度より勝っていることにはならないが、あきらかに生活必需品とか社会保障制度の面ですぐれているのは否定することはできない」。旧ソ連が崩壊し、経済的に膨張している中国がいまや社会主義の代表だが、競争を取り入れ、貧富の差が大きくなっていると思われる中国の制度は社会主義と言えるのか? ここの李氏の議論はもはや時代遅れのようにも見える。だが、テーマはこれではない。そして「区国籍者」の問題が語られる:p253「『無国籍者』・・・1960年頃は朝鮮公民2万人、ソ連国籍1.5万人、無国籍者5000人・・・・今日では2000人に減ってきており、・・・ソ連国籍を取ろうとしている人々(を除く)本当の意味での『無国籍者』はせいぜい500~600人・・・・こうした無国籍者の数の上での減少は・・・・ソ連国籍を取った人が増えた結果だろう・・・・けれども・・・なにがなんでも自分の故国へ帰りたいと牢固として立場を守っている人々が少数でもいるということをこの数字は逆に証明している」、p255「無国籍者が何世帯か国外追放された・・・・・都万相一家をはじめ・・・・5世帯・・・・北朝鮮に送還されました・・・・・彼等はソ連政府に日本に行かせてくれと何回も要求した・・・・請願を何回も・・・断食運動をやったい、ストライキまでやった・・・国際問題にすると宣言までした・・・・自分が望まぬ北朝鮮に送還されたこの人々はきわめて不運だった・・・・・いずれにしても、関係諸国によるこうした国家主義的政策に基づく利益の追求が、結果として人権の問題をないがしろにしている現実は否定しようもない。いったいどうすれば在サハリン朝鮮人の問題が妥当な解決をうることになるのか」。これこそが、李氏の追求しているテーマの一つに違いない。残り100ページ。
(p256)李氏の民族主義考察は「朝鮮人ならば誰しもが自分の故国に行ってみたいと思わない人はいないはずだ」というシンプルな言葉に集約される。各国に散らばる朝鮮人たちの生活水準や活躍状況を論じても、それは最終目標にはつながらない。民族統一こそが最終目標だ。しかし、高齢の海外在住朝鮮人には時間がない。彼等は祖国に帰国・移住できないとしても、一時旅行で訪問したいと思っている。しかし、この李氏の素朴で説得力のある言葉を実現するのは極めて難しい。それは南北に分かれた政権の問題である。
李氏は本書で韓国のことを平然と「ファシズム政権」と呼ぶ:「名だたる反共路線を敷き、光州事件を血のりで弾圧し、政敵や反体制主義者をごっそり監獄に押し込んでいて、アムネスティ・インターナショナルからも『人権白書』で非難されている」、一方、北朝鮮については「離散家族問題の人道主義的解決、面会や往来、書信交換などを、赤十字を通じて図るべき」と比較的穏当である。ここでは明確に書いていないが、韓国政府は信用できない、北朝鮮政府と赤十字などの第三者組織を通じて、会議在住朝鮮人、特に高齢者の帰国実現を図るべき、と言っているように思える。現在の韓国はどうだろう。ネットを見ると、第三回民主主義サミットなるものが韓国で開かれているが、「ポピュリズム政権」「韓国に民主主義は必要か」などの文字が踊っていて、韓国の民主主義はあまり進んでいるとは思えない。強力な右翼主義者がいて、それが保守党の基盤になっており、それに比べて進歩党はリベラルということのようだ。
p259 アムネスティ・インターナショナル:人間らしく生きる喜びを奪われた人びとのために活動している世界最大の国際人権NGOです
李氏は翌日早朝、ユジノサハリンスク近郊のバザールに歩いて出かける。そこでソ連人の顧客相手にキムチや野菜を売っている朝鮮人の高齢のおばさんたちの話を聞きに行ったのだ。その模様を記したこの11ページは実に生き生きとしていて、これまでに李氏が考えていたこと、こうではないかと考えていたことが次々におばさんたちの口から話される。これこそが、李氏がサハリンで聞きたかったこと、確かめたかったことの一つに違いない:「生活は、過ごしやすいですか」「そりゃいいとも。暮らす分にはな・・・だけんど、故郷がやたら無性になつかしくてなんねえだ・・・・父母兄弟がみんな故国にいるからにして、逢えさえすりゃ身上を半分あげたって惜しくはないよ・・・・」「はやく国が統一されて、南にも北にも自由に行ける日が来なくてはいけないんですがね」「統一がすぐにできなくても・・・・思った通りに故国に行き来できればほんとうにありがたい・・・・」「わが国の南北の政府が、この件をよく考えなければいけないんですがね」「わが国がよ、南も北も、しゃんとしてくえなきゃ、これはできっこねえ・・・・」
p262 ディカーニカ近郷夜話:ニコライ・ゴーゴリが1829年から1831年にかけて執筆した短編小説集。故郷ウクライナの民俗を色濃く反映している。この作品によってゴーゴリは名声を得た。
p262 とつおいつ:あれこれと迷って決心のつかないさま。
p262 頤髭(あごひげ)=顎、腭
p263 聟(むこ)
p271 自縄自縛(じじょうじばく):(自分が作ったなわで自分をしばるように)自分の言行で自分の動きがとれなくなり、苦しむこと。
ここで李氏は最後の親戚たち、従兄妹たちに会う。彼等はユジノサハリンスクの北にあるドーリンスクにいて、住所が分からなかったために事前の許可は得ておらず、当日の朝にユジノサハリンスクの出入国管理暑に出向いている。ここでもいろんな話がバラバラに語られるが、最初はユジノサハリンスクのホテルで待っていた従妹二人に会って驚き、抱きつく場面:「私は二人が誰であるかすぐに分かった。ヨシ子とカズ子だ。別れたとき、8歳と更に2,3歳下・・・・・私が二人の名前を呼んで近づいていくと、従妹たちはワッと抱き着いてきた」。従妹たちに会ったのは夕食後だったが、この日の朝10時、李氏は作家同盟サハリン支部を訪問している。ここで注目すべきは、まず李氏の尊敬する作家:「ドストエフスキイ・・・・大学の卒業論文にこの作家を選んだ日以来、・・・・この人から離れようとしては再び戻ってきていた」。そして数々のロシア作家たち:「ロシア系アメリカ人であるジョン・J・ステファンの『サハリン』、ギリヤーク(*11-1)出身の詩人ウラジミール・サンギ、ワレンチン・ラスプーチンの『フランス語の授業』、エヴァゲーニャ・ギンズブルグ『明るい夜暗い昼』、叙情詩人エセーニン(*11-2)」。当時のロシア作家、ソルジェニーツィンやショーロホフは国家の弾圧に苦しんでいたらしい。次は朴寿鎬(パクスホ)教授。サハリン唯一の大学で経済を教えている。苦学して、レニングラードの商科大学で「たった二人の優等生の一人に選ばれた。下手な日本語を話すが、母国語は話せないという。婦人は「レーニンへの道」新聞社に勤めていて、数日前に会っていた。日曜日には魚釣りに出かける(*11-3)。そしてその日の朝、李氏はベロウソフ氏らと共にまず出入国間委事務所に行って許可をもらい、そしてドーリンスクに行く。だが、この二日前に李氏は従弟の任成(ウンちゃん)と祖母の家で会っていた:「『ウンちゃんか』私はそう叫んで従兄の腕をきつく握った。従兄はもうそのとき、私の腕を握り返していた・・・別れたとき、彼は10歳・・・・」。残り60ページ。
p276 利かん気:人に負けたり、人の言うなりになったりすることを激しく嫌う性質。また、そのような性質であるさま。勝気。
p277 民政署:庶務課、警務課、財務課が置かれ、それぞれ地方行政・殖産・土木・警察・衛生・租税に関する事務を管掌した (これは明治当時の日本の制度、戦争時のサハリンに当たるかは不明)
(*11-1)p281 ギリヤーク ( [ロシア語] giljak ) サハリン北部とアムール川河口地帯に住む民族。漁労と狩猟をいとなみ、農耕は行なわない。旧シベリア諸族の一つ。
(*11-2)p284 エセーニン:セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ・エセーニンは、ロシアの叙情詩人。20世紀のロシアで最も人気があり有名な詩人のひとり
(*11-3)p289 コルサコフ市とオホーツクの海をのぞむ海岸の湖:魚釣りにでかけた・・・行く先はなんとオホーツク海をのぞむ海岸の湖・・・山小舎に立ち寄ったとき、たまたま居合わせたコルサコフ市のロシア人労働者たちとの交歓は素朴で心暖まるものだった
240706(p296)この章の最後はカズ子のロシア人の夫が、ショーロホフの「静かなるドン」(*4)の主人公と同じ村の出身と聞いて、李氏が少し不安になるという、笑い話:「グリゴーリイみたいに直情径行なのでは・・・・無口なカズ子に物足りず、アクシーニャみたいな情熱的な女に心を移さないか・・・・」。
p297 静かなるドン:ソ連の小説家、ミハイル・ショーロホフの大河小説。1926年から1940年の15年間にわたって発表された。第一次世界大戦・ロシア革命に翻弄された黒海沿岸のドン地方に生きるコサック達の、力強くも物悲しい生きかたを描いている。
ここでは、サハリンでの最後の日々、故郷、真岡を感慨を込めて歩く李氏が語られる。李氏は半日しかいられなかったドーリンスクから従弟の任成(ウンちゃん)を連れてホルムスクに向かう:p300「私たちのサハリン訪問はこの従兄妹たちがホルムスクにいる親戚たちとふたたび行き来する契機となった。従弟は、母の再婚以来、断絶状態になったまま永年会っていない親戚たちにこれから兄妹を代表して挨拶にでかける・・・」。ホルムスク、故郷・真岡に戻った李氏はまず真岡駅に行く:p310「真岡時代のゆかりの日本人の友人や知り合いに、この『真岡駅』の待合室を見せてあげようと考えていた・・・・どんなに変貌しようとなつかしいものであるからだ・・・・・けれども万事休す、フィルムが空回りしているのに気づかず、大真面目にシャッターを押し続けていたどじな男についていったいどう説明すればいいだろう」。
街中を歩く李氏の様子:p312「私は街の中をゆっくりと歩いていた。それこそ一歩一歩、足を踏み出すのを心から惜しんでいるように。私はまるで犬のようにせわしなく空気を嗅いでいた。そうすればこの故郷の空気がいつまでも肺に溜まっていると信じ込んでいるように」。この最後の真岡で、李氏の脳裏には様々なことが浮かんだようだ。一つは強い人道主義:p311「『殉職九人の乙女の碑』・・・・碑文には『軍部』という二字がくっきりと刻み込まれていた・・・・この悲劇をもたらした本当の敵・・・・・沖縄の婦女子がアメリカ軍に追い詰められて断崖から投身自殺していったのを『殉死』といってすましてはならぬように、傷ましい最期をとげた九人の電話交換手の行為を大和撫子の精華として美化してはならない」。
そしてもう一つは、サハリンの朝鮮人が、チェホフが視察した19世紀末から既に住んでいたこと(これは学生時代の回想):p314「1890年にサハリン島を踏査したさい、チェホフは・・・・・『あれがマウカ(真岡)ですよ』と教えられた。チェホフの『サハリン島』によれば、当時マウカには30戸以上の日本式建物があったらしいが、中国人や日本人やロシア人、アイヌ人にまじって朝鮮人も若干混じっていた・・・・・」。因みに、サハリン=樺太には日本人やロシア人がだいぶ昔から住んでいたらしく、1854年日露通好条約では雑居・共有、1875年に千島・樺太交換条約でロシア領、日露戦争を経て1904年のポーツマス条約で南半分が日本に割譲されている。残り40ページ弱。
p308 隣家四寸(イウジェサチョン):(ネットに無し)
p309 矍鑠(かくしゃく):年をとっても、丈夫で元気のいい様子
p314 樺太の併合:1904年に日本とロシアがともに朝鮮を自分のものとしようとしたことから対立して、日露戦争が起こりました。1905年、戦争は終わり、日本とロシアの間で「ポーツマス条約」が結ばれました。この条約によって、日本はロシアから、樺太の南半分をゆずりうけました。
(千島・樺太交換条約):1875年5月7日、日本(明治政府代表榎本武揚)とロシア(アレクサンドル2世)の間で北方の領土としてロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することを定め樺太・千島交換条約が締結された。 樺太及び千島に住んでいる両国人は国籍を維持したまま残留することが認められ、その場合は営業、所有の権利、信教の自由が保障された。 樺太・千島交換条約は、1875年5月7日に日本とロシア帝国との間で1854年の日露通好条約で雑居・共有としていた樺太で頻発していた日露両国人の紛争を無くすために国境を確定させた条約。
p315 悖徳漢(はいとくかん):背徳/悖徳 道徳にそむくこと。
p316 山本有三:(本名・勇造)1887(明治20)年、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に父元吉、母ナカの長男として生まれました。高等小学校を卒業後は丁稚奉公に出され、家業の呉服商に就いた時期もありましたが、向学心を持ち続け一高へ入学。そして、東京帝大独文科へと進学しました。大正期半ばに劇作家として出発し、「生命の冠」「坂崎出羽守」「同志の人々」などで地歩を固めました。大正末期に小説の世界に進出し、「波」「女の一生」や国民的作品の「路傍の石」を執筆するとともに、先駆的な子ども向けの教養書シリーズ「日本少国民文庫」(全16巻)の編纂も手掛けています。国語問題についての発言も多く、国語教科書の編集に携わった他、戦後は参議院議員としても活躍し、1965(昭和40)年には文化勲章を授与されました。1974(昭和49)年に湯河原にて86歳で亡くなり、連載中の「濁流」が絶筆となりました。
p317 押送(おうそう):受刑者・刑事被告人・被疑者を、ある場所から他の場所へ移すこと。
p318 ラジーシチェフ【Aleksandr Nikolaevich Radishchev】[1749〜1802]ロシアの思想家・詩人・小説家。「ペテルブルグからモスクワへの旅」を自費出版して農奴の惨状を描き、専制政治や貴族制度などを批判したためシベリアに流刑された。
(p318)ここはもうエピローグに近い。李氏は何度も人生訓を書いているが、それは必ずしも真実ではないとここで書いている:「いつごろからか、自分には悪い癖ができた。何の限定詞もつけず人間の公理でものべるような言い方をするが、そんなときは自分の独断を述べているに過ぎないことが往々あるのである」。そしてサハリン最後の14日は雨、しかも豪雨。帰りは船ではなく、ハバロフスク経由の飛行機。儀礼訪問したトレチャコフ第一書記にもらったチェホフの「サハリン島」は、たぶん李氏は学生時代に読んでいたはずである(どこに書いてあったのか見つからない)。
李氏の荷物は親戚たちがもってきたお土産で増えていた:「旅行用トランク2個やショルダーバッグの他、南京袋風の底に車のついたズタ袋が3個・・・」。李氏は飛行場のロビーで祖母たちに別れを告げ、ボルガの中で飛行機を待つ。たぶんターミナルから乗り場までが遠いのだろう。すると、ドーリンスクの従妹たちが見送りにやってきて、飛行場の柵の外で土砂降りの雨の中に立っていた。李氏が警備員に柵を開けてもらうと、「従弟妹たちがわっとひとかたまりになって私に抱きついてきて泣き喚いた。・・・・『泣くな』と私は怒鳴り続けた」。もし雨が降っていなければ、土砂降りでなければ、こんなことにはならなかっただろう。だが、こんな土砂降りの雨の中を見送りにくるとは、余程李氏は従弟妹たちに強い印象を与えたに違いない。
p320 チェホフの「サハリン島」・・・・・p314「1890年にサハリン島を踏査したさい、チェホフは・・・・・『あれがマウカ(真岡)ですよ』と教えられた。チェホフの『サハリン島』によれば、当時マウカには30戸以上の日本式建物があったらしいが、中国人や日本人やロシア人、アイヌ人にまじって朝鮮人も若干混じっていた・・・・・」。
この最終章で李氏が語るのはハバロフスクで飛行機を待つ二日間。飛行場に迎えに来ているはずのロシア作家同盟の案内者が見当たらず、李氏は最初戸惑う(*1、2)が、やがてそのかぷーシュキン氏が颯爽と現れ(*3)、二日間、李氏の世話をし、アムール川などに案内してくれる。クリント・イーストウッドは赤毛だったか? もうサハリンを離れたのに、ここでも朝鮮人問題は李氏の頭を離れない。彼は通訳をしてくれたハバロフスク在住の李柱鶴(リチュハク)に、朝鮮学校がロシアに無い理由を尋ねる。サハリンの朝鮮学校は1964年に廃校になっており、それは中ソの関係悪化が関係しているのではないかと李氏は語る。
もう一つ、李氏が語るのは朝鮮民族自身の問題:p342「ロシア人はやることが大まか・・・・日本人は・・・立派なものをつくる・・・・力を合わせるしな。一番駄目なのは朝鮮人だ。ウリたちは誰かが良くなるとすぐに足を引っ張る癖がある・・・この論評は取り立てて新しいものではない・・・・けれども現実をうがっている」。李氏はハバロフスクの図書館に行き、休館なのに開けてもらい、朝鮮作家の本を見に行く。そこには北朝鮮の作家の本はあった。李箕永、趙基天、黄健、これらの作家の作品を読む前に、まず李恢成の本を何か読むべきだろう。そして李氏が最後に語るのは、愛すべき詩人のニコライ・カプーシュキン。彼の詩神(muse)は世に現われたのだろうか。
p325「とうとう私は自分の真価が試される時がきたのを悟った・・・・これまでは通訳氏がいた・・・・今はもう自力に頼るしかない・・・・自分の妻にすっかり呆れられていたところでもあり、ここはひとつ頼もしい姿を見せなければならない・・・」
p325「ラングストン・ヒューズの自伝2・・・・ロシア人にとって『すぐ』とは、朝から夜の間のいつかという意味である・・・・・いかにロシア人がのんびりしているかを皮肉っている・・・・」
p327 思案投首(しあんなげくび):よい解決策が思い浮かばず、困って首をかしげているさま。 ああでもないこうでもないと、考えあぐねているさま。 「思案」は、あれこれ考えること。 「投首」は、首を傾けたり、頭をたれているさま。
p327「ニコライ・カプーシュキン氏・・・・・・黒い皮ジャンパーに両手を突っ込んで青いジーンズ・・・・赤毛の髪をした長身・・・・目鼻立ちのくっきりした表情・・・・西部劇に出てくる早撃ちのカウボーイを連想させられた・・・・瓜二つのアメリカの性格俳優・・・ちょっと顎がしゃくれていて目配りが素早い感じの顔立ち」・・・・クリント・イーストウッド?かな
p336「自由市場(バザール)で売る品物は税金がかからないから、そっくり売り手の副収入になる」
p337 韜晦(とうかい):自分の才能・地位などを隠し、くらますこと。また、姿を隠すこと。行くえをくらますこと。
p344「クジラ同士が喧嘩をすれば死ぬのはエビ」
p348 羊頭狗肉(ようとう-くにく):見かけや表面と、実際・実質とが一致しないたとえ。 良品に見せかけたり、宣伝は立派だが、実際には粗悪な品を売るたとえ。 羊の頭を看板にかけながら、実際は犬の肉を売る意から。 ▽「狗」は犬。
p349 李箕永:朝鮮の小説家。本貫は徳水。号は民村。筆名に民村生、聖居山人、聖居、陽心谷人、陽心学人、箕永生がある。日本統治時代はプロレタリア主義作家としてKAPFの中心メンバーとして活動、解放後は左翼陣営に加わり文壇の重鎮の座に座り続けた。貧困を極めて精巧に描き出す李の筆は南北を通じて高く評価されている。
p349 趙基天:チョ・ギチョンはロシア生まれの北朝鮮の詩人。彼は国民的詩人であり「北朝鮮詩の創始者」とみなされており、ソビエトの影響を受けた独特の社会主義リアリズムジャンルの抒情叙事詩のスタイルは北朝鮮文学の重要な特徴となった
p349 黄健 (こうけん):Hwang Kǒn1918-91 朝鮮の作家。本名は再健。両江道生れ。ソウルで苦学した後,1935-36年日本の明治大学に籍をおく。帰国後教員,記者をへて羊飼いの生活をおくる。解放後は平壌で記者をつとめるかたわら小説を書きはじめ,大学で文学教育にも当たったが,のち創作に専念。長編に解放後の北部高原地帯の農民生活を描いた《蓋馬高原》(1956)のほか,抗日武装闘争を内容とした《息子と娘》(1965),南北2人の科学者の運命をテーマとした《新しい航路》(1980)など。短編にアメリカ軍の仁川上陸作戦に抗して散った若者たちを描いた《燃える島》(1959)のほか《牧畜記》《炭脈》《妻》など,中編に《幸福》がある。
p351 ミューズ:muse 熟考する、考えにふける、物思いにふける 【名】詩神、瞑想◇不可算
ここに小さな字で書かれているのは、「私事訂正二つ」。それは、李氏一家がサハリンから日本に引き揚げてきたとき、日本人のパスポートを偽造したのではなく、当時のロシア人民政暑の担当者の善意で朝鮮人国籍のパスポートであった可能性があること、それにもかかわらず李氏たちは不法入国者とみなされて佐世保に送られるが、その収容先は大村や諫早ではなく針尾島であることの2点。この細かな話の行間に、李氏はパスポートに朝鮮国籍を書いてくれたかもしれないロシア人の勇気をたたえ、サハリンからの朝鮮人の不法入国を雑然と書いている日本厚生省の担当者の歴史認識のなさを批判する。
とにかく、この「サハリンへの旅」は日本の文学雑誌「群像」に13回に渡って連載されたとのこと。李氏の祖国を思う気持ち、離散家族たちの真実の描写は読むものの胸を打つ。なんとかして祖国の統合は実現してほしい。しかし年寄りたちには時間がない。せめて母国への帰国、家族たちとの再会だけでもできるようにしてほしい。これは今では、少しは改善されているのだろうか。李氏は作家の立場で、この祖国の問題を真剣に調査し、その解決策を探った。そして彼の心にはいつも文学があった。
最後に書いたのはハバロフスクで会ったまだ修行中のロシアの詩人。ハバロフスクの図書館に行き、朝鮮人の作品を探した。彼は作家であるが、詩人の心というよりは、民族の魂を持っているように思える。その気持ちがあれば、いつかは朝鮮統一は実現するだろう。
巻末に李恢成の本が5冊、「またふたたびの道」「われら青春の途上にて」「約束の土地」「追放と自由」、「見果てぬ夢(全6冊)」、全て在日朝鮮人、帰化朝鮮人関係をテーマにしているようである。首尾一貫、頑固一徹、筋金入りの民族小説家のようである。
p147 ナホトカ:1959年にサハリンで帰国運動が始まったとき、彼(朴享柱氏)はまだ30歳くらいだったが、サハリンにおける北朝鮮公民としての自覚に燃え、・・・ナホトカにある北朝鮮領事館と連携を保ち、この帰国運動に積極的に携わった.
p192 カリーニノ(旧多蘭泊):カリーニノつまり旧多蘭泊の鮭孵化場に到着した時私たちは自然の美しさに魅了された
p252 カフカース(タゲスタン共和国)
p253 タシケント(ウズベキスタン):サハリンの朝鮮人の人口は約4万人・・・ひと頃は5万人いましたが、・・・減っているのは本土(クンタン)に移住し、タシケントやカフカーズに行ったためです
p287 咸興市:夫人の故郷が北朝鮮の咸興市にあり、教授のは南朝鮮にある
p304 イルクーツク:わしら夫婦(トヨ子と富山さん)は儲けた金で一番目の倅と娘に自動車を買い与えてやった.次男はイルクーツク大学を卒業したがこえにも朝鮮人の嫁を貰ってやり、その嫁はいま子供を一人生んで育てながら大学で勉強している
p324 ハバロフスク:プロペラ機はタタール海をよぎり、ソビエト本土の上空を飛んでいった.およそ1時間して、飛行機は晴天のハバロフスク空港に到着した.