2005年 (2022年1月15日読了)
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冒頭に書かれているのは、この本がいわゆる登山ガイドではないこと、道なき道を辿り、日本に残された奥深い秘境を探る著者たちの見たもの、感じたものを伝えたい、ということ。言い換えれば、標高は低いながら、沢を中心に困難なルートを極め、和賀山塊の本質を捉えたという筆者たちの自負の表れであり、それを誰かに伝えたいと思うのは自然のことだろう。
「深い森の木々のざわめき、岩を噛む激流に無常の神の存在のようなものを感じるようにもなりました。それはまぎれもなく、和賀山塊の未知なる源流がもたらしてくれたものにほかなりません」
和賀山塊に含まれる主な山として、和賀岳、朝日岳、薬師岳、白岩岳、甲山、中ノ沢岳、風鞍の7座を挙げている。私が登ってないのは白岩岳のみ。和賀山塊が「希少植物の宝庫」というのは初めて知ったが、冒頭のグラビアに私の知らない花がたくさん(リシリシノブ、アオモリマンテマ、トガクシショウマ、シロウマアサツキ、ヒナチドリ、ヤハズトウヒレン、アケボノスミレ、オオウラジロノキ、テツカエデ)載せてあったのはそういう背景があったのだ。スキーで登った貝吹岳にも花が多いらしい。
厳冬の朝日岳 包丁峰の第三尾根を1月4日に登ったこの記録はずいぶん無茶だという気がする。1日目、夏瀬ダムまで車で入り、雪道を部名垂沢沿いに歩き、尾根に取り付く手前でツエルトでビバーク。2日目、包丁峰の第三尾根をワカンに大きなザックを背負って登り、ブッシュに捉まり、ナイフリッジの雪を崩し、ザイルで確保し、包丁峰に着き、そこから吹雪の朝日岳頂上に到達し、稜線に下ってビバーク。3日目、部名垂沢右岸の長い尾根を下る。私が2014年2月23日にテント1泊で登ったのは熊越1,084mという志度内畚の西にあるピークの西尾根で、熊越手前にテントを張り、翌日、尾根を南にたどって吹雪の朝日岳頂上に到達した。アプローチも夏瀬ダムではなくて、廃棄物処分場に至る北の林道。この尾根も楽ではなく、どうやら岩手側の貝沢地区から夏道のある雪尾根をたどり、大荒沢岳から夏道のない北西尾根を1㎞ほどで朝日岳というのが一番楽なようだ。もう一度、朝日岳に登ってみたい。
結局、佐藤氏と藤原氏のこの本は、和賀山塊の自然を守るという地元民、山を愛する人としての記述が主体となっているが、読んでいて最も心を惹かれ、ワクワクしたのは迫真の登山の場面。最後の4つの山旅は、特に二つの沢遡行は私には絶対に無理なのだが、そこの沢の情景が目の前に浮かび、雪山の真っ白な景観、それが吹雪くと全く見えなくなってしまう、そんな情景も次々に連想され、熱い思いが呼び覚まされた。私はもうあと何度、和賀連峰に行くだろう。とりあえずは今年、白岩岳に登り、朝日岳にももう一度登りたいと思っているが、この本に記載のある小影山にも登ってみたいし、一度しか登っていない和賀岳にももう一度、登ってみたい。いろいろと、山への憧憬を新たにさせてくれた本だった。
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はじめに
冒頭に書かれているのは、この本がいわゆる登山ガイドではないこと、道なき道を辿り、日本に残された奥深い秘境を探る著者たちの見たもの、感じたものを伝えたい、ということ。言い換えれば、標高は低いながら、沢を中心に困難なルートを極め、和賀山塊の本質を捉えたという筆者たちの自負の表れであり、それを誰かに伝えたいと思うのは自然のことだし、私も是非、知りたいと思う。
「深い森の木々のざわめき、岩を噛む激流に無常の神の存在のようなものを感じるようにもなりました。それはまぎれもなく、和賀山塊の未知なる源流がもたらしてくれたものにほかなりません」
1章・和賀山塊とは
プロフィール 和賀山塊に含まれる主な山として、和賀岳、朝日岳、薬師岳、白岩岳、甲山、中ノ沢岳、風鞍の7座を挙げている。私が登ってないのは白岩岳のみ。和賀山塊が「希少植物の宝庫」というのは初めて知ったが、冒頭のグラビアに私の知らない花がたくさん(リシリシノブ、アオモリマンテマ、トガクシショウマ、シロウマアサツキ、ヒナチドリ、ヤハズトウヒレン、アケボノスミレ、オオウラジロノキ、テツカエデ)載せてあったのはそういう背景があったのだ。スキーで登った貝吹岳にも花が多いらしい。
「高山性から低地性、あるいは暖地性から寒地性の植物が混在し、研究者を大いに惑わせるという不思議なフィールド・・・・・・一部地域を除いて人が踏み込むことが極めて少なかったこと・・・・・急激な火山活動もなく、180万年前以降の・・・・造山運動による山の成因や地質的な特徴がその後の植物にとって非常に恵まれた環境を与えられた・・・・」
和賀山塊の主な山として和賀岳、朝日岳、白岩岳、甲山(曲甲)、貝吹岳が挙げられていて、私が登ってないのは白岩岳だけだが、登山道のない朝日岳と曲甲が挙げられているのがこの本らしい。白岩岳頂上には「万年石楠花」の大木があると記されているが、まだあるだろうか。主な源流として岩手県側に和賀川と雫石川の源流、秋田側には生保内川、堀内沢、斉内川、川口川の四つの水系が挙げられている。私が辿った部名垂沢はたぶん生保内川と思うが、部名垂沢が夏瀬ダムに合流するすぐ下流で合流している堀内沢というのは未知の沢。地図を見る限り険しそう。斉内川は真木渓谷を流れる川だから、何度か渡っているが、川口川というのは風鞍の南だから、緑の谷間を見降ろしたくらいだろう。本には「私たちは長年にわたり、これらすべての沢に足跡を刻むことができました」と誇らしげに書いてあり、「深い原生林に囲まれた堀内沢」の写真も出ているが、大変な沢屋さんたちに違いない。
森の姿で述べられているのは、白神山地のブナ純正林に対し、和賀山塊はブナ混成林であるということで、ミズナラ、クリ、トチノキ、イタヤカエデ、カツラ、シナノキ、サワグルミなどの広葉樹に加え、アシウスギ、クロベ、キタゴロウ、ヒノキアスナロなどの針葉樹も混じっているという。アオモリトドマツが入ってないが、たぶん少しはあるのだろう。「価値ある秘境性」と「未来への遺産」で述べている趣旨は和賀山塊にもせまりくるダム建設などの開発を阻止し、環境省の「自然環境保全地域」の指定を受けたい、ということであり、筆者のグループは山屋の卓越した技能を生かして学術調査に協力し、保護活動を続けてるというが、世界自然遺産などの保護対象になれば山や沢に入ること自体も制限されることになるのでは、と思う。筆者グループの本領は山屋としての活動なのだと思うが、これまで得られた楽しみ、享受してきたものが自然環境保護推進により維持していくことができるのか、少し疑問。
2章「山の自然」
最初に語られるのは地形と地質。遥か昔の造山活動はともかく、和賀山塊は秋田駒や栗駒山などの火山性の山の間にある非火山性の山ということで、特に朝日岳周辺が氷河作用により、ガリーの急斜面に加え、小さなカール状の窪地が形成されてお花畑になっているという。次は自然生態系。和賀山塊のブナ林は混成だというのは何度も繰り返され、厳密には湿潤平坦を好むヒメアオキ・ブナと急斜面・乾燥を好むマルバマンサク・ブナの2種類あるうち、和賀山塊には後者が支配的だという。そして(驚いたことに)和賀山塊にはオオシラビソやコメツガなど亜高山帯の針葉樹が存在せず、マルバマンサク・ブナが針葉樹の代わりに生えているという。スギについては、太平洋側のスギ、日本海側のアシウスギ(アキタスギを含む)、屋久島のヤクスギの3種類に区分できること、ヒノキアスナロについては、青森のヒバを含むこと、ヒメアオキ・ブナと混成することが多いと言う。ちょっと矛盾がある気もするが、どちらも和賀山塊には生えているらしい。そして最後に述べられる高山植物については、これはすさまじく多様な花が存在するようだが、たぶん簡単には近寄れないところもあるのだろう。来週、もう一度読んでみる。
p57からは様々な花について10ページにわたり、写真も含めて語られる。私のあまり馴染みのないものを挙げると、
タムラソウ:アザミのような赤い花、見たことはあるような・・・(トウヒレン?)
タガネソウ:これは緑の細長い葉で、地味な穂のような花。これも見たことはあるような・・・
ノギラン:ショウジョウバカマが枯れたような姿。これは、そのときこれと同定できなかったが、何度も見た記憶がある。
ミネヤナギ:トゲトゲの果穂の上に白い綿、というのは今年羅臼岳で確かに見た。そのときは同定できず。
オオバツツジ:大きな(柔らかそうな)葉の間にドウダンツツジの花がちょっぴり、というのは見たことがあるような、ないような・・・・
リシリシノブ:まるで普通のシダのようで・・・・これでは見ても気づかないだろう。
ヤマスカシユリ:これは今年(2021年)夏に杁差岳でたくさん見た。ビオランテみたいに大きなユリ。
アオモリマンテマ:白神・茶臼山に咲くらしいのだが、私が登った時には咲いていなかった。
オサバグサ:これは群生地とされる早池峰・薬師岳では見損なったが、和賀山塊の南部、中ノ沢岳と風鞍を縦走したときに見た。
タカネセンブリ:白いセンブリは何度か見たが、青紫のタカネセンブリは見た覚えがない
ミチノククワガタ:クワガタは何度か見たことがあるが、オオバギボウシみたいな形をしているのは見た覚えがない。
トガクシショウマ:レンゲショウマにはあまり似ていないようだが、見たことがあるようなないような・・・・いずれにしてもこの花と同定したことはない
エゾツツジ:この赤い大きな花は秋田駒や北海道の羅臼岳でたくさん見た。
3章「社会とのつながり」
述べられるのは山岳信仰と鉱山開発。山岳信仰については、薬師岳や白岩薬師などの薬師信仰、かって和賀岳は阿弥陀岳と呼ばれていて阿弥陀信仰との関わりがあったらしいが、それらを除くと石仏や石碑はほとんど見かけないという。一方、鉱山については、秋田は歴史的に日本有数の鉱山を有していたということで、尾去沢鉱山、院内銀山(湯沢)、阿仁銅山が有名だが、和賀山塊には川口鉱山や真木鉱山がかって活況だったという。真木渓谷の道沿いに鉱山跡の表示を見たような気もするが、真木鉱山があったという中ノ沢や金堀沢には入ったことがない。
4章「山岳探訪」
ここからが筆者の本領発揮?文章が生き生きしてくる。まず真木峡谷に入っていくが、林道からの眺めに加え、なんと真木渓谷の中を遡行。途中で現われる矢淵ゴルジュに出会うのだが、右岸にバンドがあると言いながら、滝もないから泳げばいいと言う。ゴルジュの右岸の林道部分はかって「ももし坂」と呼ばれたが、それはあまりのきつさに小便を漏らしてしまったからだという。橋を左岸に渡ったところで行く手に曲甲(甲山)が見えると思うのだが、それには筆者は触れず、右岸の大倉岩というのに昔、クライミング・ゲレンデとして登ったとある。なるほど、筆者はクライマーだったのか。再び右岸に渡ったところに今は避難小屋が建っているが、この本の出版当時2005年にはまだ竣工していなかったようだ。甘露水についてはよく覚えている。
大蓮寺ブナ林 甘露水から曲甲方面に真木渓谷を左岸に渡った先、金堀沢と中ノ沢の間に広がる北向きの緩斜面に大蓮寺ブナ林がある、ここにかっての採鉱所があり、刈られたブナが百年を経て立派なブナ二次林に育っているとあるが、私は行ったことがない。それは中ノ沢の左岸に当たるが、曲甲への道は中ノ沢の右岸だった。
薬師岳 この山には二度登った。一度は甘露水から登って和賀岳に行く時、もう一度は曲甲に登って大甲山を経て甘露水に下るとき。山頂付近に祠を二つ見た記憶(写真もある)があるが、古いのと新しいのだろうか。本には甘露水からの途上にあるブナ台、滝倉沢の水場(正しくは曲沢らしい)、滝倉避難小屋跡、そして尾根に上がるところの倉方(岩場のこと?)などの話、サワグルミやトチノキの林からブナの林、そして岩尾根に出ると花が咲いていること、薬師岳頂上近くで初めて和賀岳が見えることなど。
和賀岳 小杉山、小鷲倉を経て和賀岳に至る道は花の道、東は和賀川、西は袖川沢。山頂はまるで広いが、線状窪地や構造土(階段状の裸地)がある。地震や積雪で生じるものらしい。
白岩岳 角館に大威徳山という小丘の神社があるが、白岩岳も角館の守り神として白岩薬師信仰が盛んだったとある。登山道は入角沢林道の奥からで、私は来年(2022年)登る予定。白岩岳、白岩薬師までにはやはりブナ。「標高700m付近で杉沢林道からの道と合流」とあるのは稜線上の合流点のことだろうか。「コース中間点であるシシ小屋跡」というのは稜線コルから更に東に登ったところだろうか。「シシ小屋跡の少し上部から北に下っている行太尾根」「行太尾根の下方、抱返渓谷方面に下った通称アマサケ長根」のあたりには北に下る尾根が二つ(北北東と北北西)あるが、どれだろう?そのあたりが見事なブナ林で、アマサケ長根に「幹の太さ日本一といわれるブナの巨樹」があるというが、私にはちょっと無理だな。白岩岳頂上から錫杖森、小杉山を経て和賀岳に至る喜左衛門長根について詳しく記載されており、昔よりも刈払いされているものの、「錫杖森のキレット」という難場があり、日帰りは難しいとあり、錫杖森のキレットの先、940m峰の先にビバーク・サイトありとある。周回するのも難しそうだし、私には縁の無い道なのだろうか(2021年6月のネット記録には、「錫杖の森~小杉山 猛烈な藪! もう行かない! 」とある。相当に大変そうだ)。
甲山 和賀岳、薬師岳、白岩岳の次は曲甲、地理院地図には甲山と記載されているが、やはり曲甲の方が一般的なようだ。真木渓谷から見える姿はまさにその通り。そこに至る甘露水から両日沢を渡り、涼見長根を登る道は私が2013年に登った道。昔は無かったその道から中ノ沢岳への道が整備され曲甲頂上に向かう道も手違いで刈り払われてしまったとあるが、2013年には中ノ沢岳への道はあったが、曲甲への道はヤブ化していて、2018年に中ノ沢岳に登ったときはその道も完全にヤブに埋もれ、涼見長根の道までヤブと化していた。この本の趣旨からすると、それで良いのだろうか。後段で佐藤氏は薬師岳南壁を登った記録を載せているが、最後は垂直になるこの岩壁を登るとは・・・・イブキジャコウソウやイワベンケイ、ウスユキソウが咲いていたという。
朝日岳 私は羽後朝日岳には2度登った。最初は2007年2月に雪尾根を目指したが断念、その年の7月に部名垂沢を登って初登頂。頂上の石標を見たときはうれしかった。そして2014年に雪山テント泊で2度目の登頂。この時は途中まで晴れていたのに頂上に着いたときは吹雪で、コチコチの頂上だった。苦労した分、この山には思い入れが強い。生保内川からの沢登も魅力があるが、私には無理だろう。岩手川からのスキー登山が意外に楽かもしれない。さて、佐藤氏はここでは部名垂沢ルートについて詳しく記載している。二ノ沢出会というのは記憶にないが、二俣の奥に見えた垂直に近い包丁尾根からの沢はまぶたに焼き付いている。その後、残置ロープに助けられていくつか滝を登り、やがて涸れ沢になってからもずいぶんかかった記憶があるが、佐藤氏の記載には「二又からは大小の滝が七ヶ所連続」とあり、そんなにたくさんあったとは思わなかった。確かに、残置ロープがないと難しかったと思う。山頂の石標は「昭和3年、地元生保内の山好きによって担ぎ上げられた貴重な碑・・・・・石標設置の話は藤原優太郎著『秋田・源流の山旅』(無明舎出版)に詳しく載せられています」とある。この山は登山道がないのになぜか旧「秋田県の山」にも記載されていて、沢ルートと雪山ルートがあると記載されていた(私の登ったルートはこの二つ)。思い出深い山である。
「部名垂沢遡行の核心部は二又から左に本流を詰めあがるあたりから始まり、傾斜もぐんときつくなってきます。滝の飛沫に足元を濡らしながら赤い岩石が目立って増える急な沢に高度を稼ぎます。二又からは大小の滝が七ヶ所連続しますが、最初は二段8mの滝で、そこは右岸を巻きます・・・・・」
沢と尾根の概念図 佐藤氏はこの後p126から和賀山塊の「沢と尾根の概念図」を見開き7枚も載せている。私が歩いたのはこのうち三つ、真木渓谷・北部と南部、それに部名垂沢のみである。残りの川口川水系、抱返り渓谷、堀内沢水系、生保内川水系には入ったことはない。まあ、川口川水系を除き、難しそうだ。
5章マタギの森
今は伝説と化したマタギの話。マタギの末裔との交流については田口洋美氏の越後三面山人記で読んだが、ここに出てくるのは最盛期のマタギに関する記録、そして和賀山塊に残るマタギ伝説とマタギ小屋の跡。秋田のマタギの研究記録として、武藤鉄城「秋田マタギ聞書」、高橋文太郎「秋田マタギ資料」、戸川幸夫「マタギ・狩人の記録」(「ほたる火の森」)、太田雄治「消えゆく山人の記録・マタギ」などがあり、「戦国の混乱期のあと、流浪の武士が辺境の山地に流れ落ち、狩人となり鳥獣を捕らえて食糧にあてて自由な暮らしをしていたものらしい・・・・明治になってから、とくに阿仁のマタギ衆は熊の胆や熊の皮、そして山で採った多種類の薬草で調合した薬などを金に換えるべく広く販路を求めて行商の旅に出るようにもなりました」というが、一方「狩りのために山入りしたときは里の言葉は一切使わず、すべて山言葉の隠語で話した」という厳しい戒律は三面にも通じている。戸川幸夫「ほたる火の森」には、白岩岳の肩の尾根が『十分尾根』と呼ばれ、それを経て堀内の狩場に向かったとあり、たぶん堀内沢まで降りたのだろう。林道がないと大変だ。佐藤氏はその堀内沢の支流マンダノ沢の一つ手前にあるオイノ沢の沢べり台地にマタギ小屋を見た。すでに狩のための役割を終えているその小屋について、佐藤氏は「泊まりに利用させてもらったことはありません・・・・ブナ林の寝床の方がはるかに快適」と述べ、「今では過去の夢物語となったマタギ文化と歴史の終焉を見守り、静かに朽ち果てるのを待つというのもマタギの先人たちに対する礼儀」と語る。三面の山人の末裔も、子供たちには町に行くように言い、苦しいばかりの自分たちの生活文化を伝承しようとはしなかったのだから、佐藤氏は恐らく正しい。マタギの文化の伝承は文書や記念館などによるべきだろう。
畔:あぜ
生保内マタギ夜話 これは昭和52年、生保内のマタギ歴30年以上のベテラン、御崎哲治さんの昔話。生保内川の支流、ショトメノ沢(シトナイ沢?)周辺が狩場で、双眼鏡、ライフル、鉈、マッチ、解体用の刃物と野営に使うビニールシート一枚、食糧は最小限、というのはなかなか厳しそう。『コブ熊』という「この山塊で最も大きいと言われている幻の熊」がいたそうで、30㎝もある足跡に大きなコブの足跡があったが、ついに捕らえることはできなかったという。
山の掟 マタギという言葉の範囲は、厳格な掟を遵守していた組で熊狩りする集団から、一般の狩猟家まで含めることもあるという。本書の作者の一人、佐藤隆氏は若いころ、白岩マタギについて和賀山塊を歩き、マタギの生き方、技術、知恵を身につけたという。そして白岩マタギのなかに彼と同姓同名の佐藤隆、通称タカシュウがおり、戸川幸夫の『雪崩の森』のモデルにもなった熊打ちの名人らしい。掲載されている写真はなんと二ノ沢畚に立つタカシュウさんで、背景は朝日岳。あの急峻な二ノ沢畚にも軽々と登ってしまう訳だ。
Ⅵ 巨樹の森
小影山 この山は白岩岳の北にある標高557mの山で、頂上付近にブナの大木があり、眺めもいいらしい。正式の登山道は無いが、送電線に添って点検路や踏跡があるらしい。佐藤氏はしきりに「整備されていない」「巨樹保護のため、団体入山を控えてほしい」と訴えながらも、ずいぶんこの山の魅力を並べ立てる。是非行ってみよう。
「出発点から神代ダムまではおよそ3時間半の行程です。・・・・抱き返り渓谷の遊歩道を1時間半ほど歩いて抱き返り神社に戻ってもいい・・・・・行太沢遊歩道に入り、百尋ノ滝まで歩くと一日の山歩きとしては十分すぎるものとなります」
白岩岳の日本一ブナ アマサケ尾根(行太尾根(白岩岳から北に延びる全長4㎞の尾根)の西隣)の標高500mあたりの台地に樹齢400~500年以上と思われる通称「雪地蔵」の巨大ブナがある。ここに行くには抱き返り渓谷の左岸から大相沢林道を登り、アマサケ長根の乗越から北へ1.5㎞ほど。獣道程度の踏跡、大相沢林道も悪路。
ミズナラ巨木林 甘露水の上部にあるスギ林を抜けた登山道脇にミズナラ巨樹林があり、旧道分岐の広場から登山道を進むとそのあたりで最大のミズナラの古木がある。
「ドイツの古い諺に『雷が来たらブナは避けてミズナラ(オーク)を探そう』というのがあります。ミズナラの根は地中に深く根を伸ばす性質があり、根張りの浅いブナとの性質の違いを示しています。つまり、ミズナラの根がアースとなって地中に電気を流すため、幹の中だけが焼けて空洞を作るのだと思います」
行太の森(クリの巨樹) 日本で二番目に大きいというクリの巨樹が行太沢右岸の原生林にある。百尋の滝がある行太沢の右岸にせりあがる急斜面の森の中。行太沢歩道の途中に「日本一のクリ」(現在は二番目)の標識もあるが、一般的に軽く行けるところではない
オブ山の大杉 黒沢大台山の北方下部にあるオブ山(715m?)付近にあり、川口林道の案内標識に従って川口川の左岸の急な森の道をたどって容易に行くことができるが、登りは急。
Ⅶ.紀行と記録から
生保内川遡行 これは8月26日から二泊三日で朝日岳に遡行した記録。植生調査チーム6人に女子美大ワンゲル部員4人の大所帯(「東京女子美大」というのは無いから、たぶん間違い)。一日目、R46仙岩道路の大平トンネル西口手前から急斜面の排水溝に沿って大平沢出合まで下り、荒れた生保内川林道を歩き、大黒沢、オソダテ沢の出会いを過ぎ、最終砂防ダムの先の広河原から本格的な遡行、岩屋沢の出会いを過ぎ、標高500m付近の上奥沢の出会いでキャンプ、燃える焚火と無数の星。二日目、谷が狭くなり、ゴルジュの魚止の滝を左岸から大きく高巻き、シュトメ沢出合を過ぎて更に狭く落差が大きくなり、15m滝の左岸を高巻き、大荒沢出会付近から西に方向を変え、2、3mの滝が連続、志度内畚と朝日岳に挟まれた核心部では5m内外の滝が連続、次第に水量が減り、滝がなくなって赤いナメ床、最後の支流出会を過ぎて水枯れ、水補給を考え、部名垂沢源頭に近い稜線にテントを張る、草原の花に田沢湖の情景。三日目、お花畑の中の微かな踏跡を登っていくとベニヒカゲがいて、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」とう詩を思い浮かべ、燦然と輝く頂上に到達。この沢はとうてい、私には無理だろう、部名垂沢から登った時は花畑の中を登って頂上の石標を見たし、雪尾根で一泊して登った時は真っ白に輝く志度内畚と朝日岳を遠望できたが、頂上に着いた時は猛吹雪になっていた。もう一度、今度は岩手側から雪尾根を辿ってみよう。
p183 東京女子美大→女子美術大学?:東京藝術大学が日本の美大の頂点に君臨していることに異論はないと思いますが、それに続く私学のトップグループとしていわゆる「五美大」「四美大」と呼ばれる学校群があります。多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京造形大学、女子美術大学、日本大学芸術学部の5大学になります。bidai-geidai.com
p187 韃靼海峡:アジア大陸とサハリン(樺太)島を分ける海峡。北はオホーツク海,南は日本海に通じる。広い海域をとった場合にタタール海峡(韃靼(だつたん)海峡)と呼び,最も狭い部分を間宮海峡(ロシア名はネベリスコイ海峡Proliv Nevel’skogo)と区別して呼ぶ例もある。最狭部の幅は約7.3km,深さは最浅部で約8m。冬には結氷して徒歩で結ばれる。1808‐09年(文化5‐6)江戸幕府の命で樺太を探検した間宮林蔵は,09年夏にサンタン船で海峡を西に渡り,樺太が島であることを明らかにした。… コトバンク
堀内沢源流・八滝沢(ほりない、やたき) これは9月15日にやはり2泊3日で堀内沢(上流で八滝沢と名前を変える)を遡行して和賀岳に登った記録、植物研究者3人を、地元の調査グループ7人がサポートする植物調査が主目的。1日目、夏瀬の吊橋を渡り、堀内沢林道から入り、中洲の森を過ぎて本格遡行、朝日沢出合、シャチアシ沢出合、大きなワニ岩を過ぎ、マンダノ沢出合付近で野営、オイノ沢対岸付近。2日目、マンダノ沢出合を過ぎると落差が大きくなり、5mほどの広い滝を先頭がロープを張って越える、そのあたりで堀内沢は八滝沢と名を変え、深いトロやゴルジュ帯は右岸を大きく高巻き、その先で沢は大きく東に湾曲、岩の難場をロープを固定して通過、源頭部は傾斜がないが、水涸れから猛烈なブッシュとなり、格闘の末、1,412mピーク付近の稜線に到達、登山道から来たサポート隊と合流し、和賀岳の北側の雪田草原に野営。3日目、和賀岳頂上で、八滝沢を遡行してきた青森県の男女ペアに会う。佐藤氏でも、「年齢と共に険しさと長さが増す」という。この沢も私には無理だろう。特に源頭のブッシュは考えただけでいやになる。まあ、登山道から見下ろすだけにしておこう。
雪の青シカ山 これは和賀連峰の南、川口川の上流にある登山道の無い山で、川口川の沢登りが難しいため、残雪期を利用して登り、雪尾根を歩いて周辺の諸峰を周回したもの。杉崎権現山というのは頂上に三角点と神社マークがあるが、登山道はあるのだろうか? その杉崎権現山の立つ二俣の手前で、川口川右岸のニッピヤ沢右尾根を登る。急な尾根を標高700m付近まで登ると緩くなり、大台814mから東に延びる稜線に乗り、兎岱872m、貝峰906mを経て青シカ山987mの広い雪原頂上に着く。そこから更に東に稜線を辿り、風鞍1,023m、南に向かう稜線に乗り換え、南風鞍1,020m、南西尾根を下り、850mピーク、山中岳810mから雪斜面を下って川口林道の終点近くに出て、荒れた林道を歩いて帰着。簡単そうに書いてあるが、楽ではなさそうだ。私が行くとすれば、一度登ったことのある大台から稜線を辿り、風鞍あたりで引き返しか?
厳冬の朝日岳 包丁峰の第三尾根を1月4日に登ったこの記録はずいぶん無茶だという気がする。1日目、夏瀬ダムまで車で入り、雪道を部名垂沢沿いに歩き、尾根に取り付く手前でツエルトでビバーク。2日目、包丁峰の第三尾根をワカンに大きなザックを背負って登り、ブッシュに捉まり、ナイフリッジの雪を崩し、ザイルで確保し、包丁峰に着き、そこから吹雪の朝日岳頂上に到達し、稜線に下ってビバーク。3日目、部名垂沢右岸の長い尾根を下る。私が2014年2月23日にテント1泊で登ったのは熊越1,084mという志度内畚の西にあるピークの西尾根で、熊越手前にテントを張り、翌日、尾根を南にたどって吹雪の朝日岳頂上に到達した。アプローチも夏瀬ダムではなくて、廃棄物処分場に至る北の林道。この尾根も楽ではなく、どうやら岩手側の貝沢地区から夏道のある雪尾根をたどり、大荒沢岳から夏道のない北西尾根を1㎞ほどで朝日岳というのが一番楽なようだ。もう一度、朝日岳に登ってみたい。
結局、佐藤氏と藤原氏のこの本は、和賀山塊の自然を守るという地元民、山を愛する人としての記述が主体となっているが、読んでいて最も心を惹かれ、ワクワクしたのは迫真の登山の場面。最後の4つの山旅は、特に二つの沢遡行は私には絶対に無理なのだが、そこの沢の情景が目の前に浮かび、雪山の真っ白な景観、それが吹雪くと全く見えなくなってしまう、そんな情景も次々に連想され、熱い思いが呼び覚まされた。私はもうあと何度、和賀連峰に行くだろう。とりあえずは今年、白岩岳に登り、朝日岳にももう一度登りたいと思っているが、この本に記載のある小影山にも登ってみたいし、一度しか登っていない和賀岳にももう一度、登ってみたい。いろいろと、山への憧憬を新たにさせてくれた本だった。
ヒメギフチョウ
リシリシノブ
シロウマアサツキ
ヒナチドリ
ショウキラン
ニッコウキスゲ
アケボノスミレ
ヤハズトウヒレン
和賀山塊概略図
p20 縄モッコ
p58 タガネソウ
p58 タムラソウ
p58 ノギラン
p58 筬(おさ)
p59 オオバツツジ
p59 トガクシショウマ
p59 ミネヤナギ
p59 リシリシノブ
p61 アオモリマンテマ
p62 オサバグサ
タカネセンブリ
p63 ミチノククワガタ
p76 真木鉱山跡(金堀沢、中ノ沢)
p76 真木山鉱山跡(袖川沢の最上流、竹ノ沢)
p77 川口鉱山跡(杉崎権現山722.4m の東部山麓)
p86 真木渓谷
p91 ヘビノネゴザ(金山草)
甲山 和賀岳、薬師岳、白岩岳の次は曲甲、地理院地図には甲山と記載されているが、やはり曲甲の方が一般的なようだ。真木渓谷から見える姿はまさにその通り。そこに至る甘露水から両日沢を渡り、涼見長根を登る道は私が2013年に登った道。昔は無かったその道から中ノ沢岳への道が整備され曲甲頂上に向かう道も手違いで刈り払われてしまったとあるが、2013年には中ノ沢岳への道はあったが、曲甲への道はヤブ化していて、2018年に中ノ沢岳に登ったときはその道も完全にヤブに埋もれ、涼見長根の道までヤブと化していた。この本の趣旨からすると、それで良いのだろうか。後段で佐藤氏は薬師岳南壁を登った記録を載せているが、最後は垂直になるこの岩壁を登るとは・・・・イブキジャコウソウやイワベンケイ、ウスユキソウが咲いていたという。
p113 曲甲(両日沢、涼見長根、大甲)
p115 オクトリカブト
朝日岳 私は羽後朝日岳には2度登った。最初は2007年2月に雪尾根を目指したが断念、その年の7月に部名垂沢を登って初登頂。頂上の石標を見たときはうれしかった。そして2014年に雪山テント泊で2度目の登頂。この時は途中まで晴れていたのに頂上に着いたときは吹雪で、コチコチの頂上だった。苦労した分、この山には思い入れが強い。生保内川からの沢登も魅力があるが、私には無理だろう。岩手川からのスキー登山が意外に楽かもしれない。さて、佐藤氏はここでは部名垂沢ルートについて詳しく記載している。二ノ沢出会というのは記憶にないが、二俣の奥に見えた垂直に近い包丁尾根からの沢はまぶたに焼き付いている。その後、残置ロープに助けられていくつか滝を登り、やがて涸れ沢になってからもずいぶんかかった記憶があるが、佐藤氏の記載には「二又からは大小の滝が七ヶ所連続」とあり、そんなにたくさんあったとは思わなかった。確かに、残置ロープがないと難しかったと思う。山頂の石標は「昭和3年、地元生保内の山好きによって担ぎ上げられた貴重な碑・・・・・石標設置の話は藤原優太郎著『秋田・源流の山旅』(無明舎出版)に詳しく載せられています」とある。この山は登山道がないのになぜか旧「秋田県の山」にも記載されていて、沢ルートと雪山ルートがあると記載されていた(私の登ったルートはこの二つ)。思い出深い山である。
「部名垂沢遡行の核心部は二又から左に本流を詰めあがるあたりから始まり、傾斜もぐんときつくなってきます。滝の飛沫に足元を濡らしながら赤い岩石が目立って増える急な沢に高度を稼ぎます。二又からは大小の滝が七ヶ所連続しますが、最初は二段8mの滝で、そこは右岸を巻きます・・・・・」
p121 朝日岳・部名垂沢
p148 十分長根と白岩岳、オイノ沢とマンダノ沢
小影山 この山は白岩岳の北にある標高557mの山で、頂上付近にブナの大木があり、眺めもいいらしい。正式の登山道は無いが、送電線に添って点検路や踏跡があるらしい。佐藤氏はしきりに「整備されていない」「巨樹保護のため、団体入山を控えてほしい」と訴えながらも、ずいぶんこの山の魅力を並べ立てる。是非行ってみよう。
「出発点から神代ダムまではおよそ3時間半の行程です。・・・・抱き返り渓谷の遊歩道を1時間半ほど歩いて抱き返り神社に戻ってもいい・・・・・行太沢遊歩道に入り、百尋ノ滝まで歩くと一日の山歩きとしては十分すぎるものとなります」
p172 アマサケ尾根、500mあたりの台地に雪地蔵巨大ブナR2
白岩岳の日本一ブナ アマサケ尾根(行太尾根(白岩岳から北に延びる全長4㎞の尾根)の西隣)の標高500mあたりの台地に樹齢400~500年以上と思われる通称「雪地蔵」の巨大ブナがある。ここに行くには抱き返り渓谷の左岸から大相沢林道を登り、アマサケ長根の乗越から北へ1.5㎞ほど。獣道程度の踏跡、大相沢林道も悪路。
P173 ミズナラ巨樹林
ミズナラ巨木林 甘露水の上部にあるスギ林を抜けた登山道脇にミズナラ巨樹林があり、旧道分岐の広場から登山道を進むとそのあたりで最大のミズナラの古木がある。
p176 行太の森(クリの巨樹)
行太の森(クリの巨樹) 日本で二番目に大きいというクリの巨樹が行太沢右岸の原生林にある。百尋の滝がある行太沢の右岸にせりあがる急斜面の森の中。行太沢歩道の途中に「日本一のクリ」(現在は二番目)の標識もあるが、一般的に軽く行けるところではない
p177 オブ山の大杉
オブ山の大杉 黒沢大台山の北方下部にあるオブ山(715m?)付近にあり、川口林道の案内標識に従って川口川の左岸の急な森の道をたどって容易に行くことができるが、登りは急。
生保内川遡行 これは8月26日から二泊三日で朝日岳に遡行した記録。植生調査チーム6人に女子美大ワンゲル部員4人の大所帯(「東京女子美大」というのは無いから、たぶん間違い)。一日目、R46仙岩道路の大平トンネル西口手前から急斜面の排水溝に沿って大平沢出合まで下り、荒れた生保内川林道を歩き、大黒沢、オソダテ沢の出会いを過ぎ、最終砂防ダムの先の広河原から本格的な遡行、岩屋沢の出会いを過ぎ、標高500m付近の上奥沢の出会いでキャンプ、燃える焚火と無数の星。二日目、谷が狭くなり、ゴルジュの魚止の滝を左岸から大きく高巻き、シュトメ沢出合を過ぎて更に狭く落差が大きくなり、15m滝の左岸を高巻き、大荒沢出会付近から西に方向を変え、2、3mの滝が連続、志度内畚と朝日岳に挟まれた核心部では5m内外の滝が連続、次第に水量が減り、滝がなくなって赤いナメ床、最後の支流出会を過ぎて水枯れ、水補給を考え、部名垂沢源頭に近い稜線にテントを張る、草原の花に田沢湖の情景。三日目、お花畑の中の微かな踏跡を登っていくとベニヒカゲがいて、「てふてふが一匹韃靼海峡を渡っていった」とう詩を思い浮かべ、燦然と輝く頂上に到達。この沢はとうてい、私には無理だろう、部名垂沢から登った時は花畑の中を登って頂上の石標を見たし、雪尾根で一泊して登った時は真っ白に輝く志度内畚と朝日岳を遠望できたが、頂上に着いた時は猛吹雪になっていた。もう一度、今度は岩手側から雪尾根を辿ってみよう。
p187 ベニヒカゲ
堀内沢源流・八滝沢(ほりない、やたき) これは9月15日にやはり2泊3日で堀内沢(上流で八滝沢と名前を変える)を遡行して和賀岳に登った記録、植物研究者3人を、地元の調査グループ7人がサポートする植物調査が主目的。1日目、夏瀬の吊橋を渡り、堀内沢林道から入り、中洲の森を過ぎて本格遡行、朝日沢出合、シャチアシ沢出合、大きなワニ岩を過ぎ、マンダノ沢出合付近で野営、オイノ沢対岸付近。2日目、マンダノ沢出合を過ぎると落差が大きくなり、5mほどの広い滝を先頭がロープを張って越える、そのあたりで堀内沢は八滝沢と名を変え、深いトロやゴルジュ帯は右岸を大きく高巻き、その先で沢は大きく東に湾曲、岩の難場をロープを固定して通過、源頭部は傾斜がないが、水涸れから猛烈なブッシュとなり、格闘の末、1,412mピーク付近の稜線に到達、登山道から来たサポート隊と合流し、和賀岳の北側の雪田草原に野営。3日目、和賀岳頂上で、八滝沢を遡行してきた青森県の男女ペアに会う。佐藤氏でも、「年齢と共に険しさと長さが増す」という。この沢も私には無理だろう。特に源頭のブッシュは考えただけでいやになる。まあ、登山道から見下ろすだけにしておこう。
雪の青シカ山 これは和賀連峰の南、川口川の上流にある登山道の無い山で、川口川の沢登りが難しいため、残雪期を利用して登り、雪尾根を歩いて周辺の諸峰を周回したもの。杉崎権現山というのは頂上に三角点と神社マークがあるが、登山道はあるのだろうか? その杉崎権現山の立つ二俣の手前で、川口川右岸のニッピヤ沢右尾根を登る。急な尾根を標高700m付近まで登ると緩くなり、大台814mから東に延びる稜線に乗り、兎岱872m、貝峰906mを経て青シカ山987mの広い雪原頂上に着く。そこから更に東に稜線を辿り、風鞍1,023m、南に向かう稜線に乗り換え、南風鞍1,020m、南西尾根を下り、850mピーク、山中岳810mから雪斜面を下って川口林道の終点近くに出て、荒れた林道を歩いて帰着。簡単そうに書いてあるが、楽ではなさそうだ。私が行くとすれば、一度登ったことのある大台から稜線を辿り、風鞍あたりで引き返しか?
厳冬の朝日岳 包丁峰の第三尾根を1月4日に登ったこの記録はずいぶん無茶だという気がする。1日目、夏瀬ダムまで車で入り、雪道を部名垂沢沿いに歩き、尾根に取り付く手前でツエルトでビバーク。2日目、包丁峰の第三尾根をワカンに大きなザックを背負って登り、ブッシュに捉まり、ナイフリッジの雪を崩し、ザイルで確保し、包丁峰に着き、そこから吹雪の朝日岳頂上に到達し、稜線に下ってビバーク。3日目、部名垂沢右岸の長い尾根を下る。私が2014年2月23日にテント1泊で登ったのは熊越1,084mという志度内畚の西にあるピークの西尾根で、熊越手前にテントを張り、翌日、尾根を南にたどって吹雪の朝日岳頂上に到達した。アプローチも夏瀬ダムではなくて、廃棄物処分場に至る北の林道。この尾根も楽ではなく、どうやら岩手側の貝沢地区から夏道のある雪尾根をたどり、大荒沢岳から夏道のない北西尾根を1㎞ほどで朝日岳というのが一番楽なようだ。もう一度、朝日岳に登ってみたい。