深田は自身の故郷の山である白山について、全ページに渡って賛美の言葉を並べる。
故郷の町のどこからでも見えたこと、12月中旬には真っ白になること、アルプスと八ヶ岳に次いで高いこと、古くから駿河の富士山、越中の立山、加賀の白山は日本三名山と呼ばれたこと、深田の故郷の町からの眺めが最上であること、遮るもののない早暁の静寂な白山、夕方、日本海に沈む太陽の余映を受けてバラ色に染まる白山、北陸の冬の晴れた夜、青い月光を受けて水晶細工のような白銀の白山、僧泰澄によって、717年に我が国で最も早く開けた山の一つであること、万葉集や古今和歌集以降にも詠まれ、弁慶と義経、芭蕉はこの山を仰ぎながらその下を通ったこと、欧州のモンブラン、ヒマラヤのダウラギリと同じ白い山は日本では白山であること、祭神の比咩神は女神であり、白山の優美な姿にマッチしていること、そして、「仰いで美しいばかりでなく、登っても美しい山であること」、頂上の三峰と御池巡りの天然の庭園のような景観や、原始のままの部分が残されていること、全てが数行で打ち切られているが、「語りだせがきりがない」だろう。
深田は中学生のときに白山に初めて登ったとき山岳開眼したというが、私にとってそれは小学生のときの秋田の森山であり、中学校のときの鳥取の大山であり、成年してから住んだ青森の八甲田山であった。どれも当時の自宅の町から良く見えた。
八甲田・大岳には10回以上登った。夏の花めぐりや秋の紅葉、南八甲田の峰々にも登ったが、雪山にスキーで登るのが一番多かった。今はもう、八甲田こそが私のふるさとの山だろう。
一方、私は白山には2度登った。最初は5月にスキーを担いで登り、室堂に泊って翌日、雪の三峰と御池巡りをした。2度目は最近、北縦走路を三方岩岳から下り、ゴマ平小屋に泊まって御前峰まで登った。このときの景観については深田も書いていない。山域が広大なのに日本アルプスや八ヶ岳のようにあまり車道が内部にまで及んでおらず、特に近年は雪が少ないので雪山の白山でスキーをするのが難しくなっているようである。
数年前、スキーを担いで市ノ瀬から別山に登ろうとして果たせず、夏靴とアイゼンでようやく登ったが、頂上から雪尾根は是非スキーで滑りたかった。次は夏山で南縦走路を別山まで、市ノ瀬から御前峰と大汝峰、四塚山に登ってみたい。何度登っても尽きせぬ山なのだろうが・・・・。
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深田は自身の故郷の山である白山について、全ページに渡って賛美の言葉を並べる。故郷の町のどこからでも見えたこと、12月中旬には真っ白になること、アルプスと八ヶ岳に次いで高いこと、古くから駿河の富士山、越中の立山、加賀の白山は日本三名山と呼ばれたこと、深田の故郷の町からの眺めが最上であること、遮るもののない早暁の静寂な白山、夕方、日本海に沈む太陽の余映を受けてバラ色に染まる白山、北陸の冬の晴れた夜、青い月光を受けて水晶細工のような白銀の白山、僧泰澄によって、717年に我が国で最も早く開けた山の一つであること、万葉集や古今和歌集以降にも詠まれ、弁慶と義経、芭蕉はこの山を仰ぎながらその下を通ったこと、欧州のモンブラン、ヒマラヤのダウラギリと同じ白い山は日本では白山であること、祭神の比咩神は女神であり、白山の優美な姿にマッチしていること、そして、「仰いで美しいばかりでなく、登っても美しい山であること」、頂上の三峰と御池巡りの天然の庭園のような景観や、原始のままの部分が残されていること、全てが数行で打ち切られているが、「語りだせがきりがない」だろう。
深田は中学生のときに白山に初めて登ったとき山岳開眼したというが、私にとってそれは小学生のときの秋田の森山であり、中学校のときの鳥取の大山であり、成年してから住んだ青森の八甲田山であった。どれも当時の自宅の町から良く見えた。低くて里山にすぎない森山には1回しか登ったことが無いが、その双耳の姿は脳裏に焼き付いている。大山には雪山で4回登り、仰ぎ見る姿とはまるで違う姿、多様な景観に驚いた。八甲田・大岳には10回以上登った。夏の花めぐりや秋の紅葉、南八甲田の峰々にも登ったが、雪山にスキーで登るのが一番多かった。今はもう、八甲田こそが私のふるさとの山だろう。
一方、私は白山には2度登った。最初は5月にスキーを担いで登り、室堂に泊って翌日、雪の三峰と御池巡りをした。2度目は最近、北縦走路を三方岩岳から下り、ゴマ平小屋に泊まって御前峰まで登った。このときの景観については深田も書いていない。山域が広大なのに日本アルプスや八ヶ岳のようにあまり車道が内部にまで及んでおらず、特に近年は雪が少ないので雪山の白山でスキーをするのが難しくなっているようである。
数年前、スキーを担いで市ノ瀬から別山に登ろうとして果たせず、夏靴とアイゼンでようやく登ったが、頂上から雪尾根は是非スキーで滑りたかった。次は夏山で南縦走路を別山まで、市ノ瀬から御前峰と大汝峰、四塚山に登ってみたい。何度登っても尽きせぬ山なのだろうが・・・・。
p368 僧泰澄:長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが僧泰澄です。泰澄は、天武天皇11年(682)に、越前(現在の福井県)麻生津(あそうず)に生まれました。幼いころより神童の誉れ高く、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山(おちざん)にこもって修行にあけくれるようになりました。霊亀2年(716)、泰澄は夢で、虚空から現われた女神に、「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。養老元年(717)、泰澄36歳のときでした。白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治したり、大流行した天然痘を鎮めるなど、華々しい活躍をします。開山から8年後の神亀2年(725)には、白山山頂で奈良時代を代表する名僧行基と出会い、極楽での再会を約束したとも伝えられています。数々の伝説を残し、「越の大徳」と讃えられた泰澄は、神護景雲元年(767)に越知山で遷化。享年86歳でした。 (石川県)
p369 比咩神:日本には、『古事記』や『日本書紀』といった奈良時代初期に完成した古い歴史書に見られる神々を祭神とする神社が数多く存在します。全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮である白山比咩神社の祭神「白山比咩大神(=菊理媛尊)」も『日本書紀』に登場する女神のひとりです。『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原(たかまのはら)に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)でした。この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。白山比咩神社では、菊理媛尊とともに伊弉諾尊・伊弉冉尊も祭神として祀られています。菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。