1941-45年(2024年2月15日読了)
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戦争の真っただ中だったこの時期に、小林は日本政府の求める講演をぎくしゃくした感じでこなしながら、パスカルやドフトエフスキイの考察を一段落し、日本の古典に目を向ける。その最初は「当麻」という世阿弥の能。二つ目の「無常という事」は「一言芳談抄」というマイナーな古典だが、それに続き小林は「平家物語」「徒然草」「西行」「実朝」と力作を連ねる。特に「徒然草」「西行」「実朝」は小林の全作品の中でも屈指のものに数えられるだろう。
私はこれらを学生時代に何度も読んでいたはずだが、今回も見返してみて、まず「徒然草」に驚き、「西行」はこの作品集14の中で最高作だと感じ、「実朝」を読んで、こっちの方が更に上だと知った。数ページを読むのに何時間もかかったが、実に充実した読書ができた。それぞれの抜粋を少し:
「因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容美(かたちよ)しと聞きて、人数多言(あまた)言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみを食ひて、更に米(よね)の類(たぐい)を食はざりければ、斯かる異様(ことよう)の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」
「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕ぐれ」「世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん」「風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな」「願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」
「世の中は鏡にうつるかげにあれやあるにもあらずなきにもあらず」「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめ給へ」「神といひ仏といふも世の中の人のこころのほかのものかは」「吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり」
この文章は何度も読んだ記憶がある。「無常ということ」という文庫本だったかもしれないし、大学入試の問題集だったかも。今はどうか知らないが、私の頃は小林の文はよく大学入試に出たので、志望学生にとって小林秀雄を読む事はは必修だった。だが、今、改めてこの文章を読むと、全く違った風景が見える。小林の文章がえらく研ぎ澄まされた名文で、言葉をたくさんはしょっているので、そのドキっする言葉の断片にばかり目が行き、内容なんて二の次で、その言葉の面白さ、かっこ良さに酔いしれてしまう。
小林は17ページの文章の中になんと53首もの西行の歌を載せている。私はこの文章を過去に何度か読んだはずだが、全く覚えが無いのは歌を読み飛ばしてしまったためだろう。53首の和歌を原文で読めと小林は言っていて、それを試みてみてやっと内容が、小林の言いたいことが、西行のことがようやく少し、分かってくる。
小林は西行が当時の他の歌人たちとはまるで違っていたと言う:「外見はどうあろうと・・・・西行の詩境とは殆ど関係がない・・・・詩人の傍らで美食家がああでもないこうでもないと言っているように見える」。こういう相手の歌人は藤原俊成や藤原定家、寂連であるから、ただ事ではない。西行の何がそんなに優れているのか、どこが他の古今集歌人と違うのか。小林は西行は単に「『古今集』の風体をもとにして詠んだ」が「何をもととして詠みだそうが自在に独自な境に遊べた」のだという。
つまり、西行は生まれついての詩人だったということだ。どんな題材であろうが関係ない。おそらく言葉が頭の中からほとばしって出てくるのだろう。小林はそれを「即興は彼の技法の命であって方胆に自在に平凡な言葉も陳腐な語法も平気で馳駆した」と表現する。
「世の中は鏡にうつるかげにあれやあるにもあらずなきにもあらず」の歌から後、小林の論調は熱気を帯びて興奮気味になり、著名な文学者たち(賀茂真淵と正岡子規)の和歌の評論を「出鱈目である」「懾伏した竜王なぞ見えてこない」と一蹴し、万葉和歌に似た「叙景の仮面を被った抒情の独特な動き」「暗鬱な気持ちとか憂鬱な心理とかを意識して歌おうとする様な曖昧な不徹底な内省では到底得ることのできぬ音楽・・・・言わば彼が背負って生まれた運命の形というもの」が感じられると語る。
そういう小林の説明を読みながら実朝の歌を読むと、なるほど確かにそういう感じがしてくる。それを感じ取るためには歴史を、実朝の人生を知らねばならない。吾妻鏡を読み、鎌倉時代末期の謀略や暗殺がはびこっていた世情、自分の運命を感じ取っていた実朝を知らねばならない。
「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめ給へ」の歌を小林は「時流を抜いた秀歌」と絶賛している。この歌を正岡子規は「勢強き恐ろしき歌」と評してして、そういうふうにも思えるのだが、小林は「実朝の歌は少しも激してはおらず、何か沈鬱な色さえ帯びている」と批評する。ここでの小林には妥協はない(なお、p217で小林は正岡子規の「君が歌の清き姿はまんまんと・・・・」を載せ、この歌が好きであると褒めている。大先輩への配慮だろうか)。
こうして読み終わってみると、実朝は実に無邪気な子供であり、西行と同じ詩魂を持っているのかもしれないが、熟練した人生を生きた西行とはまるで違っているように私には思える。武士を捨て、好きなことをやり抜いて生きた西行に対し、実朝は将軍という役割を投げ捨てず、世の中の不満や軋轢を一身に背負って短い生涯を終えるが、時間や大きさは芸術や人生の価値には無関係だとすればどうだろう。
実朝はおそらく早熟で、二十歳ころまでにやりたいことはやり尽くしていた。だから、26歳で死んだときも何ら思い残すことはなかったのではあるまいか。実朝は、もしかすると全てが分かっていて、そういう運命すらも受け入れていたのかもしれない。だとすると、なんと粋な人生だろう。実朝は、太く短い人生を生きたのだ。
KKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKK
これは論語の「三軍モ師ヲ奪フベキナリ。匹夫モ志ヲ奪フ可カラザルナリ」という言葉をテーマにした小論。注釈には「どんな大軍でもその総大将を連れ去ることはできるが、取るに足りない男でもその志を奪い取ることはできない」とあり、これが小林の本意に合致すると思われるが、小林は世の中ではこれが「人は志を立てることが何より肝腎である」と誤解されていると論ずる。その理由を書く代わりに小林は例の煙巻話を始める「馬鹿と比べてみなければ悧巧にはなれない」「馬鹿が怖いと思ったとき、実人生の姿がチラリと見えた・・・」「孔子は笑って答える、三軍可奪師也」。次は経験派と先験派の話。ここは少し人生訓めいたことを言う「経験というものは己のためにする事ではない。相手と何ものかを分かつことである・・・・・相手と何ものかを分かって幸福になっても不幸になってもよい、いずれにせよそういう退引(のっぴ)きならぬ次第となってはじめて人間は経験というものをする」。
だが次は煙巻話「もし経験というものに口が利けたら彼はこんな風なことをぶつぶつ言っていると思う。『ほら、此処に他人という妙な生き物がいる。まあ、人間には違いないがね・・・・理解しようなどと思っても無駄だよ。ふむ、だから経験しているという訳だな。よろしい、大いに経験したまえ。・・・・自動車が来たから君は除けたのだな・・・・大変よろしい。尤も、もっと切実に経験したければ、轢かれても構わないのだぜ』」。だが、小林はちゃんと結論を書いている:「いずれにせよ、経験のほうではぶつぶつ言うのを決して止めない。それに耳を傾けてさえいれば経験派にも先験派にもなる必要はない。この教訓は単一だが、深さはいくらでも増していくようである。そして、あの世界がだんだんとよく見えてくる・・・・それぞれの馬鹿はそれぞれ馬鹿なりに完全な、どうしようもない世界が・・・・信ずるに足りる唯一の世界だ。そういう世界だけが、はっきり見えてきて、他の世界が消えてしまって、はじめて捨てようとしなくても人は己を捨てることができるのだろう。志を立てようとしなくても志は立つのだろうと思える。それまでは空想の世界にいるのである・・・・それまでは分かろう筈もない・・・」。
この、経験のぶつぶつ言うのはともかく、あの世界がだんだんとよく見えてくる、とうのは小林の主調低音とダブって聞こえる。彼は作家や芸術家の言葉や作品にどっぷりつかってその主調低音を聞いた。それは経験派とか先験派、古典派とかロマン派などのカテゴライズでは語り切れない、個人個人に特有のものだった。小林が全ての人間の主調低音を聞いたはずはないが、幾人かのそれを聞いたからこそ、こういう表現ができるのだろう。
ネットで日露陸戦新史を引くと「日露戦争時に参謀本部部員であった沼田多稼蔵が、その壮烈な戦闘経過と戦略の推移を綴った書物が、新たな戦争の渦中にある1940年に再刊された。・・・・¥1,056 · 在庫あり(岩波書店)」とあるから、今でも広く読まれている本であるらしい。おそらくドキュメンタリー・タッチに、テレビドラマのように場面場面が描かれているのであろう。
しかし、小林が「文学的な感銘を受けた」のはそこに「明治の魂とでもいうようなもの、明治時代の人間の理想と理論と勇気と忍耐」を感じたからであり、ここで小林が批判するのは「明治の精神はその後健全に発育しただろうか。それはまことに疑わしい・・・・物質上の文化が発育しただけ」という当時の日本社会なのである。「道徳も思想も芸術も進歩の仮面を被って実はみんな堕落の一筋を辿ってきたと思えてならぬ」というのはただ事ではないが、それが具体的に何なのかは分からない。1941年は12月の真珠湾攻撃に向けて、国民学校令(3月)、6都市で米の配給制(4月)、国家総動員法に基づく金属回収令(9月)、少年倶楽部連載の「のらくろ」突然の終了(10月)などが起こっていて、小林も漠然とした不安感に捉われていたのかもしれない。
冒頭で小林が述べるのは、「彼(川端康成)の複雑な人工的な文学」を「当たり前なそういう風をして不器用に世間に対しているだけ」で創作しているということ。これは、川端康成自身は複雑な人間でも何でもないということであり、川端は何かシンプルな文学信条を持っているということであり、小林はそれをドストエフスキイと彼の作品を喩えに出してみせる:「彼の信念の驚くべき単純さ」「彼の作品の複雑さに目を見張ってとやかく言う人は彼の作品という複雑な和音が単声に聞こえてくるまで我慢の続かぬ人だけである」。これは作家のもつ個性ということらしい。
小林はさらにフロオベルやヴァレリイを引き合いに出して芸術家の個性について語る。それはテエヌの実証主義や歴史の必然から生まれるものではなく、芸術家一人一人に独自のもの。そして川端康成の個性は、なんと「十六歳の時の日記」に隠されていると小林は、いや、川端自身が語っていると言う。それはたぶん「半ば狂い一人ぼっちで死んでいく七十五の老人を十六の孫が看取っている。老人に飯を食わせてやったり、溲瓶(しゅびん)を取り換えてやったりしている。老人に憑いた毛物を刀を抜いて追い払ったりしている。そして原稿用紙を拡げて老人の言行を真率な感情を交えて写し出す『私は心中静かに悲しくなり、笑いもせず、むつかしい顔をして一語一語写していた』」という心の動きなのだろう。
小林はこれを更に、「忖度し、拙い言葉で言ってみる訳だが」と断ったうえで次のように表現する:「それは子供というものの恐ろしさなのだ。孫にはみんな解っている。祖父の老醜も孤独も絶望も憤懣もまた滑稽さも善良さも慈悲心も。真率な子供の愛や悲しみの動くところ、人間に肝腎なものが何で看過されずにいようか。知識はもう大したものをこれに付加することができない」。小林は川端が「二人の男、二人の女さえ描き分ける才能をもっていない」と断ずる一方、「天賦の才が容易であるとは間違いだ。作家はそれを見つけ出して信じなければならない。そしてそれはその犠牲となることだ。彼もまたその犠牲、従って一種の無能者でもある」と論じてみせる。
この自由意志が機能しない、一種の宿命めいたからくりはテッド・チャンの「未来の知覚」「同時的意識」という概念に似ているような気がする:「未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない。選択の自由を行使することを私に可能にするものは、未来を知ることを私に不可能にするものでもある」。川端にも未来が見えていたのだろうか。
13ページにわたって伝統について語る。最初は志賀直哉の夢殿の救世観音(写真)についての文句:「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というようなことは全く浮かんでこない」を引き合いに出し、この強い率直な感じこそが伝統の感じなのだと言う。そして「古を惜しむという事が取りも直さず伝統を経験することに他ならない」と説く。一方、救世観音の作者が誰なのか、かくかくの芸術が出来上がった原因なり条件なりを調べ上げる仕事は伝統の問題の半面に過ぎないと断じ、「僕等の努力とか行い」によって「それが現在によみがえる」のでなければならないという。
つまり救世観音を見るだけではだめで、救世観音を見て、作者が誰かなど思い浮かばぬほどに感銘を受けなければならないということらしい。「作者という様なものを考える必要が全くないほど目の前にある作品の姿が美しい」と感じることが伝統を感じるということだ。そして、我々が努力を怠ると伝統は失われる:「『万葉』の伝統は実朝が出るまで回復されなかった。
またその後、正岡子規がでるまでどうなっていたか」。中盤のところで小林は、救世観音の作者について、「聖徳太子の御作であるという法隆寺の伝説」があるが、一般には信じられていないという背景を説明する。なるほど、だから志賀直哉も小林も作者になどこだわらず、作品の美しさに着目すべきと説く訳だ。
次に小林はドフトエフスキイを綿密に読んだ時のことを引き合いに出し、「多すぎる文献の混乱に苦しみ、歴史事実の雑然たる無秩序に途方にくれる、そういう経験を痛切に味わうのは良いことだ、途方に暮れぬと本当には分からぬことがある」「茫然とする。だが茫然とすることは無駄ではないのです。僕らは再び作品にたちもどる他はないと悟るからです。」「謎は解けぬままに残った訳だ。だが、謎のあげる光は増し美しさは増したのである」と論ずる。
志賀直哉の見た救世観音の美しさは直感だが、調べつくした者にはその美しさは倍化する。科学上の事実の探求においてはそれは「殆ど生き物のような微妙さ精妙さを呈してくる」と言い、ヘルムホルツの「精神過程における統一とか調和とかいうもの」を引用している。
最後に小林が論ずるのは「伝統というものが個性ある自由な創造の邪魔になる」のか? ということ。「制約のない方が自由だという考えほど真の芸術家の考えから遠いものはない」「芸術家は材料と取り組み、己を空しくしてある形をつくりあげてみて、初めて己の個性というようなものが出来上がった形に現われるのを悟るものです」というのがその答えで、この芸術家の材料、彫刻家の大理石、音楽家の音響学的な法則、詩人の言葉、それらの材料の中に伝統があると説く。
そして、材料に取り組む芸術家がそこに「規範」なるものを見出した時「材料というものの制約に対する抵抗は最大となる。この抵抗に自覚と喜びをもって服従できたときに、初めてその人は新しい伝統の形を創り得る」と締めくくる(ドストエフスキイとホルムヘルツの話はかなり間接的な係わりだと思われる)。
これは「伝統」と同じくこの年6月に朝日新聞に書いた短い文章で、ここでは伝統を習慣と比較して、その特性を語る。習慣は「無自覚で怠惰で」いても「わざわざ見つけ出」す必要もないものだが、伝統は「見つけ出して信じて」「回復しようとする・・・努力と自覚において」はじめて得られるものだと言う。これを前の文章「伝統」にあてはめると、仏像や和歌の創作は現代社会の習慣に任せたままでは失われてしまう、過去の作品を整理保存し、新たな仏像や和歌を創作しようという努力があって初めてその伝統が維持されるということなのだろう。
アランは様々な芸術(対象は語られていないが、たぶん文学、それに絵画や彫像もあるのかもしれない)について、自分の「趣味判断」に基づいて「忠実に記述し説明しようと試みた」とある。そこには「独特の説というもの」は無いというから、アランの独断と偏見に基づいた評価・記述ではないかとも思えるが、小林が言いたいのはアランの「趣味判断」そのものがかなり客観的なものであり、独断と偏見の要素がほとんど無いということ、それこそが「各種の芸術・・・・を知る唯一の道」「諸芸術の間の本当の関係」を知る手段であるということなのだろう。
これは小林が府中一中時代の旧友、尾沢良三の「明治演劇史考」という副題の作品に書いた序文である。「演劇に関する知識がまことに浅薄」と最初に断わり、演劇の話は一切なし。だが、「そんな事はどうでもよかろう。旧友が初めて本を出すのを見る喜びが僕にあればそれでいい訳だろう」というのはやや強引(少しは演劇を勉強しろよな)だと思うが、尾沢氏が府中一中の頃から演劇に熱中していて、「好きなればこそ」書けた本だということ、そこには「知識や才能で事を澄ましていない」「我慢や勉強が一番物を言う」という世界があると語る。
一方、最後の段落で小林が語るのは、どうやら演劇は当時あまり繁盛していないということで、「飛んだ目に会っている」とまで書いているが、最後に「何もかも心得ている」と結んで、いつか「世間とうまく調子が合えば凡そ無恥と言いたいような繁昌ぶり」にならんことを祈っているのであろう。現実を見据えた序文ということだ。尾沢氏はこれに満足したのだろうか。ちょっと心配。
デカルトは難しかったが、パスカルはもっと難しいらしい。最初に小林が書いているのは、パンセの文体がナポレオンの命令や書簡の文体に似ていて、「勝か負けるか」という緊張感に満ちたものだと感じたこと。そして一般に信じられている有名な言葉二つが誤解されていると指摘する。一つは「人間は考える葦である」であり、これは「人間は・・・弱いものだ」あるいは、弱いが「考える力がある」ということではなく、「人間は恰も脆弱な葦が考えるように考えねばならぬ」であるという。
もう一つは「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら」であり、これは「歴史の必然には偶然というものが時に薬味のように混じっている」というようなアイロニーめいたことは一切なく、大真面目に語ったのだという。ただしその後でパンセは、自分のアイロニーが大多数の人に通じないことを知っていたが、「通じる人があまり少数だと困ったことになる」と書いているから、これがアイロニーとこられたことは悪くなかったということになる(やや論理矛盾?)。
その次に小林が語るのは「幾何学の心=合理的精神」と「繊細の心=情感的直観力」についてで、パスカルの真意は「両者の性質の区別なぞを読者に解ってもりたいのではない・・・推論したところが感じられるように工夫してみたまえと忠告しているのだ」と解く。その傍証として挙げている「自分は長い年月を数学の研究に費やした。人間の研究を始めたとき、数学が人間に適していないことに気づいて、数学を知らない人々より、数学に深入りした私の方が遥かに自分の状態について迷っていることを覚った」というのは、推論(=数学)したところを感じる(=情感的に直観する)のが難しいということだろう。確かに、頭の中で考えた通りに感情をコントロールするのは難しい。
次は同じ思想家のモンテーニュと比較しながら、パスカルの驚くべき独自性を語る。モンテーニュは「凡てを疑ったが、よく磨きのかかった自意識だけは信じもし愛しもした」というのは、デカルトの「われ思うゆえに我あり」の系列に合致していると思うが、この自意識すらパスカルは疑った。「己を語ろうとは何という愚劣な企みだ」と全面否定するもののパンセの中には「自分とは何か」という一節があり、これは「パンセの中でも名文だ」と小林は言う。その中核は「自分というようなものは人間の美貌にも才能にもない、肉体の中にも魂の中にも無い」一方「総じて人が他人を愛するのは相手にいろいろ借物の性質があればこそだ」ということだから、自分も含めて人は、いろんな他人の性質を借りてキャラクターを形作っているということなのだろう。
その次の引用「ある人が窓にもたれて通行人を眺めている。私がそこを通りかかる。彼は私を見るためにそこにいるのだと言えるだろうか。否」というのはまるで量子物理学の「観察者」の理論のようだが、「観察者」の理論によれば、観察者が見ることで私は存在し、私が「観察者」だとすると私が見ることで「彼」はそこに存在する。これらはどれも「借物の他人の性質」とは無縁のような気がする。だから小林は「或る人も、往来も、窓も、君の外部にあるとは限らない」と指摘しているのだろうか。
「人間とは一体何という怪物であるか・・・・」というp48の長たらしい文章を小林は「これがパンセの主題」だと言い、「考えれば考えるほど解らなくなるような考え方、これはパスカルが採用した断乎たる方法」だと断ずる。パスカルはこれを「うめきながら探る」と表現した。その結果、「無用にして不確実なるデカルト」「無と一切との中間物」「僕等は何も確実には知り得ないが、また、全く無知でもありえない。僕らは渺茫たる中間に漂っている」というのが「人間の真実な状態」となる。
しかしこれではあまりにも宙ぶらりんで、次の検討に進む手がかりがまるでないのでは? と思われるが、そういうことではないらしい。宙ぶらりんな状態であることを自覚した上で、考えても考えてもむなしいことをわきまえたうえで、更に考え続けることはできる訳だ。その虚しさを知りながら。「思想を書き留めようとする。思想は屡々逃げ去ってしまう。だがこのことは僕に忘ればかりいる自分の弱さを考えさせる・・・・・教訓になる。なぜかというと、私がひたすら心掛けているのは自分の空しさを知ることだからである」、ここまでくると悲観論者みたいだが・・・・。そうではない。
最後に小林が語るのはパスカルの「賭」とユーモア。ここでパスカルが引き合いに出すのはなんと宗教。「何故賭けねばならぬのか」の論証は実にユーモアに満ちている:「彼等(信仰のある者)のやったいろはを手本にするんだね。つまり、聖水を受けたり、ミサをあげてもらったり何やかや。まるで信仰はもう得られたといった風に、万事をやる。ああいうやり方をやってみ給え。そうやっているうちに自然に君は信ずるようになるよ。間抜けになるよ」。
「神」が現われたところで、小林はパスカルの神の思想について触れるが「神がある人々は盲にし、ある人々の眼は開けたという事を原則として認めない限り神の業について何事も分からぬ」という懐疑論は、ロバート・ワイアットの「なぜ神は路頭に迷う仔猫を救わないのか?」という懐疑と全く同じだ。だが、ワイアットと違い、この差別を神が行っていることを認めたうえで、パスカルは神を本当に信じていたのだろうか。
林房雄は当時、伊藤博文や井上毅を主人公とする「青年」「壮年」と同時代に全く反対の行動をとった「西郷隆盛」という歴史小説を連載していた。開国の志士、伊藤や井上が正義だと思うなら、西郷は悪役ということになるのだが、林房雄は「伊藤博文によって明治の『性格』は描くことはできるが、その『精神』は描くことはできない」と言い切っていたというから、林は西郷を悪役として書くことはできないどころか、開国に反抗した西郷の行動の中に何らかの明治の精神、日本人の精神を見ていた。
林房雄が西郷隆盛をどう描いていたのかは語られていないが、ネットの概要を見ただけでも、鹿児島藩での活躍、藩主との衝突、幕府側の参謀としての活躍、薩長連合で倒幕の一翼、王政復古を実現して新政府に参加、意見対立で郷里に戻り、私学校生徒に説得されて西南戦争を起こす・・・という波乱万丈というか猫の目のように敵味方の立場を変え、その主導者となっているところは、見方によっては無分別極まりない、自分の意見をころころ変えるいいいかげんな人物のように思える。
だが、こんな西郷が日本国民にこんなにも愛されているのはなぜだろう。これこそが林房雄の疑問であり、小説を書くことによって見極めようとしたことだろう。それは小林が冒頭で引用している:「西郷隆盛とは何者か。私は知らぬ。知っていることは、ただ、この巨眼巨躯の人物が、東洋的性格の典型であり、もっとも日本人らしい日本人であるという世の定説のみである」。
小林が評価する林房雄というのは「既成の観察方法だとか様々な先入観だとかいうものをできるだけ去って、歴史の方でいろいろとその秘密を打ち明けるようになるのをじっと待っているというやり方・・・・森鴎外が歴史小説を書く際に抱いた単純な原理、つまり歴史のうちに窺われる『自然』を尊重する念・・・・この作者(林房雄)の歴史に向かう謙遜な辛抱強い態度が僕には全く賛成だ・・・」というものであり、これは小林の文芸評論の手法であるところの「作者の語る主調低音」と同種のものだろう。
それにしても、「作者や歴史が自らその本音を語る」まで読み込む、打ち込むというのは、どういうものなのだろう。そこまで到達した者だけが分かるものなのだろう。
小林が最後に尾崎士郎氏の「篝火(かがりび)」という小説について書いているのは、たぶん編集者に頼まれたからだろうが、「上手な小説である・・・何処が巧いか解らぬようでいて実に巧い」と褒めるが、「小説というよりは一幅の歴史画である」というのは、文章描写は優れているが、林房雄のような「歴史がその秘密を打ち明けるのを辛抱強く待つ」小説ではないと断じる。
p54 西郷隆盛:明治維新の指導者。鹿児島藩主島津斉彬に取り立てられる。安政の大獄と斉彬の死を契機に入水自殺を図る。その後、公武合体を目指す島津久光のもとで活躍するも、久光と衝突し、配流。召還後、第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍。以後、討幕へと方向転換をはかり、坂本竜馬の仲介で長州の木戸孝允と薩長連合を結ぶ。勝海舟とともに江戸城無血開城を実現し、王政復古のクーデターを成功させた。新政府内でも参議として維新の改革を断行。明治6(1873)年征韓論に敗れ下野。10年郷里の私学校生徒に促されて挙兵(西南戦争)するが、政府軍に敗北し、自刃した。
三木清はこの年(1941年)に44歳で小林39歳の5歳年上。最後に小林に「いろいろな形式で書いてくれるといいな」と言われ、「これから大いにやりたい」と応えているが、4年後に亡くなっているから、何か患っていたのかもしれない。
テーマは哲学で三木清の分野、題名の「実験的精神」が当時の作家たちには欠けていると最初に言ったのは三木清:「読書が学問であるという伝統を変革したところに近代科学の豪さがある。その精神は教養というものとは違うもっと原始的なもの・・・原始人的な驚きとか、その驚きからじかにものを考えてゆくこと」。
小林はこれに応じて福沢諭吉を引き合いに出す:「日本人は一身で西洋文明と自分の過去の文明と二つ実験している。だから議論は西洋人よりも確実たらざるを得ない。そういうチャンスを利用して俺(福沢諭吉)は文明論とうものを論じる・・・・そういうのが実証精神だろう」。小林は三木の実験的精神を実証精神と言い換えているが、明らかに同じことであろう。小林はそういう福沢諭吉の「実学の方法がカント流のヒューマニズムに蔽われてしまったというようなことを書いておったろう。それはどういうことですか。もう少し説明してください」と問い、三木は「大正時代にでてきた教養という思想・・・・それが実証的な精神を失わせて・・・・或るポーズをすることが教養だということになった」と答える。
ここで小林は突然、「あなたはあすこまで考えてきたわけでしょう。そうしてあんな文章を書いてはいけないのだよ」と三木の最近の作品を批判する。「哲学というものを創るという技術は、建築家が建築するように言葉というものを尽くす必要がある・・・・ただディアレクティックではとけないのだと思う」という小林に対し三木は「君のいう事はよく分かる。自分でもそのことに気づいている」と応えているのは、三木が何か独創的な哲学を書かなくてはならないと自覚していたということなのだろう:「これ一つ書いておけば死んでもいいという気持ちで書かなければだめだね」。
三木は自分の余命のことを知っていたのかもしれない。小林もそれを知っていたから、三木に実験的精神、実証精神をもった作品を書くよう勧めたのだろう。デイアレクティック(弁証法)はヘーゲルによって確立され、マルクスの理論に活用された方法だが、ずいぶん欠陥のある手法であり、小林も三木もそれに気づいている。理論だけでは空論、仮設の検証が必要ということらしい。
p70 ディアレクティック(弁証法):弁証法は、多様な事物を統一的に理解するために役に立ちます。一見すると矛盾し対立するように見える複数の事物を、上手く統一的に発展させるための発想を得るときなどに活躍します。しかし、気を付けておかなければならないのは、マルクス史観の階級闘争で分かると思いますが、一回聞いただけだともっともらしく聞こえるけど、かなり論理的に飛躍のある発想方法だということです。そして、弁証法を帰納法に分類した意味はここにあります。仮説推論のように、検証なしには、その正しいか否かが分からないということです。ですから、弁証法による推論は、仮説を形成する段階では役に立ちますが、その仮説を検証しなければ論理的とは程遠いモノになります。(LAAD)
1章 小林はこの時すでに「ドフトエフスキイの生活」を1935~37年の間に書いているから、彼のことは熟知したうえでこの小説について論じている。最初はドフトエフスキイが「偉大なる罪人の一生」五部作の一つとして「カラマゾフの兄弟」を書いたと自身でノオトを遺していることの信義について。本人がそう書いているのだから、その通りなのだろうと思いたいところだが、小林の答えは「No」である:「彼は・・・・計画を立てることは好きであったが、計画通りに何一つやった例はなかった。彼の生活の驚くべき無秩序については僕は『ドフトエフスキイの生活』で充分に書いた・・・・彼の作品の驚くべき秩序が現われるためには彼の支離滅裂な生活は必須なものであった・・・・・・彼は何もかも体験から得た。生活で骨までしゃぶった人のする経験、人生が売ってくれるものを踏み倒したり、値切ったりしなかった人のする経験・・・・そういうものから自分は何もかも得たのだ・・・・『猫の生活力』は直に生々しい観念の世界に通じているのである。生活上の極意は文字通り創作上の極意でもあった」。
そして小林はいきなり最初の結論を導いてみせる:「彼は同じ処に執拗に立ち止まっている。『偉大なる罪人の一生』のノオトに描かれた主人公は嘗て『罪と罰』のノオトでラスコオリニコフの性質について書いた処がそのまま当て嵌まる。『自負、人間共に対する侮蔑、力への渇望』・・・・『罪と罰』以来、彼の創造力は罪人という像の周囲を飽くことを知らず回っていたのである。サント・ヴィクトアールの山さえあれば画材には少しも困らなかったセザンヌのように」(写真)。
畳みかけるように二つ目の結論:「今日、僕等が読む事ができる『カラマゾフの兄弟』が凡そ続編というようなものが全く考えられぬほど完璧な作と見えるのは確かと思われる。彼が嘗て書いたあらゆる大小説と同様、この最後の作もまさしく行くところまで行っている。完全な形式が、続編を拒絶している。もし彼が生きていたら続編は書かれていたかもしれぬ。ただし、それは全く異なった小説となったであろう」。
もう一つ、小林がドフトエフスキイの特色についてあげているのは神、キリストである:「根本をなす問題は、僕自身が今日までずっと意識して、また無意識に苦しんできたところ、則ち神の存在という問題です。・・・・・信仰箇条というのは・・・次のように信ずることなのです。キリストより美しいもの、深いもの、愛すべきもの、キリストより道理に適った、勇敢な、完全なものは世の中にない、と。・・・・真理はキリストの裡にはないとしても、僕は真理とともにあるより、寧ろキリストと一緒にいたい・・・」。この最後のところは後段で迫真の場面を見せてくれる。
p80 信仰箇条:キリスト教で、教会が認める信仰、信仰告白、中心的教義などが箇条書きに規準化されたもの。古典的には「我信ず」(クレド)という信仰告白に要約される。信仰規準。信条。
p80 独語: [名](スル)1 ひとりごとを言うこと。独言。「—する癖 (へき) がある」2 ドイツ語のこと。
2章 「カラマゾフの兄弟」はフョオドル・カラマゾフという血腥い頑丈な人物を父とする3人の兄弟が主人公。長男のドミトリイは田舎の兵舎、次男のイヴァンはモスクワの大学、三男のアリョオシャは僧院で成人し、自宅に戻ってきて、そこで殺人事件が起こったらしい。もちろん殺されたのは「バルザックもゾラもフョオドルのような堕落の堂々たるタイプを描き得なかった」という父親フョオドル。
このうち小林はイヴァンに注目する:「イヴァンは『地下室の手記』が現われて以来、十数年の間、作者に親しい気味の悪い道連れの一人である。ラスコオリニコフ、スタヴオロギン(「悪霊」の主人公)、ヴェルシイロフ(「未成年」)達、確かに作者はこれらの否定と懐疑の怪物どもを自分の精神の一番暗い部分から創った」。
次に小林はフョオドルが殺された前日にイヴァンとアリョオシャが語り合う内容を4ページに渡って書くが、そのテーマは人生の苦痛、そして神である:「たとえ全ての人間が苦しまなければならないのは苦痛をもって調和を贖うためだとしても、何のために子供までが引き合いに出されるのだ・・・・・僕は決して神様の悪口など言っているのではないのだよ・・・・僕は神様を承認しないのじゃない。ただ『調和』の入場券を謹んでお返しするだけなのだ」。これを語っているのはイヴァンで、「貴方はキリストのことを忘れている」と答えるアリョオシャに対し、イヴァンは「有名な『大審問官』の劇詩」を語る。あたかも殺人犯人はイヴァンのようだが、たぶん実行したのはイヴァンの言葉に動かされたアリョオシャなのだろう。
3章 「大審問官」というのは、宗教裁判で大勢の異教徒が火あぶりにされているスペインのセヴィリアの街にキリストが現われ、人々は彼がキリストと知って従うが、大審問官の僧正はキリストを投獄するというもので、用いられるモチーフは新約聖書における「悪魔の試み」。
聖書ではキリストは悪魔の試みを拒絶し、悪魔も諦め、十字架が用意されるのだが、驚くべきことに、大審問官はこの「悪魔の提案」を取り、「悪魔の教会」で人々を導いていた:「お前は人間の自由を・・・・増大してやった、そしてその苦しみによって永久に人間の精神の国に重荷をつけた・・・・人間はそれから先、自分の自由な心で、何が善で何が悪かを一人で決めなければならなくなった。・・・・人々がやがて『真理はキリストのなかにはない』と言い出すようになるのも尤もではないか。『お前の仕事を訂正』する者が現われても当然ではないか」。
この記述は当時の教会そのものを批判しているようにもとれる:「吾々はもう800年の間、お前を捨てて悪魔と一緒になっている・・・・・ロオマとシーザーの剣をとった(教皇と皇帝)・・・・吾々はお前のお前の事業を訂正して、それを奇蹟と神秘と教権の上に打ち建てた」。
ドフトエフスキイの大審問官は完全な悪人ではない。なぜなら:「こうして、凡ての人間は幸福になるだろう。ただし、彼等を統率する幾万人かの者は除外される。つまり秘密を保持している吾々ばかりは不幸に陥らねばならぬ」。そして「明日はお前を妬き殺してくれる」という大審問官にキリストは静かに近づき「血の気のない唇に静かに接吻した」。
小林は、イヴァン=ドフトエフスキイはこう言っているという「老人(=大審問官)はデモクラットであってもいい、ソシアリストであってもいい、当代の『リアリスト』達、若々しい『人道の戦士』たちよ君らは悪魔の疑いを華々しい理論の下に押し隠しているのではないか」。これは社会の仕組み、人生のからくり、人生観のようなものだが、この寓話が父親の殺人とどう関係するのか? 幸福になるべき人たちのため、除外された不幸な人間は、秘密裡にすべきことをやるのだということか? ずいぶん持って回った、遠回りのプロットという感じがするが、確かに小説の重み、緊迫感、凄みで読者を惹きつけてしまう魔力がここから生まれるのかもしれない。
4章 ここでは神についてのドストエフスキイとパスカルの考え方が語られる。この二人は、デカルトのように神の存在を形而上学的に考察したりはしなかった。小林は二つの誤った考察を示す。一つは聖書を吟味分析して人間キリストを語ろうとしたルナン、もう一つは「疑いに終わる『パンセ』は未完となった『アポロジイ』の準備にすぎない」という通説。
ドストエフスキイとパンセは「在り余った力量・・・明確な思考の方法」を駆使した末、「神は存在するが、人間の仔細らしい思案に余るものだ」という洞察に到達していた、と小林は言う。だから、人間には神の存在を証明することなどできないし、神の人間性など語れるはずはないし、神に代わって疑いを晴らすことなどできないということだ。
こうしてパスカルは「疑いから始めて遂にその疑いそのものが結論となった」書を書き、ドストエフスキイは「呻きながら探る人間」に終始した。ドストエフスキイの17歳のときの書簡には既にハムレットやパスカルやホフマンが引用されていて、この頃にはもう「呻きながら探る人間」になっていたのかもしれない。
そして、ドストエフスキイやパスカルが見つけた神は彼らを苦しめた:「キリストは証明も説明もしなかったし、説教、説得さえしなかった。もしそういうことをしていたら、皆彼の言うところを理解しただろうし、彼はあれほど不可解な姿で生きる必要もなかった・・・・・彼の生死禍福は我々には深まるよりほかはない謎ではあるまいか・・・・・人々を発心させるためにこの謎は恐らく必要だったのではあるまいか」。疑いをもって苦しみ続けるということがドストエフスキイとパスカルの宿命、生き方ということらしい。
5章 ここのテーマは大審問官の劇詩だが、その前に小林はホルバインの十字架から下ろされたキリストの絵(たぶん「イエス・キリストの屍」だと思われる)(写真)を見たドストエフスキイが「絵の前に立ち、動くことができなかった」ことに触れる。「腫れあがった血まみれな青疵・・・・藪睨みになったガラスのような眼玉」というのは「白痴」のなかでこの絵を見たイポリットが語る言葉であり、そういうふうに見たドストエフスキイは「自分自身の思想が構図され着色されて目の前に現われたことに愕然としたのである」と小林は考える。
「だいぶ回り道をしたが」と断って小林はイヴァンと大審問官の話に戻る。「バルト風の神学のディアレクティックを武器とした評家たちが大審問官の劇詩に異常な注意を払っている・・・・・ツウルナイゼンやベルジアエフがイヴァンの劇詩の解剖から神の真理と人間の真理との間の・・・・ディアレクティックを編み出す、というより既に編み出してあったディアレクティックこの劇詩に見つけてドストエフスキイの思想の核心を突いたとする」というのは、「悪魔と一緒になって・・・・ロオマとシーザーの剣をとった・・・・それを奇蹟と神秘と教権の上に打ち建てた・・・・・こうして、凡ての人間は幸福になるだろう」という大審問官の論理を弁証法的に取り込もうということだろう。もちろん小林は、ドストエフスキイはそんな弁証法的なことなど考えていなかったと指摘する。
イヴァンは自作の劇詩を「馬鹿々々しいものだけれども」と言い、アリョオシャも「馬鹿々々しい話だ」と叫ぶ。大審問官の論理はマキアベリの論理、更には民衆や大衆を指導する政治の論理に通じるものであり、それは現代にも存在する。たぶん馬鹿馬鹿しいところもあるのだろうが、完全否定はできないだろう。現実社会を運営していくには、ドストエフスキイやパスカルのように疑ってばかりいたのでは務まらない。カラマゾフの兄弟のような過激な連中は社会にとっては害である。一方、そういうアウトサイダーのドストエフスキイやパスカルこそが、真理というべきものに到達しているらしい。
6章 ここは長兄ドミトリー(ミーチャ)の話。小林は彼を「放ってゆくわけにはいかない・・・・驚くべき人間」だという。ドミトリーはどうやらグルウシェンカと恋をしたらしいのだが、ドストエフスキイの恋愛というのは悪夢らしい。「ロシアの近代文学には恋愛を語って美しい女性」は少なくない、プーシキンのオネエギンのタチヤナ、ツルゲネエフの貴族の家のリザ、トルストイの戦争と平和のナタアシャ、アンナ・カレーニナ。だが、「ドストエフスキイだけは断乎として美しい女性のタイプというものから背を向けていた」と小林は言う。
「恋愛は幸福な美しい人間の型はもちろん、凡そどのような人間の型も育て上げる力はない。人間の精神も肉体も、恋愛のうちで混乱し亡びるほかはない」「意味のない悪夢だ、而も悲劇だ」という恋愛図。このあとの小林の話はよく分からない。「ドミトリイは実によく描かれた人物である」「多くの場合人間というものは(悪人でさえも)・・・・ずっと無邪気で単純な心をもっている」「本当に才能のある人は才能を持つことの辛さを良く知っている」そして「ドミトリイは登場するやいなや直ぐ羽目を外す。もう彼から支離滅裂な言動のほかは何も期待できない」という大混乱なのに、「彼の錯乱した言動から彼の心の単純さ無邪気さが何処をどう通って現われるか、はっきりと現れて読者の心をつかんでしまう」のだという。ハチャメチャな性格なのに、憎めず、次に何をするのか分かりやすい、いや、何をしても許せるようなキャラクターということか。
p112 ムイシュキン・・・・「白痴」
p111 スタブオロギン・・・・「悪霊」
7章 ここで小林が解説するのはなんと、ドストエフスキイが企んだ巧妙な仕掛けである。その仕掛けというのは、ミイチャが嫉妬で父親を殺したのではないと読者に思わせること。まず、(1)ここでドストエフスキイはシェイクスピアのオセロを持ち出し、オセロが妻を殺したのは嫉妬のためではなく、謀られたからだと語る。ミイチャもオセロ同様嫉妬深くない「嫉妬漢は誰より一番早く赦すものだ」。二つ目は(2)「熱烈なる心の懺悔」でミイチャに自己告白させること。「自己反省の上手な人」と違い、「ミイチャのように生まれつき自己反省癖から逃れている人間は一度己を省みると真っ直ぐに自分のどん底までいって衝きあたる・・・・支離滅裂となり解りやすい告白にはなりようがない」、(3)「ミイチャは父親の寝室に忍び寄る・・・・だが、読者真理に通暁した作者はここで話を外らす・・・・真の下手人スメルジャコフの無気味な顔をちらつかせるだけでミイチャについては全く語られない」。本章最後の「第8編に至って作者の筆は再びミイチャを捕える。事件は急変直下する。読者はミイチャと共に駆けだす」というのはまるで探偵小説の売り出し文句。
8章 この章は、ミイチャが最後の瞬間に父親を殺すのを止めたことについて論じている。ほとんどの読者は作者の罠にかかってミイチャが犯人と思い込むが、慎重な読者はそうではないと気づくだろう、というのが小林の指摘で、その「ミイチャは犯人ではない」ことの理由を説明しようとする。(1)「ミイチャは是が非でも即刻3,000ルーブルの金を調達しなければならぬと決心する」というまるで不可能な「喜劇」を展開し、その挙句に「子供のようにおいおい泣き出す」・・・・・・「凶行は行われたか。驚くほど周到に正確に描かれた描かれてきたミイチャという人物に関し、注意深い読者には既に誤解の余地はないはずである。この人物が、殺人の計画とか陰謀とかいうものに全く無縁なことは分かり切っている」。(2)「憎悪は感情のものといより観念に属する・・・・実は恐怖の上に織られた複雑な観念であるのが普通であり、意志や勇気や行動に欠けた弱者の言わば一種の固定観念なのである。ミイチャには一番似つかわしからぬものだ」。
(1)のとおり、ミイチャは殺人計画などもっていなかった、ミイチャはグルウシェンカの居所を確かめるために父親の寝室に行ったのだ。(2)のとおり、ミイチャは父親に恐怖に基づく憎悪の観念をいだいていた訳ではない。だが、異常に嫌悪していたため、父親の顔を見たときポケットから銅の杵をとりだす。そして「どうした訳か自分でも解らないが、いざというとき窓の傍らから飛びのいて、塀の方へ逃げ出した」。(3)嫌悪の念からだけでも殺していたかもしれないのに、なぜ最後に父親を殺すのを止めたのかについて、ドストエフスキイは「神様があの時僕を守って下さったんだろう」と記し、小林は「殺すも殺さぬももののはずみであった」「不思議な作品である」と書いているのみ。最後に小林は「ミイチャの魂の問題」が未解決のように書き、本評論を(未完)としているのは、更に奥があるということなのだろうか。16ページ読むのに9時間かかった!
これは米川正夫氏のドストエフスキイ全集の内容見本の推薦の辞。十年一日の如くドストエフスキイを読んでいるというのは凄まじい。「この天才が解こうとした問題が古今東西を貫くもの」というのはいろんな作家が取り上げてきた、神や人間にまつわるテーマのことなのだろうが、「問題を扱う彼のやり方に汲み尽くしがたい力と深さがある」というのは、誰にも真似できない考え方をしていて、しかもそれが(「大審問官」のように)奥深いということだろう。小林はロシア語はできないと書きながら、どうやら英訳や仏訳も読み、その上で「NRF版の仏訳全集」が一番良かったと書いているのはやはり流石と言う他ない。その小林に推薦の辞を頼むのは、物の道理というものである。
p125 十年一日の如く:長い間たっているにもかかわらず、何も変わっていないこと。 同じ状態がずっと続いて、進歩や発展がないさま。 また、一つのことを忍耐強く守り続けること。
p125 米川正夫訳のドストエフスキイ全集:脚注には「全31巻の予定だったが戦時のため13巻で中断、戦後決定版が完成」とあるが、ネットには「全21冊」19,000円はじめ、たくさん出ている。
これは太平洋戦争が開始された時のもので、三つの放送とは12月8日の「アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」という周知放送、「宣戦の御詔勅奉読の放送」、そして「真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表」である。小林の文章からは、当時、日本国民は水面下で進んでいた詳細について全く何も知らされていなかったことが分かる。当時はまだ日米会談が行われていて、それを日本が反故にしたのだが、国民も驚いた:「いかにも、成程なあという強い感じの放送であった・・・・僕等にはよく分からない・・・・よく解っているめいめいの仕事に専念していればよいわけなのだが、それがなかなかうまくいかない」。
だが、「御詔勅奉読」流れると「僕等は皆頭を垂れ直立していた。目頭は熱し、心は静かであった・・・・やはり僕らには日本国民であるという自信が一番大きく強いのだ・・・・僕は爽やかな気持ちで、そんなことを考えながら街を歩いた」。一方、「真珠湾攻撃の戦果発表」は皆を驚かせたが、やはり詳細や経緯は知らされず、小林はこれを「名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現われた」と表現し、「まるで馬鹿のように、子供のように驚いている」「偉大なる専門家とみじめな素人」と分析してみせる。
小林は真珠湾爆撃の写真が新聞に載っているのを眺めている。「誰も今までにこんな驚くべき写真を撮った人間はいなかった」のだが、小林は「驚くべき写真に驚くべきものが少しもない」と言う。そしてこれを爆撃機上で見た兵士の心理に続け、「雑念邪念を拭い去った彼らの心には、あるがままの光や海の姿は沁みつくように美しく映ったに相違ない・・・・何故なら、戦いの意志が、あらゆる無用な思想を殺し去っているからだ。彼らはカメラの眼に酷似した眼で鳥瞰したであろう。それでなくで、どうして爆弾が命中するはずがあるものか」。
この心理分析は更に続き、「日常生活の先入観から全く脱した異常に清澄な眼を得ているということも考えられやしないか。彼らは帰還しても戦争の経験談なぞあまり語るのを好むまい」と語る。最後にトルストイの「戦争と平和」に触れ、「戦いに関する理論も文学も戦う者の眼を曇らすことはできまい」と述べ、最後の一節:「戦いは好戦派というような人間がいるから起こるのではない。人生がもともと戦だから起こるのである」は小林の持論なのだろう。進化の連鎖を生き残るためには、進化上の競争者に打ち勝たないと生命は生き残れない。これは進化の原則。
小林は戦時の1941年2月頃に世阿弥の当麻という能を「梅若の能楽堂」(空襲で焼失)で見ている。帰りの夜道を歩いていても「白い袖が翻り、金色の冠がきらめき、中将姫は未だ目の前を舞っている様子であった」「音楽と踊りと歌との最小限度の形式・・・・これでいいのだ、他に何が必要なのかと僕に絶えず囁いているようであった」というのは、心底、能の舞に魅せられたようだ。こうなると小林節は止まらない。
それは老尼の登場、中将姫のあでやかな姿の子細な記述に現われ、更に「自分の顔に責任が持てる様な者はまず一人もいない・・・・着物を着る以上お面をかぶったほうがよい」「仮面を脱げ、素面を見よ、そんなことばかり喚きながらどこに行くのかも知らず、近代文明というものは駆けだしたらしい。ルソーは『懺悔録』で懺悔など何一つした訳ではなかった」と近代文明を批判し、能の真髄を追う。そして世阿弥の言う「花」を中将姫の舞の中に見出す:「要するに皆あの美しい人形の周りをうろつくことができただけなのだ。あの慎重に工夫された仮面の内側に入りこむことはできなかったのだ。世阿弥の『花』は秘められている。確かに」。これが世阿弥の言う「秘スレバ花ナリ、秘セズバ花ナルベカラズ」のことなのだろう。
最終章まできて小林はついに「彼の『花』の観念の曖昧さについて頭を悩ます現代の美学者のほうが化かされているにすぎない」とまで達観してしまう。そんな「不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情のようなやくざなものはお面で隠してしまうが良い」というのが美学者たちへの助言である。なるほど、これは説得力があると思う。14ぺージ読んだがもう半分を過ぎた。残り130ぺージほど。
p134 当麻=當麻(たえま):念仏僧が當麻寺に詣でると、信心深げな老尼と腰元らしい若い女が来かかる。僧の尋ねに応じて老尼は當麻曼陀羅の縁起を語り、中将姫が籠もったという二上山に姿を消した。やがて中将姫の精霊が現れ、弥陀浄土を賛嘆して舞を舞う。
小林が読んだこの本は今も岩波文庫から出ていて、ネットにたくさん書評もあるから多くの人に読まれているらしい。「おもしろい」というのもあったし、難しいというのもあった。小林はこれを「一切を忘れ、一気呵成に読み終えた。それほど面白かった・・・・満ち足りた気持ちになった。近頃、珍しく理想的な文学鑑賞をした」というのには、この本の面白さ以外にも理由があり、それがこの文章のテーマになっている。
「ここ1年程の間・・・・造形美術(古陶器など)にわれ乍ら呆れるほど異常な執心をもって暮らした・・・・・美というものがこれほど強く明確な而も言語道断なある形であることは、一つの壺が文字通り僕を憔悴させ、その代償にはじめて明かしてくれた事柄である。・・・・美が・・・・こんなにこちらの心の動きを黙殺して自ら足りているものとは知らなかった」というどこか魅入られてしまった状態は、「我が毒(全作品12)」の中の「慶州」で、1938年に当時日本領だった朝鮮・慶州の仏国寺で釈迦像を見て、その美しさに驚いたときのことを連想させる。
その時の小林は、そんなに美しいものを見たのに心が一向に楽しくなく、「部屋に満ちていた奇妙な美しさは何なのか」分からず、「いよいよ不機嫌になった」と書いているが、どうやらある「壺」を「憔悴」するほど見た結果、上記の悟りに達したようだ。
この頃は「神風」という言葉について新明正道氏と論争するなどしていた小林だが、1942年に至ってそれも卒業し、「今はもう論戦というものを考えることさえできない」、そんなことは「シャボン玉がはじけるような」ものだという心境に達している。あれっ、ガリア戦記じゃないのか、と思ったら、「忘れた訳ではない」と続きがあり、ガリア戦記は「文学というより古代の美術品のように僕に迫り、僕を吃らせた(どもらせた)」と分析を進める。
小林を吃らせた理由は二つあるようで、一つは、文字がまだ一般でなかった時代の文学という「余程目方のかかった」重いものであること。現代では言葉は万民のものになり、「観念の符牒と化し、人々の空想のうちを何の抵抗も受けずに飛び回っている」から、現代文学は実に軽いもの、ということになる。二つ目は「ガリア戦記」が「紛う処のない叙事詩の傑作」であること。シーザーがこの傑作を書けた要因として小林は、「政治もやり作戦もやり突撃する一兵卒の役までやった戦争の達人」であったからだろうと分析する。通暁していたからこそ「サンダルの音が聞こえ・・・時間が飛び去る」情景をリアルに描写できるのだろう。
「一言芳談抄」の中にある「比叡の御社に・・・・なま女房の・・・・夜うちふけ、人しづまりて後・・・・なうなうとうたひけり・・・・・・生死無常の有様を思ふに此の世のことはとてもかくても候。なう後生をたすけ給えと申すなり」という短文が「突然・・・心に浮かび・・・まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿るように心に滲みわたった」という自身の経験について小林が分析するのだが、どうも良く分からない。この文章が「徒然草」のうちに置いても少しも遜色はないというのは分かるが、「僕はただある満ち足りた時間があったことを思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりわかっているような時間が」とは、「生死無常の有様」の時代に、一人で唄っていた女がその時感じていたものを共感したということなのだろうか。
次に小林が語るのは歴史であり、「歴史というものは・・・・新しい解釈なぞでびくともするものではない」、「『古事記伝』を読んだ時も同じようなものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」というのは、小林のように歴史の方からその真実を語るのを聞かねばならぬ、ということか。だから「多くの歴史家が一種の動物にとどまる・・・頭を記憶で一杯にして・・・心を虚しくして思い出すことができない・・・」と断ずるのだろう。
小林以外にも森鴎外にはこれができたらしい:「鴎外は・・・・膨大な考証を始めるに至って・・・歴史の魂に推参した・・・」。小林が川端康成に言った「生きている人間などというものはどうも仕方がない・・・そこに行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。・・・はっきりとしっかりとして・・・人間の形をしている・・・」というのは極論だとは思うが、歴史の声を聞くことができる者にしか分からないことなのだろう。余談だが、(笑って答えなかった)川端はどうなのだろう? 小林はたぶん、この文章を読んでいる読者にも分かってくれる人は少ないと考えていたに違いない。だから最後に、「現代人には鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも無常という事がわかっていない」と記したのだろう。厳しい指摘だが、私にもこれは難しい。
「平清盛を中心とする平家一門の興亡を軸としてとらえ、仏教的無常観を主題として、叙事詩的に描く」というのがこの古典の一般的な評価のようだが、小林はかなり違った発見をしていて、この古典のもつ魅力、楽しさ、当時の人々の生きざま、溌溂とした生き方に気づき、それをそのままに、生き生きと書いている。小林は最初からはしょって、本題の佐々木四郎の決心と彼の馬、生食(いけずき)をいきなり冒頭にもってきていて、平家物語の筋を知らないと何のことやら分からない。
ネットで「生食」を引いてみて、それが馬であること、しかも名馬(生き物を食べるほど気性が荒いことからそう名付けられたらしい)であることが分かり、更に「先がけの勲功立てずば生きてあらじ」というのは、この名馬を頼朝から譲られた佐々木四郎の決意の言葉であり、その前に梶原景季が頼朝にこの馬を求めたが許されず、代わりにこれも名馬の「磨墨(するすみ)」を貰っていたこと、自分でなく佐々木に与えられたと知った梶原は佐々木と刺し違えて頼朝に後悔させてやろうとした(「よき侍二人死んで鎌倉殿に損取らせ奉らむ」)が、佐々木はとっさに盗んだのだと嘘をつき、二人とも大笑いして分かれたこと、そして宇治川先陣の日(写真)、梶原に先を越された佐々木は「馬の腹帯が緩んで見えます。締め直した方が良いですぞ」と梶原に声をかけ、梶原が立ち止まって調べている隙に先行し、見事先陣をとった、という詳しい件はネット「紺屋の白袴」に記載してあった。
なるほど、これを読めば確かに小林の言うとおり、当時の武士たちは短絡的で、すぐ感動し、激昂し、よく考えもせずに生死の決断を下し、逆に、咄嗟の機転やパフォーマンスを見た途端に興奮は覚め、大笑いするしていたというのが良く分かる。少し考えると、こういう短絡的な人間、激しやすく冷めやすい、気分屋気質の人格は現代社会ではかなり生きていきにくい、周囲の人もつきあいにくいと思うのだが、ドラマとして見る分には実に面白い。
小林が3ページ目に書いている畠山重忠のおかげで対岸に投げ上げてもらった大串重親が、「歩兵の先陣をとった」と大声をあげ、これに「敵も御方(みかた)もこれを聞いて、一度にどっとぞ笑ひける」というところでは私も笑ってしまった。なるほど、小林は「祇園精舎の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり・・・」という有名な平家物語の冒頭部分が「多くの人々を誤らせた」と指摘しているが、その通りなのだろう:「『平家』の人々はよく笑い、よく泣く」。
小林は「平家物語」は(不詳の原作者はいるのかもしれないが)多くの作者たちの手により、あるいは読者等の手によって合作され、而も誤らなかった所以は、「当時の思想というようなものではなく・・・・叙事詩人の伝統的な魂」にあるというのはやや難しいが、「『平家』の哀調、惑わしい言葉だ。このシンフォニイは短調で書かれていると言った方がいい」というのは、なんとなく分かる気がする。言葉の内容ではなく、言葉の調子が作者の気持ちを伝えているのだ。
してみると、最後に小林が書いている「当時の無常の思想の如きは時代のはかない意匠にすぎぬ」というのもその通りかなと思える。だがこれはついひとつ前の「無常という事」と「一言芳談抄」で論じたこととまるで矛盾してしまうのだが。「無常ということ」を唄っていた「鎌倉時代の何処かのなま女房」は当時においても稀有だったということか。
p146 生食(いけずき):『平家物語』によると、いけずきは、黒栗毛(くろくりげ、茶褐色)で肥え太った逞(たくま)しい馬で、馬でも人でも噛みついてそばに寄せ付けない荒い気性をしていたので、「生食(いけずき)」と名付けられたと書かれています。 生き物を食べる(古くは「食く(すく)」といいました)という意味です。
p146 宇治川の先陣争い:生食(いけづき)磨墨(するすみ)の名馬二頭が、なぜ伝説になるほどの馬だったかというお話です。以下「平家物語 宇治川の先陣争い」の段から。 頼朝は「生食(いけずき)」と「磨墨(するすみ)」という、二頭の名馬を持っていた。ある日、頼朝の御家人の一人梶原源太景季(かげすえ)が、頼朝に「生食」が欲しいと強請(ねだ)った。頼朝は「これはいざというときに私が乗る馬だから、おまえにはいずれ劣らぬ名馬のこちらをやろう」と言って、磨墨を与えた。 その後しばらくして頼朝は、「これは皆がほしがる馬だが、おまえにやろう」と言って、なぜか「生食」を佐々木四郎高綱に与えてしまった。感激した高綱は、「この馬で宇治川の先陣を切ります。出来なければ死にます」と頼朝に誓った。 磨墨を与えられ、鎌倉を発った梶原景季は、駿河の国浮島が原の高いところに上り、「こんなすばらしい馬に乗っているのは、俺くらいなものだろう」とうれしく思ってあまたの馬々を見下ろしていると、自分が所望しても叶わなかった「生食」が居るではないか。急いで側に行き「これは誰の馬か?」と近くの者に尋ねると、佐々木高綱の馬だという。 これを聞いた梶原は、自分が所望しても貰えなかった生食を佐々木にくれた頼朝を恨み、佐々木と差し違えて「佐々木に生食を与えて損をした」と頼朝に後悔させてやろうと佐々木に迫る。必死の形相で迫り来る景季を見た佐々木は、事情を想い出し、咄嗟に「この馬は頼朝から盗んできたのだ」と嘘を付き、双方笑って無事分かれることが出来た。さて、二人は宇治川に来た。対岸にいる木曽義仲の軍勢を如何に攻めるか、義経達が協議していると、平等院の脇から、磨墨に乗った梶原景季が飛び出し、それから六間ほど後れて生食に乗った佐々木高綱が先陣争いを始めた。後れを取り、宇治川で先陣を取らなければ死ぬと頼朝に約束した佐々木高綱は、「梶原殿、この河は西国一の大河ですぞ。馬の腹帯が緩んで見えます。締め直した方が良いですぞ」と、景季に声を掛けた。これを聞いた景季は「それはそうだ」と立ち止まり、腹帯を調べてみるとちゃんと締めてあるではないか。その隙に、佐々木に先を越されてしまったという物語です。当時、川の中に縄を張り巡らせ、敵の進撃を防いでいて、生食に乗った佐々木も磨墨に乗った梶原も、刀でそれを切りながら先陣争いをしたとも書いてあります。これが、磨墨と生食を伝説的名馬にした物語。(紺屋の白袴)
p149 平家物語:鎌倉前期の軍記物語。「徒然草」には、作者として後鳥羽院時代の信濃前司行長の名があげられているが、諸説あり、作者・成立年ともに未詳。その成立経緯は複雑で、増補・改訂を含めて多くの人々の関与が考えられる。治承~寿永期(一一七七‐八五)の動乱を素材に、平清盛を中心とする平家一門の興亡を軸としてとらえ、仏教的無常観を主題として、叙事詩的に描く。古くは「治承物語」と呼ばれ、三巻または六巻の段階があったようだが、次第に加筆・増補され、多くの異本が生じた。諸本の数は多く、形態・章段・詞章の面でそれぞれ違いがある。一四世紀以降もっとも世におこなわれている一方流(いちかたりゅう)の語り本は一二巻で、巻末に「灌頂巻」を添える。語りものとして琵琶法師によって語られ、広く愛好され、謡曲をはじめとして後世の文学に大きな影響を与えた。平語。
これは14ページに及ぶ講演の筆記録だが、内容はそれほど複雑ではない。講演を聞きに来ている人たちにも分かるよう、同じことを言い換えたりして何度も繰り返している感じ。表向きのテーマはドイツ人ゼークトの「一軍人の思想」という本の内容で、小林はまず「この本を読んで非常に心を打たれたことがある・・・・・非常に専門的な本ですが・・・・・いかにもゼークトという人の持っている思想が打てば響くという感じがあった」というのはその通りかもしれないが、「人間の思想でも打てば響くと言う思想でないと僕は好かないのです」というのは誇張であり、本心ではないと思う。
小林は様々な作家や芸術家を分析し、批評するとき、誰も気づかなかった深奥まで入り込み、作家や芸術家の主調低音が聞こえてくるまで努力してきたのではなかったか。たぶん小林にとてはゼークトの本は非常に易しい本であり、その中に講演の聴衆に聞かせるべきテーマをたまたま見つけたのであろう。
第一次大戦に敗れたドイツで、ゼークトがやったのは十万人に制限されたドイツ国防軍を精兵に鍛え上げ、精兵の彼等を核にして新たなドイツ軍を構成したことにあるらしい。ともかくその方法でゼークトはフランスのマジノ線という国境警備線を撃破した(写真)。そしてこの精兵主義は日本海軍の真珠湾攻撃にも活かされていると小林は続ける。
しかし聴衆へのリップサービスはここまでで、ここから残り10ページは本当のテーマをやや難しく(わざと分かりにくくしたのか?)語る:「ゼークトの思想には別に新しいことは一つもない・・・・精兵主義という思想でも、これは二千年も昔にジュリアス・シーザーが使い古した陳腐な思想です・・・・・彼は輿論だとかスローガンだとか批評だとかいうものに少しも惑わされないで、自分の見た現在というものから明瞭に判断を下しただけなのです・・・・その・・・結論が精兵主義だったにすぎない」。本当のテーマとは「スローガンに惑わされるな」ということ:「ゼークトはスローガンというものを非常に憎んでおります。『スローガンについて』という章があって・・・・スローガンというものが人の精神に対して一番厄介な頑固な敵だ」。
次に小林は論語を持ち出す:「聖とか仁というものが孔子の理想であったのですが、・・・・・聖だとか仁だとかいう思想がどのくらいスローガンとして人を惑わすか・・・・孔子は一番気に掛かっていた」「仁遠呼哉(仁遠からんや)我欲仁斯仁至矣(我仁を欲すればここに仁至る)」「巧言令色鮮矣仁(巧言令色すくないかな仁)」。
続いて小林は万葉集、森鴎外の「伊沢蘭軒」、本居宣長の「古事記伝」、松尾芭蕉を持ち出し、古典や歴史というものは新しい解釈などではびくともしない、「歴史の魂」というものがあると論ずる:「『古事記伝』の底を流れている、聞こえる人には殆ど音を立てて流れているような本当の強い宣長の精神は判りにくいのじゃないか」というのは少し本音が出たのか。
どうやらスローガンを排し、仁を得るというのは凡人にはかなり難しいらしい:「歴史を記憶し、整理するのは易しいが、歴史を鮮やかに思い出すということはむずかしい」。松尾芭蕉は「風雅」という言葉を残したが、これも誤解されているらしい。「造化に従い四時を友とす(天地自然に従い、四季を友とする)」ことによって「見るもの花にあらずという事なし」となり、「虚に居て実をおこなふべし」ということが「ものを創造する唯一の健全な状態なのだ」。
最後の小林の警告は、軍国主義に染まっていた当時の日本のほころびを的確に見抜いている:「いかに様々なスローガンが横行し人々がこれに足をとられているか・・・・・そういうものと僕等は戦わねばならぬ。それが詩人の道であると共に、実践的な思想家の道である・・・」。
この文章は何度も読んだ記憶がある。「無常ということ」という文庫本だったかもしれないし、大学入試の問題集だったかも。今はどうか知らないが、私の頃は小林の文はよく大学入試に出たので、志望学生にとって小林秀雄を読む事はは必修だった。だが、今、改めてこの文章を読むと、全く違った風景が見える。小林の文章がえらく研ぎ澄まされた名文で、言葉をたくさんはしょっているので、そのドキっする言葉の断片にばかり目が行き、内容なんて二の次で、その言葉の面白さ、かっこ良さに酔いしれてしまう。
ふんふん、吉田兼好の徒然草というのはすごい文学だったのか、彼はただの随筆作家ではなくて小林みたいな批評家だった、しかも「空前の批評家」だった・・・・、鴨長明にも清少納言もかなわない・・・・。モンテーニュより200年も前に同じことをやったのか・・・。小林は徒然草のどこがそんなに稀有で、空前の批評文学で、モンテーニュと類似しているのか、実はまるで説明していない。たぶん小林自身も突然、徒然草の真髄、吉田兼好の心なるものに気づき、その「主調低音」を聞いたのだが、それを言葉で表現できるところまでいっていなかったのではないか。
小林が唯一感じたのは「よき細工は少し鈍き刀を使ふ」というモチーフで、いかに徒然草が「鈍き刀」で書かれているかは、末尾の「因幡の国の、唯栗のみ食う娘」の話に示されている。では、「よき細工」とはどれだろう。例えば、もしこの娘を嫁に出せば、心無い噂が立っていずれ娘は不幸になるだろう、そう考えた親の悲しみと思いやりが本当に伝えたかったということか。少し違っているかもしれないが、これが「物が見えすぎ、物が分かりすぎる・・・鋭敏に簡明に正確に・・・物が見えすぎる眼をいかに御したらいいか」の答えなのか。この小林の文章もまさにその心で書かれていることになる。
さて、ここまできてやっと、冒頭の「『徒然草』の名は・・・うま過ぎた・・・兼好の苦い心が洒落た名前の後に隠れた」の意味が分かる。兼好はただ暇を持て余して随筆を書いていたのではない、物が見え分かりすぎるのを(事細かに記載するのではなく)簡明な文章に封じ込めるという、えらく手間のかかる考察、推敲の結果だということなのだろう。
ここでも、小林はバッハの夫人の回想録に「非常に心を動かされた」とあるが、それが具体的に何なのかまでは小林は正確に記せていないと思う。最初に語られるのは「凡そ音楽に関する文学的表現」が難しいということ、その中で最も優れたものはボオドレエルとドビッシーなのだが、(たぶんこの二人は詳細な説明、解説を論じているのに対し、)バッハ夫人の回想録は「夫の・・・片言」で小林にバッハの音楽を想起させるという。
だが小林はその「バッハの片言」さえここに記してはいない。回想録からの抜粋は6つあるが、夫人が最初にバッハに会ったとき「バッハを見るより先に・・・見事な和音効果のあるオルガン」を聞いて「すっかり時間のたつのを忘れて」感動したという部分を、小林は回想記の「ゲネラル・パス(通奏低音)」だと指摘している。「この回想記にバッハの和声組織をまざまざと感じ得た・・・夫人はあれこれと思いつくままに自由に書いていく。基礎音を信じ切った歌声が流れるようだ。」これこそが小林が感動を受けたものなのだろう。
もちろん小林は夫人を介してバッハの「主調低音」を聞いたのだ。それは夫人がピアノを弾いているときに肩に感ずるバッハの手、13人もいた「子供たちと家庭とが凡てでした」というバッハの優しさ。初めて演奏を聴いた夫人がバッハに魅せられてしまい、バッハが夫人を手に入れようという「強情とさえ思われる」強い意志、それを夫人は誇張して「人間がみんなつんぼでも、貴方はやはりこういう音楽を書くに違いない」と言う。
そして夫人の「伝記を書き終わった今となっては・・・・この先更に生きている理由がありませぬ」という夫への深い愛情。ここで私がいちいち解釈を試みてもつまらない。こういう人生全体を貫く「主調低音」を聞けと小林は言っているのだから。バッハの言葉も音楽もここで読んだり聞いたりした訳ではないが、私にも少し、バッハと婦人の主調低音が聞こえたような気がする。深いチャーチ・オルガンの音、ガチャガチャいうチェンバリンは子供たち、流れるようなバイオリンは和やかな家庭・・・・。次は西行だ。来週に読もう。
p170 聾(つんぼ)
小林は17ページの文章の中になんと53首もの西行の歌を載せている。私はこの文章を過去に何度か読んだはずだが、全く覚えが無いのは歌を読み飛ばしてしまったためだろう。53首の和歌を原文で読めと小林は言っていて、それを試みてみてやっと内容が、小林の言いたいことが、西行のことがようやく少し、分かってくる。
小林は西行が当時の他の歌人たちとはまるで違っていたと言う:「外見はどうあろうと・・・・西行の詩境とは殆ど関係がない・・・・詩人の傍らで美食家がああでもないこうでもないと言っているように見える」。こういう相手の歌人は藤原俊成や藤原定家、寂連であるから、ただ事ではない。西行の何がそんなに優れているのか、どこが他の古今集歌人と違うのか。小林は西行は単に「『古今集』の風体をもとにして詠んだ」が「何をもととして詠みだそうが自在に独自な境に遊べた」のだという。
つまり、西行は生まれついての詩人だったということだ。どんな題材であろうが関係ない。おそらく言葉が頭の中からほとばしって出てくるのだろう。小林はそれを「即興は彼の技法の命であって方胆に自在に平凡な言葉も陳腐な語法も平気で馳駆した」と表現する。
和歌というのはたぶん現代音楽の歌詞と同じで、ほとんど旋律に合わせた語呂合わせのようなものなのだろう。そこでは意味よりも言葉を優先させなければ和歌も歌詞も完成しない。ボブ・ディランやビートルズなどはそれを上手にやってのけるのだが、旋律変調でやや意味不明になることもある。
西行の53首の中にも(私の古文の知識不足が主な原因だが)わかりにくいものはあるだろう。平家の武士佐藤義清(のりきよ)がなぜ出家して西行になったかの理由を、小林はこの詩才の故だという:「彼の眼は新しい未来に向かって開かれ、木たるべきものに挑んでいる・・・彼は生得の歌人であった・・・・・自分の運命に関する強いあるいは強すぎる予感を持っていた(p173)・・・・・孤独は西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世もこれを護持するためのに便利だった生活の様式に過ぎなかった(p181)」。よって、西行のテーマは常に「いかにかすべき我が心」「自分とは何か」「人間孤独」であり、モチーフは「悩み」、平安末期から鎌倉初期の動乱の時代における「陰謀、戦乱、火災、飢饉、悪疫、地震、洪水」であった。
だから「地獄絵を見て」という苦しみに満たされた連作があり、そこで西行は自分が何をなすべきかを歌に込めている:「いかにかすべき我が心」。西行は歌人として認められていたから、おそらく金持ちの弟子などによる資金で生活していたと思われるが(そのあたりは小林は気にしない:「西行の実生活・・・・彼の歌の姿がそのまま彼の生活の姿だったに相違ない」というのは便利な表現だ)、1186年に東大寺大仏殿再興の勧進のために伊勢、東海、奥羽の行脚に出ている。
私が栃木の那須連峰で見た西行歌碑の歌(それを詠んだ芭蕉の句もあった)はこのときのものだろう。西行がこのとき鎌倉で源頼朝に謁見し、頂いた銀の猫を子供にやってしまったというのは、どこかで読んだ覚えがあるが、西行はもともと平氏であり、同じ佐藤姓の佐藤兄弟が源義経のためにこの頃死んでおり、西行が平泉に立ちよった1186年というのは義経が平泉で死んだ数年前とは知らなかった。だからこそ、そのときの「衣川」のやや字足らずの歌を詠んだのだろう。心に染みた歌を四首。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕ぐれ
世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん
風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
願わくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ
冒頭、小林は芭蕉の「西行と鎌倉右大臣ならん」(俳諧一葉集)という言葉を挙げているが、芭蕉は「ただ釈阿西行のことばのみ・・・・あはれなる所多し」(許六離別詞)とも言っている(「西行」p174)。まあ、芭蕉の文学評価も一生涯不変だったわけではあるまい。ともかく小林が言いたかったのは、西行と実朝が「実は非常によく似たところのある詩魂なのである」ということ。その理由はこの先で語られるのだろう。
小林の「西行」を読んでいて、西行は生まれついての詩人で、どんな題材であろうが、言葉が頭の中からほとばしって出てくるのだ、と感じたが、これはコリン・ウィルソンが「アウトサイダー」と名付けた、一種のスーパーマンではなかろうか。歴史にはそういう突然変異の人物が時々現われる。
だが、小林が最初に挙げる実朝の歌は、暗殺されることを予知していたかのような歌である。ここで、実朝暗殺についてネットを調べてみると、実朝は兄、頼家の息子、公暁によって暗殺されており、暗殺の理由は子供のできない実朝の後継者は自分だと思っていた公暁が、実朝が後鳥羽上皇の息子を養子にして後継者にするという話を聞き、逆上したということ。このとき実朝は27歳だったが、公暁は20歳、しかも暗殺成功後、頼ろうとした三浦義村に刺客を送られて殺されている。
歴史専門サイト「レキシル」はこれに続き、公暁の暗殺の黒幕として4説(北条義時、三浦義村、後鳥羽上皇、単独犯行)を挙げ、単独犯行ではないかと結論している。だが、この後の小林の記述はまるでミステリー小説のようで、「どちらでもよい。僕は実朝という一思想を追い求めているので、何も実朝という物品を観察しているわけではない」といいながらも、都合よく実朝に同行せず、暗殺をまぬがれた北条義時が関わっていたことは明白、ということが(全く明記していないが)読み取れる。たぶん(カラマーゾフの兄弟のときもそうだったが)小林は推理小説が好き、いや推理してみるのが好きなのに違いない。
だが、p195に記された頼朝亡き後の鎌倉幕府の大混乱ぶりを読むと、何でもありの状態だったのだろう。そんななかで、なぜ実朝はやたらと官位を求め、よりにもよって後鳥羽上皇の子を養子にしようとしたのだろう。ネット「レキシル」は当時の実力者の一角、北条政子が頼家と実朝の母であったことを説明の中に組み込んでいるが、なぜ実力者の北条政子は実朝を助けようとしなかったのだろう。一種の反抗期だったのか?
小林は当時、実朝が南宋の陳和卿という技術者を呼んで船を造らせ、宋に渡ろうとしていたことを挙げている。この船は建造されたが、浜辺まで運ぶことができず、進水できなかったというのはなんとも妙な話。小林はその真偽には触れず、ただ実朝の二つ目の歌を挙げる。
「紅のちしほのまふり・・・・」という歌は、この少し後、p200の「箱根路をわれ越え来れば・・・」について小林が評している芭蕉の「ほそみ」が感じられるような気がする。ここから先で小林の掲載する実朝の歌はみな叙景詞の形をとりながら、その中に深い悲しみが宿っている(そう小林が断じている)ものばかり。芭蕉の「ほそみ」とは「句意にあり」「作者の思い入る心の深さ、細さ」であるとすれば、その通りだと思える。
p198で小林は実朝が怪しい女「青女一人」を見たときの記述(たぶん吾妻鏡)を載せ、「萩の花くれぐれ迄も・・・」という歌を「僕の好きな彼の歌」として挙げている。吾妻鏡はこの女が(たぶん頼家の)亡霊と考えて招魂祭を行っていて、小林はこの文章が好きだと言っておきながら、その数行後で「女はあるいは刺客だったかも知れない」と書いている。
そしてp200の「世の中は鏡にうつるかげにあれやあるにもあらずなきにもあらず」①の歌から後、小林の論調は熱気を帯びて興奮気味になり、著名な文学者たち(賀茂真淵と正岡子規)の和歌の評論を「出鱈目である」「懾伏した竜王なぞ見えてこない」と一蹴し、万葉和歌に似た「叙景の仮面を被った抒情の独特な動き」「暗鬱な気持ちとか憂鬱な心理とかを意識して歌おうとする様な曖昧な不徹底な内省では到底得ることのできぬ音楽・・・・言わば彼が背負って生まれた運命の形というもの」が感じられると語る。
そういう小林の説明を読みながら実朝の歌を読むと、なるほど確かにそういう感じがしてくる。それを感じ取るためには歴史を、実朝の人生を知らねばならない。吾妻鏡を読み、鎌倉時代末期の謀略や暗殺がはびこっていた世情、自分の運命を感じ取っていた実朝を知らねばならない。
p202で「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめ給へ」②の歌を小林は「時流を抜いた秀歌」と絶賛している。この歌を正岡子規は「勢強き恐ろしき歌」と評してして、そういうふうにも思えるのだが、小林は「実朝の歌は少しも激してはおらず、何か沈鬱な色さえ帯びている」と批評する。ここでの小林には妥協はない(なお、p217で小林は正岡子規の「君が歌の清き姿はまんまんと・・・・」を載せ、この歌が好きであると褒めている。大先輩への配慮だろうか)。
小林の批評の論理は文献参照や関連事項などの考察を通り越し、彼のいう「主調低音」なるものを実朝の歌に感じ取っている。その極地ともいうべき歌がp204の「われてくだけてさけて散るかも」に違いない。私にも実朝の心が散り散りに割れ、砕け、裂けて散っていくのが感じられるように思える。これは確かに単なる海の叙景ではない。
p206から小林は、現存する実朝の歌の大部分(663首)が22歳以前のものであるという、「驚くべき早熟の天才」について語る。28歳で死ぬまでに歌は詠んでいるはずだが、それは失われたのかもしれない。そしてp208ページの次の文章が評論家小林の辿り着いた実朝という人物像だと思う:「様々な世の動きが直覚され、感動は呼び覚まされ、彼の心は乱れたであろう。嵐の中に模索する彼の姿が見えるようだ。ただ純真に習作し模索し、幾多の凡庸な歌が風とともに去るにまかせ、彼の名を不朽にした幾つかの傑作に、闇夜に光り物に出会うように出会ったが、これに執着してこれを吟味する暇もなく、新たな悩みが彼を捕らえる」。
p210から小林は冒頭で語った、実朝と西行の詩魂が似ているというテーマを語り始める。だが、二人はあまり似ていない:「西行が青春の悩みを一挙に解決しようと心を定め、実行の一歩を踏み出した年ごろには、実朝は既に歌うべきものを凡て歌っていた」。だが、小林は二人の共通点を次のように解説してみせる:「成程、西行と実朝とは大変趣の違った歌を詠んだが、ともに非凡な歌才に恵まれながら、これに執着でず拘泥せず、これを特権化せず、周囲の騒擾(そうじょう)を透して遠い地鳴りのような歴史の足音を常に感じていた異様に深い詩魂を持っていたところに思い至ると、二人の間には切れぬ縁があるように思うのである」。
p212にある実朝の「神といひ仏といふも世の中の人のこころのほかのものかは」③を小林は「傑作ではないがいかにも実朝らしい」と書いている。それ以上の説明は無いが、八大竜王に祈願した実朝は実は神も仏も信じてはいなかった、すべては人の心、いや人生は自分の心のみ、ということだろうか。実朝はあと7ページ、この本はあと60ページ弱。ともかく、「実朝」がこの本のハイライトのようだ。
この最後の7ページはもの悲しさに満ちていた。それはこの純真無垢な天才(やはり世の中とは相容れないアウトサイダー)が自分をとりまく環境に一切順応しようとはせず、一方、その異常な環境を見事に映し出す歌を詠じた。西行のような出家して自由を得ることはできず、慈円のような文学者からも長沼五郎宗政のような生粋の武将からも(彼は実朝に相当ひどいことを言ったらしい「現場がわかっているのかっ」と言う風に)理解し難い人物であり、到底、将軍にふさわしい力量、キャラクターではなかった。これは実に不幸な話だが、歴史にはこういう環境に生まれた人物が、自分の本領、すなわち歌や詩作、芸術などを敢えて捨て、自分を取り巻く部下や住民のために慣れない武芸や政治などに取り組んだ例もあるし、王や将軍をこなしながら文芸も残した人物もたくさんいると思う。
だが小林はそんな脇道には入らず、実朝の心の中を探る。「旅をゆきし跡の宿もりおのおのに私あれや今朝はいまだこぬ」④の歌からは、長沼政宗の暴言事件の後、「彼は悲しんでも怒ってもいない様だ・・・・歌は写生帖をひらいて写生でもしている様な姿をしていて、画家の生き生きとした純真な眼差しが見える」と語る。そして最後の5ページに8首の歌を掲げて、その心を論じていく。「塔をくみ堂をつくるも人のなげき懺悔にまさる功徳やはある」⑤は「神といひ・・・」と同様の人の心を重んじた名作だと思うが(なんと陳腐な表現だろう)、小林はこの歌が決して宗教思想に基づいたものでないと言う。
父の危篤に上洛した「小次郎の『世の中の人のこころ』」とは、念仏修行を積んでいた武士たち(熊谷直実や大江広元)とは違い、父の臨終に立ち会いたいという純粋な心であり、実朝の歌もそういうものだと小林は言っているのだと思う。「大日の種子よりいでてさまや形(ぎょう)さまやぎよう又尊形(そんぎょう)となる」⑥の歌は「密教の観法の心理」ではなく、「無邪気な好奇心に光った子供のような正直な作者の眼」が見えると小林は言うが、密教の教えを素直に歌に置き換えてみた写生のようなものということか。
しかし同じような次の歌に小林は凄まじい発見をしている。「ほのほ(炎)のみ虚空にみてる阿鼻地獄行方もなしといふもはかなし」⑦に小林は「この歌を読む毎に・・・・いかにも純潔な感じのする色や線や旋律が現われてくる・・・・僕にはしかと感じられるこの同じ美しさを作者もまた見、感じていなかった筈はあるまい」と言う。
確かにそこは地獄なのだが、実朝はそこにも美を見ていたとは・・・・。これは破滅志向なのか? もしかすると、陰謀逆巻き、死と直面して生きているという悲しい人生そのものに「美しさ」を感じていたのか? だから、そこから抜け出せなかったのか? だとしたら、そんなに悲しいことはない。いや、実朝はその運命を受け入れ、自分のスタイルを貫いたのだから、悲しみや辛さも併せてそういう生き方を望み、楽しんでいたのかもしれない。なんと痛烈な人生だろう。
小林がp218で語る「青年にさえ成りたがらぬ様な、完全に自足した純潔な少年の心」そして「その叫びは悲しいが、訴えるのでもなく求めるのでもない。感傷もなく、邪念を交えず透き通っている。決して世間というものに馴れ合おうとしない天稟(てんびん)が、同じ形で現れ、又消える」とはこういうことかもしれない。「吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり」⑧は名歌ということだが、純粋な叙景の歌だから、これもまた芭蕉の「ほそみ」のある歌ということだろうか。
続く3首、「世の中は常にもがな渚こぐあまのを舟の綱手かなしも」⑨「散り残る岸の山吹春ふかみ此ひと枝をあはれといはなむ」⑩「玉くしげ箱根のみうみけけれあれや二国(ふたくに)かけてなかにたゆたふ」⑪もまた同様のように私には思える。ただ、小林はその「ほそみ」の中身を更に読み解いているのだが。そして最後の「山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」という歌は、ちょっと不遜かもしれないがツェッペリンの「たとえ山が崩れて海に沈んでも、君と僕」という歌詞を連想させる。小林は「無垢な魂の沈痛な調べ」を聞き取っているが、鎌倉時代とは思えない、純粋で純真な愛の歌なのではなかろうか。
こうして読み終わってみると、実朝は実に無邪気な子供であり、西行と同じ詩魂を持っているのかもしれないが、熟練した人生を生きた西行とはまるで違っているように私には思える。武士を捨て、好きなことをやり抜いて生きた西行に対し、実朝は将軍という役割を投げ捨てず、世の中の不満や軋轢を一身に背負って短い生涯を終えるが、時間や大きさは芸術や人生の価値には無関係だとすればどうだろう。
実朝はおそらく早熟で、二十歳ころまでにやりたいことはやり尽くしていた。だから、26歳で死んだときも何ら思い残すことはなかったのではあるまいか。実朝は、もしかすると全てが分かっていて、そういう運命すらも受け入れていたのかもしれない。だとすると、なんと粋な人生だろう。実朝は、太く短い人生を生きたのだ。
p195 曲筆: 事実を曲げて書くこと。 また、その文章。
p195 潤色: 文にいろどりを加えること。表面をつくろったり,おもしろく飾りたてたりすること。
p201 芭蕉のほそみ:蕉風俳諧の美的理念の一。作者の心が対象の微妙な生命の急所にしみとおってゆき,そこに風雅の伝統の細き一筋を感得すること,およびその感得したものを句ににないこむ気味合いをいう。去来は〈細みは便りなき句にあらず。……細みは句意にあり〉(《去来抄》)といい,芭蕉が路通の〈鳥共も寝入てゐるか余吾(よご)の海〉という句を〈此句細みあり〉と評したと伝えている。早く中世においては俊成などが〈心深し〉〈心細し〉という評語をしきりに用い,作者の思い入る心の深さ,細さを称美しているが,連歌でも心敬がこれを承けて〈秀逸と侍ればとて,あながちに別の事にあらず。心をも細く艶にのどめて,世のあはれをも深く思ひ入れたる人の胸の中より出でたる句なるべし〉(《ささめごと》)といっている。これらはそのまま〈細み〉と呼ぶべきものではあるまいが,このような〈細さ〉を称美する繊細な詩心の伝統があって,はじめて蕉風俳諧の〈細み〉も可能になったのであろう。
p201 芭蕉のしおり:萎(しを)る〉の連用形というのが通説であるが,近年〈湿(しほ)る〉の意に解すべきだという説がある。蕉門俳論では〈しほり〉と表記するのが一般的。去来は〈しほり〉は〈一句の句がら〉〈一句の姿〉〈一句の余情〉にあるという。また《俳諧問答》では〈しほりと憐れなる句は別なり。ただ内に根ざして外にあらはるゝものなり〉とも言っている。これらによれば〈しほり〉ある句は,憐れなる句と句がら,姿,余情において近似したところがあるとみられる。早く中世の能楽,連歌で,わが身を愚鈍と思い侘(わ)ぶ心から発した〈しをれたる風体〉というのがあるが,そのような心理から,すべての物にあわれを感じ,それをさらりと余情に反映させた場合の句を〈しほりある句〉というのである。芭蕉は許六の句〈十団子(とおだご)も小粒になりぬ秋の風〉を〈此句しほりあり〉と評したという。これは〈秋の風〉のあわれを〈小粒になりぬ〉という言葉で,句の姿,余情にさらりと表現した手腕を褒めたものであろう。
p208 えにし=縁
p213 仲兼朝臣:源仲兼 平安末期・鎌倉初期の後白河院の有力近習仲国の弟。父は河内守光遠。仲兼も近江をはじめとする諸国の守を務めて財を蓄え,造営事業などを請け負った。建永1(1206)年に火災にあった比叡山の大講堂の再建を担当。また,建保1(1213)年ごろには,鎌倉で源実朝に仕えている。なお,子孫は代々院細工所を統轄したと思われる。
p218 玉くしげ 【玉櫛笥・玉匣】:くしげを開けることから「あく」に、くしげにはふたがあることから「二(ふた)」「二上山」「二見」に、ふたをして覆うことから「覆ふ」に、身があることから、「三諸(みもろ)・(みむろ)」「三室戸(みむろと)」に、箱であることから「箱」などにかかる。
第二次大戦の真っただ中、昭和18年9月に文学界に掲載されたこのドイツ帝国の著名軍人に関する論文は、前回「歴史の魂」という講演では「この本を読んで非常に心を打たれたことがある・・・・・非常に専門的な本ですが・・・・・いかにもゼークトという人の持っている思想が打てば響くという感じがあった」という直感的な感想であったが、今回のものは小林にしてはかなり混乱しているように思える。
クラウセヴィッツ、モルトケ(大モルトケと思われるが、彼はナポレオンを破ってはいない)、ゼークトというドイツの著名軍人を並べ立てればドイツも日本軍部も喜ぶだろうが、小林の論旨はさまよっている。ゼークトの思想を題名にしておきながら、「観念的なるが故に普遍的である思想に対する断固たる侮蔑p221」「軍人にとって本質的なものは行為であるp227」というのは、小林も含めた文学者や哲学者などは不要という理屈になってしまうのでは? クラウセヴィッツの「戦争論」、モルトケとゼークトの組織論は今でも世界各国、企業の組織論としてまさに普遍的に活用されているのだから、小林のいかにも鋭い指摘とは裏腹に、ドイツの三武将の思想は形を変え、(本人の意図したことではなかったかもしれないが)現代にも息づき、活用されている。
困ったことに(これは戦争中だったから仕方が無いが)小林が取り上げているテーマはどうもしっくりこない。一つはp224の「戦争においては一切が極めて簡単である。だが、最も簡単なことこそ難しい」というクラウセヴィッツの言葉で、核戦争が人類全滅となりうる現代においてはもはや意味がない。
二つ目はp225の「元来は勇敢なロシア兵が照準の正確な我が榴弾砲の猛射を浴びて周章狼狽」している光景を見たセークトが「寧ろ彼らがこの地獄の猛火の中から一刻も早く逃れ出ずることを願わざるを得なかった」という文章の解釈で、たぶん小林の書いている「彼は戦争という作品を創っている芸術家」でありその「戦争という人間の事業が危機に瀕する」のを見て困惑したというのがゼークトの本心なのかもしれない。しかしゼークトだって人間だ、小林も人間だ。正確な榴弾砲を浴びている者が誰であれ、それを目にすれば「一刻も早く逃れてほしい」を願うのが人の心ではないか。
もしかすると小林は当然それを分かっていて、わざとこう書いたのかもしれない。p226で「これは比喩ではない」と念を押しているところは、「君はこれが本当に正しいと思うか?」と問うているように思える。もちろん当時、それをそのまま書くわけにはいかなかった。だから最後に「文学者にも無論、不言実行はある。喋ることと書くこととはまるで違った道だ」と分かりにくく終わっているのだろう。
p224 クラウセヴィッツ:『戦争論』(せんそうろん、独: Vom Kriege)は、プロイセンの将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツによる戦争と軍事戦略に関する書物である。本書は戦争の暴力性や形態を決める重要な要因として政治を位置づけたものであり、軍事戦略を主題とする最も重要な論文のひとつとして、今日でも各国の士官学校や研究機関で扱われている。
p223 ヘルムート・カール・ベルンハルト・グラーフ(伯爵)・フォン・モルトケ(Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke, 1800年10月26日 - 1891年4月24日) は、プロイセンおよびドイツの貴族、陸軍軍人、政治家 、軍事学者。1858年から1888年にかけてプロイセン参謀総長を務め、ドイツ統一に貢献した。爵位は伯爵で陸軍の最終階級は元帥。1858年から1888年にかけてプロイセン参謀総長を務め、対デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した。近代ドイツ陸軍の父と呼ばれる。甥にあたる第一次世界大戦時の参謀総長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)と区別して、大モルトケと呼ばれる[3]。また明治時代の文献にはモルトケを「毛奇」と表記する物がある[4]。1819年1月に第4位の成績で士官学校を卒業し[24]、デンマーク軍少尉となり、オルデンブルクの歩兵連隊に勤務した。デンマークはナポレオンと同盟していたため、ナポレオン敗退とともにノルウェーを失うなど厳しい立場に追い込まれた。将校数も過剰になり、モルトケが出世できる見込みは薄くなった[15][29]。また1821年にプロイセン首都ベルリンを訪問したモルトケは、ナポレオンに勝利したプロイセン軍に憧れを持つようになったという[27][30]。
p220 ゼークト:ゼークトの組織論とは、組織内の人材を4つのタイプに分類し、どのような役割を与えると能力に応じた活躍ができるかを示した理論です。ゼークトの組織論では、人材を「利口・愚鈍」と「勤勉・怠慢」の切り口でかけ合わせ、4つのタイプに分類します。 提唱者とされる、ハンス・フォン・ゼークト氏は、ドイツ軍の軍人で上級大将まで努めた実力者です。軍人を4つのタイプに分類したジョークが、このゼークトの組織論の元になっていますが、他の軍人の発言によるものとする説もあるようです。
ここでも小林はえらく歯切れが悪く、なんだか怒っている。「第二回大東亜文学者大会」に集った日本、中国、モンゴルなどの文学者代表の提携を呼びかけるよう「御命令を受け」喋っている、とp233に書いているから、その通りなのだろう。しかし日本政府の思惑通りには小林は話していない。
「空前の盛事だ」と語る一方、提携の実現については「非常にむつかしい仕事だ」と最初に述べ、その理由を、社会主義やイデオロギイ、観念論と伝統、文明に文化、文学者と言葉など、いろいろと並べ、最後に孔子の「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」を挙げ、文学者の提携には小人同じて和せざる危険がある、戦いと同様に困難な仕事だ、と結ぶ。
そんな空論だらけの中で一つ目を引くのは、小林が「言霊」について語っていること。小林はこの言葉を「百円の言葉で本当に百円の物が買える、そういう言葉には魂がある」という風に使っていて、文学者や詩人が技巧を尽くし、苦しんだ末に到達した言葉には言霊があると論じているが、この「言霊」という言葉は、小林の晩年の名作「本居宣長」の中で何度も出てくるキーワードの一つである:「私たちの間を結んでいる言語による表現と理解との生きた関係・・・・その全く個人的な語感を互いに交換し合い、即座に翻訳し合うという離れ業を我知らず楽しんでいるのが、私たちの尋常な会話であろう・・・・宣長はここに『言霊』の働きと呼んでいいものを直に感じ取っていた」「言語は言霊という自らの衝動を持ち、環境に出合い、自発的にこれに処している」。
つまり、本居宣長の言霊は「会話」や「言葉」に内在する神秘的なパワーのようなもの。同じ言葉だが、ずいぶん範囲が広がり、百円の世界から日本語全体、言語全体の世界に拡張している。
これは「日本映画」という雑誌に発表したとあるが、ほとんど弥次さん喜多さんの世界。もしかすると夏目漱石の「二百十日」の碌さんと圭さんの落語調を模した創作なのかもしれない。「世界に告ぐ」というのは、イギリスの南アフリカでの残虐行為を喧伝したドイツの映画ということだから、同盟国とはいえ日本の映画ではない。小林はたぶん、文章の中でも語っている通り、映画を見ていた観客の否定的な反応も考慮に入れたうえ、この映画について「あんなものは糞でも喰らえだ」と最初に言い捨て、そうは言ったものの同盟国の面子も考え、相棒の「知人」の口を借りて「この映画は作品としては立派なものだ」と言わせ、それに対して「何が立派なことがあるもんか、馬鹿野郎」と応ずる。
「知人」がこれは「明確な企図を正確に表現した宣伝映画だ」と言うのは、勿論、ドイツがイギリスの暴挙をあばきたててドイツ国民や同盟軍の士気を高めようとしていることを小林は百も承知しているということだが、残念ながら「絞め殺された男」や「銃殺された女どもの死体」を見せられたのでは「厭戦的気分を起こさせぬとは限らぬ」という問題点を指摘する。
一方、当時、同時に上映されていた「奴隷船」という日本映画の方は、出来は悪いが「その低級な方が人気を呼ぶんだ」と持ち上げてみせる。この事件で中国人奴隷を乗せていたのはペルーの船で、一人の奴隷がイギリス軍艦に逃げ込み、既に奴隷禁令を出していたイギリスは大使館を通じて日本政府に中国人救助要請を行い、それに応じて日本政府が中国人救助を命じたというもの。確かにこっちの方が観客には受けるだろう。
ここまで話を進めればもう「世界に告ぐ」の評判はガタ落ちだが、最後に小林はダメを押す:「第一、あれは何とも形容できぬいやな病的な気質をもった人間と言ったような映画だ・・・。第二、大衆はこの人間の気質を直覚した。そして不入りというはっきりした行為をもって答えた」。
なお、末尾にある「アッツ島に現われた思想」というのは説明が無いが、この年の5月にアリューシャン列島の日本軍がアメリカ軍のために全滅しているから、そのことの方が「世界に告ぐ」よりも余程重要だということだろう。戦争が深まり、軍部と政府は国民の情報統制や士気高揚に躍起になっていたはずだが、小林は自分を失わず、自分の流儀でもって、自分の仕事を立派にこなしている。
p237 奴隷船:マリア・ルス号は、ペルー船籍の船でした。事件前はマカオからペルーに向かう途中で横浜に寄港し、修理をしようとしていたところです。船には乗員や荷物だけでなく、中国人の苦力クーリーが231人乗っていました。苦力とは、19~20世紀に西洋諸国や南米で使われていた、中国人・インド人の肉体労働者のことです。1872年の7月9日、同船員の中で最も希望を含んだものを考えていたであろう一人の苦力がいました。彼は、マリア・ルス号から海へ飛び込み、イギリス軍艦・アイアンデューク号に救助されます。そしてこれを機にコトは大きくなって参ります。横浜は開港されてしばらく経っていましたから、飛び込んだ船員も「どこかの船に拾ってもらえれば助かるかも」と考えていたのかもしれません。彼から事情を聞いたであろうイギリス人達は、マリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断し、イギリス在日公使へ連絡します。そこから日本政府に対し、中国人救助の要請が行われました。イギリスは一応1833年に奴隷廃止令を出していたので、よそのこととはいえ放置するわけにはいかなかったのでしょう。これを受け、当時の外務卿(外務大臣)副島種臣そえじまたねおみは、神奈川県権令(県副知事)の大江卓に中国人救助を命じます。
この選集は戦時中の昭和18年に第1巻が発刊され、戦後の昭和23~25年に第2~4巻が刊行されたらしい。現在でもネット広告に出ているが、なぜか1~3巻というのが多く、「4巻」だけというのが一つ。重版されている訳ではなさそうで、古本なのだろう。
ここの小林の紹介文は短いもので、サント・ブウブは「極く少ない、生まれながらの批評家」であり、その「批評の力の源泉」は「己自身という最も頑強な敵との戦い」にあったと論ずる。そして、この論理を言い換えたのが冒頭の「先ず自分に対して辛辣な人でないと他人を本当に辛辣には批評できぬ」という言葉だが、これの真偽判定は難しい。小林のサント・ブウブを読んでも分かるまい。
そこで、小林はニーチェの「偶像の薄明(偶像の黄昏)」という作品の中のサントブウブ評を持ち出し、「ニイチェはひどい悪口を言っている。自分自身に対しても言えたからである」というわかりにくい理屈を展開している。「自分に厳しいニーチェもまたごく少ない生まれながらの批評家である」というのは分かるが、その「ニーチェがひどい悪口を言っているからサント・ブウブもまたごく少ない生まれながらの批評家である」とは言えないのでは? 「ひどい悪口を言えるのは自分くらい、その自分と同じくらいの資格をサントブウブはもっている、だから彼はすぐれた批評家だ」というややこしい理屈なのか?
この画家はルノワールに師事して学んだというから、根っからの洋画家であり、印象派ということになるが、作品を見てみるとルノワールのようなぼやけた光の絵ではなく、ごてごてと塗りつけて生命感の溢れた油絵で、どちらかというとセザンヌに似ているような気がする(私には絵画を論ずる資格は全く無いのだが)。
ともかく、小林はこの豪放でえらく多作な画家が大好きなようである。冒頭のバレリイの説「現代の絵画も彫刻も建築という母親に見放され棄子のように世間をうろついている」に対し「こちらから家出した以上、額縁という移動屋家のうちで自足している」というジョークは、もちろんわざわざ美術館に足を運ばなくても画集を見れば足りる、という宣伝文句の一環なのだろうが、この時期の小林にしてはえらく羽目を外しているように思える。それだけ小林はこの画家が好きであり、彼について書くのが楽しいのだろう。
最初の論点は梅原氏が「絶えず変化し一作毎に新しい境地を開いて倦まぬ」のではなく「この人くらい同じ世界に根を下ろして動かぬ頑強な審美家は珍しい」ということ。「岸田劉生氏の場合の自己撞着」というのは良く分からない。作品を見た感じでは、梅原氏と同様にヨーロッパ印象派の影響を受けた油絵画家ということだが、岸田氏の方が(有名な麗子像のように)えらく写実的、実物溶離も現実感のある絵という感じがする。病気で38歳で亡くなったというのは残念。
ところで、最初の論点についてはネットを見ても確認できない。ともかく梅原氏は岸田氏とも交友があったらしいが、何度も訪欧し、日本画壇の重鎮として安井曽太郎と共に君臨し、97歳まで生きている。東京芸術大学教授、文化勲章、フランス・コマンドール賞受賞というから、小林に劣らぬ芸術家である。「ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開 」という現在のネット評価はネットの画像からもうかがえる。
二つ目の論点は「梅原氏の画からよく音楽を聯想する」ということ。これは、「古赤絵美人図」も「近作画集」の見返しの絵も分からないので確かめようがないが、梅原氏の絵は確かに今にも動き出しそうなダイナミズムを持っていて、小林の言う「音感を刺激するある運動感覚」は感じられる。小林のように飽かず眺めていれば、そのうちに「肉声の和声」や「管楽器の旋律」も聞こえてくることもあろう。
三つ目の論点は梅原氏の人気と美について。小林は梅原氏が「本能的に選択された自然しか決して見ていない」と言うが、その選択とは誰もが見ていて、多くの画家たちが素材にしてきた「名勝」の類いだと論ずる。こういう選択の対極として、あまりに世にとりあげられている素材について、例えば「富士、どうも相手が悪い」というふうに敬遠する選択もあるだろう。ただし、梅原氏はこういう「名勝」を他人と同じような方法で描く訳ではない。「自然の急所で喇叭が鳴るのだ・・・・この自然の単音がそのまま複雑微妙な和音に分解されていくのを梅原氏は待っている・・・・ここで何事かが梅原氏に起こる」そして「梅原氏は賭けるように描く。突如として効果が輝く。だが何物も完了しない」という表現は、インスピレーションは突然、奇蹟のようにやってくる、だがそれを描くのは簡単ではないということなのか。(写真)
そして最後に小林は「北京作品集」の絵について述べる。最初は「幾人かの女性」の絵(写真)。「肖像画というものではないのであって、名前はついているが洒落にすぎず、当世風の衣裳はつけているがそれは一種のアイロニイであり、かなぐり捨てる用意はいつでもある。要するにこれら社会感情を除去された孤独な生物の一群は全く梅原氏の『自然』に属する」というのはややこしいがつまり、梅原氏の分野のひとつ裸婦画も含めて、自然画同様、彼がインスピレーションで美を感じ取る対象ということなのか。
次の「北京秋天」というのはネットにも載っているから有名なのに違いない。それは空の上半分は青だが、下半分は緑、その下の市街も緑に覆われ、その中に建物が覗いているというもの。小林はこの絵を「緊迫した感じの立派な絵」と評しているが、どうだろう。ピカソの絵のような感じもするが、いまいち何か物足りないような気もする。「画家の姿も見える。彼はたった一人で無限の前で手を振っているような様子をしている」というのはこの絵の中にはないから、別の自画像から連想したのだろうか。
そして小林はこの絵について「飽くまでも明るい色彩は僕等を不安にする何物かを含んでいる・・・・どうも幸福境にはいないようである」と結ぶ。これは当時が戦争中であり、その不安感を絵の中にも見たということだろうか。今、私がこの絵を見ても、そんな不安は感じられない。「天は果たして裂けるであろうか」というのは絵とは無関係の、当時の雰囲気を反映しているのだと思う。この文章が発表されたのは昭和20年1月である。
吉田凞生氏が最初に取り上げる徒然草第40段の入道と娘の話は、理解に苦しんだところだったので、他にも悩んだ人がいたと分かって安心したが、こんなにも多様な解釈が議論されていたとは驚きだ。当の本人の解答が示されていないのがやや不思議だが、たぶん小林自身も書いてはみたものの、最初の意図はあいまいなものだったかもしれない。
私はこの話を「粟しか食べないような娘なので、嫁にやると周囲で噂が立って不幸になるだろうから、親心で嫁に出さなかった」と解釈したのだが、文学者たちの解釈はこんな安易なものではない。(1)安良岡康作氏:「文学」より一段水準の低い「準文学」・・・・・これは40段の話は名作ではないということ。(2)三木紀人氏:「地方の入道として娘を入内させること、あるいは貴族の妻にすることに失敗した話」、(3)馬場あき子氏:(高貴な者でなければ嫁がせないという)「対外的な激しい宣言」、(4)吉田氏:「むしろこの娘が『米の類』を食べなかったというほうが重要かもしれない・・・・土地と人間の労働・・・の関係を拒否するというシンボリックな意味・・・娘が人々の常識から逸脱しているというだけでなく、民族の根を失っていることへの痛みと思いやりがこめられていた・・・」。
大勢の学者の考察の結果、私の最初の直感(だいぶ考えたのだが)とほぼ同じ処に決着してくれたので安心した。
次に吉田氏が取り上げるテーマは「生と死」。この先の10ページを読むと、吉田氏が小林の作品を読み尽くしていることが良く分かる。「2」の後半は小林の「生と死」(S47)からの引用になり、ここにキーワードがいくつか含まれている:①「死はかねて生のうちにあって、知らぬ間に己を表現する」、②「死を目標とした生しか、私たちには与えられていない」、③「よく生きることは、よく死ぬことだ」。このうち②③について吉田氏は「『死の美学』ではないかという反発を買いそうな言葉である。しかし『棺桶に確実に片足をつっこんだ」感じを抱いている私としてはむしろ共感を覚える」と語る。
私は幸い、まだそこまでは感じていないから、共感はできない。「いかに良く死ぬか」というのは応用問題だと吉田氏は語り、例としてモンテーニュの「死という渡りを・・・いとも巧みにするりともぐり抜けてやろうと努めている」を挙げている。モンテーニュというのはユーモアがありそうだ。
次に吉田氏が挙げるのは小林の「モーツァルト」からの引用で、ここにもキーワードがある:④「死は最上の友」、⑤「死が生を照らし出すもう一つの世界」。このうち「死が生を照らし出すもう一つの世界」について吉田氏は「実朝」「本居宣長」「西行」、それにゴッホの書簡の一節を例示しているが、これはコニー・ウィリスやリチャード・マシスンの臨死体験や死後の世界ではなく、「死」を直視して行った現世での創作、「死」を覚悟した者の気迫、霊感による芸術ということらしい。
モーツァルトは作曲家、ピアニストであり、文学者ではないから、彼の手紙の芸術性をとやかく議論しても仕方のない気はするが、小林はモーツァルトの音楽がこういう精神状態のもとで創り出されたと言いたかったのだろう。
ただし、若死したモーツァルトの場合は吉田兼好や小林のような達観した環境(棺桶に片足をつっこんだ)にはなく、当時死の床にいた父親レオポルドを慰めるための手紙ではなかったのかと吉田氏は書いている。これは理論的である。
「4」に吉田氏の真骨頂が二つ。一つは「徒然草」と「モオツァルト」の共通性の発見:「小林がモーツァルトの音楽に聴きとった短い主題と転調は『徒然草』の各段の「心にうつりゆくよしなしごと」の短さに対応しているだろう」ということ。私はモーツァルトを少ししか聞いていないので語る資格に乏しいし、結局、音楽鑑賞と読書とを比較するのはかなり無理があると思う。
だが、次の吉田氏の文章はまさに「小林的」な説得力を持っている:「短い主題あるいは短い文章というのは・・・兼好に託された『見え過ぎる眼』という・・・意識の絶えざる差異化のすばやい運動を意味している・・・・だから、モーツァルトの『悲しみ』が『疾走』するならば、『徒然草の240幾つの短文』という『批評と観察との冒険』もまた『映り移る』言葉として『疾走』しているのである」。この「差異化の運動」という言葉から、吉田氏は戦前の小林の「不安」を連想し、「現代文学の不安」(S7)の長い文章を引用している。
「私は小林のこの文章が好きである」というこの引用が二つ目の真骨頂:「私たちは持て余す不安を抱いて街に出る・・・・奇怪なことに都市が必要とするもの、社会が必要とするものは何もかも眼前にある・・・・(なのに皆不安感を抱き、)ただ無意味に消費したい欲望にかられて酒場に飛び込めば、がま口から取り出す金というものにはや疑念を抱いているではないか」。まさに当時の不安感の本質をジョークっぽく指摘してみせている。
最後「5」で吉田氏が語るのは「よく生きることは、よく死ぬこと」。「意識の差異化の運動とは、それが極限に達したとき、離人症的な状態を呈する・・・・・・『いま』がない、従って『自己』もない・・・・(時間の流れがない)無数の『いま』として感じられ、『こと』としては成立しない」というのはなんだか無数の量子現実の間を彷徨っているような感じ。SF的にはかなり危ない感じがするが、吉田氏はここから強引に「小林の『よく死ぬ』という言葉は『いま』の豊かな広がりが未来へ及んでいるということだろう」と結論する。
これまた臨死体験、死後世界に通ずる論調だが、そこは「もう少し考えなければ」とかわす。やはり「よく生きること」に止めておけば良いような気がする。差異化の極限については、アラン・ホールズワースやマイルス・デイビスなど、演奏技術や技法を極限まで追い求めたミュージシャンの人生を考えると、どこかで一拍置くこと、異なる視点を入れることが不可欠なのではと思える。少なくとも、小林はなんとかしてそれに成功していた。
p256 明石入道:若い頃に都での出世をあきらめて明石に移り住み、地方長官となった人ですが、今なお住み慣れた地で独り暮らしをしています。 入道には「一族から帝、后を出す」という永年の願いがありました 。須磨に流寓する源氏を明石の浦の自邸に迎え、娘の明石の上と結婚させる。
p255 ものぐるほしい:何かに とりつかれて 正気 を 失って いるようである
p258 相者(そうしゃ):① 人相をみる人。そうにん。※徒然草(1331頃)一四六「相者に逢ひ給ひて」※寛永刊本蒙求抄(1529頃)六「相者が相して三公にはえなられまいと云たがあうたぞ」② てびきとなる人。案内者。
p266 離人症(りじんしょう:Depersonalization)は精神症状の1つです。「自分が自分ではないような感じ」「自分が現実にはいないような感じ」という症状なのですが、一般の方にはなかなか理解できない症状です。離人症は不安障害、統合失調症をはじめ、うつ病や双極性障害、パーソナリティ障害など多くの精神疾患で生じえますが、症状の分かりにくさから患者さん自身もあまりこの症状を認識できていない事もあります。