この章で深田はまず清水峠を越えて付けられた旧上越街道のことを述べ、その旧街道沿いの連峰のなかで一番立派なのが巻機山と紹介する。今は鉄道も車道もトンネルになったから、「隠れた美しい山」ということになるのだが、今では登山仲間で巻機山を知らぬ人はいないだろう。
深田が二つ目に述べるのは越後の文人で風土研究家の鈴木牧之。牧之が「その形竜躍り虎怒るがごとく、奇々怪々言ふべからず」と形容した破目山(われめき)を深田は巻機山前峰の天狗岩に違いないと断定している。天狗岩は深田が「黒々とした岩峰がニョキッと立っている」の通りに見え、竜や虎というのはかなり誇張だが、目立っていることは間違いない。
そして深田はなぜこの天狗岩=破目山がその背後の割引山の名前に取り間違えられたのかの当時の混乱を推論し、ついでに威守松山の名も阿部衛門尉から来たのではないかと語るが、破目(われめき)→割引はともかく、衛門威(えもんじょう)→威守松というのはどうだろう?
そして最後に深田はスキーで巻機山に登る。彼が登った4月8日は雪深く、井戸尾根の二つの急登、桧穴ノ段と上桧穴ノ段を登って前山(前巻機山)、そこから巻機山頂上まで30分足らず。私が登ったのは4月30日で雪はだいぶ減っていて、最初の桧穴ノ段まではスキーを担いで登ったが、中段から上は雪はたっぷりあった。
深田は前巻機山と巻機山の間のコルは「雪が消えるとお泉水が幾つも現われ、ナンキンコザクラの敷き咲く気持ちのいい所」と記しているが、その頃にも登ったことがあるのだろう。私は巻機山に登ったのは1度だけだが、周辺の山々からその左右に尾根を伸ばした巨大な姿を何度も見た。大きな山である。
阿寺山から途上から見た巻機山: どんどん視界が広がり、右手に巻機山が見えてくる。左右に尾根を伸ばした巨大な姿。平らな頂上稜線の中央に牛ヶ岳(手前)と巻機本峰(奥)が重なり、右ピークが割引岳だろう
こんなに雪があるのに、巻機山の頂上も丸く雪が融けていた。巻機山頂上の標識は紐で両側から吊るしたもの。表と裏に巻機山頂と書いてある。このほうが雪や風に強いのだろうか。
MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM
この章で深田はまず清水峠を越えて付けられた旧上越街道のことを述べ、その旧街道沿いの連峰のなかで一番立派なのが巻機山と紹介する。今は鉄道も車道もトンネルになったから、「隠れた美しい山」ということになるのだが、今では登山仲間で巻機山を知らぬ人はいないだろう。
深田が二つ目に述べるのは越後の文人で風土研究家の鈴木牧之。牧之が「その形竜躍り虎怒るがごとく、奇々怪々言ふべからず」と形容した破目山(われめき)を深田は巻機山前峰の天狗岩に違いないと断定している。天狗岩は深田が「黒々とした岩峰がニョキッと立っている」の通りに見え、竜や虎というのはかなり誇張だが、目立っていることは間違いない。そして深田はなぜこの天狗岩=破目山がその背後の割引山の名前に取り間違えられたのかの当時の混乱を推論し、ついでに威守松山の名も阿部衛門尉から来たのではないかと語るが、破目(われめき)→割引はともかく、衛門威(えもんじょう)→威守松というのはどうだろう?
そして最後に深田はスキーで巻機山に登る。彼が登った4月8日は雪深く、井戸尾根の二つの急登、桧穴ノ段と上桧穴ノ段を登って前山(前巻機山)、そこから巻機山頂上まで30分足らず。私が登ったのは4月30日で雪はだいぶ減っていて、最初の桧穴ノ段まではスキーを担いで登ったが、中段から上は雪はたっぷりあった。
深田は前巻機山と巻機山の間のコルは「雪が消えるとお泉水が幾つも現われ、ナンキンコザクラの敷き咲く気持ちのいい所」と記しているが、その頃にも登ったことがあるのだろう。私は巻機山に登ったのは1度だけだが、周辺の山々からその左右に尾根を伸ばした巨大な姿を何度も見た。大きな山である。
阿寺山から途上から見た巻機山: どんどん視界が広がり、右手に巻機山が見えてくる。左右に尾根を伸ばした巨大な姿。平らな頂上稜線の中央に牛ヶ岳(手前)と巻機本峰(奥)が重なり、右ピークが割引岳だろう
こんなに雪があるのに、巻機山の頂上も丸く雪が融けていた。巻機山頂上の標識は紐で両側から吊るしたもの。表と裏に巻機山頂と書いてある。このほうが雪や風に強いのだろうか。
割引岳
雪原斜面の左手には黒々とした天狗岩、
p126 鈴木牧之:すずきぼくし(1770―1842)江戸後期の文人。越後(えちご)の塩沢(しおざわ)(新潟県南魚沼(みなみうおぬま)市)に生まれる。幼名は弥太郎、16歳で元服して名を儀三治(ぎそうじ)と改める。牧之は俳号である。生家は縮(ちぢみ)の仲買商であったが、牧之は子供のころから書画に親しみ、人並み外れた才能を示したといわれる。一方、家業を継ぐための修業にも励み、16、17歳ごろまでには商人に必要な知識をひととおり会得した。19歳のとき縮を商うため初めて江戸に出るが、商売のかたわら書を学んでいる。20歳のときに家業を継ぎ、商売繁盛に努めたが、やがて多忙な時間を割いて越後の風土の研究を行うようになってゆく。『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』『秋山記行(あきやまきこう)』はその代表作である。交友関係も多彩で、山東京伝(さんとうきょうでん)、滝沢馬琴(ばきん)(曲亭馬琴)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)などとも交流があった。なお、牧之の生まれ故郷の塩沢に、1989年(平成1)鈴木牧之記念館が開館し、関係資料が一般公開されている。