ここで最初に深田が語るのは「笠の形」のことで、「多くの笠の筆頭に挙げられるのは北アルプスの笠ヶ岳・・・・どこから望んでも笠の形を崩さない」と指摘する。私が初めて笠ヶ岳を見たのは穂高岳に登る途中の白出コルからだと思うが、それは文庫本の写真にある抜戸岳と並んだ幅広の姿。だからこの笠も幅広である。その後、私は笠ヶ岳をいろんな方角から見たが、笠の形は微妙に変わっているように思われる。
一番感動的だったのは雪の杓子平から見上げた朝の笠ヶ岳で、それは小笠を右側に従え、台形の頂上で立っていた。距離が近いとその頂上は台形に見える。一方、やや離れた寺地山付近から見た笠ヶ岳はてっぺんが尖った幅広の笠に見える。真白なこの鋭鋒もまた印象的だった。
次に深田が語るのは登頂者の話で、初登頂者は円空(1683年頃)、次が南裔上人(なんえい)(1782年)、そして播隆上人(1823年)。播隆が登った時は2度とも阿弥陀仏の御来迎があったと書き、2ページ後で深田が登った時も御来迎があり「阿弥陀仏ならぬ自分の影を見出した」とさりげなくブロッケン現象のことを書いているのは、いかにもクール。
珍しく後半2ページは山紀行の文章となり、深田は双六小屋から稜線上を歩いて笠ヶ岳に向かう。ここを歩くと谷を隔てて東には槍・穂高の大障壁が連なっており、一方、深田の歩いている稜線は「尾根筋は広く、高原のようにのんびりとした所もあって、一夜テントで過ごしてみたいような池沼をもつ風景もあった。殊に抜戸岳を経て笠までの間は全く天然公園のように美しく、匐松が褥を敷き、その蔭に逃げ込む雷鳥の姿も見られた」。
深田は笠ヶ岳の頂上で石仏を見ていて、「その磨滅した石面を探ると、文政七年、迦多賀岳という文字が読めた」と記しているが、私が登った時は見ていない。雪に埋まっていたか、祠の中だったのだろう。一方、深田が登った時は周囲は霧で、播隆上人のように槍ヶ岳を見ることはできなかったのだが、私は笠ヶ岳の頂上から槍ヶ岳の姿を確かに見た。
深田はその日のうちに槍見温泉に下り、「この道は長かった」と書いているが、私が下った笠新道から新穂高までの道も長かった。ただし、このとき抜戸岳頂上からの杓子平滑走は実に爽快で、最高の想い出の一つになっている。
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ここで最初に深田が語るのは「笠の形」のことで、「多くの笠の筆頭に挙げられるのは北アルプスの笠ヶ岳・・・・どこから望んでも笠の形を崩さない」と指摘する。私が初めて笠ヶ岳を見たのは穂高岳に登る途中の白出コルからだと思うが、それは文庫本の写真にある抜戸岳と並んだ幅広の姿。だからこの笠も幅広である。その後、私は笠ヶ岳をいろんな方角から見たが、笠の形は微妙に変わっているように思われる。
一番感動的だったのは雪の杓子平から見上げた朝の笠ヶ岳で、それは小笠を右側に従え、台形の頂上で立っていた。距離が近いとその頂上は台形に見える。一方、やや離れた寺地山付近から見た笠ヶ岳はてっぺんが尖った幅広の笠に見える。真白なこの鋭鋒もまた印象的だった。
次に深田が語るのは登頂者の話で、初登頂者は円空(1683年頃)、次が南裔上人(なんえい)(1782年)、そして播隆上人(1823年)。播隆が登った時は2度とも阿弥陀仏の御来迎があったと書き、2ページ後で深田が登った時も御来迎があり「阿弥陀仏ならぬ自分の影を見出した」とさりげなくブロッケン現象のことを書いているのは、いかにもクール。
珍しく後半2ページは山紀行の文章となり、深田は双六小屋から稜線上を歩いて笠ヶ岳に向かう。ここを歩くと谷を隔てて東には槍・穂高の大障壁が連なっており、一方、深田の歩いている稜線は「尾根筋は広く、高原のようにのんびりとした所もあって、一夜テントで過ごしてみたいような池沼をもつ風景もあった。殊に抜戸岳を経て笠までの間は全く天然公園のように美しく、匐松が褥を敷き、その蔭に逃げ込む雷鳥の姿も見られた」。
深田は笠ヶ岳の頂上で石仏を見ていて、「その磨滅した石面を探ると、文政七年、迦多賀岳という文字が読めた」と記しているが、私が登った時は見ていない。雪に埋まっていたか、祠の中だったのだろう。一方、深田が登った時は周囲は霧で、播隆上人のように槍ヶ岳を見ることはできなかったのだが、私は笠ヶ岳の頂上から槍ヶ岳の姿を確かに見た。
深田はその日のうちに槍見温泉に下り、「この道は長かった」と書いているが、私が下った笠新道から新穂高までの道も長かった。ただし、このとき抜戸岳頂上からの杓子平滑走は実に爽快で、最高の想い出の一つになっている。(穴毛沢に雪が無かったのでスキーを担いで笠新道を登り、杓子平にテント泊。翌日、杓子平から笠ヶ岳を往復し、下山。)
p246 円空:1632〜95 江戸前期の禅僧。円空仏の作者 、美濃(岐阜県)の人。美濃池尻の弥勒 (みろく) 寺を再興。鉈 (なた) 一丁をたずさえ諸国を巡遊,生涯12万体を目標に各所に一刀彫りの独特の木彫仏を残した。遺作は,確認されるだけで5,000体を数え,中部地方を中心に西は近畿,東は東北・北海道に及ぶ。
p247 南裔上人:天明2年(1782)に南裔(なんねい)上人が阿弥陀、薬師、不動、大日の四尊の奉納を行った。 ・・・・・・南裔は、享保15年(1730)旧丹生川村三ノ瀬の山下喜右エ門の家で生まれた。7歳のとき叔父さんにあたる高山宗猷寺の9世桃瑞禅師に稚児として預けられ、9歳の時得度して名を楚雄と改める。後年桃瑞の示寂とともに10世として法燈を継いだ。・・・宗猷寺(臨済宗)・・・・江戸で仏典を学研究する傍ら三井親和(みついしんな)に書と篆刻を学んだ。書は宗猷寺、生家の山下家などに残っている。号は眞龍峰、龍王主席などと称した。なお、宗猷寺は臨済宗妙心寺派に属し、寛永9年金森重頼、及び舎弟重勝の建立で、妙心寺前住、南叟和尚が開山した。南裔の南はその一字を継いだようだ。寺名の宗猷は、建立者の重勝の法名が微雲宗猷であったためである。寺の山号は眞龍山というのでこれが南裔の号になっている。晩年は花里町の天満森に隠棲し、同所で入寂。七十七歳。