1934年(2021年11月20日読了)
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あとがきで深田は、彼が学問的な研究をしている訳でもなく、輝かしい登攀の記録もないから、山岳家の資格はない、と述べている。つまり当時はまだ、深田流の「楽しむ登山」というのは世に流通していなかったということだ。挿入した写真のほうが文章よりも遥かに値打ちがるに違いないともあるが、この文庫本に挿入された写真は最終章の吉村君のものだけ。これはたぶん、編集者の方がモノクロの昔の写真よりも深田の文章の方に価値を認めたということだろう。
山口輝久の名文解説は三つのことを言っていると思う。一つは深田久弥の功績、「山の文章を文学の域まで高めた」ことの背景として、「文章はあくまで平易で気取りや粉飾がなく、そこから真に山を愛した人間の正直な感想がそのまま読者に伝わってくる。それがこの著者・・・・が多くの人に信頼され、親しまれている理由であろう」と解く。二つ目は本書「わが山山」についてだが、山口の記述にはやや矛盾が見られ、「これはいわゆる名文集ではない、あえて言えば雑文集である。彫琢された完成度の高い文章の結構のかわりに、山の自然児の荒っぽくて健康な息遣いがあり、巧妙な言い回しの代わりに率直な純心の発露がある」と見事にこの本の真髄を示してみせながら、「『地図を見ながら』など山わずらいも重症になった状態を示すいい例であろう。・・・・・・付け加えるが、これは巧まざる名文である」と書いている(最初に名文でないと言いながら、後で名文だと言っている)。深田の文章は凝りに凝った名文ではなく、自然発露的な(巧まざる)名文であると言いたいのだろう。三つ目は深田のユーモア表現。奥秩父と朝日連峰で見かけたメッチェンを伊豆の踊子の域にまで書き足さなかったから、深田は小説家ではなく登山家なのだ、というのは一理あるような気もする。そして、八甲田から谷地温泉に向かうところのくだり、そこの一節を抜き出して掲載しているのは、山口もよほど面白かったからに違いない。
「上体を右肘に支えて、左手を右の膝の上に乗せて、おのずからとったこの姿勢には、しかしどこか心覚えがあった。そうだ、かって読んだ本の挿絵にこんな姿勢があった。それはゲーテが伊太利紀行の途次、カンパニアの平原を眺めているところの図であった。僕はますます得意になってその休息の姿勢をつづけた」
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冒頭にいきなりゲーテのウェルテルの悩みの冒頭の文句がドイツ語で出てくる。Wie froh bin ich dab ichi weg bin」というのはたぶん、「新たにやってきた土地での生活ぶりや交友関係、辺りの風物の素晴らしさ」なのだろう。ウェルテルのように自殺する訳ではあるまい。この訳文を調べようとすると、マカフィーが契約切れになっていたりして18時になってしまった。なんとも。
乗合自動車に乗って深田青年は八甲田に向かう。彼は前岳を見てその傾斜の美しさを讃えるが、萱野茶屋のあたりにヤナギランが咲き乱れていた、というのは見たことがない。一度歩いてみるか。橋が落ちて車が渡れなかった居繰沢というのは萱野茶屋の西にあり、今のR103はその沢の源頭よりも高い東を通っているが、当時の道はもっと西を通ていたのだろう(居繰沢でなく、品ノ沢の間違いかも)。
「山にはいりかけのあの楽しい興奮をその経験のない人にどう伝えたらよいだろう。乾ききった山恋いの情が貪るように働いて、峰一つ谷一つさえ見逃すまいとする。今、山にさしかかって僕はすでにこの興奮に捕らわれていた。真白な紙に墨をにじませるように僕は周囲の景色を思う存分心に吸い込んだが、いくら吸い込んでもなお倦むことがなかった」
こんなに薄い本なのに、読みだすと思いがつのって全く進まない。いたるところに書き留めておきたい箇所が出て来て、それを書き写しているとものすごく長くなってしまう。橋の落ちたところから深田青年は馬車に乗って酸ヶ湯に着き、大岳と星空を見て一泊する。宿では湯治客たちが楽器を演奏していたという。翌日、深田青年が辿った道はほぼ今の仙人岱まわりの登山道と同じようだ。「むき出しの真っ白な赤水沢」というのは地獄湯ノ沢のこと、「大岳と硫黄岳の鞍部のタンボ」というのが仙人岱であろう。大岳に登っている途中で「さっきのタンボが目の下にお庭のように見える。その向こうに硫黄、石倉の峰が我より低く頭を並べている」のうちの石倉は名無岳1,338mの間違いだろう(石倉岳1,202m)は硫黄岳1,360mの陰で見えないはず)。大岳の頂上に達し、ザックを置いて井戸岳、赤倉岳、赤倉沼まで往復しているのは、当時は毛無岱を通って酸ヶ湯に戻る登山道が無かったことを物語る。仙人岱を通った深田青年はそこでたくさんの花を挙げているが、もし毛無岱を通っていれば、目にした花の数は数倍になっただろう。深田青年が大岳頂上に戻ると湯治客たちがたくさん登ってきていたが、深田青年が昼寝をしている間に誰もいなくなり、寂しくなって急いで山を下りる。この日は蔦温泉まで下っているが、この途中の休憩場所に、あの名文が現われる「一本の濶葉樹・・・その根元に身を投げ出してしばらく憩うた。上体を右肘に支えて、左手を右の膝の上に載せて、おのずからとったこの姿勢にはしかしどこか心覚えがあった。そうだ、かって読んだ本の挿絵にこんな姿勢があった。それはゲーテが伊太利紀行の途次、カンパニアの平原を眺めているところの図であった。僕はますます得意になってその休息の姿勢を続けた」。
「よいどれ自動車が車の幅しかない山道をヨチヨチ上ってゆくので危なっかしいことも一通りではない。山で死ぬのならあきらめられようが、自動車でやられたのでは、などと考えるとなおさら危なっ気が増してくる。・・・・・・茅野茶屋(萱野茶屋)というのは横内と酸ヶ湯のちょうど中間のところにある。・・・・あたり一面ヤナギランの花が実に美しく咲き乱れている。・・・・・道はまた高原の中を走る。行く手にゆったりと裾を伸ばした八甲田前岳の傾斜の美しさ。謂わば大きな泥の塊に過ぎぬ山というものが、どうしてこういう美しい線を具えているのであろうか。褶曲、噴出、風化など、山を形作る自然の働きにも一定の理法があって、それはまたおのずと美の法則にも適っているのであろう。」
「向こう岸には荷馬車が4台待っていて、・・・・山から炭を運び出す荷馬車なのだが、橋が流されたため・・・自動車と連絡をとって乗客運搬に早替わりしたわけだった。僕は『有無相通ず』という言葉を思い出し、こういう山の中ではそれが造作なく実行されているのをみて、思わず微笑したい気持ちになった。僕ら三人の乗客は豪勢にそれぞれ一人で一台ずつの車を占領した。四台の荷馬車が一列に並んで進む光景は、何か巡業師の触れ込みのようで、はなはだ牧歌的だった。」
「酸ヶ湯に着いた頃は、もうこの谷合に日差しは落ちていず、正面の大岳に映えている夕色が実に見事であった。宿の座敷からもこの眺めを楽しむことができた。裏庭に面した新築の部屋で、縁に出ると、その雄大な山容が目先に迫っていた。旅館の方は客の音がほとんどしなかったが、棟続きの古い建物の方は湯治客でいっぱいだった。・・・ある部屋の入口には『理髪所』と貼紙してあったが、湯治に来ながら営業もしているのかと思うと可笑しかった。その自炊の方の建物の廊下を伝って風呂に降りていくのである。こういう山懐の風呂場ほど野趣の溢れた人間の匂いのする所はあるまい。広い浴場の中に、男女の姿が思い思いの恰好で涌湯にたんのうしている。」
「夜は良く晴れた。おどろくほどたくさんの星が見え・・・・昔熱心に覚えた星座の名前ももうだいぶ忘れかけているのに気がついた。都会にいては星を仰ぐことも稀なのである。・・・・自炊の方から盆踊りの時のように笛太鼓の音が聞こえてくる・・・・湯治客が手慰みに鳴らしているのだった。中にハーモニカやヴァイオリンさえも混じっている。そいいう西洋の楽器も、こんな山の中の湯治場で聞くと、ハイカラというよりかえって鄙びた音に響くのであった。」
「今まで見上げていた山山が自分等と同じ高さになり、その彼方に思いがけなく頭を出してくる峰峰を見つけたときの喜びは、真に山の好きな人にしか解ってもらえまい・・・・・櫛ヶ峰、横岳、駒ヶ峰等の尾根の続き具合、沢の入込かたが手に取るように見える。遥か向こうに岩木山の秀峰を望んだときには声を上げてしばらくは見惚れていた・・・・・・大岳と硫黄岳の鞍部のタンボへ出た。地上にもこういう極楽がある。ガンコウランが自然の褥を敷き、イワギキョウの紫、チングルマの黄色、その他とりどりの色模様がこの絨毯を刺繍している。」
「目指した山の頂に立ったときの喜びは言うまでもない。まず四周の大観だ。見えるみえる。我も我もとそそり立つ山山をどこから見ようかまごつくぐらいだ。・・・・岩手山・・・・森吉山・・・岩木山・・・高田大岳、雛岳・・・・北方、井戸岳、赤倉岳の向こう遥かに北海道の連山・・・・」
「八甲田山とは、前岳、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、大岳、小岳、石倉岳、高田大岳の八峰の総称であって、山中沮洳地(湿地)が多いのでこの名があるという」
ゲーテのまねをして得意だった深田青年は暗くなって蔦温泉に着く。今はもう新館も旧館も古色蒼然としている蔦温泉は、深田青年が泊まった時はなんと新館は新築直後。だがそこは大町桂月の存在感に満たされていて、それは今も同じ。木のすのこの下から温泉がごぼごぼ湧いてくるところも同じ。この後、深田青年は十和田湖に下り、船で十和田湖を渡るが、景勝で有名な十和田湖よりも高田大岳に登るべきだったと後悔している。このあたりで深田久弥は古い言い回し(漢文表現?)を連発し、万葉集の歌の解釈についてもひとくさり。こいつらを調べるだけでずいぶん時間がかかった。「榛莽荊棘(しんぼうけいきょく)」とは草木が群がり生え、イバラなどの困難が多いこと。「万葉詩人は詩的精神なぞ持ち合わさず純然たる散文的精神に満ちていた」という例として挙げた人麿の歌は、深田の友人が言う通り、一見、単なる情景描写のように思えるが、同音なので枕詞に使われている「御食向かふ」は、「巌」が神様にお供えものをする石の台と考えると、神事を指しているのでは、という解釈もあるようだ。
「大町桂月で名高い蔦温泉は旅館は一つきりしかない。僕は長い廊下を伝って新館の方の八畳へ通された。建てて間もないらしく、部屋部屋を覗いてみるとまだ畳のない室さえあったが、額と掛物だけは全部懸っている。それがすべて桂月筆であるのを見て、僕はこの万年学生然たる好好爺に対して微笑を禁じえなかった。」
「十和田に来る費用と暇があったら、僕はむしろ高田大岳へ登るべきであった。十和田へはいつでも行けるが榛莽荊棘(榛莽:「榛」ははしばみ、「莽」はくさむらの意で、ともに群がり生えるところから) 群がり茂った草木。また、その場所。しんもう。 荊棘:1 イバラなど、とげのある低い木。また、そういう木の生えている荒れた土地。2 障害になるもの。じゃまになるもの。困難の多いたとえ。「荊棘を除く」「荊棘の道を歩む」3 人を害しようとする心。悪心。「心に荊棘を持つ」)の高田大岳は年老いては登躋も不可能であろう。全く僕は順序を誤ったといって差し支えない。僕は今でもこのことをすこぶる残念に思っている。」
・「御食向ふ南淵山の巌には落りしはだれか消え残りたる」:南淵山を見ると、先日降った雪であろうか、南淵山の巌(いわお)には班雪(はだれ)が消え残っている。 「弓削皇子(ゆげのみこ)に献る歌一首」という題詞のついた歌です。「御食向ふ」は南淵山にかかる枕詞で、蜷貝(みながい)か御魚(みな)のミナの音がミナフチヤマに含まれているので南淵山に冠られています。でも、ただの枕詞ではないような・・・。「巌(いわお)」とは神様にお供えものをする石の台で、「御食向ふ」はその神事を指しているのでは?その「御食(みけ)」を供える「巌」に雪が残っている。何となく班雪(はだれ)は春の雪のような気がいたします。 (万葉散歩)
雨に降られて途中であきらめた岩木山については描写はあまり多くない。まあ、天気が悪いと心に止まるような景色にも出会えず、書くことも無くなってしまうのだが、深田はそのへんをすぐれた詩人、芭蕉の表現などをひとくさり語ってみせる。岳温泉から登り、頂上を諦めて百沢の方に下っているとき、「スキーで飛ばしたらさぞいいだろう」と語っているのは、まさに私が岩木山頂上から百沢スキーに向かって滑走した斜面に違いない。深田青年の歩いた道が目に見えるようだ。
「僕のこの紀行文もだんだん後になるほど何だかひどく簡単な記録風のものにたってきたことに気づく。すぐれた詩人の紀行文など読むと、その筆者がちょいとした眼前の微細な事象にも心をとどめ、ただそれだけを描いて全体の景色を彷彿とさせるような見事な文章に良く出会う。芭蕉などもその一例であろう。自然に悟入すること深いほど些細なことも鋭く感じられるのであろうか。ふと視界を横切った鳥の飛び様とか、足元に揺れている草花の姿とかそういうことまで永く深く刻み付けるように印象に残るのであろう」
「せめて頂上の祠にでも参拝しようと思い、ルックザックを乗越のところに残して安山岩のガラガラ崩れ落ちる道を登りかけたが、半分ほどで我を折って引き返した・・・・・百沢の方へ降り・・・・一時過ぎ、その嫌な沢を離れて広闊な台地へ出る。『焼止り』と称する所・・・・それからはなだらかな高原の一筋道だ。全体草地の気持ちの良い斜面、スキーで飛ばしたらさぞいいだろうと思う。ますます激しくなってきた雨の中をこうなったら濡れるだけ濡れろと散歩でもしているようにブラリブラリと歩いて、岩木山神社の裏に出、百沢に到着したのは二時十五分過ぎだった。」
「xxxxxxxなんて先生の書いた登山記を読むと、何につけ『しみじみ』と感懐にばかり耽っているが、あんな嘆息をしょっちゅう聞かされるよりは、この頑固な男に伴いていた方がよっぽどせいせいするだろう」と言うこの『感懐にばかり耽る先生』というのは誰のことだろう?冠松次郎?田辺重治?
「山を眺めて感動するなんて世智辛い眼からはさぞ甘くも見えようが、小林秀雄が実にうまくいったとおり、つまり『甘くならなければ法がつかないある感動』なのだ。だから僕は少しくらい甘いという軽蔑を甘受しても、このすばらしい感動を見棄てることができない」
山が好きで好きでたまらない。山に登れない時は山の本を読み、すぐれた作家の文章が書きたいと思うが、なかなか思うようにはいかない。だが、真の愛着心は秘めることによって純潔を保つことができ、その後、「僕の望むような文章が噴き出ずるようにおのずから生まれてくるに相違ない」と深田は書いている。そしてこれは、「日本百名山」で現実となった。
「中国地方の山脈は年齢が古いため頂が磨滅して高峰が無いのだと聞いて、それだと世界中の山がみなだんだん低くなっていくのかと余計な気をもんでいたところ、・・・・ヒマラヤは海洋の圧力のため今なお少しづつ高くなってゆくという記事を読んで、何だか一安心した気持ちになった」
「平生は容易に見えない遠い山の向こうに、もっと高い山が微かに見えたりすると、惚れた弱みは涙が出るほどの感動で立ち尽くす」
「剱岳は・・・・陸地測量部の人が初めて登ってみたら頂上に錫杖の尖が残っていたというのは名高い話だが・・・・・笈ヶ岳という白山山脈の一峰・・・・名前を知っている人さえもほとんどないくらい(の山で)思いがけなく頂上から仏像と経巻を掘り出したという・・・・その経巻によれば今から百年も前に、大聖寺の坊さんが13度目の笈登山の時に残していったものだという・・・・信仰の力には敵わない」
・セガンティーニ:イタリアの画家。アルプスの風景などを題材とした絵画を残し、アルプスの画家として知られている。一方で『悪しき母達』など神秘的、退廃的な作品を残したことから、作風は世紀末芸術とされることもある (museumanote)
深田は二人でテントを担ぎ、立山駅の手前から和田川沿いの道を有峰まで行き、ほとんど廃村になって三軒の見残っていたうちの一つに泊まる。富山では立山と剱を見て万葉集の歌を思い出し、和田川の渓谷を見ると冠松次郎について言及し、有峰の荒れ果てた一軒を見てエドガー・アラン・ポオのアッッシャー家の崩壊の一節を思い出し、薬師岳の威容に対しゲーテの言葉を引き合いに出して勇気を奮い起こす。そして深田は翌日、太郎兵衛平から薬師に登る。
・大伴家持 巻17-4001 立山に降り置いている雪は、夏のいま 見ても見あきることがない。神の山だからにちがいない。(高岡市万葉歴史館)
・千垣:今の立山駅の6㎞くらい手前。ここから和田川沿いには今は有峰林道がある
・エドガー・アラン・ポーの最高傑作の有名な最初の描写: The Fall Of The House Of Usher (goodreads.com)
「日に五たび色が変わるという薬師岳は、その右に太郎山を控えて、この世のものとも思えぬ美しい夕方の色彩を呈している・・・・満月少し前の月が上ってきた。僕の感情を揺り動かす自然の情景が、これほど兼ね備わった晩のことを僕はどうして忘れ得よう」
今度の深田は仲間たちと山小屋に泊まる。彼等だけしかいない貸切の山小屋だが、隙間風が入ってきて寒くて寝ていられず、何度も目が覚める。薪をくべても手や顔は熱いが背中が寒い。一方、やっと小屋について晩飯の用意をし、腹いっぱい食べて談笑したり、翌日目覚めると快晴で、小鳥の鳴き声を聞き、元気に朝飯を準備したり、山小屋の辛いことや楽しいことの想い出はつきない。
「山の人知れぬたのしさは山小屋で寝てみなければわかるまい。それも夏場の大入り満員の番人小屋ではない・・・・僕の言うのは誰もいない自分で毛布や食料を担いでゆく山小屋のことだ」
これは雪山登山、山スキーの話。最初、深田は東京にいて、都会のビルの屋上から初雪の遠い山並みを眺めて感激。次はスキーを覚えたこと。「転んで転んでやっとクリスチャニアが初めて怪しげな恰好でできたときのうれしかったこと。」それから10年が過ぎ、日本ではスキーが盛んになり、スキー場も増えてきた。そして山登りたちは冬山へ行く。厳冬期登山で遭難したニュースを聞いても、深田たちの熱意は消えない。それをweibe rausch と表現してみせる。今なら「白い粉に狂った私」というところ。八甲田の雪中行軍のとき、田茂木野を越したところで彼等を停めようとした酒徳利を下げた爺さんは山の神だったという話。そしていよいよ雪山へ。どの山なのかは書いてないが、山小屋に一泊し、翌朝暗いうちに出発し、スキーからアイゼンに変えて頂上に到達、そして帰りは思い切りスキーで飛ばす。「爽快な『白銀の乱舞』が始まるのだ。」
「こういう荘厳な自然に対してはどんな表現も無駄である。ただ身震いのする感動しかない。どんなに精妙な写真も最上級を連ねた文章もこの感動の万分の一もあらわすことはできぬ・・・・・雪は魔術師だ。どんなに平凡な山もいったん雪に覆われると見違えるような威容を具えてくる。」
・weibe rausch・・・・白い中毒
「一度冬山の神秘を知った者はもうその誘惑から逃れることができない。魔物といえば、雪山の伝説としてどこにもあるらしい山の神祭りの旧12月12日(正月のいく日かにあたる)の不思議な話を思いだす・・・・・あの有名な八甲田の雪中行軍の悲劇はちょうどこの日だったそうな」
・田茂木野・・・・幸畑の南、新幹線のトンネルがくぐっている
「最後の緊張を頑張り通してついに頂に立った時の歓喜! そそりたつ山山、深まりゆく谷谷、純粋無垢の白銀の大殿堂だ。自然の極致とでも言うほかない」
今度は春スキーだが、最初に深田が語るのは春の雪山から帰ってきたとき、雪が融けて「ふと小川の流れを見たときほどの驚きはあるまい」と語る。シュナイダーの映画ではスキーヤーたちが山を下りてくると桜が満開。そして春スキーならばもう冬の寒さや重装備もいらない、粉雪ではないが、「ザラメ雪だって滑りよくってなかなか楽しい」。最後は雪のない春山の話。「のんびりブラブラ歩いてゆくのも忘れがたい楽しみだ」
・ハンネス・シュナイダーは世界初の体系的なスキー指導法を考案・普及させ、「近代アルペンスキーの父」として世界的に知られるオーストリアのスキー指導者でした。(schneider-area.net)
「森閑として音一つない静かさだが、何もかもこれから動き出そうとする前の気配だ。春の息吹はどこよりもこういう山の中のひと時ほど深く感ずることはない・・・・・近い方の山からだんだん雪がはだらになり、それが熊手の形や動物のなりに見え、やがて知らず知らず濃い紫に変わってしまうまでの変化を朝夕眺めて暮らすのも僕の人知れぬ楽しみの一つである」
深田は学生仲間3人と朝日連峰縦走に挑む。秋田行きの電車に乗り、赤湯というのは山形県南陽市に今もあり、長井線も走っている。鮎貝駅というのも現存しており、今では県道255が黒鴨集落を経て頭殿山方面に伸びている。上野駅に現われなかった塩川君は案の定、赤湯駅に現われ、4人で鮎貝駅まで電車に乗り、そこから歩くが暑かった。「黒鴨の駄菓子屋で冷たいそうめんで息をいれて、また歩き出す。」小雨が降りだすが、尖山から頭殿山の中腹を巻き、「ただ一軒の湯宿古川屋へ着いた」というのは(小寺鉱泉は遠いから)朝日鉱泉のことらしい。
「朝日連峰と聞いても僕はまだそれがどのへんにある山かさえはっきり知らなかった・・・・初めておおよその知識を得ると、僕の頭はもうその峰や谷についての空想でいっぱいになってしまった」
「10時30分着の列車で、案の定、塩川君が『失敬、失敬』と言いながら、ちっとも失敬らしい顔もせず笑いながらやってきた」
・「烏鷺の争い」は、囲碁の勝負のことです。 (gimon-sukkiri)
・朝日鉱泉は、江戸末期に朝日大権現の霊異によって発見・開湯されたと伝わり、昭和40年代までは「朝日館」「古川屋」の二軒の鉱泉旅館がありました (samidare.jp)
深田一行は雨の朝日鉱泉に下って泊まるが、「途中道が左右に分かれて左は新湯、右は元湯・・・右の道を行き、ただ一軒の湯宿古川屋へ着いた」というのは(新湯が今の朝日鉱泉だとすると、小寺鉱泉ではなく、)今の白滝のあたりだろうか。雨のためそこに二日間足止めされ、三日目に宿を出るが、一人が熱を出してしまい、塩川君と二人で行く。彼らは金山沢をたどり、鳥原山の湿原に上がる前に大朝日を見て、それから鳥原山の尾根の残雪を歩き、小朝日、大朝日と辿る。快晴の大朝日に達した時の感動は計り知れない。二人は中岳とのコル(今の金名水のあたり)にテントを張るが、そこで葉山方面からヤブを越えてやってきた商大(たぶん一橋大学)の4人と会っている。残雪を利用して道の無い稜線を北に進むが、深田はなんと草鞋で雪渓を歩いている。西朝日と竜門山の間で越えた「坪山」というのは1,725m峰のこと?竜門山から下ったところの「百畝畑」というのは今の竜門小屋が建っているあたりだろうか。以東岳に達して朝日連峰縦走を果たした深田は、そこから大鳥池のほとり(南西のあたり)にテントを張り、大鳥池の西側の(岸ではなく)斜面を越えで大鳥川に下る。大鳥川は水量が多く、そこから上田沢の宿にたどり着くのに大変な苦労をしていて、日本百名山に記載された「イワナ釣りに出会って案内を乞わなかったら、私たちの困難は数倍したことであろう」の場面が生々しい。今の縦走路が完備された朝日連峰とは全く違う、原始の朝日連峰を深田は体験したのだ。計り知れない体験だったに違いない。
「7月8日ついに晴れた。見える限り青空だ。ところが同行の谷井君が昨日から熱を出して寝付いてしまった。・・・・結局南君が看護に残って、僕と塩川君が出かけることになった」「朝日川の支流金山沢のほとりに出ようとするあたりで突然目頭に迫るように大朝日岳の姿が見えた。この重い荷を担いで今日のうちにあの峰の上に立とうとは思えないくらい、雄大にそびえ立っている・・・・・金山沢を登りつめ、・・・・鳥原山の東にあるタンボに着いた。11時半。・・・・鳥原山の頂上へはそこから30分くらいで着いた。大朝日、小朝日が直ぐ直前にそば立ち、その両峰の間に遠く、中岳、西朝日等を指さすことができた」「緩やかな尾根が大朝日頂上への急斜面に続こうとするあたりに今は鉄筋コンクリートの小屋が建ったそうだが、僕らの頃はまだなかった・・・・・空身になって大朝日の頂上に登った。・・・目指した連峰中の最高峰に立った喜びで、僕らはあきず周囲の景色を眺めた。・・・・風もなく、あたりには夕方の静けさがあった。『なべて山巓(いただき)にのみ安息(いこい)あり』僕はそういうゲーテの言葉をくちずさんでみるのであった」「大朝日岳と中岳との鞍部の残雪の傍らに・・・・天幕を張り、・・・・食後の紅茶を沸かしていると、大朝日岳の上の方から呼び声がする。・・・やがて声の主が三人降りてきた。商大の人たちだった。野川の方から猛烈な藪くぐりをしてようやく大朝日を越えてここへ来たのだという・・・・その夜は満天の星を仰ぎながら、同じ焚火を囲んで紅茶や汁粉を啜りながらおそくまで話し合った」
「塩川君は鋲靴を穿いているが、僕は草鞋なのでアイゼンを持ってこなかったことを悔やまれる箇所が所々あった。・・・・・西朝日から坪山を経て竜門山までの間はひどい藪に悩まされた。・・・・ようやく竜門山に達し、その北側をからんで下ると直ぐ百畝畑に着く。・・・・・行く手にはいつも月山、その彼方に鳥海山が残雪を光らせて、ゆったり聳えている・・・・・三方境の手前の鞍部にたどり着いたのは12時10分過ぎ・・・・三方境を越え・・・・狐穴という気持ちの良い場所に着く。水も薪もあり、・・・理想的な露営地だ。・・・・以東岳の三角点に立ったのは正三時だった。ついに朝日連峰縦走の望みを果たしたのだ。・・・目の下に深く、亀の子の形に見える大鳥池がひっそりと静まり切っていた・・・・秘境というのはこういう所をこそ言うのであろう。」
「雪渓を下ってようやく東俣の沢に出た・・・・間もなく大鳥池の畔(ほとり)に出た・・・・中ノ俣から更に西俣の沢へたどり着く。やっとここに狭い幕営地を見つけてテントを張りにかかった・・・・・岸伝いは駄目なので・・・亀形の左脇の方へ藪の中を登る・・・・1,002mの山と三角池の鞍部を北に下ったあたりで道に迷ったりして、ようやく大鳥川の縁に下り着く・・・・ゲンダン沢の落合までは道らしいものがあった・・・・冷水沢落合の少し手前で、嬉しいことに一人のイワナ釣りの姿を見つけた・・・・頼んで水先案内をしてもらうことにした・・・・やっと泡滝についたのは1時過ぎ・・・・・花崗岩の間に霧のような水沫を飛ばして、渦巻く淵に落ち込むさまは、やはり名瀑の名に背かない・・・・・三時過ぎ・・・サラブチ沢・・・・そこから1時間余り歩いて・・・・ニコブチ沢の少し手前あたりから道があった。・・・・もうこれで水に浸かることもないのだと思ったときはしみじみ有難かった。・・・・・上田沢の小さな旅籠宿に着いたのは9時に近かった・・・・・良く7月11日もまた快晴。ゆっくり宿を立って落合村まで行き、・・・・軽便自動車に乗って鶴岡市まで走った。」
これは深田が塩山から奥秩父に登ったときの想い出。今の甲武信岳に登るときのルートだが、当時はまだ広瀬ダムもなく、雁坂トンネルも道の駅みとみも、甲武信岳への登山道もなかった。深田は雁坂峠に向かう「秩父往還」という道と分かれ、笛吹川に添う道を辿り、二俣を東沢に入る。ホラノ貝のゴルジュを見るには「少し沢の方に降りて覗いてみなければならない」とあるから、登山道はかなり高いところに付けられていたようだが、やがて登山道は東沢に下り、「粗末な東沢の小屋」に泊まる。そこから深田は釜ノ沢を春秋2回、甲武信岳まで登り、金山沢を詰めて国師岳に登り、更に信州沢と釜ノ沢の間の尾根を登って尾根に上がり、梓川まで下ったというから、合計4回、この道を登っていることになる。
・塩山(しおやま)・・・・・塩ノ山533m、塩山駅の北西にある山と思われる
・円川・・・・広瀬ダム手前3㎞ほどの地点、左岸より笛吹川に合流
・赤志(しゃくし)・・・・・雁坂峠の入口だったというから、今は広瀬ダムの底になっているのかもしれない
「秩父往還の甲州側の最奥の部落は赤志(しゃくし)という。ここから雁坂峠を越えて秩父へ通ずるのである・・・・赤志のあたりは気持ちのいい草原で、真正面にその名の通り破風の形をした破風山が立っている」
「東沢をさらに遡ると、釜ノ沢と信州沢に分かれる。釜ノ沢の美しさはそこへ入った人々の等しく賞するところだが、僕はこの沢の春と秋とを知っている。二度ともこの沢を登りつめて甲武信岳へ登ったのであった」
「やはりある5月、僕は・・・・釜ノ沢と信州沢との間の尾根を伝って甲信の国境に出、それから梓川を下っていった。その下り道の途中、材木小屋で焼酎を飲まされてフラフラといい気持ちで月夜の道を梓山まで下っていった時のことも忘れられない思い出である。」
深田が10ヶ月の徴兵訓練をしていたときの山恋しの話。訓練は金沢近辺で行われたので、「何より僕を喜ばせたのはそういう日の周囲の山山だった。演習に出て休憩の合間ごとにその景色に見とれた」。そして手近にあった卯辰山に登り、演習の行われた立野ヶ原から袴腰山や小瀬峠を眺め、金沢からは医王山、宝達山、戸室山、倉ヶ岳、更には富士写ヶ岳から大日山の連嶺、越前の鷹巣山や国見岳、大門山、見越山、奈良岳、奥三方山の連嶺を眺めた。そして外出を許された日曜に深田は宝達山に登っている。今は車道が頂上近くまで通じているが、深田は七尾線の宝達という駅から歩きだし、上野という村から尾根伝いに登って1等三角点の頂上に達している。また茸狩りの日を利用して戸室山にも登り、11月末にめでたく除隊して東京に帰っている。卯辰山や戸室山には是非登ってみよう。
・卯辰山・・・・・金沢駅の東2.5㎞ほどのところにある標高141mの山。三角点あり、卯辰山公園。山頂近くまで車道があるようだ。
・立野ヶ原・・・・どうやら東海北陸道の城端SAのあたり(地名は「立野」)らしい。そこから真南9km付近に袴腰山1,165mがあるが、まさに東海北陸道の「袴腰トンネル」(長さ9km)の上にある。小瀬峠は袴腰山の東1.5kmのあたり。旧道が近くを通っており、袴腰山頂上や小瀬峠に通じる破線もあるが、歩いている人はいるのだろうか?
・戸室山・・・・・医王山の西5kmのところにある標高548mの山。ここにも三角点。南東にある寺は戸室権現?
・倉ヶ岳・・・・・金沢駅の南12㎞付近にある標高565mの山。ここにも三角点、車道が頂上近くまで通じているかもしれない。山頂のすぐ西に大きな池。
・金沢城・・・・・兼六園。金沢駅のすぐ南東。
・大日山・・・・・大日岳ではなく、富士写ヶ岳の東12㎞のところにある標高1,368mの山。三角点はないが、破線はあり。
・越前の海岸の鷹巣山・・・・・高須山438m(国見岳の北)のことだろうか?
・奥三方山・・・・・奥三方岳ではなく、奈良岳の西にある標高1,601mの山。三角点や破線はなし。
これは深田が群馬のスキー場に通って腕を磨いた話。鹿沢スキー場というのは湯ノ丸スキー場の近くらしいが、今はもうないらしい。当時はリフトなんか無かったはずだから、シール(深田は「アザラジ」と書いている)で登っては滑ったのだろう。当時はカービング・スキーも無かっただろうし、ずいぶん大変そうだ。山スキーにしてもスタッドレスの車で日帰りなんて我々はなんて恵まれているんだろう。宿に1週間泊まって「昼は獣のごとく動き、夜は神のごとく寝た・・・・・そしてからだの細胞を全部入れ替えて都に戻ってきた」というのはすさまじい。本文中に出てくる熊の湯スキー場は志賀・笠ヶ岳に登った時にリフトに乗ったことがあり、青木小屋というのは吾妻連峰の五色沼の北東にあり、(2003年に東吾妻山に登った時に見た慶応吾妻山荘のことかなと思ったが違っていて、)五色温泉(吾妻連峰の北東)から吾妻連峰に登る登山道の途中にある「東海大緑樹山荘」の前身らしい。深田は本書の「呼ぶ雪山」で五色温泉から東大巓、栂森を越えたとあるから、青木小屋にも寄っているに違いない。(「日本百名山・吾妻山」に「五色温泉から登って山スキーのオールド・ボイズにはなつかしい青木小屋(今は無い)を根拠にして家形山や一切経山へ遊びに行った・・・・小屋から硫黄精錬所跡を経、土湯峠を越えて沼尻の方へスキーを駆ったこともあった」とある)。
・鹿沢スキー場:(群馬県嬬恋村)国民休暇村鹿沢スキー場というのが正しい名前だったと思う。鹿沢といえば今は鹿沢スノーエリア(鹿沢ハイランド)をさすのだろうが、以前はこちらの存在価値も大きかった。20年ほど前には、私の職場(東京)のスキー仲間にとってはホームゲレンデのような存在だった。1996シーズンを最後に休止となり、現在はリフトの跡もきれいに撤去されて、ゲレンデに一部樹木が茂り自然に還ろうとしている。湯ノ丸へのツアーか、もの好きなスノーボーダーたちかが滑った跡もあった。シングルリフト3本というシンプルな構成だったが、中級(第1・最大26度)・上級(第3・最大34度)・初級(第2・最大21度)とレベルに応じたゲレンデを備え、それらが林間コースで結ばれていて、けっこう機能的だったと思う。湯ノ丸スキー場へも、雪原の道なき道をたどって行くことができた。とくに新雪の後の第3ゲレンデはとても魅力的だった。 (追憶のゲレンデ old-skier.seesaa.net)
・熊の湯スキー場:日本のスキーヤー、スノーボーダーたちのホームゲレンデとして人気を誇る「熊の湯スキー場」。. 11月下旬から5月上旬まで、一年の約半分が滑走可能。. 良質なパウダースノーと、大自然が作りあげたさまざまな形状のコースは、初心者から上級者まですべてのスキーヤー、スノーボーダーを思う存分楽しませてくれます。. 温泉に、スキーに、アフタースキーに (snow.gnavi.com)
・青木小屋:???どこかで聞いた覚えがあるのだが・・・・吾妻連峰のようだ
「吾妻・五色温泉~家形山周回 吾妻連峰の主稜線(縦走路)に取り付く登山道は何本か有るが、このコースは一番登山者が少ないと思う。・・・・(コース途中にある)東海大学緑樹荘(山荘)の前身は、皇室専用の『青木小屋(避難小屋)』が建っていたそうだ 」(奥さんの晴歩雨読)
・三方ヶ峰・・・・湯ノ丸山の南方、池ノ平のすぐ南にある2,041m峰。破線あり。
・角間山・・・・・湯ノ丸山の北隣の1,981m峰。麓の鹿沢温泉(「旧鹿沢」の地名)から角間峠を経て破線あり。
「正月元旦に三方ヶ峰に登ったことがあった。一点の雲もなく晴れ上がった日で、真っ青な空へすぐ目の前の浅間からモクモクと煙が湧きあがっていた光景はいまだに忘れられない。それこそ堀辰雄が形容したように「キャベツのような」煙だった」
・黒田初子・・・・・新婚旅行は 伊豆 の天城山登山。 これを機に女性登山家として 羅臼岳 、 白馬岳 などの女性による冬期初登頂記録を立てた。 傍ら 、自宅で料理講習会・すみれ会を主宰し、90歳を過ぎても料理教室を続けた。 (コトバンク)
「ある1月の下旬、僕はただ一人鹿沢に出かけて1週間余り過ごしたことがあった。・・・・自炊湯治で賑わっていたけれども、スキー客は僕一人だった。僕は毎日、犬一匹いない練習場へ出かけては拙いスキーにはもったいないようなすばらしい粉雪の上へ、ゆがんだシュプールをつけたり、大きな穴をあけたりしていた・・・・・吹雪の日も欠かさず僕は毎日外へ出た」
「1週間スキーの客は一人も来なかった。その間僕は全く昼は獣のごとく動き、夜は神のごとく寝たといっていい。目張りしている障子の隙間から枕元に吹き込む雪をも知らずに眠った。そしてからだの細胞を全部入れ替えて都に戻ってきた」
これは深田がいかに地図を大事にし、地図を使っていろんな山登りをし、地図を見て果てることのない思い出や空想に浸り、それを楽しんでいたかの記述だ。今では市販の地図を用いることは絶えて無く、GPSとパソコンから印刷した地理院地図を持っていくくらいだが、「地図を見る」ということについては深田と思いは変わらないと思う。GPS軌跡で歩いてきた道筋は分かるし、プランを建てる時や迷ったときなどはいつもパソコンで地理院地図を見る。一方、「使い古した古い地図の実際に歩いた赤い線」などというものはもうお目にかかることはない。「列車に乗って山を見る」ことはもう希だが、「車からこれから登る山を事前に確認し、写真を撮る」というのは私の山登りの重要な一要素になっている。どうにかすると、その山に登ったものの、山の姿を写真に撮ってないことがあり、そういうときは何か重要なことをし忘れた気になる。稜線の上から、その山が見えたときなどはほっとする。深田は八十里越について地図で見ただけの感想を書いているが、私はその八十里越を歩き、峠の石標と今はもうない木ノ根茶屋の石標とを見た。深田の頃はまだ人が歩いていて、茶屋もあったのだろう。
「・・・・自分の歩いた道筋が赤鉛筆で引かれている。そういう地図を見ていると、千軍万馬の将軍が全勝の跡を振り返るような気持ちになって、その当時の苦しかったことや楽しかったことがいろいろに思い出されてくる・・・・・まだ取り残されている大きなのがあったりすると、今晩にもルックを担いでそこへ出かけたくなる」
「縁を裁ってキチンと十六に畳んでその表へ地図の名前を貼り付けて、・・・・それを二十万分の一の区域ごとにわけて、カードのように箱に収めている。火事になったらこれを最初に持ち出そうと思っているほど大事な品だ。」
「会津から越後に越す八十里越などという峠は地図で見ただけだけれど、何か荒れ果てた感じがする。・・・・・その峠の上に木ノ根茶屋という茶屋が記入してあるのも、何か昔を偲ぶような哀れな感じを催させる。」
「僕は暇があれば地図を拡げてみる。・・・・部屋中いっぱいに地図を撒き散らし、片脇に山の本と色鉛筆とを置いて、勝手な地図の上の山旅をする。・・・・・とりとめのない山の空想にふける。」
深田は八十里越について地図で見ただけの感想を書いているが、私はその八十里越を歩き、峠の石標と今はもうない木ノ根茶屋の石標とを見た。深田の頃はまだ人が歩いていて、茶屋もあったのだろう。(p99地図を見ながら)
これは、東大に入った深田が入学後、いかに学業をサボり、山やスキーに没頭していたかの告白だが、冒頭、ゲーテを引き合いに出し、この著名な文学者もまたスケートや山が好きだったのであり、東大生といえどもそういう趣味をもつのは悪くないのだ、という主張はちょっと無理な感じがする。なにせ、深田が山にはまって結局卒業できなかったのに対し、ゲーテはスポーツと学業を両立して大文学者になったのだから。だが、深田も日本百名山を書き、押しも押されもせぬ日本の山岳文学の第一人者になったのだから、東大でちゃんと勉強しなかったことなどは取るに足りないことなのかもしれない。深田はそこらの作家には思いもつかないような観察眼や情景描写、それに心にまっすぐ入ってくる感動描写の能力を持っていて、それはどんな作家にもまねできないものだと思う。
・忽諸(こっ‐しょ)《たちまちに 滅び 尽き る意》 軽んじる こと。 Weblio辞書
「遊んだといっても決してカフェやダンスホールに出入りしていたのではなく、勇壮なスキーや登山にふけっていたのだから、学問のほうはさておき、この点だけはゲーテと趣味を同じゅうしていたと言っていい」
「僕が大学へ入ったのは大正15年だった。本当はもう1年早く入学するように予定されていたのだが、高等学校の三年生を二度やったのである。・・・・・大学1年生つまり大正15年4月以降の登山経歴を調べてみても、大日山縦走(4月)、大菩薩峠より嵯峨塩(5月)、八ヶ岳(5月)、朝日連峰・大鳥池(7月)、有峰より立山(8月)、至仏山を越えて尾瀬(10月)、赤城行(10月)、飛騨白川郷(11月)、という風に割合出かけている。」
「大勢の諸君の中にはやはり僕のように山やスキーに凝っている人も少なくはあるまい。そんな人たちにこの文章をよんでもらえるのはうれしいが、唯一つ、どうぞ学業だけは大事になされたし。」
深田は仲間に誘われて蔵王に行く、最上高湯というのはなんと今の蔵王スキー場。深田が泊まった高見屋というのは、「深山荘高見屋、食事を楽しめる高級温泉宿」という紹介でグーグルマップに出ており、スカイケーブルの少し南だから、温泉街の真っただ中。今ではもっと南の蔵王ロープウェイを乗り継いで地蔵山直下まで登れるのだが、深田たちが辿ったのは中央ロープウェイの先、中央ゲレンデからパラダイス・ゲレンデの麓にあるコーボルト・ヒュッテ(今は山形大学蔵王山寮)に登り、そこからざんげ坂を辿って地蔵山と三宝荒神山のコル(まさに現在の蔵王ロープウェイ頂上駅のあたり)に達し、天気が良くならないので、そこで引き返している。数日前にも遭難があり、雪でトレースが消えたら戻れないと考えたからだが、今ならGPSがあるからそのくらいの天気でも登ってしまうだろう。東京から寝台、山形駅から車、半郷という村(今の山形上山インターのあたり)で馬橇!に乗り換えたというから、なんとも凄まじい。今の暮れの蔵王はいつも駐車場は満車、ロープウェイも整理券待ち、上のロープウェイ(山頂線)が待たずに乗れるようになったのは2003年12月から(フニテルというらしい、風に強い構造のゴンドラ)で、これを使って熊野岳には3度登った。暮れが待ちきれずに風呂場で準備体操(シュヴングはパラレルターン、ホッケとは何だろう?)する深田、アザラシ会一行9人を率いるのは年老いても意気盛んな武田久吉博士だった。
・最上高湯: 最上高湯善七温泉(旧大平ホテル)・・・・今の蔵王スキー場の中!
・シュヴング=クリスチャニア。(ドイツ)Schwung(シュブング)とは。意味や解説、類語。スキーで、回転のときのかかとの押し出し技術。または、その際の手や腰、ひざの振り込み運動。 - goo国語辞書
・アイヘンドルフの怠け者:集英社『世界文学全集』第9巻所収、アイヒェンドルフの「のらくら者日記」(川村二郎・訳)を読了。「心はいつも日曜日」といった呑気な性格の田舎の青年が、日頃の怠惰ぶりを親に叱られたのを機に、1梃のヴァイオリンを手にして放浪の旅に出る物語。イタリアを目指して旅をする中、行く先々で様々な人々と出会い、トラブルに巻き込まれ、美しい女性に恋をする。そんな主人公を待ち受ける結末は…。作品のタイトルに「日記」とあるが、日記体小説というわけではない。そもそも原題は「Aus dem Leben eines Taugenichts」であり、直訳すれば「怠け者の生活から」といった感じ。しかしながらこの作品、特別定まった邦題がなく、訳者ごとに異なる題が付けられている。(さすらい人の徒然日記)
・vivat:ドイツ語、万歳(の声)コトバンク
「全く、この山の滑降の愉快さを知らぬ人は人生において最大の楽しみを逃していると言っていい。これこそ王者の悦楽にも比すべきものであろう」
・コーボルト・ヒュッテ:コーボルトヒュッテは、山高山岳部が、営林署に土地使用許可ををもらい、拠金活動をし、高湯温泉の方々の応援を得て資材を運び、工事を行い、ついに昭和3年10月21日に竣工した。その後再三改修されたようだ。 昭和19年にヒュッテを山高に寄付する話があったが学校への移管手続きがされていず山岳部に返還された。昭和30年に大学学長から正式に寄付依頼あり、31年に承諾の回答があった。 昭和34年8月にコーボルトヒュッテは取り壊された。同年12月20日には、隣接地に山大蔵王山寮が建設され完成した。 (東京ふすま会)
「蔵王の樹氷の美しさは有名なことだが、このあたりの見事さはそれこそなんとも形容の言葉がない。全くフェアリー・テールの世界だ。針葉樹が一本一本独立してそれぞれ紡錘形にこんもり雪を被って並び立っている。子細に見るとどんな小枝の先にもキラキラ光る霧氷が美しく凍り付いている。樹氷は上に行けば行くほど風当たりの激しければ激しいほどますます見事になる。美しいものほど困難なところに置きたがるのは神様の理法なのであろう。」
「新雪が深いので一度下手な転倒をしようものなら起き上がるのに大変だ。2,3度僕が転倒している間に仲間のスキー猛者たちはたちまち姿が見えなくなってしまった。・・・・・名残惜しいが、東京に用事があるので、翌日僕たち4,5人が先に帰ることにした。・・・・馬橇ではあんなに遠く思った道も、スキーで滑るには短すぎた。」
蔵王・峨々温泉(p106吹雪く蔵王)
蔵王、高湯の高見屋(p109吹雪く蔵王)
蔵王、コーボルト・ヒュッテ(山形大学蔵王山寮)(p112吹雪く蔵王)
これは1934年1月に婦人公論に載ったもの。スキーを楽しむ女性が増えて来て、服装も年々派手になってゆく・・・・という世相を反映し、書いたものであろう。「ゲレンデの伊達者が美しい女性の直前に見事なスウィングであざやかなところを示」し、「そういう僕でさえ時々自らシュナイダーを夢見てリーフェンシュタールのような女性はいないかな、などと思う。」冒頭ではゲレンデスキーなんかつまらない、山だ!と言っておきながら、途中から一日ぐらいは「花やかな美しい色彩の混じった練習場」もいいと方向を変え、その後はひたすらゲレンデ風景とその後の茶店でもアフタースキーの話で無理やり盛り上げる。ちょっと無理があるが、まあ、年に一度くらいはこういうのもいいだろう。
「スキイがうまくなりボーゲンなぞできるようになると、誰でも皆山へ行きたくなる・・・・・何と言ってもスキイは山に限る。壮快な山へ行けばあんな狭っくるしい練習場で何してやがんだいと言いたくなる・・・・・しかし、シーズンのうちせめて一日だけは、綺麗に晴れた日に、花やかな美しい色彩の混じった練習場で心行くまで遊んでみたいとも思う」
「僕の学生仲間に直滑降という仇名の男がいたっけ。この男は何もできなかったが直滑降だけは得意で、直滑降一点張りで押し通すので人気者になっていた・・・・・・疲れれば付近の茶店に入って休む・・・・糖分不足の生理的必然からどんな甘味嫌いな上戸党でもここではお汁粉に舌鼓を打つ」
これはカヤノ平ではなく、その手前の発哺温泉(寺子屋峰の北西、今はリフトだらけ、発哺温泉は今は閉鎖されたらしい)にこもって連日スキーをやったときの話らしい。列車で志賀高原の入口の湯田中、そこからバスで上林(現在の九十九折車道の手前)まで行き、そこからは自力で丸池、更に発哺温泉まで登ったらしい。丸池と発哺の間には横湯川の深い谷があるが、そこを200m下り、アザラシなしで300m登ったとある。雪が深くて遠出せず、もっぱら横湯川までの300mを上り下りし、岩菅山には行かなかったが、焼額山に登って頂上の雪に覆われた沼を見たとある。冒頭で、仕事のための材料・道具をザックに詰めていったとあるが、仕事は全くできなかったらしい。文芸春秋1934年2月。
「小林秀雄と二人で信州発哺へ出かけた。スキイの傍ら仕事もしようと虫のいい考えで、原稿紙、ペン、インキに、小林はジードの評論を書くというのでフランス語の書物数冊に地引。僕は時評を頼まれていたので雑誌一束、つめこんだ重いルックザックを担いで、早朝長野駅に降りた。」
「滞在中、もちろん原稿などは書けなかった。・・・・炬燵の上に紙を拡げてみるものの、ランプの灯は暗し、ペン先に含んだインキさえガリガリ凍る寒さだ。熱いお茶を飲んで無駄話をして寝てしまう。娑婆の垢を落とそうとスキイに来て、仕事をしようなぞとは料簡違いだった。」
志賀高原、丸池スキー場と発哺温泉(閉鎖)(p119発哺スキイ行)
志賀高原、丸池と発哺(p119発哺スキイ行)
これは霧ヶ峰の山スキー・ツアー。茅野の北にある温泉宿から歩き始め、たぶん白樺湖付近(なぜか白樺湖は文中に出てこない)を通って東側から車山に登り、そこから西に滑走して諏訪湖畔手前までという、登り約17㎞、下り10㎞、合計27㎞のツアー。朝9時半頃に出て、白樺湖付近と思われる「蓼山小屋」に着いたのは12時20分というから13㎞を3時間、4㎞/hというのは異常に速い。1時間休んで車山まで2時間弱だったというから、車山着15時半。ここは登り4㎞を2時間弱、2㎞/hだからかなり速い。そこからの滑走10㎞には、車山発16時、滑走終了が夕暮れ18時頃?として2時間、5㎞/hというのは、まあ今では普通かな。今だったら朝6時には出て、2km/hで車山着15時くらいだが、そんなに雪は積もらないだろうし、道路や建物があってツアーとはいくまい。
・西洋の山岳映画:その名も「山」(原題 The Mountain)。1956年公開の映画で、山岳アクションの名作です。アルプスの雪山に旅客機が墜落しますが、余りにも険しい山のために誰も救助に行けません。唯一行けるのは、元山岳ガイドのザカリ―(スペンサー・トレーシー)ザカリ―は、一流の山岳ガイドでしたが、客を山で死なせてしまい、自分は山に嫌われていると思い込み、それ以来、山には登っていません。親子ほど年の離れた弟クリス(ロバート・ワグナー)は、ザカリ―が育ててきました。クリスは、お金持ちのインド人が乗っていたという話を聞きつけ、乗客の金品を目当てに強引に山に登ろうとします。クリスを放って置けないザカリ―は、しかたなく一緒に山に登ることにします。困難な登山の末に飛行機にたどり着くと、一人のインド人女性の生存者を発見しました。ザカリ―は女性を助けるために、下山を開始します。
・「茅野」は諏訪の南、「湯川」はその西で霧ヶ峰と蓼科山の南。蓼科山に登った時に通っているはず。そこからR152を北上したところに「山浦温泉」があったのだろうが、今は見当たらない。「寺小場小屋」「大石峠」というほは不明だが、「南平」は蓼科山の西の麓にあり、南西に「八子ヶ峰」(今はスキー場になっている)がある。「蓼山小屋」というのはたぶん白樺湖の近くにあったと思われ、「大門峠」は白樺湖のすぐ北にあり、そこから車山まで4㎞弱。「湯川」からは15㎞ほど。「池のくるみ」は車山の西にある踊場湿原の別名、「科ノ木」は不明だが、「上諏訪駅」は諏訪湖の東にあり、車山から10㎞ほど。
「霧ヶ峰は・・・・ほとんど樹木の見当たらぬ大雪原だから、それこそスキーの先の向くままどこへ滑ろうと勝手だ。どんなに拙いスキーの初歩者でもたいていここでは自信をつけて帰る。雪質がよい上にうんと長い直滑降ができるからだ」
「夕陽の落ちるころ、遠く暮れゆく日本アルプスの連峰を眺めながら、ヒュッテの玄関に腰を下ろしてパイプなんぞふかしたら、そのままそっくりあの西洋の山岳映画の一人物となるだろう」
「山浦温泉・・・・・・旅館は一つあるきりだ。『さびしさの極みに耐えて天地に寄する命をつくづくと思ふ』という歌はかって伊藤左千夫がここに遊んで詠んだ歌であった」
「車山北側の鞍部まで出ると、あとはもう直滑降一点張り。傾斜は緩いが加速度がついて猛烈なスピードで走る。途中ふと気が付くと鳳凰山塊と八ヶ岳の間に霊峰富士がほとんどその裾まで全容を現わしている。暫く立ち止まって眺めていたが、拝みたくなるような崇厳(すうごん)さであった。」
深田は雁坂峠に3度登っていて、どれも思い出深い、というか相当に大変な山旅だったことが分かる。雁坂峠2,082mよりも高い「国師ヶ岳と朝日岳の間の無名の峠(2,350m)」というのは大弛峠2,360mに違いないが、当時はそう呼ばれていなかったのだろうか?今は日本最高所の車道峠(最高所の車道としては富士山らしい)。最初の時に通過した「広瀬部落」というのは今の広瀬ダムの東側だろう。そこから「小一里・・・・笛吹川最奥の赤志(しゃくし)という部落」は今の道の駅か遊歩道入口あたりあろうか。雁坂峠を越えて抜けて下った先の「栃本」は秩父湖の手前で雁坂峠から10㎞ほど。今はもちろん立派な車道(R140)がある。その次の「甲府昇仙峡から金峰山」というのはどう辿ったのか不明だが17㎞くらいはある。金峰から梓山は7㎞くらい。雨の夜をズブ濡れになって明かしたというのも信じられない。「甲武信岳・・・・の頂近くの木樵小屋(最近の案内書を見るとこの小屋はもうなく、他に新しく登山小屋ができたらしい)で夜を明かし」の新しい登山小屋は今の甲武信小屋に違いない。3度目の甲武信岳から「真ノ沢に下り・・・・・真ノ沢の一支流を上って雁坂峠」というのは、甲武信岳の北東に下り、金山沢を登り返したのだろうが、今は道はない。10㎞くらいの下りと登り。「荒川小屋」というのももう無いだろう。
「幸田露伴氏の小説に『雁坂峠』というのがあったが、それはこの峠のことを書いたものであった・・・・・学生時代に僕はこの峠を三度越えた」
「赤志(しゃくし)という部落・・・・・この原っぱから直ぐまなかいに破風山がその名の由来する破風屋根の形に見える。これも僕の倦かぬ眺めのうちであった」
「その後奥秩父に行かなくなってから7、8年経つ。もうこの頃はいろいろな施設なども備わって歩き易くなったであろう。今年は是非久しぶりの奥秩父を見ようと思っている。あのなつかしい雁坂峠の上にも立ってみたい」
破風屋根(破風山の形)(p127雁坂峠)
1934年6月のこの記事によると、深田はこのとき白山に一度しか登っていない。登っていない理由は私と同じで、「遠くて行くに不便なせい」「案内書の多い流行の山ばかり登っている」ということだったようだ。この後、東京から故郷に帰った深田は毎年のように白山に登ることになる。この記事で深田は「白山山群」なるものを定義しており、それを南北に分け、北は「猿ヶ山、大門山、奈良ヶ岳、大笠山、笈ヶ岳、野谷荘司山、妙法山、三方崩山、ゴマノ平2124m(≒間名古ノ頭)、白山五峰(大汝、剣ヶ峰、御前、別山、三ノ峰)、二ノ峰、一ノ峰、銚子ヶ峰、丸山、芦倉山、天狗山、大日山1709m=大日ヶ岳」、南は「滝波山、平家岳、能郷白山、部子山、銀杏峰、荒島岳」を上げており、この中から荒島岳を日本百名山に選んだのは有名な話だが、その他の山にはどのくらい登ったのだろう。この27山(=21+6)のうち私が登っているのは12山のみ、予定があるのは10山、全く知らなかったもしくは予定のないのが5山。このうち丸山へは銚子ヶ峰への道の途中から道(2㎞)があるが、芦倉山と天狗山へな道なし。滝波山1412mは平家岳の東にある山だが、道なし。銀杏峰1441mは部子山の東にあり、ここには北から道(3㎞、1000m)あり。どれだけ登れるだろう。今や白山登山においては登山口のはるか手前になってしまった白山温泉には今年も下山後に温泉に入ったが、深田が初めて登った時は2泊目の宿で、記事を書いていた頃には車道が通ったが、その年の大洪水で「全部押し流された」とある。いやはや、登山とは文明の発展によりかかり、そのおこぼれで個人登山者が山に登れるのだということが良くわかる。
・日本三名山:「万葉集」にこの三山が詠まれていたことで、呼ばれるようになったといわれる。また、この三山は日本三霊山ともいわれ、信仰による登拝者だけでなく一般の登山者が増加したため三名山の呼び名になったという説もある。立山 | 白山 | 富士山 コトバン
・牽強付会:牽強付会とは、 道理 に合わないことを 自分 に 都合の良い ように 解釈 するという意味のこと。 英語に訳すると twist an argument となり、この 場合 には「 議論 を 都合の良い ように ねじまげる ( 我田引水 )」という意味になる。 weblio
「美しいと言っても優美という感じだ。それは立山・剣のような峻厳さでもなく、南アルプスのような豪壮さでもなく、鳥海・岩木山のような端麗さでもなく、ただ優美だ。しかもその優美のうちに崇高な特種の趣を備えているように思われる。・・・・・・そしてその白山の最も典型的な全容を望みえるのは僕の町の付近だと言って差し支えない。白山頂上の大汝、剣ヶ峰、御前の峰々からずっと右に尾を引いて別山に至るまで、いちいちはっきり指摘することができるのである」
・等閑視:おろそかに思うこと。 [名](スル) いいかげんに扱って、放っておくこと。 なおざりにすること。 「現状を 等閑視 した結果の大事故」 コトバンク
「都会から遠くて行くに不便なせいもあろうが何か流行遅れの山という気がしないでもない。こういう僕でさえ中学生のとき一ぺん登ったきりで、そのあとは東京へ出て来て、案内書の多い流行の山ばかり登っている始末である。」
・尾添(おぞ):中宮を流れているのが尾添川だから、大汝から北に下ったのだろう。
・白山街道:庄川沿いのR154=白山街道
・蛭ヶ野:大日ヶ岳の東、「ひるがの高原」、スキー場が二つ
・倶利伽羅峠:宝達山と北陸自動車道の中間あたり。277mの三角点ピークあり
・油坂峠:大日ヶ岳の南、白鳥インター付近、標高790mくらいだがトンネルが通っていて道はなさそう
至仏山を越えて尾瀬へ
6人パーティで沼田駅(当時は列車はそこまで)から建築列車に乗って大穴(今の湯檜曽駅のあたり)まで行き、藤原(今の宝台樹)、湯ノ小屋(ならまた湖手前)の宿に泊まり、利根川上流の楢俣沢(今は楢俣川)の先のブナノ平の小屋掛け(狩小屋沢出合と思われる)に野営。今でもこちら側から至仏山へは湯ノ小屋温泉から笠ヶ岳経由くらいしか見当たらない。雨も降り、深田たちはずいぶんのんびり歩いている。
・大穴:沼田から水沼を抜け、土合と宝川温泉の分かれ道付近、湯檜曽駅があり、大穴スキー場というのもある
・坂東太郎:(1) 利根川 の昔からの呼び名。 関東( 坂東 )にある日本一の川の 意 味で, 筑紫二郎 ( 筑後川 ), 四国三郎 ( 吉野川 )の 順 に呼ばれ た 。 (2)夏にみられる 積乱雲 は一般に 太郎 雲と呼ばれ,坂東太郎は 江戸 (東京)での 呼称 。 コトバンク
・打上、藤原:今の藤原ダムより先、宝台樹の手前あたりらしい。
・湯ノ小屋:まだ行ったことのない須田貝ダムの先の温泉街。利根川最奥の奈良俣ダム、ならまた湖の手前。
・大菩薩峠の米友:小名路の巻、その晩のこと、宇治山田の米友が夢を見ました。米友が夢を見るということは、極めて珍らしいことであります。米友は聖人とは言いにくいけれども、未いまだ曾かつて夢らしい夢を見たことのない男です。彼は何かに激して憤おこることは憤るけれども、それを夢にまで持ち越す執念しゅうねんのない男でした。また物に感ずることもないとは言わないけれども、それを夢にまで持ち込んであこがれるほどの優しみのある男ではありません。しかるにその米友が、珍らしくも夢を見ました。「あ、夢だ、夢だ、夢を見ちまった」aozora
翌朝は3時頃起きて食事や弁当の準備、6時10分出発。狩小屋沢を詰め、滝を越えると至仏が現われ、紅葉に彩られたその景色に感動。8時半に休憩をとり、浜田君に花の名前を教わりながら登り、0時15分に至仏山頂上到達。そこで初めて深田は尾瀬ヶ原を見ている。パーティはムジナ沢(北東登山道尾根の北)を下り、山の鼻(とは書いておらず、県営の小屋とある)を過ぎ、木道のない湿原を歩き「くるぶしへんまで沈む、その下からジクジクと水がしみてくる」、「ヨッピ川と沼尻川の合流点近くの玉城の小屋」(今の竜宮小屋のあたりだろうか?)に入る。番人がいて食事を頼み、曇天になった翌日はその小屋で停滞。翌日は尾瀬沼の長蔵小屋までだが、深田と塩川兄弟は只見川を下って平滑ノ滝と三条ノ滝を見に行き、平滑ノ滝を見て感動するが、そこからは下れず、ヤブ尾根を歩いて見たのは三条ノ滝ではなく別の滝だったようだ。長蔵小屋には当時まだ平野長蔵が健在で、深田たちは彼の話を聞いている。翌日は朝から雨で、深田は小屋にあった志賀直哉の「大津順吉」という本を読み、ひどく感動したらしい。その翌日、深田は用事のため、燧岳に登らずに山を下る。「戸倉の玉城屋」に泊っているが、この宿は今も現役。「1934年補筆」とあるからもう90年前。尾瀬には木道がなく、至仏から山の鼻への道もない。だが深田が山の鼻から長蔵小屋まで辿った道、そこから戸倉に下った道は恐らく今の道と同じなのだろう。狩小屋沢から初めて見上げた紅葉の至仏、至仏山頂上から初めて見た尾瀬と燧岳、そして利根川源流の山々。どれほど深田は感動したことだろう。それを彼は「この見事な眺めをそのまま万人に伝える法があったなら、僕は一生をささげても悔いないとさえ思う」と書いている。
「もうかなり沢筋を登ったと思う頃、悠揚たる至仏の全容が現われた。満山の紅葉だ。その間に点々と浮島のように岩石が聳立(しょうりつ)している。優美な紅葉の色調とそれを引き締めるように峻厳な感じの岩石と双方相まって実に見事な眺めだった。今までの山旅に僕は忘れ難いいくつかの景色を数えることができるが、この時の眺めもその一つに数えている。」
「かねて話には何十ぺんも聞いていた尾瀬ヶ原を初めて見降ろした。原一面まるで燃えるような代赭色で、ずっと燧岳の麓まで伸びている。その美しいことは譬えようがない。・・・・・北に眼を転ずると平ヶ岳から兎岳に至る利根源流の連嶺が手に取るように見渡せ、その他上越国境の山々もほとんど指呼のうちにあった。さらに遠く浅間山、八ヶ岳、南アルプスまで望むことができた。まことに王者の宴に臨んだとてこれほどの快楽は味わえないであろう」
「炉端で茹小豆を食べながら僕等は長蔵老人の気焔を聞いた。政治を論じ時局を談ずる赭顔(あからがお)の彼には何か一種の風格があった。」
「退屈なままに僕は尾瀬沼文庫にあった志賀直哉の『大津順吉』を引き出して読み始めた。夢中になって読んで、読み終わってひどく感動した。」
「尾瀬へ来て燧に登らずに帰るのは虎穴に入って虎子を得ずに戻るようなものかもしれない。しかしやむを得ぬ用事を控えていたので、僕と塩川君(兄)とは一行より先に帰ることにした・・・・・・夕飯後、塩川君と碁を打ったが立て続けに手も無く負けた。この7月、東北の朝日鉱泉に雨に降られて停滞していたとき、退屈しのぎに塩川君が初めて僕から碁を教わったのだが、もうその先生を他愛も無く負かしてしまうのだ。塩川君はスキーといい写真といいすこぶる上達が早い・・・」
ネムロコウホネ(p148至仏山を越えて尾瀬へ)
沼田で汽車を降り、法師温泉から三国峠を越えるとまだ苗場スキー場は影も形も無く、ダムのたぶん無く、清津川沿いに赤湯に入る。吊橋の橋桁が取り払われていて、腹までつかって渡渉。まだ人のいない赤湯で一晩過ごし、翌日、熊ノ沢(熊沢?)から苗場山を目指すが断念(熊沢の隣のサゴイ沢でも深いゴルジュの本格沢登りのようである)。だが、下山途中で登ってくる赤湯の人たちに出会い、橋桁のかかった吊橋を渡ってもう一泊し、教えてもらった道をたどって苗場山に登る。5月の半ば、吹雪だったという。
・浅貝:今の苗場ロープウェイ麓駅のあたり
「三国峠を越後に降りて一里半もいくと浅貝という村がある・・・・・・宿には案の定、人がいなかった・・・・・ずっと向こうの山腹の道をこちらに歩いてくる一行の人影が見えた・・・・一冬を人里で過ごし、すでに木の芽も吹いてきたから、この人たちはまた山の湯の生活に帰ってくるところであった」
法師温泉、三国峠、赤湯(p156山の湯)
法師温泉(p156山の湯)
三国峠(p156山の湯)
深田が初めてアルプスに登ったのは大正11年、1高1年の最初の試験終了後、旅行部から張り出されていた10幾つの登山予定表の中の一番簡単そうな「燕岳-槍ヶ岳縦走」だった。松本で乗り換えて有明駅で降り、中房温泉で一泊、翌日燕岳に登り、「今はアルプス銀座と呼ばれている尾根を伝って常念の小屋まで行った」。今では表銀座である。「現今では一般の人は皆喜作新道を伝うことになっているが、この新道は確か僕の行った翌年にできた」のはいいとして、「常念小屋から一ノ俣沢へ下り、さらに槍沢を登って殺生小屋に泊まった」とあるが、今はもう一ノ俣沢には道はない。常念の滝など滝が5つほど架かっていて、楽ではなさそう。
「これが僕の北アルプスへ行った最初の経験である。名にし負う梓川の畔を歩きながら、ああ、こんなに美しい景色がどこにあろうかと感嘆久しゅうした。その頃はまだ今日のように売店もなく、ベンチもなく、キャンプ生活なども流行っていなかったので、自然の幽邃な気持ちを味わうことができた。帰途は徳本峠をエッサエッサ登っていったが、この上高地まで自動車が通じて坐りながら行くことができようなどとは当時どうして想像し得ただろう」
・名にし負う:その名とともに評判になる様子。「名に負う」ともいう。 (ことわざ辞典)
・幽邃(ゆうすい):奥深くてもの静かなこと。また、そのさま。 (コトバンク)
白馬行
深田は友人に頼まれ、山岳映画を撮るという映画監督一行を案内して5月の白馬に行く。監督はそれほど強健でなく、他の二人も「比叡山の登高を最高記録」としている割には大雪渓を登って山頂小屋に泊まり、翌日は稜線を北に延々歩いて白馬大池、天狗原を越え、吹雪大池=神ノ田圃まで下っている。深田は案内といっしょに乗鞍岳の雪渓をグリセードで下ったらしいが「雪渓を下る唯一無二の楽しさだ」、映画の方は「栂池ヒュッテ付近のロケーション好適地を見出した」らしい。
・中野英治:『山の叫び声』 : 監督村田実、1934年。じ、1904年12月5日 - 1990年9月6日[1][2])は、日本の俳優である。本名は中野 榮三郎(なかの えいざぶろう)である[1]。サイレント映画の時代に現代劇において、鈴木傳明、高田稔と並ぶスターであった[2][3]。 wikipedia
「文壇にも僕と趣味を同じゅうする人がたくさんいることは喜ばしい。佐々木茂索氏夫妻を始め、宇野浩二氏、小林秀雄氏、林芙美子氏、中島建蔵氏、菅忠雄氏、今日出海氏等、その他足が弱くて行くことはできぬが山は大好きだという人がたくさんいる・・・・・・・『何故危険に身をさらしてあんな高いところへ登るのか了解できない』なんていう菊池寛氏の常識哲学が文壇人の頭に浸潤しているなら、わが文壇山岳会はまずそういう迷妄から打ち破って行かずばなるまい」
これは文学評論である。内容が山岳風景だから最初は山の話だが、文学者の書いた山岳風景描写を批判する中盤以降はまるで小林秀雄風。終盤は、形式にこだわってきた日本文学と作家たち「明治中期までは枕詞とか掛かり結びとかいった美文調の小説が多かった」が、現実に目を向け、自然の本当の美しさを見つけるようになってきた「近年になって自然主義などが唱えられ・・・本当の人間性を見出すという事が重大になってきた・・・・絵画の方でも・・・・もっと自由にありのままの美しさを見出して描くという風になってきた・・・・」と論じ、「芸術が進歩してきたように風景鑑賞も確かに進歩してきた」と続ける。一方、冒頭で持ち出したテーマ「優れた自然、ことに山岳風景を描写した文章について・・・・実際の景色を知っている人には・・・どんな名文で描写されていようとも、はなはだ・・・足りない感じがする」については志賀直哉が「焚火」を書いた時の話として「実際の自然に接するとどんなに巧い描写でも何か物足りない気がする」「自然から迫られるだけにそれを強く現わそうとするのは大変なことだと思った」という、自然(山岳風景)と文章表現の関わりについて述べる。つまり、登山する人が増え、彼らは優れた自然、優れた山岳風景に実際に接して知っているので、登山も旅行もしないで小説を書くような生半可な文学者の小説は馬鹿にされて売れないということ。つまり、登山の審美眼が日本芸術の進化に深く関わってきたと言ってよいのではないか。
「優れた自然、ことに山岳の美しさを一度でも知った人は、その美しさを再現しようとする人間の試みには決して十分には満足はしないだろう・・・・・僕は山が好きなので、山に関する文章は目に触れる限りたいてい見逃さずに読んでいるが、風景を描写した記述にはやはり飽き足らない・・・・・ある風景を見て天下の絶景と賞賛されている文章があった。その風景は僕もよく知っているが、ただ上っ面な美しさだけで、登山家から見たら屁の河童のような景色である」
「逆に、今まで平凡な景色として誰にもあまり顧みられなかった風景の中に、本当の美しさを見出した人は偉いと思う。明治以降の日本山岳会の先輩たちがそうであった。・・・・ちょっと見たところ何の変哲もない高原や渓谷・・・・に本当の美しさが見出されてきた・・・・神河内を見出した人、尾瀬を見出した人、奥秩父の渓谷と森林を見出した人、そういう人たちの啓示によって、若い登山家たちの風景鑑賞眼も養われてきたと言っていい。」
これは群馬県下仁田町の西にある神津牧場への紀行文である。にもかかわらず深田は冒頭で「神津牧場を初めて世に紹介した人は故大島亮吉で・・・・・・誰でもその美しく豊富な抒情的な文章に魅され・・・・・愛と熱をもって書いたその文章以上に誰も一行も付け足すことはできまい」と書いている。大島は確か牧場で働き、とにかくそこで見聞きしたものをいちいち感嘆しながら表現していたように思う。彼は冬の北アルプスに挑戦し、奥穂高に登り、山中の岩屋で仲間と夜を明かした迫真の登山記を書く一方、自然の中の雄大な風景や小さな花の美しさを見出し、日常生活の一部をこれでもかというほど感傷的に書いていた。確かに唯一無二の人物である。私も下仁田から荒船山や八風山に登り、神津牧場の近傍を歩いているのだが、大島のような細かなところまではとても気づいていなかった。さて、深田はどうだろう。深田は下仁田から市野萱までの直行バスに乗り遅れ、途中の本宿というところから歩いたので荒船山を諦めて神津牧場に入っているが、濃くておいしい牛乳を飲み、牛乳風呂にはいったりで、結構楽しそうである。舞茸を食べたのは二度目とあるのは意外だが、確かに今は養殖マイタケが店頭で手に入るが、当時はかなり珍しいものだったに違いない(今でも自生マイタケはほとんど店に出ず、出た時は500円くらいかな)。二日目は雨で一日寝転んで西岡一雄の「泉を聴く」を通読。最終日は北の和美峠を越えて軽井沢へ出るが、道を間違えたりしてどうにも冴えない紀行記である。
「神津牧場の和やかな美しさを知るには是非ともどこか高みへ一つは登らねばならぬ。付近には八風山、香坂峠、物見山、寄石山、志賀峠、熊倉峠、内山峠、荒船山など、諸君がわずかの骨惜しみさえしなければ易々と登り得る山や峠が多いのである。そういう高みに立喧ってこの高原を見降ろしたときはじめて諸君は『ああいいな』という嘆声を発するに違いない」
神津牧場周辺:星尾峠、和美峠、下仁田、八風山、物見山、内山峠、荒船山(p179神津牧場)
ここで深田は10ページにわたって登山初心者を秋山にさそい、東京近郊から手軽に行ける山々を紹介している。最初に紹介するのは八ヶ岳で、ちょっとしんどそうだが、深田は案内を一人連れることを付け加えている。それにしても、茅野駅から赤岳鉱泉もしくは夏沢峠を越えて本沢温泉に入り、そこを根拠地として、帰りは佐久の松原湖に下り、小諸に出るというのはかなりの大縦走。私もトライしてみるべきか?八ヶ岳のルート紹介の前に、深田は八ヶ岳から見える山々をたくさん紹介していて、御坂山塊というのが富士山北側の稜線だということが分かった。八ヶ岳はちょっとしんどうかなと気づいたか、深田は今度は奥多摩や奥秩父の山々を紹介する。ここでも「高尾山から景信山、陣馬山」に加え「三ツ峠山から本社丸」「大岳山から馬頭刈山」、更に小金沢や箒沢から畔ヶ丸の沢を紹介し、深田自身の体験として、「蚕山から三国山、生藤山、茅丸、連行山を辿って柏木野という村」を挙げている。奥秩父はいろいろと辛かった経験談で、コースは紹介していない。登山道が整備される以前のことだったのだろう。最後に深田は、清水トンネルの開通で通いやすくなった上越国境の山、つまり谷川岳を紹介している。「後閑から法師温泉までの三国街道」というのは三国峠の南側、群馬側のルートで、たぶん三国トンネルはまだ無かったのだろう。最後に湯檜曽から藤原に向かう利根川源流の道のことを書いている(深田はここを通って至仏山に登っている)が、深田が「元のままではあるまい」と嘆いていた、「藤原から更に登ると上ノ原という気持ちのいい高原」のあたりは今はスキー場になっている。はてさて、私にとってはまた、トライしてみたい登山コースが増えてしまったようだ。
・喧:かまびすしい、やかましい
・涵養:かん‐よう〘名〙 (「涵」はひたすの意) 自然に水がしみこむように、徐々に教え養うこと。だんだんに養い育てること。コトバンク
・ソンネイユ:sonnaille (家畜の首につける)鈴;⸨複数で⸩ (家畜の)鈴の音. コトバンク
・宜しかった:よろしい、むべ
・御坂山地:山梨県の甲府盆地東方から南方に連なる地塁状の山地。東は大月市南西から徐々に高度を増し、鶴ヶ鳥屋(つるがとや)山(1374メートル)、御坂山(1596メートル)、黒岳(1793メートル)などを経て三方分山(さんぼうぶんざん)(1432メートル)付近で方向を南にかえ、天守山地からさらに南に延び、長者ヶ岳(1336メートル)から徐々に高度を低下していく コトバンク
・一瓢:いっ‐ぴょう ‥ペウ【一瓢】〘名〙 (水、主として酒の入れてある)一つのひさご。ひょうたん一つ。転じて、わずかな飲料。いささかの酒。コトバンク
御坂山地(p185秋の山歩き)
赤岩ノ頭(p188秋の山歩き)
八ヶ岳(p188秋の山歩き)
高尾山、景信山、陣馬山(p189秋の山歩き)
三ツ峠山から本社ヶ丸(p189秋の山歩き)
蚕山、三国山、生藤山、茅丸、連行山、柏木野(p190秋の山歩き)
後閑から法師温泉(p193秋の山歩き)
深田が初めて北海道に行ったときの話。1934年だから31才のはずで、若い時には北海道は遠かったのだろう。冒頭に出てくるのは北大寮歌で、北海道帝大新聞に掲載したことの敬意だろう。札幌で深田が合流した登山家河上寿雄、石原巌は大雪山に登ったらしいが、深田が登ったのはスキーで札幌近郊の山。だが、銭函川沿いに奥手稲の山の家までは、奥手稲山頂上を越えて12㎞あるから、楽ではない。山の家に4日間泊ってスキーを楽しんだのはユートピア・スロープ。粉雪に感激する深田。帰りに寄った北大のパラダイス・ヒュッテというのはたぶん手稲山のスキー場中腹だろう。当時はまだスキー場は無かったようだが、パラダイス・ヒュッテから「軽川」というのは今は札幌市街の手稲駅のあたりで、5㎞ほど。当時は家屋も少ない緩斜面だったのだろう。札幌に戻ってから雪が悪くなり、スキーの代わりに深田が夢中になったのはジャンプ。藻岩山の北には円山や大倉山などのジャンプ場がたくさんあり、おそらく深田は一流ジャンプを見たのは初めてだったのかもしれない。
・「都ぞ弥生(北大寮歌)」横山芳介作詞・赤木顕次作曲 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂う宴遊(うたげ)の莚(むしろ) 尽きせぬ奢(おごり)に濃き紅や その春暮れては移ろう色の 夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想(おもい)を載せて 星影冴(さや)かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ 豊かに稔れる石狩の野に 雁(かりがね)はるばる沈みてゆけば 羊群(ようぐん)声なく牧舎に帰り 手稲の巓(いただき)黄昏(たそがれ)こめぬ 雄々しく聳ゆる楡(エルム)の梢(こずえ) 打振る野分に破壊(はえ)の葉音の さやめく甍(いらか)に久遠(くおん)の光 おごそかに 北極星を仰ぐかな 寒月懸れる針葉樹林 橇(そり)の音(ね)凍りて物皆寒く 野もせに乱るる清白の雪 沈黙(しじま)の暁(あかつき)霏々(ひひ)として舞う ああその朔風(さくふう)飄々として 荒(すさぶ)る吹雪の逆まくをみよ ああその蒼空(そうくう)梢(こずえ)聯(つら)ねて 樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ mahoroba.net
・斧入れて香におどろくや冬木立:「斧で切りつけてみると、冬で枯れているように見える木でも、鮮烈な香りが立ち、驚かされることだ。」 haiku.textbook
211120 雪山の魅力 3ページ弱の文章で深田が語るのはただ雪山、冬山の魅力。遭難のあった立山、針ノ木岳、剣沢、浅間山、果ては満州/朝鮮国境の白頭山の名を挙げ、危険を承知でトライする価値があること、自身で経験してみなければ決して分からないと説く。まあ、雪山にハマった人間の話だ。
「最も輝かしいものは最も困苦を要するところにある、それは人生によく似ている。雪は魔法の衣とでも言おうか、いったん雪を被ると何でもないような山でさえひどく嵩厳化し神秘化する。雪の無い山は散文的だが、真っ白に雪に覆われると山全体に一律の韻が徹ったかのように例えばどんな谷の隅を叩いても山全体に響きそうな気さえする。黒い木立と白い雪。ただその二色が言葉を絶した景色を作り上げるのだ。一番単純で一番豪華な効果、それは至高の芸術によく似ている」
「一度冬山の魅惑に取り憑かれた人はそれをふりほどくことができないのだ。事実、刻苦した後、氷の頂に立った時の歓喜、白銀を鎧った山々を眺め渡した時の陶酔、ああいう強烈で純粋な感動を味わった人が、どうしてそう易々と冬山を思いきることができよう」
「重ねて言う、冬山の魅惑は今ここに僕がどんな名形容詞を連ねたところでその万分の一も伝えられない。諸君が身をもって体験すべきだ・・・・・・そして諸君が今まで感心して人に吹聴してきたような景色は一ぺんに脳裏から消し飛んでしまうだろう」
・恋着:れん‐ちゃく【恋着】 の解説[名](スル)深く恋い慕うこと。また、物事に深く執着すること。「金銭に―する」goo辞書
p196 雪の札幌付近 手稲山、三角山、大倉山シャンツェ
これは日本百名山の八ヶ岳の章でも触れている、雪山で失った友人について。当時の深田は大学1年、友人二人はまだ1年年下の高校生だった。事故は八ヶ岳の縦走、赤岳鉱泉から赤岳に登り、横岳から硫黄岳まで下り、あとは眼下に見える本沢温泉まで下るだけだった。そこで彼らは、安全だが遠回りな縦走路を離れ、見えている本沢温泉に向かって雪の急斜面を下り、一人が滑ってしまった。あるいは、ヘルメットさえ被っていれば防げた事故だったのかもしれない。ヘルメットを木や岩にぶつけることはよくある。後段は死んだ友人についての慕帰集に寄せた想い出。深田がまだ高校三年のときに同宿し、何でも隠さずしゃべりあえた、あの人なつこい笑顔が今は僕を悲しませる代わりに懐かしい想い出で微笑ませてくれる、というほど深い友だった。
「そして僕は例の冗談でも言いながら、朗らかな気持ちで彼の肩でもたたいてみたい気になるのだ」
・aristocratic:貴族の、貴族的な、貴族ぶる、貴族政治の、貴族主義の weblio
・aesthetic:(特に、芸術の)美の、審美的な、美的感覚のある、美学の weblio
赤岳鉱泉、赤岳、硫黄岳、本沢温泉(p203山に逝ける友)
硫黄岳と本沢温泉(p203山に逝ける友)
深田はここで、彼が学問的な研究をしている訳でもなく、輝かしい登攀の記録もないから、山岳家の資格はない、と述べている。つまり当時はまだ、深田流の「楽しむ登山」というのは世に流通していなかったということだ。挿入した写真のほうが文章よりも遥かに値打ちがるに違いないともあるが、この文庫本に挿入された写真は最終章の吉村君のものだけ。これはたぶん、編集者の方がモノクロの昔の写真よりも深田の文章の方に価値を認めたということだろう。
山口輝久(あきひさ)の名文解説は三つのことを言っていると思う。一つは深田久弥の功績、「山の文章を文学の域nまで高めた」ことの背景として、「文章はあくまで平易で気取りや粉飾がなく、そこから真に山を愛した人間の正直な感想がそのまま読者に伝わってくる。それがこの著者・・・・が多くの人に信頼され、親しまれている理由であろう」と解く。二つ目は本書「わが山山」についてだが、山口の記述にはやや矛盾が見られ、「これはいわゆる名文集ではない、あえて言えば雑文集である。彫琢された完成度の高い文章の結構のかわりに、山の自然児の荒っぽくて健康な息遣いがあり、巧妙な言い回しの代わりに率直な純心の発露がある」と見事にこの本の真髄を示してみせながら、「『地図を見ながら』など山わずらいも重症になった状態を示すいい例であろう。・・・・・・付け加えるが、これは巧まざる名文である」と書いているのだが、深田の文章は凝りに凝った名文ではなく、自然発露的な(巧まざる)名文であると言いたいのだろう。三つ目は深田のユーモア表現。奥秩父と朝日連峰で見かけたメッチェンを伊豆の踊子の域にまで書き足さなかったから、深田は小説家ではなく登山家なのだ、というのは一理あるような気もする。そして、八甲田から谷地温泉に向かうところのくだり、そこの一節を抜き出して掲載しているのは、山口もよほど面白かったからに違いない。
「上体を右肘に支えて、左手を右の膝の上に乗せて、おのずからとったこの姿勢には、しかしどこか心覚えがあった。そうだ、かって読んだ本の挿絵にこんな姿勢があった。それはゲーテが伊太利紀行の途次、カンパニアの平原を眺めているところの図であった。僕はますます得意になってその休息の姿勢をつづけた」
・巧まざる:当人が意識しないで自然に表れる goo辞書