1939年(2023年4月15日読了)
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このサント・ブウブのノートは、彼が冒頭に記しているように、このまま出版することを目的としたものではなく、他の目的のために使う道具、覚書、走り書きノートのようだ。だから内容も順不同、様々なことがバラバラに、思いついた時のそのままに記述されているらしい。「Ⅰ」からギリシャ数字の章があるようだが、あまりあてにはならないようだ。それなのになぜ公表されたのかは、「こういう気まぐれも、そういう人たちの様々な瞬間の印象を総合して書いてみたいというとき、やがて僕にはたいへん役に立つものとなる。仕事をする毎に実に役に立ったからこそこの手帖も破らずに持っていたわけである」というところに理由があるようだ。
ラムネエ(宗教哲学者、司祭)、ユウゴオ(詩人、小説家、劇作家)、ラマルチイヌ(詩人、政治家)ら「あらゆる人物の欠点や失敗を指摘」しながら、サントは「僕の批評の慧眼は忠実な詩人、尊敬すべき作家としての彼等の運命に結ばれていた。僕の最良の内容は彼等の名声に乗って船出した・・・・彼等が難船するときには僕も破滅する」と言う。つまり、彼は優れていると考える文学者を批評することにある種の矛盾を感じていたのだろう。これは文芸批評においては避けられない特質だろう。ヴィクトル・ユウゴオについては次章で論ずるが、この章では様々な文学者を散々にこき下ろす。
p44でブウブはアレキサンドル・デュマ(三銃士やモンテ・クリスト伯の作者)を散々に批判している。これは本章冒頭の「優れていると考える文学者を批評」とはちょっと違うようだ。「流行の大法螺にすぎぬ・・・・動物精神の途轍もない解放・・・幻想力の真の巨匠の列に入るにはまだまだ大変な距離がある」。そしてデュマには優美はあるが繊細さは無いと言う。
26ページにわたるユウゴオ批判の冒頭でブウブはこう語る「これからユウゴオを攻撃し、彼と論戦を開くのがなぜ僕にとって許しがたい恥ずかしいことだろうか。キケロがこう言った『何となれば親しく暮らしてきたものと争いを交えるほど醜いことはない』」つまり、ブウブは友人であり親しかったユウゴオを厳しく批判することに非情な辛さを感じていたのだ。だが、「我が毒」で尖鋭な観察力と認識力を備えたブウブはその友人を鮮烈に見事に解析してみせる。
最初で最大のユウゴオの特徴は「豪勢」「派手好み」ということらしい:「目も眩むような驚くべきもの・・・・パルテノンそのものさえ・・・バベルの土台石に使い兼ねない」「彼には世間並みの円天井や円形劇場の寸法では合わない・・・・・けばけばしい修辞、脈絡もなくトランジション(転移法)もない大きな断章の連続・・・彼の重々しい言葉は重騎兵の方陣のようにそこだという時を狙って機動する」。
p58ではユウゴオがものを大袈裟に見ることを挙げ「ユウゴオが実際以上に巨大に畸形に描かなかったものはその『ノオトル・ダム』に至るまで、一つとしてない・・・・・彼の目はそういう出来なのだp64」と指摘する。
学術の最高権威、アカデミー・フランセーズにユウゴオが選出されたときの状況をブウブはおもしろおかしく書いているが、どうやらブウブの方が先に選出されていたのだろう:「クウザンは今朝、僕にこう言った『ユウゴオにはアカデミイに入ってもらわなくちゃねえ・・・・・うるさくて困る・・・」「ユウゴオは結局、アカデミイに入りたいのである。そのことばかり考えている・・・・・何時間も細々と話す。・・・・まるで放心した男のように・・・・」「ヴィクトル・ユウゴオはアカデミーに入った。よろしい。結構なことだ。アカデミーも時々荒らされる必要がある」。
レ・ミゼラブル(*1)について、ブウブが「『レ・ミゼラブル』が第1位だ」と記しているのは、おそらく本書がフランスおよび周辺諸国でベストセラーになったことを指すのだろう。ブウブ自身は「公衆の趣味とは断じて病的なものである・・・・・世には伝染病的成功というものがある」と批判的だが、当時のフランス、それに今でも、本書がユウゴオの代表作であり、世界的な名作とされているようだ。
そして二人は疎遠になり、「別れてから(1833年)27-8年になる」が、最後に「停滞したり滅びたりしない・・・・今生きている才能を見損なう訳にはいかない。批評家は自ら責任をとり、最初の反感を、いや執拗な理論的制限さえ克服しなければならぬ」とユウゴオの才能を認め、ブウブ自身の過ちを反省している。
p74では、ナポレオン3世の時代にジェルセエ島に亡命していたユウゴオについて「フランスに還ってくることを心から希望する」と書いている。p57にユウゴオのブウブ評が少し:「僕のことになると、やれやれ、僕に向かって鷲だとか小鷲だとか、あらゆる言葉遣いをする」。
この「人間喜劇」の作家についてブウブは何ページ書くのかと思ったら、わずか3ページ。面白いのは冒頭の、ブウブに批判されたバルザックが復讐と称してブウブの小説「ヴォリュプテ」を改作して書いたのが「谷間の百合」だったという話。これは「ゴリオ爺さん」と共にバルザックの代表作のはずだが、ブウブの批判が発端だったとは。ブウブの批判はやはりバルザックの作品の中身の無さにあるらしい。
「我が国の小説家中で一番多産な男」というのは誉め言葉ではない、「病的な珍しい花を咲かせるために屋根より高く肥料を積み上げる」というのは陰口。一方、「バルザック氏はその病的な読者たちを弱い者から弱い者へと征服していった(今日は30歳の女たちを、明日は50歳の女たちを)・・・・」というから、バルザックは売れていたに違いない。そしてブウブにとってバルザックは批評しやすい作家だったようだ:「批評家には誰でも自分の好きな獲物がある、好んでこれに飛びかかり、寸断する・・・・僕にとってそれはバルザックだ」。バルザックにしては迷惑なのか、それとも名作が書けたので得をしたのか?
どうやらここがこの作品の核心らしい。ブウブが自分の批評について簡潔に語っている:「僕は自分が再現しようとする人物のうちに姿を隠そうと努めている。僕はその人になる、文体さえもその人になる、僕はその人の言葉遣いを借用してこれを装う・・・・・そういう風にして僕は自分の主題の習性を観察するのである」「人間をよく理解する方法はたった一つしかない。それは彼等を判断するのに決して急がないことだ、彼等の傍らで生活し、彼等が自分の考えを明かし、日に日に発達して、やがてその自画像を僕等の裡に描くようになるのを待っていることだ。・・・・・読め、ゆっくりと読め・・・・そうしているうちに彼等は彼ら自身の言葉で、彼等自身の姿を描き出すに至るであろう」。これはまさに、小林の批評手法と一致しており、「彼等自身の言葉」を小林は「主調低音」と書いたのだ。
ブウブは新しい文学「革新・・・・善いもの・・・生きながらえるもの」の発見にも意義を感じていて、「僕にとって批評とは様々な精神を知る喜び・・・・眼鏡であって鞭ではない」と記している。これもまた、小林が現代日本文学に示した批評に含まれているに違いない。
ここのブウブはやけに悲観的で、(あの攻撃的、野蛮人的な雰囲気が全く消えて)弱気の哲学を論じているのだが、この章の中段には美しい二つの項がある、一つはフィロデエムの短詩、もう一つは人生の謎。この二つは一見して悲観的なもののように思えるが、ブウブはここに真に美しいもの、人生の謎=真理なるものに近づいていることを語っているように思える。
「クサントよ蜜と香りとに満ち、心地よい言葉をもち、二枚の羽のある愛の神の美しい飾りよ、露のように爽やかなお前の手で、あの悲しみの歌を奏でてくれ、『小さな石の寝床に、ただ独り、何時の日か、長い長い、不死の眠りに入らねばならぬ』と。・・・・・」
「人生の謎とは一体何であろうか。それは次第に難しいものとなる、齢をとればとる程複雑なものとして感じられてくる。そしていよいよ裸な生き生きとしたものになってくる」(→ここはp245に小林の「人生の謎について」がある)
(2)批評について、(2-1、p160)「①批評家とは読む事を知り、他人に読む事を教える人間、②批評とは僕が理解し僕が実行したいと思っているところでは一つの企図であり、絶えざる一つの創造である」というのはまるで違うことのように思えるが、ブウブは「一見矛盾していると思われるが、そんなことはない」と断言している。
特に批評が「創造である」としているところは、(1-1)の小説や思想と比べてみてもブウブの批評に対する自信と確信が読み取れる。(2-2、p161)批評の方法:「与えられた瞬間に最大多数の諸関係を同時に集め、支え動かす・・・・・そこに一番困難な立派な技術がある」これこそが(2-1)でブウブが「批評とは・・・・一つの創造」と言ったことの根拠であろう、「たった一つの観念しか、多くて同時に二つの観念しか操縦できない作家もいる」のに対し、ブウブは多極的な相関関係を読み解き、多様な観念を当てはめて物事を語ることができたのだ、
次の項(p162)では「非常に迅速確実な言葉を持った人」「雄弁・・・な人」を批判し、批評家たちに「宮殿に30も部屋をもっていたあのタイラントのように」なれと呼びかける。(2-3、p162)批評家の予見:ここでブウブは批評家の素質としての予見能力を語る「現代では、何もかも瞬く間に過ぎ去り、非情な速さで通俗化する。5分間公衆を抜いているというだけでもうそれは大変なものだ」。
(2-4、p163)独創を見つける難しさ:ここでブウブはピンダロスとジュピタアの鳥を持ち出し、批評という職業にあっては、小説の独創はジュピタアの鳥のように輝いてはおらず「教養ある鸚鵡どもがなかなか立派なこと」を喋り散らしている中から見分けなければならないという、鸚鵡たちが喋りちらしているのは、次項(p163)の「彼らは自分の・・・・理想の幽霊を放り出す」なのである。
(3)人生論:
(3-3、p167)人生の潮時:「人生では悲しい時が来る。それは、望めたものには皆達したと感じた時、正当に求められたものは凡て得たと感じた時だ。」というのは、生涯目指して取り組んできた山の頂上に立った時、長年求めてきた人生の目標を達成したときの人々の経験談だ。私は幸い、そのような悲しみに見舞われたことはないが、ブウブは「僕はそういう処にいる」と言う。これはだが、ブウブは自分の人生が幸運で、満ち足りたものだったと言いたいのであって、全ての願望がかなったということではないだろう。だから彼は控え目に言う「こういう悲しみの状態、楽しさもまた自らそこにある態のこの種の悲しみは、賢人の悲しみというものだろうと思う・・・・もしそこに後悔の苦さとか欲望の針とか暗い苛立たしさとかが・・・・ないならば・・・・」。
サント・ブウブという人間はおそらく、虚妄たるロマン小説の類いを想像することは苦手だが、人の書いた書物、そして人物そのものの実体、価値、思想、信念などを読み取り、感じ取り、把握する鋭敏な感覚と理解力をもっていただろう。そうやってブウブが得たものは書物や人物の批評に他ならないが、それらが余りにも強烈で過激で神経に触るもの(誤解もされやすいだろう)だったため、彼はそれを「毒」と呼び、「少しばかり薄めて」公表した。確かに、同時代人たち、ビクトル・ユーゴーやバルザックが読めば、当惑し、憤慨しただろう。だが今ではもう、この「毒」は文学の一つ、「批評の原典」として読む事ができる。これを読んでいて、私はまったく、小林の書いた批評とまるで変らない(登場人物が違うのは仕方ないが)と感じた。小林の批評は確かに、サント・ブウブの批評と同じもの、少なくとも同じ系列にあると思う。
小林はサント・ブウブが自らの「毒」で苦しんだことをこの短い文章のなかで何度も語る「彼は自分の毒薬を他人に危険のないようにしようしたのである。しかし自分に危険のないように使用するのが不可能だった」「僕には春も秋も無かった。乾いた燃えるような悲しい辛い一切を啖(くら)いつくす夏があっただけだ」。そして、この毒は小林も飲んでいたに違いない。だが、世の中も変わり、批評というものが世に認められるようになり、自然に毒も薄まってきたということか? いや、人体の方が少々の毒には免疫になってきたのだ。
これは第二次世界大戦直前の1938年10~12月に、当時は日本領だった朝鮮、満州から華北まで旅行したときの紀行文。日本のことを「内地」、中国は「志那」と呼んでいるが、テーマは慶州にある仏国寺の石窟庵。
そこには「巨大な台座に座った丸彫りの釈迦像」があり、小林はその美しさに驚く:「元来が古美術など丹念に探る趣味は無い」のだが「驚いてしまった。写真はこの美しさの幾分かを伝えていたと言う風なものではない。全く新しいものを見る思いであった」。大きな釈迦像が収められた石窟の背後には「左右に入口までぐるりと円形に比丘や菩薩の像が大きな方形の一枚岩に彫られて、壁面にはめ込まれている・・・・・どれも非常な美しさであった」。
これらの傑作を目にした小林は、石窟庵から出ると、その他の仏像は「皆、何となく二流品」に見えてしまう。だが、そんなに美しいものを見たのに「心が一向楽しくなっていない・・・・・こちらに欠けているものは・・・・あの彫刻家が持っていた仏というものだ」。小林は仏を信じていないのに「部屋に満ちていた奇妙な美しさは何なのか・・・・・突然エスセティックという言葉が浮かんだ。僕はいよいよ不機嫌になった」と考えを巡らす。
小林自身が分からぬものを解読するのは不可能だが、石窟庵の釈迦像や比丘、菩薩のもつ美しさは、他のものとはまるで違っていて、それらの中に込められた彫刻家の「心」を小林は垣間見たのではなかろうか。その心はおそらく、エスセティックなど考えたことも無く、ただひたすらに仏の信仰の世界に生きていた。そしてこの彫刻家の作品は信仰を持たぬ者にもその輝きを放つ。小林はこの彫刻家の心を感じながら、作品の美は単に(彼のような心を通してではなく)外側から見ることしかできない。だから小林は大いに不満だったのだ。
これはサント・ブウブの「我が毒」の中の「XXIII. 人生について」の中段で語られている2行の文章についての小林の感想である。小林は最初に結論を言っていて、「音楽の一章句のように分析もならず解釈もならぬような言葉を人の心に伝えること、これが詩人の希いである」、だから小林はあえてこの文章を解釈しようとはしない。しかも、「このサント・ブウブの言葉は僕には心にこたえる」のだから、詩人サント・ブウブの希いは小林にとどいていて、もうこれ以上言うことはあるまい。そして小林は、「人生をあれこれと思案する・・・・すると、僕の心の奥の方で『人生の謎は齢をとればとる程深まる』とささやく者がいる・・・・・僕はドキンとする」。小林はこれを音楽に例えていて、敢えて解釈せず、聞き続ける。すると、「謎は解けないままにいよいよ裸にいよいよ生き生きと感じられてくるならば、僕に他の何が要ろう」。
私はこのサント・ブウブの2行を最初に読んだ時、「美しい」と感じ「人生の謎=真理なるものに近づいていることを語っているように思える」と書いたが、どうやらこの謎には決して辿りつけないらしい。
これは小林の翻訳した「我が毒」の書評である。(1)冒頭で亀井勝一郎氏の「批評の最高目的は賛歌を書くことにつきる」に対し、山本氏は「この世にはこういった賛歌を書くにはあまりに豊かな想像力と鋭い洞察力を具えた偉大な批評家魂というものもある」と指摘する。これは小林にも当てはまるが、山本の指しているのはサント・ブウブである。
(6)徹底した公正の精神が広い暖かい共感の精神が生動した果ての到達点:「サントブウブの到達した心境は我々にオアシスの無い砂漠を、樹木の無い氷原を思わせる」という感想は「僕はこの世に生きて来て完全な無関心というものに到達した」という「XXII. 哲学的思想」p152などの部分から推論しているが、この感想には異論がある。ブウブが言いたかったのは、「真実を追求しなければ人は生きていけないのだろうが、かえって不幸を招くことになるので、ある程度真実を隠し、他人のことにも無関心を心掛け、エピクロスの心の平安を求めたい」ということではないだろうか。私は、「XXIII. 人生について」の二つの美しい文章(フィロデエムの短詩と人生の謎)および「断想」の人生論を語っている部分「人生では悲しい時が来る。それは望めたものは皆達したと感じたとき、正当に求められたものは凡て得たと感じたときだ」(p167)から、ブウブは自分の人生は幸運で、満ち足りたものだったと言いたかったのだと思う。
p178 「慶州」:仏国寺石窟庵釈迦像「巨大な台座に乗った丸彫りの釈迦像を見上げた時には、やはり驚いてしまった」
(*1) レ・ミゼラブル:本作は最初、パリとブリュッセルで発売された。というのも、ユーゴーは当時フランス第二帝政およびナポレオン3世を拒絶したため祖国を追放されてしまい、ベルギーを経てイギリス国王の私領ガーンジー島で亡命生活を送っていたからである。本作の売れ行きが悪ければ、ユーゴーは筆を折る覚悟をしていた。しかし、発売当日は長蛇の列ができ、本作は飛ぶように売れた。一般人はもちろん、数人の仲間から本代を集めた低所得の労働者たちの多くも列に加わり、本作を買っていった。労働者たちは仲間に本作を貸し合い、回し読みしたといわれている。ユーゴーは本作の出版当初は亡命先を離れて旅に出ていたが、本作の売れ行きを心配し、出版社に「?」とだけ記した問い合わせの手紙を出すと、「!」とだけ記された返事を受け取ったという。それぞれ「売れてる?」「上々の売れ行きです!」という意味である[18]。これら2通は世界一短い手紙として『ギネス世界記録』に掲載されている[19]。作品中ではナポレオン1世没落直後の1815年から、ルイ18世・シャルル10世の復古王政時代を経て、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いており、さらに随所でフランス革命、ナポレオンの第一帝政時代と百日天下、七月革命とその後勃発した六月暴動[1]の回想・記憶が挿入される。当時のフランスを取り巻く社会情勢や民衆の生活も、物語の背景として詳しく記載されている。
(ネット情報)
KKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKKK
このサント・ブウブのノートは、彼が冒頭に記しているように、このまま出版することを目的としたものではなく、他の目的のために使う道具、覚書、走り書きノートのようだ。だから内容も順不同、様々なことがバラバラに、思いついた時のそのままに記述されているらしい。「Ⅰ」からギリシャ数字の章があるようだが、あまりあてにはならないようだ。それなのになぜ公表されたのかは、「こういう気まぐれも、そういう人たちの様々な瞬間の印象を総合して書いてみたいというとき、やがて僕にはたいへん役に立つものとなる。仕事をする毎に実に役に立ったからこそこの手帖も破らずに持っていたわけである」というところに理由があるようだ。一方、p11で「若し人々が本当の事を大声で語りはじめたら社会というものは瞬時も持つまい。大音響をあげて根底からひっくり返るであろう」というのは現代の「報道の自由」「人々の知る権利」を真っ向から否定しているように見えるが、これは「間違った印象による誤報」「メディア向けの脚色」のことをサント・ブウブが誇張しているのだとすれば現代においても正しい。彼の言う「本当の事」が「大衆の無責任な印象や聞いた話」でなく、「正確な情報」であれば、社会は維持され、ひっくり返ることはない。p12のサンボヴィアナとガラについてのノートは短すぎて不明。
「此処にあるものは、毒薬の状態にある顔料だ。少しばかり薄めれば色が得られよう・・・・・・これは真っ黒に盛り上がってしまったパレットの下の方にある色の層であり、インキ壺の底であり、内房の家具であり、人目に曝すものではない・・・・・・だが死んだ人たちについて知ろうというのなら公表は許されようし役にも立とう」
p12-15に書かれているのは名誉と情熱と賞賛。冒頭の「僕は偽善者だが何食わぬ顔をして・・・・名誉のことしか考えていない」というのは誰でもそうだと思う。サントブウブが「昼間はもっぱら・・・・研究・・・友情・・・・そして夜はいつも熱狂・・・」というのは、日中は情報収集に努め、夜間は創作に取り組んだということだろう。彼が25歳のときの詩集「コンソラシオン(慰め)」は「青春の一季節」であり「光と花」があったというから、彼はこれを「名誉」と考えているに違いない。それで賞賛も得たのだろう。そしてその後、そのときのものと同等以上の名誉や賞賛を得たと自分では感じていないのだろう。「子供のころから、僕はいつもまるで心臓に突きいる鋭い刃のような感受性で物事を看破したものだ」というのは彼が詩人というよりも批評家であることを如実に示している。そして「僕は決して本当の情熱家ではない」と言いながら「たった一つ本当の情熱がある、文学の情熱だ」というのが、彼の人生を正しく表現している。「僕の金言は常にこうであった、五分間、十五分間、でなければ全生涯」というのは、何かのアイテムについて考えるときのルーチンだろうか。
p15-19においては恋愛について語られる。最初は不倫の相手アデエル。作家らしきオルタンスは「忘れてください、凡ては去ったのだ」詩句をサントブウブに書いた。人生の前にどっかと腰をすえる「スフィンクス」の譬えは次々に現われる女性たちのことだろう。フレデリックとは文学談義を交わしたようだが、拒絶されてしまい、サントブウブは「汝等ここに入らんとするもの、一切の望みを捨てよ」というダンテ時獄篇の一節を思い浮かべる。だが、次に彼が書いているのはマンゾニがダンテについて書いた一節「常に悔いて、決して改めない」だった。人間とはそういうものだ。「僕はもう社会についてぐずぐず言う権利はない。社会からは十分なものを貰った。いや過分に頂戴した。いわば恩給取りの身分である」と言いながら「ああ、不幸だった昔の好ましい時代よ」と嘆いてみせるのは、金銭的に苦労していたが、恋愛に熱狂していた若い頃を偲んで見せたものだろう。幸福になってしまうと、不幸をなつかしく思うものなのだろう。
p20-24にかけては文学に関することが綴られる。「あらゆる小説は真のキリスト教に反する・・・・文学批評さえ・・・キリスト教の習慣とは殆ど相いれない」というのは「他人を判断し・・・・他人を模写し・・・・他人に化けたり」することが「全く異端者」ということだというのだが、これは少し誇張しすぎか。次の「僕の評評の仕事では僕は自分の心を他人の心に当てはめようと努めている。僕は自分から逃れ、他人を抱き、他人に着物を着せ、他人並みにんろうと務めている」というのはサントブウブの文芸批評の要の一つであろう。これらは実は関連があり、p22で語る「僕は・・・・透視力を授かった・・・・人間の心を読み、彼らの行為の動機を見透し、彼らのひそやかな企図を本人が知っているよりよく理解してしまうという宿命的な天稟(てんびん)を持っていた・・・・その醜さ・・・・欲望・・・・利益の計量・・・・・何という不幸な才能であろう。宗教的な慈悲の念で和らげられていなければいかにも厭わしい聡明さだ」につながる。小林が批評家になったときと同様に、サントブウブも文芸評論を始めた時は、批評や評論の地位は低かったようだ。おもしろいのは、これらがキリスト教の習慣とは相いれないにかかわらず、キリスト教はこれらの罪?を赦す神の慈悲をもっていることだろう。この後のいくつかの段落は意味を追うのが難しい。混乱しているのだろう。
p24-35は再び恋愛について、魅力あるダルブウヴィル夫人との恋愛は1850年の彼女の突然の死で終わる。この年には母も死に、辛い時期だった。「これからはもう僕一人である。僕を一番愛してくれた人、僕のためにだけ生きていた人を僕はなくした。」だが、「愛が覚めるや否や僕は正しく物を見た」というのは、批評・評論の力が自然に沸き起こってきたらしい。これは必ずしもサントブウブが自ら望んだことではないらしい。p28に触れられた「美しい花売り娘・・・・・墓場の並木道に笑顔をみせ・・・・通るたびにお前は私に花の冠を差し出す」にその思いが語られているのではなかろうか。ここからノートの日付は飛び、1854年には、別の恋愛、政治(詳細不明)、研究、そして1856年に昔の恋人オルタンス・アラアルへの手紙で自身の運命について書き、その後の人生について、シェイエス(政治家でナポレオンの第二統領)、ラ・ファイエット(フランス革命の国民軍司令官)、ロシニ(作曲家)を挙げている。どれも文学や文芸批評とは無縁のところが興味深い。また数年飛んで1861年、ジェニイと訣別。1864年にもう死んでいるダルブウヴィル夫人の想い出。そして1966年12月13日「重大事件が突発し、僕の生涯は真っ二つとなって、以来、僕は廃疾者の仲間入りした」と書いている。何が起こったのだろう。ページが前後するが、1867年と書かれた四つ目の段落(p33)で「もうこれからは・・・・旅行も散歩もすまい、未だ誰もやったことのないようなことでももうやらないだろう・・・・・精神の喜びとは、屡々欲望に過ぎない・・・・・・僕は嘗て非情な熱狂家だっただけに今は侘しいのである」と書いている。そしてⅡ章の最後は「僕はもうたった一つの趣味、たった一つの望みしかもっていない、沈黙。もうたった一つの愛しかない、休息。」
ラムネエ(宗教哲学者、司祭)、ユウゴオ(詩人、小説家、劇作家)、ラマルチイヌ(詩人、政治家)ら「あらゆる人物の欠点や失敗を指摘」しながら、サントは「僕の批評の慧眼は忠実な詩人、尊敬すべき作家としての彼等の運命に結ばれていた。僕の最良の内容は彼等の名声に乗って船出した・・・・彼等が難船するときには僕も破滅する」と言う。つまり、彼は優れていると考える文学者を批評することにある種の矛盾を感じていたのだろう。これは文芸批評においては避けられない特質だろう。ヴィクトル・ユウゴオについては次章で論ずるが、この章では様々な文学者を散々にこき下ろす。当時のフランスの文学者は政治家を兼ねていた人が多かったらしく、p37のシャトオブリアンもその一人で、珍しくブウブはこの文学者をあまり批判していないようだ:「組織に弾性を持たせる収斂剤・・・・シャトオブリアンはこれを持っていた・・・・モレ氏が嘗て見た微笑のうちで一番美しく魅力ある二つの微笑はナポレオンとシャトオブリアン」、もっとも二つとも文学ではなく、政治家の資質だが。p38ではユウゴオの批判が二つほど:「ユウゴオの詩にはいつも火神の鉄槌の打撃があり、彼の最も美しい詩句も金床で叩かれたように見える・・・・・ユウゴオの散文なぞ読み返すに堪えぬ・・・・」。p40ではローマの三詩人が「哀歌的な魂の素地を持っている」としながらも「倦怠と快楽とを警戒せよ」と批判する。p42の「優美は何かしら繊細とは全く異なっている」とはどういう意味だろう。「ユウゴオもジャナンもジョルジュ・サンドも・・・優美を備えているが、繊細・・・・を欠いている」「(繊細は優美)より稀なものだし・・・・道徳に密接なものだ。(優美)が美しく存在しているところでも(繊細)は欠如していることがある」ということは、繊細の方に優越性、重要性を感じているに違いない。p44でブウブはアレキサンドル・デュマ(三銃士やモンテ・クリスト伯の作者)を散々に批判している。これは本章冒頭の「優れていると考える文学者を批評」とはちょっと違うようだ。「流行の大法螺にすぎぬ・・・・動物精神の途轍もない解放・・・幻想力の真の巨匠の列に入るにはまだまだ大変な距離がある」。そしてデュマには優美はあるが繊細さは無いと言う。p45ではフロオベルについて、ブウブは「懐疑派で皮肉屋」と言うが、同じ浪漫派のフェドオは「あの超絶的猛獣め」と批判している。p46のギュスタブ・プランシュは批評家なのでブウブと同業者(ライバル?)だが、ブウブは「リゴリズム(厳格主義)の偽装によって最も尊敬されている現代の批評家。怠惰な道楽好きな威張り腐った精神・・・・自分の脂肪で生きている」と散々に批判。p48では中世研究家フランシスク・ミシェルを「図書館で仕事を終えたら厩舎に押し込めることだ・・・・サロンは駄目である・・・・こういうのを言語学的動物という」と散々に貶しているが、これは仕事の中身でなく、会話が下手糞ということか。p49でミシェルについて「ある思想を持っている・・・槍の先に・・・・あの下衆どもは麗しい栄冠に飛び掛かる・・・・ミシェルは(文学に入ってきた)鍋の尻を叩く一つ目の大入道のように」と記しているのは、ミシェルが文学界で当時認められていたということだろう。p50ではテオフィル・ゴオチエを「息の臭さがやり切れぬ。彼の詩も同じことだ・・・・いつも悪臭をはなつ・・・・ゴオチエの画論は・・・芸術の残飯の臭いがする」と散々。最後のところでブウブはバックリイ、ユウゴオ、ゴオチエの三人を並べて、「ユウゴオの欠点は既に途方もないものだが、・・・・彼はその欠点をゴオチエとヴァックリイという二つの拡大鏡の間に置いた」と文学的に批評してみせる。ここでブウブの言う「ユウゴオの途方もない欠点」というのは、本章冒頭で語られている通り、ブウブはユウゴオを尊敬した上での批評に違いない。
26ページにわたるユウゴオ批判の冒頭でブウブはこう語る「これからユウゴオを攻撃し、彼と論戦を開くのがなぜ僕にとって許しがたい恥ずかしいことだろうか。キケロがこう言った『何となれば親しく暮らしてきたものと争いを交えるほど醜いことはない』」つまり、ブウブは友人であり親しかったユウゴオを厳しく批判することに非情な辛さを感じていたのだ。だが、「我が毒」で尖鋭な観察力と認識力を備えたブウブはその友人を鮮烈に見事に解析してみせる。その次の「我々の二つの欠点・・・・白状する欠点と隠しておく欠点」というのはまるで訳が分からないが、そうすべきときに隠し、的外れなときに告白する、ということか。最初で最大のユウゴオの特徴は「豪勢」「派手好み」ということらしい:「目も眩むような驚くべきもの・・・・パルテノンそのものさえ・・・バベルの土台石に使い兼ねない」「彼には世間並みの円天井や円形劇場の寸法では合わない・・・・・けばけばしい修辞、脈絡もなくトランジション(転移法)もない大きな断章の連続・・・彼の重々しい言葉は重騎兵の方陣のようにそこだという時を狙って機動する」。p58ではユウゴオがものを大袈裟に見ることを挙げ「ユウゴオが実際以上に巨大に畸形に描かなかったものはその『ノオトル・ダム』に至るまで、一つとしてない・・・・・彼の目はそういう出来なのだp64」と指摘する。p54で「ユリシイズは人間だが、ポリフェモスは動物だ」と言っているのは、若い頃のユウゴオは「野蛮人の若い王様」で「ガラテアの恋人であり・・・当時、彼は愛される値打ちはあった」が、「やがてブロンドの産毛は褐色の硬毛となり・・・・一つ目入道」になってしまったと語る(p70で一つ目入道がもう一度、p74には一つ目入道島が出てくる)。ユウゴオの最大の欠点は「女好き」で、1845年7月に姦通の場を発見された新聞報道まであった。ユウゴオの詩は革命的だが、必ずしも良いということではないらしい:「詩の脚韻万能の嘗て見たこともない邪道に踏み込んでしまった。・・・・前人未踏のものであり、考えられないものである。芸術はそこでくたばってしまうだろう」「真紅の見事な花には匂いがない。あっても嫌な臭いがする、彼の好きな爬虫類や鰐に似たその不格好な大きな葉は、蔭も作らず葉先は逆上がって人を刺す」。p69では「ユウゴオは真に偉大な詩人の家族に属しているだろうか・・・・・やっぱり彼は本物ではない」と否定的。学術の最高権威、アカデミー・フランセーズにユウゴオが選出されたときの状況をブウブはおもしろおかしく書いているが、どうやらブウブの方が先に選出されていたのだろう:「クウザンは今朝、僕にこう言った『ユウゴオにはアカデミイに入ってもらわなくちゃねえ・・・・・うるさくて困る・・・」「ユウゴオは結局、アカデミイに入りたいのである。そのことばかり考えている・・・・・何時間も細々と話す。・・・・まるで放心した男のように・・・・」「ヴィクトル・ユウゴオはアカデミーに入った。よろしい。結構なことだ。アカデミーも時々荒らされる必要がある」。レ・ミゼラブルについて、ブウブが「『レ・ミゼラブル』が第1位だ」と記しているのは、おそらく本書がフランスおよび周辺諸国でベストセラーになったことを指すのだろう。ブウブ自身は「公衆の趣味とは断じて病的なものである・・・・・世には伝染病的成功というものがある」と批判的だが、当時のフランス、それに今でも、本書がユウゴオの代表作であり、世界的な名作とされているようだ。ブウブとユウゴオとの関係については、「要するに仇敵だ、不倶戴天の仇敵だ、二人とも心の底ではそうなのである。・・・・彼の作品については・・・・彼の抒情詩について僕以上賞めることは誰にもできまい。彼の演劇については僕が考えている以上の悪口は誰にも言えまい」と語り、あるアカデミイからの帰途、言い争いしたことを記している:「僕に対する彼の態度があまり失敬なので僕は言ってやった・・・・・」。そして二人は疎遠になり、「別れてから(1833年)27-8年になる。『秋の木の葉』まではずっと彼を賞賛してきた。その後に続いた詩集・・・・戯曲でもそうだが、僕はもう・・・・ついて行けなかった」と言いながら、最後に「停滞したり滅びたりしない・・・・今生きている才能を見損なう訳にはいかない。批評家は自ら責任をとり、最初の反感を、いや執拗な理論的制限さえ克服しなければならぬ」とユウゴオの才能を認め、ブウブ自身の過ちを反省している。p74では、ナポレオン3世の時代にジェルセエ島に亡命していたユウゴオについて「フランスに還ってくることを心から希望する」と書いている。p57にユウゴオのブウブ評が少し:「僕のことになると、やれやれ、僕に向かって鷲だとか小鷲だとか、あらゆる言葉遣いをする」。
p73 レ・ミゼラブル:本作は最初、パリとブリュッセルで発売された。というのも、ユーゴーは当時フランス第二帝政およびナポレオン3世を拒絶したため祖国を追放されてしまい、ベルギーを経てイギリス国王の私領ガーンジー島で亡命生活を送っていたからである。本作の売れ行きが悪ければ、ユーゴーは筆を折る覚悟をしていた。しかし、発売当日は長蛇の列ができ、本作は飛ぶように売れた。一般人はもちろん、数人の仲間から本代を集めた低所得の労働者たちの多くも列に加わり、本作を買っていった。労働者たちは仲間に本作を貸し合い、回し読みしたといわれている。ユーゴーは本作の出版当初は亡命先を離れて旅に出ていたが、本作の売れ行きを心配し、出版社に「?」とだけ記した問い合わせの手紙を出すと、「!」とだけ記された返事を受け取ったという。それぞれ「売れてる?」「上々の売れ行きです!」という意味である[18]。これら2通は世界一短い手紙として『ギネス世界記録』に掲載されている[19]。作品中ではナポレオン1世没落直後の1815年から、ルイ18世・シャルル10世の復古王政時代を経て、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いており、さらに随所でフランス革命、ナポレオンの第一帝政時代と百日天下、七月革命とその後勃発した六月暴動[1]の回想・記憶が挿入される。当時のフランスを取り巻く社会情勢や民衆の生活も、物語の背景として詳しく記載されている。
クウザンは哲学者のはずだが、ブウブはここで彼の作品についてあまり述べていないのはなぜだろう。クウザンは作品ではなく、その話しぶりでもって評価されるべき人物といった書きぶりである:「クウザンはほとんど人間ではない。元素だ流れる流星だ、響く激流だ。避けて楽しもう」「極端な活動力と果てしのないおしゃべり癖、朝の9時から夜中の1時まで喋って疲れを知らない・・・・・初めの30分間は・・・一体結局何が目的なのかわからぬ。次の30分間は屡々見事なものだ。最後の30分間となるとたいていの場合は我慢がならぬ」。「17世紀の婦人に関するクウザンの論文」というのがブウブが挙げているたった一つのクウザンの作品?だが、その批判は手厳しい:「言い回しもうまいし、活気もあり、機智も十分だが、・・・・・彼は哲学の講義で生徒を扱うように女を扱っている・・・・・デリケエトなところがまるでない」。ブウブはたぶんクウザンの人柄が好きなのだが、彼に文学的才能はないと感じていたのだろう:「つまるところ・・・・天才あるおっちょこちょいだ・・・・・クウザンの雄弁ときたら、聞いたが最後何もかも彼なら許してやると思わせる・・・・・実に美しい言葉を・・・・真実な言葉をばら撒く、立派な話題を立派に話す。だが、いつも同じように喜劇的に。」
ヴィルマンは「アカデミイ史」を書いている文学者だが、ブウブは彼の文章や書きぶりの奥に「根底をなすもの」「拠るべき支柱」が無いと批判する。「即興的に見事」「尤もらしく間違っていない」「華々しい才気」があるというから、ブウブほど深読みしないと分からないようなことだと思うのだが、小林の言う「主調低音」なるもの、作家の基盤を成しているものが感じられないということなのだろう。それにしても激しい批判。本人がこれを読めば不快を感じ、怒り出すだろう。
「自由民になった奴隷のような様子(ブロジル夫人のヴィルマン評)」「色気づいた猫そっくりな彼のやりかた」「この卑しい根性曲がりは、華々しい才気で武装している」
ギゾーは文学者というよりは政治家であり、7月革命(1830)に貢献し、2月革命(1848)まで大臣などの要職を歴任しているから、ブウブの文学批評はあまりギゾーの一面のみを捉えているのだと思う。「陰謀家」「傲慢」「自身の程」などは政治家には不可欠な要素なのかもしれない。二月革命で彼が政府を去ったのは単に政治信念の違いの故であり、ブウブの指摘する「傲慢」や「自信」のためではないだろう。世の中がギゾーの政治信念を求めなくなったから彼は去ったにすぎないのでは。ただし、ギゾーが政治家だろうが文学者だろうが、ブウブはギゾーその人を見て、ギゾーの振舞いや行動を鋭い千里眼でもって背後に隠されたものまで見ている:「雄弁家が彼の裡に作家を作り上げた」「いつも然りと否、何か対照的な二つの観念で話を進める・・・・同じ事柄、同じ言葉を拍子でもとっているようにきっぱりした身振りで」「ギゾオ氏は疑いも無く個人的誠実を持っている。また立派な人格の刻印として真面目な重々しい言葉、自己表現法も持っている・・・・・しかし、彼の裡で沢山の行為や約束や手数が行われる・・・・権謀術数と踏んでよろしい」
p87 ギゾー:1805年にパリに出て法律と文学を修め、ロアイエ・コラールらとともに、過激な変革と復古を排して漸進的改革を唱えるドクトリネール(純理派)を形成した。1826~1830年に書かれ彼の文名を高めた『イギリス革命史』『ヨーロッパ文明史』などは、歴史の書であると同時に、自己の政治的立場の正当化を目ざすものでもあった。七月革命(1830)の際にはルイ・フィリップの勝利に貢献し、1830年代には内務相、公教育相を歴任したが、政治的には保守的傾向を強めた。1840年代には駐英大使を経て、外相、首相になり、二月革命(1848)まで政権の中心を占めた。「労働と貯蓄によって金持ちになりたまえ」というとばが示すように、彼の政策はブルジョアの利害を第一義としていた。二月革命後、1年間イギリスに亡命ののち帰国したが、もはや政治的活躍の舞台は得られず、ノルマンディーの所領に引きこもり、著述の日々を送った。 (コトバンク)
ここで語られているのはブウブの女性論とサロンに集う貴族たちの恋愛にまつわる噂話、ブウブの書き様は批判なのだが、どうにも陰口の口調に思える。人生訓のように思えるのは「恋愛はどういう具合に僕らの中で自殺するか、三つの段階がある。苦痛、憤慨、無関心。・・・・・・(p93に飛んで)執念深い恩知らずの恋心に捉まったら我慢して黙従せよ。やがて相手が隙を見せるときがくる・・・・xx夫人が来ていた晩に・・・・僕はその手をやった。僕は怒り狂って外に出ると・・・自分の恋愛に止めを刺した」。女性論その1「実に多くの女が・・・・・男たちを周囲に集め、威厳などはすっかり紛失させ、同じ秣桶(まぐさおけ)から物を食べさせるのを無上の幸福としている」。女性論その2「レカミエ夫人(パリでサロンを主催した女性・・・・知性と美貌、温和な物腰で魅了した)の生涯は凡そ人目に触れる暖炉棚のうち一番豊かに飾られ整頓している・・・・・(だが)詩というものがよく解らない・・・・恋愛の激情というものもやはり決して感じない・・・・レカミエ夫人は社交界の完成品であり、陰影に富む魅惑と優雅の完成品である」。その3「僕のアデエル(ユウゴオの妻、ブウブの不倫関係にあったらしい)なぞはそんなに上品でもなければ細々したことに気の付く方でもなく、教養も低い女だが、そういうもの(詩や恋愛)はすべてずっと率直に感ずる」。この部分はp96にある「決してミュウズ(音楽などをつかさどる神、詩人に霊感を与える)を愛してはならぬ・・・・コリンヌ(どんな問題にも口を出す?)を愛してはならぬ」と同調しているのかもしれない。p98ではダルブヴィル夫人の「アランダ物語」の結末が曖昧だという批評を書いている。詳細が分からないのだが、「思い切って裸の真実を手に入れるか、あるいは思い切って奇蹟を手に入れるか、どちらかをやるべきだった」というのは、「クリスチイヌは母親の過失のために世間にも修道院にも地上の何処にも自分の身を置く所がないこうなったらただ死ぬよりほかに道はない」ということらしいが、作者はそうしなかったらしい。「あまりに残酷なものだし、また日常の観察からしてもあまり事実に反している」というのは作者の考えを代弁したもので、これが世間常識と認めているようだ。
当時のフランスには文学者兼政治家というのが多いようだが、ラマルチイヌもその一人。フランスの首相や外相を務め、詩集や歴史書もたくさん書いているのだが、ブウブは全く彼を認めていない。12ページにわたって延々と続く批判というか愚痴の方も分かりやすいとはいえない:「神の賜物の最大の乱費者」「滑稽という感情がない」「才能の大風呂敷を拡げられる」「ラマルチイヌには批評はない、一切は神の御心のままに流れる」が、ブウブの批判の要点はp107からの一節にあるようだ:「実に率直な処のない大噓付・・・・彼は言ったことを忘れてしまうし、撤回もするし、否認もする・・・・・この世には善と悪があり、真と偽とがあるのだが、そういうものを鋭く感じもせず、弁明もせず、広大な雄弁のなかに混ぜ込んでしまうところにラマルチイヌの特性がある・・・・・彼の野心が後ろの方で術策を弄している間に彼の才能が前の方でソナタを弾いている。いつもソナタの方に騙されるのだ」。この章はくどくどと長たらしいばかりだが、小林の論調(小林節)を感じる。たぶん批評のアイデア、言葉が頭の中にどんどん湧き出てきて、流れ出すのだろう。しかもブウブと小林が批判の中心に置いているのはその人の考え方、哲学、人生論、もしくは文学論(すなわち小林の言う主調低音)であって、表面的な華麗さや見栄えの良さではないということだ。「ラマルチイヌは詩に始まり、修辞学に終わる」というのはたぶん、ラマルチイヌには主調低音が感じられないということだろう。確かに、「ジロンド党」や「立憲議会史」などは莫大な負債の返済のために書いたらしいから、そういうこともあろう。売れなくても自己の主義主張を貫くべきなのか? これはヴィクトル・ユゴーとも同じ命題に思える。
p112 修辞学 (しゅうじがく、希: ρητορική, rhētorikē 、羅: rhetorica 、英: rhetoric )は、弁論・演説・説得の技術に関する学問分野 [1] [2]。弁論術、雄弁術 、説得術、レートリケー、レトリックともいう。 西洋に古くからある学問分野
ラムネエは宗教哲学者、キリスト教社会主義者とあるが、カトリック系の新聞「アブニール」を出していたというから、カトリックなのだろう。ここでのブウブの批判も分かりにくい。p114では「愛想よく、快活で、魅力もあり、思慮にも富み、気も若いように思われた」とあるが、p115で「ラムネエは自分のペンの言うなり放題になっている。ペンの方ではただもう狂暴になることより他は知らないし、彼の方ではペンについていくより他能がない」というのは、ラマルチイヌとは逆に、宗教哲学の虜になってしまっているということか。それをブウブは冒頭で「彼は船長と舵手と少数の乗組員が乗り込み、多勢の囚人が櫂を操っている船だ・・・・・ある日漕ぎ手たちは反逆して今度は船長を舵手と一緒に鎖で縛った。あるいはむしろ水中に叩き込んだ」という風に表現したのだろう。悲劇である。
p115 赦罪:しゃざいabsolutio. 赦免ともいう。. 聖職制をとる教会のもつ権能で,カトリックでは,司祭以上の聖職だけがもつ。. 罪を痛悔した者のために,罪とその罰のゆるしをキリストに代って告知する行為のことである
この政治家についてブウブは「詩人として生まれて、詩人にならなかった・・・・・彼の政治に関する思想は貧弱なものだ」と強烈な批判を冒頭で示すが、後は延々と3ページに渡ってベリエの雄弁、演説のすばらしさを褒めたたえている。批判のテーマは必ずしも「政治思想や文学観などの主調低音」だけではないらしい。そんなものが無くとも、この一つが光り輝いているじゃないか(なんでユウゴオやラマルチイヌのときにそうしなかったのかは、つまり、後者の方をブウブはより尊敬していたということか?)。
「演説が終わる毎に彼は汗びっしょりで無我夢中になっている。・・・・彼はぐったりとして、流汗淋漓の様である。・・・・・いつでも身振りだ。読んだだけでは彼には何も残らぬ・・・・・喋ったとは動いたということである。これ以上の何を彼に求めるか」
これは1789年のフランス革命の思想的土台の一つと考えられているジャン・ジャック・ルソーに関するサン・マルク・ジラルダンの講義を聞いたときの批評らしい。「所謂野蛮人に対し、悪口雑言を並べ・・・・・そういう野蛮人がやってきても別に腹は立てぬぞ」というのはブウブのことを指しているのだろうか。というのは、ブウブは「彼に対する返答には『野蛮人より下司野郎に』という見出しで面白い手紙が一つ書ける」と書いているからだ。案外二人は仲の良い友人なのかもしれない。なぜ下司野郎なのかと言えば「真面目な問題を論ずる気取った馴れ馴れしさ・・・正直な良識に傲然と変装したソフィスム(詭弁)とエゴイズム・・・・つまり義務を説きながら・・・人にも同じようにやれと忠告する奴」ということらしい。まあ、自己中心的な人物、自信満々なのだろう。
メリメは「カルメン」の作者である。ブウブは「カルメン」を「巧い・・・・・メリメが効果を挙げる処では・・・・唐突な急激な手が使われる・・・・・読者はそいつにやられる・・・・・ぐさッ。美しいかどうか見定める暇なぞない」と褒める一方「乾燥した生硬なもので展開がない・・・・・・メリメに欠けているのはフェルウェト・オプス(feruvet opus)、火の使用である・・・・・メリメは自制し過ぎる」と批判する。
p120 fervet opus:「フェルウェト・オプス」と読みます。 fervet は「熱くなる、沸騰する」を意味する第2変化動詞 ferveō,-ēre の直接法・能動態・現在、3人称単数です
詩人、小説家、劇作家(珍しく政治家ではない)のミュッセについて、ブウブは「バイロン卿の叫喚と情熱的な調子とを多分に持った新しい流派」と賞賛し、戯曲「カプリスの成功は公衆に名誉を与え・・・・まだまだデリケエトな文学の情緒があると知らせてくれる」と語る。一方ブウブは「バイロンから傲慢と痴呆も受け取っている」と批判し、ミユッセの短い芝居「誓う勿れ」について、「なかなか面白いところもあるが、脈絡のないのと良識の欠けているのが目に立った・・・・これは架空の世界、あるいは一杯機嫌ほろ酔い機嫌で眺めた世界だ」とこき下ろす。細かいところを見ればそうなのだろうが、所詮、芝居は架空なのでは? ミュッセもまた、ブウブから見ると表現は豊かだが、中身がないということのようだ。
ジョルジュ・サンドの作品について、最初ブウブは気に入っていたようだ:「僕は丈の高い草の中に寝転んで、実に素晴らしいと思っていた」。ところが、あるからくり(ブウブはこれを日に三度渦巻きを起して船を呑み込むカリプディスに譬えている)に気づく。そのからくりとは、どうやら他人の才能を利用したり、他人の人生を物語ることらしい:「ある時はラトシュ自身の声・・・・ある時はミュッセの声・・・・ある時はラムネエの声・・・・・サンド夫人は『ルクレチャ』でショパンを同じ目(公衆の手に引き渡した)に合わせた・・・・・彼女はネエルの塔のようなものだ、恋人どもを呑み込む。尤もそれから河に投げ込む代わりに小説の中に寝かすが」。もう一つの批判は「あらゆる種類の気取りや虚栄や自負や誇張や騒動やらの塊」で、これはジョルジュ・サンド以外にもリストやディディエもそうだと言う。ブウブは彼等を評して二行の詩句を挙げている:「処で、僕の言うことを信じたまえ、君僕で喋っているうちは、少しはお世辞も言えるようになる」。
この「人間喜劇」の作家についてブウブは何ページ書くのかと思ったら、わずか3ページ。面白いのは冒頭の、ブウブに批判されたバルザックが復讐と称してブウブの小説「ヴォリュプテ」を改作して書いたのが「谷間の百合」だったという話。これは「ゴリオ爺さん」と共にバルザックの代表作のはずだが、ブウブの批判が発端だったとは。ブウブの批判はやはりバルザックの作品の中身の無さにあるらしい。「我が国の小説家中で一番多産な男」というのは誉め言葉ではない、「病的な珍しい花を咲かせるために屋根より高く肥料を積み上げる」というのは陰口。一方、「バルザック氏はその病的な読者たちを弱い者から弱い者へと征服していった(今日は30歳の女たちを、明日は50歳の女たちを)・・・・」というから、バルザックは売れていたに違いない。そしてブウブにとってバルザックは批評しやすい作家だったようだ:「批評家には誰でも自分の好きな獲物がある、好んでこれに飛びかかり、寸断する・・・・僕にとってそれはバルザックだ」。バルザックにしては迷惑なのか、それとも名作が書けたので得をしたのか?
ミシュレも政治家ではなく、歴史家だったらしいが、ブウブには一刀両断どころか粉々に粉砕されている。冒頭から「最も不健康な公衆の健康には一番いけない作家の一人」とこき下ろす根拠として、「天賦の才もない衒学者・・・・派手好みの衒学者気質・・・・・感動的な痙攣的なスタイル」ということらしい。ミシュレは詩人になりたいと思い、「恋愛論」も書いているが、ブウブに言わせると彼には想像力が欠けており、「恋愛論」のデリケエトな部分は彼の妻が書いたらしい。「ミシュレは意志そのものであり、野心そのものであり、賭金の化身である」というのはやはり、中身はないということだ。
どうもブウブのキネ評はよく分からない。貶しているのが三つ。最初は「陰気な影」、二つ目は野蛮なこと:「キネの詩はノアの洪水以前の・・・・人類出現直前・・・・・あの半分はライオンで半分は泥・・・・」「キネの『ナポレオン』の詩の中で一番上出来なのはまさにフン族やベドウィンの騎兵隊の侵入よろしくだ」。三つ目は「ダンテやシェイクスピアになり損なった連中・・・・・人生の好ましい交際とか温和な平常な上品な社会とはにはてんで不向きだ」ということで散々だが、一方で1836年に読んだキネのドイツに関する論文をえらく褒めている:「中々豊かな、美しい、これが書かれたラインの辺りに相応しいものだ。結末の詩の一句、ラインの霧さえ備わっている」。たしかに欠点批評の「陰気」「野蛮」「上品社会」と誉め言葉の「豊かで美しい叙景」は必ずしも矛盾しないが。
ブウブは政治家としてのチエールを「リシュリュウ以来の最大の政治家」と認める一方、彼の文学については「何となく窮屈で陳腐だ、その上軽薄である」と断ずる。また、チエールの政治についても、彼の政治手法、戦術を分析してみせ:「あらゆる問題で弁士たちが渡り合い、力尽き、押し詰められ、矛盾から矛盾に陥るのを待ち・・・・・そこで立ち上がり・・・・問題を語り、どう進んできたかを逐一説明して教えてやる。皆、理解して知らず知らず彼の弟子になってしまう。人々は彼に丸め込まれて、彼の見方で物を見るようになり、彼と一緒に投票する」、その上で「チエールには感動はあるが気高さが無い」と批判する。だが、「何事につけ当意即妙の人でもあるが、20年来、朝から晩まで喋っているような人が一体政治家と言えようか」というのは少し外れていると思う。なぜならチエールは喋りはじめる前に皆の議論を「じっと聞いていて、意見をまとめ」ているからであり、現代の政治家も皆、聞き上手、喋り上手でないといけないからだ。
ここでブウブが論じているのは自分の詩のことらしい。それは「ジョゼフ・ドロルム」「レ・コンソラシオン」であり(小説「ヴォリュプテ」のことは語られていない)、「ジョゼフ・ドロルム」には「観察に基づく自然な筆致を幾分か取り入れようと努めた・・・・が・・・・ルソーとかコローとらフランソワとかいう風景画家の絵で易々と完成され」ており、ラ・マルチイヌにも批判されたらしい。一方。「レ・コンソラシオン」の方はラマルチイヌは「途方もない賛辞」を贈ってくれたのだが、ブウブ自身は23年前に詩人ベランジュが寄こした手紙「批評家としての君をよく承知している公衆は君が僕等以上の詩人であるなぞとは夢にも思っていない」を参照し、自分の詩が傑作だとは考えていないようだ。それをくどくどと本筋から逸れた話を続けた挙句、「親愛なるミュウズよ、来たれ、・・・・・テオクリトス、パリニ、レオパルディ、クーパー、みんな僕を慰めてくれ」と詩神や詩人たちに助けを求める。最後の自分に対する批判:「僕はミュウズの泉を自分の手ですくって飲みたいものだと思っている・・・・・・諸君は七弦の琴を欲しがっているのだ、僕は三弦の胡弓しか持っていない」。一方、この章のなかでブウブは次章で論ずる「批評」についてもその一部を語っている:「人間が他人の中から選び出し賞めあげるものは常に自分自身だ。批評家は誰でも、自分が連れてくる自分の気に入ったタイプの中で、自己崇拝をやっているのに過ぎない・・・・・判断するときには皮肉を避けねばならぬ・・・・皮肉が一番聡明から遠い・・・・・僕らは批評するときに、他人を判断するより遥かに多く自分を判断している・・・」、これこそ、ブウブの批評の秘密の一部にちがいない。彼の詩よりも(ブウブには悪いが)遥かに重要だと思う。
どうやらここがこの作品の核心らしい。ブウブが自分の批評について簡潔に語っている:「僕は自分が再現しようとする人物のうちに姿を隠そうと努めている。僕はその人になる、文体さえもその人になる、僕はその人の言葉遣いを借用してこれを装う・・・・・そういう風にして僕は自分の主題の習性を観察するのである」「人間をよく理解する方法はたった一つしかない。それは彼等を判断するのに決して急がないことだ、彼等の傍らで生活し、彼等が自分の考えを明かし、日に日に発達して、やがてその自画像を僕等の裡に描くようになるのを待っていることだ。・・・・・読め、ゆっくりと読め・・・・そうしているうちに彼等は彼ら自身の言葉で、彼等自身の姿を描き出すに至るであろう」。これはまさに、小林の批評手法と一致しており、「彼等自身の言葉」を小林は「主調低音」と書いたのだ。ブウブはもう一つ、「文学には二種類ある」と語る:「一つは公認の書かれた・・・・キケロ風の文学・・・・・もう一つは口頭の炉辺の談話に現われる挿話話風・・・・」、そして「文学というものが、文学をやっているとは夢にも思っていない人々の文学より味わいの深いものとは・・・・思われない」と言う。この第二の文学は口頭故にキケロ風文学のように「ゆっくり読む」訳にはいくまい。だが、「批評の才能は・・・・崩壊する古い様式の残骸と起ころうとする革新との間で・・・・・善いものを生きながらえるものを識別するというような問題になると天才にさえなる・・・」というのは、第二の文学のことを指すのだろう。ブウブはそういう新しい文学「革新・・・・善いもの・・・生きながらえるもの」の発見にも意義を感じていて、「僕にとって批評とは様々な精神を知る喜び・・・・眼鏡であって鞭ではない」と記している。これもまた、小林が現代日本文学に示した批評に含まれているに違いない。最後のあたりでブウブが述べている「詩人の自尊心ほどの奴はなかった・・・・・あんな野卑な、あんな愚かしい・・・」というのはどうやら詩人全般を指しているらしい。ならば XVII章でのエドガル・キネの批判、上品な社交に不向き、というのは詩人なら当たり前ということになるが、それではダンテやシェイクスピアには当てはまらないことになるのでは?
ここで語られている幾つもの譬えはどれも「思想」についてのものと思われる。(1)果てしない空間を行き、いつかは難破するこの地上という船に乗った人間たち。不幸なことに、「こちらのデッキにいる船客は向こうのデッキの船客を知らない」「死ぬ者があれば・・・誕生のお祝い・・・・している者」、そしてパスカルの引用「どんなに多くの王国が僕らを知らないか」、つまり、我々は人それぞれに皆思想を持つが、まるで知られることなく死んでいくということか。(2)無関心:「節制すると頭の融通が利かなくなる」「腐敗した人間はその好むところを決して口にしない」「完全な無関心・・・・・何らかの仕事と何らかの気晴らし、それで沢山だ」。(3) 土星の環と土星:「最も真実な歴史も遠く離れて眺めると・・・薄い恐らく光っている輪は様々に変化する・・・・」。(4)真実とは少数者の秘密&観念も感情と同様に気長に紡ぐ:「自分で知っていることを研究し、自分の愛している人を見直す」「人生では悲しい時が来る、それは望めたものには皆到達したと感じたときだ」「一番微妙な悦び、則ち真実を知り真実を味わ・・・・おうとすれば忽ち変化するものだということを知るあの喜び」。(5)隠しておかなければならぬ程度:「程度を越すと人を怒らせ・・・・・復讐されることになる」、(6)人類は若干の例外を除けば、邪悪で粗野で堕落している。ブウブはペシミストだったのか? (7)エピクロス(人間の求めうる最大の善は精神的快楽であり、それは心の平安のうちにある):「いったんこの学派に入ると・・・もう他の学派に移ろうとはしなかった。・・・・近代人にとってもやはり本当」。これら七つをまとめるとすると、真実を追求しなければ人は生きていけないのだろうが、他人のことは感知が困難、もしくはまるで違う解釈をしてしまいがちであり、しかも目的を達する(真実を知る?)ことはかえって不幸となるので、ある程度真実を隠し、他人のことにも無関心を心掛け、エピクロスの心の平安を求めよう、ということか?
ここのブウブはやけに悲観的で、(あの攻撃的、野蛮人的な雰囲気が全く消えて)弱気の哲学を論じている。(1)最初は家庭内の父親としての困惑、(2)本当は勝っていないのに大勝利と報告したマレンゴの戦とセリゾオルの戦、(3)二月革命、これを「趣味の良い人には最後のもの」ということは、ブウブは王政の方が好きだったのだろう、(4)シャトオブリアンの葬式、「これが一切の終わりというものか」と嘆くブウブは、よほどシャトオブリアンと彼の立憲君主制に期待していたに違いない、彼の葬式でお世辞を言い合うベランジュとヴィトロオルの会話もむなしく聞こえ、喜劇に譬えている、(5)沈黙こそが最大の軽蔑・・・・だけどこれでは批評もしないということでは? (6)「自分の裡で既に死んでしまっている情熱を、自尊心や空しい計算によって長引かせないこと、そういうことができれば、人生においてはまず勝である」というのの人生の一つの真理であろうが、消極的である。ブウブをブウブたらしめているあの熱狂的な自信と過激なまでの積極性の方が、失敗したり壁にぶつかることも多いだろうが、魅力的である。そしてこの章の中段には美しい二つの項がある、一つはフィロデエムの短詩、もう一つは人生の謎。この二つは一見して悲観的なもののように思えるが、ブウブはここに真に美しいもの、人生の謎=真理なるものに近づいていることを語っているように思える。
「クサントよ密と香りとに満ち、心地よい言葉をもち、二枚の羽のある愛の神の美しい飾りよ、露のように爽やかなお前の手で、あの悲しみの歌を奏でてくれ、『小さな石の寝床に、ただ独り、何時の日か、長い長い、不死の眠りに入らねばならぬ』と。・・・・・」
「人生の謎とは一体何であろうか。それは次第に難しいものとなる、齢をとればとる程複雑なものとして感じられてくる。そしていよいよ裸な生き生きとしたものになってくる」
ここには章の数字が無いから、まさに断片を集めたものなのだろうが、ブウブの批評についての考え方が、彼が自分の批評をどう考えていたかが記載されていて興味深い。
(1)ブウブ自身の思想について、(1-1、p139)なぜ小説を止めたかについては、想像力の問題で、ブウブは自分が「キリスト教的感受性」は持っていたものの、シャトオブリアンやフォンタアヌのような「カトリック的想像力」は持っていなかったと言う、だがブウブはp164で、「文学者というものは正直なところもはや人間ではない・・・・・常に自尊心にくすぐられているある場所があるもので、そこを軽く叩いてやりさえすればニッコリする」と(批評家の立場で)からかっている。(1-2、p160)「思想というものは生活の剰余・・・だが、やがて思想は喜びとは・・・・相容れないものになる」これは王政のことを言っているのか? (1-3、p160)「毎日僕は変わる・・・・・僕の友情自体が枯れたり再生したりしている」これは(事実だが)前段の「思想というものは生活の剰余・・・・」と矛盾するが、後段(3-2、p166)で語る「騒々しく苦しみ、黙って楽しむ」のように変化するところと不変のところがあるということか?
(2)批評について、(2-1、p160)「①批評家とは読む事を知り、他人に読む事を教える人間、②批評とは僕が理解し僕が実行したいと思っているところでは一つの企図であり、絶えざる一つの創造である」というのはまるで違うことのように思えるが、ブウブは「一見矛盾していると思われるが、そんなことはない」と断言している。特に批評が「創造である」としているところは、(1-1)の小説や思想と比べてみてもブウブの批評に対する自信と確信が読み取れる。(2-2、p161)批評の方法:「与えられた瞬間に最大多数の諸関係を同時に集め、支え動かす・・・・・そこに一番困難な立派な技術がある」これこそが(2-1)でブウブが「批評とは・・・・一つの創造」と言ったことの根拠であろう、「たった一つの観念しか、多くて同時に二つの観念しか操縦できない作家もいる」のに対し、ブウブは多極的な相関関係を読み解き、多様な観念を当てはめて物事を語ることができたのだ、次の項(p162)では「非常に迅速確実な言葉を持った人」「雄弁・・・な人」を批判し、批評家たちに「宮殿に30も部屋をもっていたあのタイラントのように」なれと呼びかける。(2-3、p162)批評家の予見:ここでブウブは批評家の素質としての予見能力を語る「現代では、何もかも瞬く間に過ぎ去り、非情な速さで通俗化する。5分間公衆を抜いているというだけでもうそれは大変なものだ」。(2-4、p163)独創を見つける難しさ:ここでブウブはピンダロスとジュピタアの鳥を持ち出し、批評という職業にあっては、小説の独創はジュピタアの鳥のように輝いてはおらず「教養ある鸚鵡どもがなかなか立派なこと」を喋り散らしている中から見分けなければならないという、鸚鵡たちが喋りちらしているのは、次項(p163)の「彼らは自分の・・・・理想の幽霊を放り出す」なのである。(2-5、p166)「描き出す述(すべ):ここでは世の中の人々は皆、小説のようなことを経験したり聞き知っているが、そのことを描きだす術を知っている者は稀だと言う。(2-6、p168)徹底的な批評:なにもここまで踏み込んで作家のあら捜しをすることはあるまい、と思えるまで、ブウブの批評は徹底的だった「臓腑という臓腑を引きずり出して、あるがままの彼らの中味とはこれだと示すのが確かに必要なのだろうか。僕には疑問である。疑問であるにも係わらず、僕はそれをやる。・・・・・今日では僕は検死人だ」。(2-7、p169)ラ・ロシュフウコオの批判:彼はさまざまな偽善を暴いたペシミストで、「箴言集」という作品を書いたらしいが、ブウブは彼が「自尊心という家の二階に住んでいる人たち」の秘密を暴いたため「彼らはラ・ロシュフウコオを許さない」と言う。まあ、そうだろう。
(3)人生論:(3-1、p164)青年時代と不惑(40歳):「青年時代には人は全てを持っている・・・・・やがて人は少しばかりを持ってそれを大事にするようになる。その少しばかりこそ全てだと気づくようになるからだ」というのは壮年礼賛だが、次項(p164)では「青春というものはやはり真面目に聡明なものだ、方向を見失って軽薄なものになってしまうのはかえって人生の後半においてだ」と青春礼賛を語る。これを次々項(p165)では「無邪気というものは悪を知らない・・・・・心の汚点とは僕等の裡にある悪の鏡・・・・・汚点が広がれば広がる程鏡は完全になる」として、壮年になるほど批評力は高まることを示唆している。(3-2、p166)「騒々しく苦しみ、黙って楽しむ」:これも人生論、「僕等人間というものは不平の多すぎる」一方、「それと気づかぬ幸福な楽しい気楽な瞬間をどんなに僕らは持っているか」と語る。これこそ、産業革命などで何不自由なく暮らせるようになりながら、なお人生に不満を述べ立てる若者病のようだ。(3-3、p167)人生の潮時:「人生では悲しい時が来る。それは、望めたものには皆達したと感じた時、正当に求められたものは凡て得たと感じた時だ。」というのは、生涯目指して取り組んできた山の頂上に立った時、長年求めてきた人生の目標を達成したときの人々の経験談だ。私は幸い、そのような悲しみに見舞われたことはないが、ブウブは「僕はそういう処にいる」と言う。これはだが、ブウブは自分の人生が幸運で、満ち足りたものだったと言いたいのであって、全ての願望がかなったということではないだろう。だから彼は控え目に言う「こういう悲しみの状態、楽しさもまた自らそこにある態のこの種の悲しみは、賢人の悲しみというものだろうと思う・・・・もしそこに後悔の苦さとか欲望の針とか暗い苛立たしさとかが・・・・ないならば・・・・」。(3-4、p167)人生という本:これは人生というものを読書に譬えた話、だから、どうということはない、「僕が何をしていようがしていまいが、ただ一つの同じことは絶えずしている、絶えず同じ一冊の本を読んでいる、それは人生の本であり、世間の本である、誰も終いまでは読まぬ、一番賢い人が一番多くの頁を判読する永遠の不断の本だ。」(3-5、p169)最後の短い2項のうち、「才能というものは一つの欠陥となって終わる」というのは「人生の潮時(p167)」に、「ただ生きるより他はない」というのは「人生の本(p167)」に通ずるものを感じる。
p169 ラ・ロシュフコー(1613―1680)フランスのモラリスト。名門貴族の嫡子としてパリに生まれる。初め軍務につくが、ルイ13世の妃アンヌ・ドートリッシュを中心とする一派の、宰相リシュリューに反抗しようとする陰謀に加担して以来、旧貴族勢力の代表者の一人となる。フロンドの乱の渦中にあっても反軍の指揮をとり、1649年、パリ城外の戦いではのどに重い銃創を負った。 反軍敗北ののち政治的野心を裏切られた失意の身をパリの名流サロンに現し、『回想録』(1662)を執筆するかたわら、セビニェ夫人、ラファイエット夫人らと親しく交わり、とくにサブレ夫人Marquise de Sablé, Madeleine de Souvré(1599―1678)のサロンで、当時社交界の流行であった格言を書きつづり、仲間に披露しては訂正を加え、練り上げた。こうして彼の名を文学史上に不朽なものとする『箴言(しんげん)集』(1664~1678)が生まれた。 頼みがたい人心の虚実をつぶさに体験した著者の目は終始一貫、辛辣(しんらつ)かつ厭世(えんせい)的で、あくまで鋭く偽善を暴く。「われわれの美徳はもっともしばしば偽装された悪徳にすぎない」のであり、人間の営為はあらまし一皮むけば利己心と自愛心の動機が透けてみえるというのが、このペシミストの根本思想である。実人生における政治家としての挫折(ざせつ)と、死後、今日に至るまでの文人としての名声との対照がこれほど顕著な人物も少なく、『箴言集』の1978年刊批評版の刊行者ジャック・トリュシェJacques Truchet(1921―1998)は、その序文でボードレールの『悪の華』の序詩「読者へ」の最終行「偽善の読者よ、わが同類、わが兄弟よ」を、この峻厳(しゅんげん)な格言作家に結び付けて想起している。
サント・ブウブという人間はおそらく、虚妄たるロマン小説の類いを想像することは苦手だが、人の書いた書物、そして人物そのものの実体、価値、思想、信念などを読み取り、感じ取り、把握する鋭敏な感覚と理解力をもっていただろう。そうやってブウブが得たものは書物や人物の批評に他ならないが、それらが余りにも強烈で過激で神経に触るもの(誤解もされやすいだろう)だったため、彼はそれを「毒」と呼び、「少しばかり薄めて」公表した。確かに、同時代人たち、ビクトル・ユーゴーやバルザックが読めば、当惑し、憤慨しただろう。だが今ではもう、この「毒」は文学の一つ、「批評の原典」として読む事ができる。これを読んでいて、私はまったく、小林の書いた批評とまるで変らない(登場人物が違うのは仕方ないが)と感じた。小林の批評は確かに、サント・ブウブの批評と同じもの、少なくとも同じ系列にあると思う。「我が毒」はビクトル・ジローがサント・ブウブの未発表の手帖を分類して発表したもので、巻末の「断片」はサント・ブウブが生前発表した手帖のうちから小林が選んだものとある。p172の「批評は常に冷静な観察であると共に情熱ある創造である」という小林の言葉はp160の「①批評家とは読む事を知り、他人に読む事を教える人間、②批評とは僕が理解し僕が実行したいと思っているところでは一つの企図であり、絶えざる一つの創造である」と符合している。小林はサント・ブウブが自らの「毒」で苦しんだことをこの短い文章のなかで何度も語る「彼は自分の毒薬を他人に危険のないようにしようしたのである。しかし自分に危険のないように使用するのが不可能だった」「僕には春も秋も無かった。乾いた燃えるような悲しい辛い一切を啖(くら)いつくす夏があっただけだ」。そして、この毒は小林も飲んでいたに違いない。だが、世の中も変わり、批評というものが世に認められるようになり、自然に毒も薄まってきたということか? いや、人体の方が少々の毒には免疫になってきたのだ。
これはNHKのことで、1939(S14)年5月に営業開始したときの寸評。小林は当時は近代的な機械室を見て回り、大スタヂオで能楽「梅若万三郎の『翁』」を見るが、途中で出ようとして撮影中出入り禁止と言われ、まごつく小林:「よっぽど親父が危篤だと言ってやろうかと思った」というのはジョークだろう。それから1週間後、今度は初めてテレビを見る:「大きな電球のようなガラス玉の頭の方だけを、蓄音機めいた箱から覗かせ、そこに画が映る」というのは、確かに私が初めて見た時のテレビの生々しい描写そのもの。「映像は思ったより鮮明なものであった」というのはNHKや友人関係者への配慮表現だろう。彼らは夢が適って「感慨無量」なのだ。小林は「僕は分からぬ儘に愉快であった」と書いているが、このときからまだ100年も経っていないのに、世の中はもう画像とネットとスマホの支配する世界になってしまった。
これは第二次世界大戦直前の1938年10~12月に、当時は日本領だった朝鮮、満州から華北まで旅行したときの紀行文。日本のことを「内地」、中国は「志那」と呼んでいるが、テーマは慶州にある仏国寺の石窟庵。そこには「巨大な台座に座った丸彫りの釈迦像」があり、小林はその美しさに驚く:「元来が古美術など丹念に探る趣味は無い」のだが「驚いてしまった。写真はこの美しさの幾分かを伝えていたと言う風なものではない。全く新しいものを見る思いであった」。大きな釈迦像が収められた石窟の背後には「左右に入口までぐるりと円形に比丘や菩薩の像が大きな方形の一枚岩に彫られて、壁面にはめ込まれている・・・・・どれも非常な美しさであった」。これらの傑作を目にした小林は、石窟庵から出ると、その他の仏像は「皆、何となく二流品」に見えてしまう。だが、そんなに美しいものを見たのに「心が一向楽しくなっていない・・・・・こちらに欠けているものは・・・・あの彫刻家が持っていた仏というものだ」。小林は仏を信じていないのに「部屋に満ちていた奇妙な美しさは何なのか・・・・・突然エスセティックという言葉が浮かんだ。僕はいよいよ不機嫌になった」と考えを巡らす。小林自身が分からぬものを解読するのは不可能だが、石窟庵の釈迦像や比丘、菩薩のもつ美しさは、他のものとはまるで違っていて、それらの中に込められた彫刻家の「心」を小林は垣間見たのではなかろうか。その心はおそらく、エスセティックなど考えたことも無く、ただひたすらに仏の信仰の世界に生きていた。そしてこの彫刻家の作品は信仰を持たぬ者にもその輝きを放つ。小林はこの彫刻家の心を感じながら、作品の美は単に(彼のような心を通してではなく)外側から見ることしかできない。だから小林は大いに不満だったのだ。
第二次世界大戦の直前、日中戦争が1937年に始まって日本国内はナショナリズムで沸き返っていた頃だと思うが、小林の文章には浮かれた気分などは微塵も無い。その日中戦争(支那事変)が文学に与えた影響というのがこの文章のテーマだが、小林が最初に取り上げるのはアナトール・フランスとチャールズ・ライエルで、地質学の「恒常因の原理」を人間社会に敷衍し、「変化は間断なく行われているが、人間には感じられないものである。そういうことを納得したら・・・・保守主義者は・・・・必要な改変にはもはや反対しなくなる・・・・改革主義者にあっても・・・・無暗にこれを駆り立てることを断念するだろう」というもので、つまりは当時国内でぶつかり合っていたイデオロギーの闘争の行き過ぎを諫めている。二つ目は当時ベストセラーだった火野葦平の「麦と兵隊」で、小林はこの作品は「題材はなるほど烈しい異常なものであるが、作の調子はたいへん落ち着いた平常なものである。緊張はしているが興奮はしていない」と説き、一方、「最近の文学がどんなに沢山の不具者ばかりを描いてきたか・・・・喜劇的な登場人物に満ちている・・・・・こういう情勢の下に堆積した一般読者の渇きを『麦と兵隊』は満たしたのである」と成功の原因を導く。三つ目は小林には珍しく、文学者のみならず国民全体に呼びかけているもので、小林は日中戦争(支那事変)を「危機ではない・・・・試練である」と言う。その試練とは、「官僚の無能・・・政治家の文化政策の拙劣さ・・・・文学者の政治経済的無智・・・・・それと共に日本国民の勇気・・・・忍耐力・・・・日本経済の実力」であり、犬養毅の「話せばわかる」という言葉を「文章や演説では話がまるで通じない、膝を交えて懇談しなければ話の通じない国民」と解釈してみせ、これこそが「以前から続いてきていた我が国の近代文化の欠陥なのである」と批判する。この状況は今ではすっかり変わったのだろうが、それは恐らく「文化政策(教育)」もあるだろうが、情報万能社会になっていることが主因だろう。
p188 齎す:もたらす
これは文学界に連載していた「ドフトエフスキイの生活」が本で出版されたときの記述である。「久しい間、ドフトエフスキイは僕の殆ど唯一の思想の淵源であった」で、どれほど小林が没頭していたかが分かる。小林のこの没頭の仕方は常人とは違う。「僕は解説を書いたのではなく、デッサンを描いたのだ」:デッサンとは、「物体の形状や質感や明暗や位置関係などを意識しながら時間をかけて平面に描画すること 」だから、小林はあえてドフトエフスキイの内面に踏み込んだのではなく、いろいろな角度から見た外観を文章にした、と言いたいのだろう。これが批評と言えるのか? いつもの小林の「主調低音」はどこに行ったのだ? この疑問は小林ももちろん分かっていて、「多くの読者は懐疑派の書いた本だと言うだろう。しかし、懐疑のうちだけに真の自由があるという非常に難しい真理を教えてくれたのは彼だった」と小林は言う。おそらく小林はドフトエフスキイの主調低音の微かな響きを聴いた程度なのだが、その微かな響きを様々に、自由に解釈するところに面白さを感じたのではなかろうか。
p189 弄る:いじる
p189 デッサンとは、物体の形状や質感や明暗や位置関係などを意識しながら時間をかけて平面に描画すること
これは(おそらく)日本初の「デカルト選集」和訳版に寄せられた紹介文らしい。今でこそデカルトは近世哲学の祖とされているが、当時(1939年)には日本ではほとんど知られていなかったのだろう。小林はデカルトを「哲学者でさえない、哲学を哲学的専門語の手から解放した」と言い、「自我」「方法」「懐疑」というキーワードを並べてみせる。小林が冒頭で「専門的意見を述べることができない」と言う「メタフィジック」(形而上学)について、現代では次の4つで解説されている:方法的懐疑(「表象」と「外在」の不一致を疑った )、コギト・エルゴ・スム(われ思う故にわれ在り)、神の存在証明(第三証明 - 完全な神の観念は、そのうちに存在を含む )、心身合一の問題(『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた )。
p191 ルネ・デカルト (仏: René Descartes 、1596年 3月31日 - 1650年 2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる
これは日中戦争(支那事変)のときの情報統制を論じたもの。1節では、情報統制で戦争の全貌が国民には全く分からず、小林は友人に勧められて敵国英国のプリンゲルの書いたペンギン叢書を読む。それは実に分かりやすかったが、英国の視点で書かれているので、「英国政府の政策を支持する世論を喚起するには十分」と評価する一方、「この種の事変解説書が我が国に絶無であることはどうでもいい事ではないかもしれぬ」と嘆く。2節のテーマは「世に訴えるインテリ。知らしめよ、さらば起たん」という情報開示を政府に求める標語。だが小林は「真相を知らさぬ軍人や政治家が、僕等より真相を果たして知っていると言えるか」と論ずる。その理由は「国民の大部分が行ったことも見たこともない国で、宣戦もしないで、大戦争をやり、新政権の樹立、文化工作、資源開発を同時に行い、国内では精神動員をやり経済統制をやり、というような事態は歴史始まって以来、どこの国の国民も経験したことなどありはしない」ということ「事実が思想を追い越して先へ先へと進む」という事実にある。3節のテーマも「言論の自由への制約」だが、言論統制については小林は反対はせず、河上徹太郎の「思想の自由と思想の統制とは決して相対立するものではない」という考え方を示す。これは矛盾した文章のように思えるが、その次に語る「鑿を振るって大理石に向かう彫刻家は大理石の堅さに不平を言うまい。・・・・・今日の政治的統制には、統制の技術がたとえ拙劣にせよ、新しい事態に基礎を置いた大理石のような堅さがあることに間違いはない」というアナロジーは分かりやすい。4節では菊池寛の「西住戦車長伝」を「僕は近頃愛読している。純粋な真実ないい作品である」と評価する一方、「友人に聞いても誰も読んでいる人がない」語る。インテリの友人たちは「思想の古さに耐えられない」のだが、この古い思想を小林は「一口に言えば大和魂・・・・伝統は生きている。そして戦車という最近の科学の粋を集めた武器に乗っている」と論ずる。小林は最後に「国民は黙って事変に処した・・・・事に当たって的確有効に処しているこの国民の智慧・・・・・この智慧を現代の諸風景のうちに嗅ぎ分ける仕事が批評家としての僕には快い」と語るが、これは戦争責任と自由主義の観点からは少々問題なのかもしれない。戦後、主権在民となったが、「黙って指導者に従う」というのは日本人の国民性なのかもしれない。
これは文学界にリレー形式で3人の文学者が順に書いた文学評論の最後のもので、河上徹太郎編集長の出したテーマは簡単に言うと「日中戦争と文学」であり、最初の二人は豊島与志雄と森山啓。小林のこの前の数編の評論を読むと、このテーマについて実に悩んでいることが分かる。言論統制をむやみに批判せず、文学者も国に尽くすべきだ、というのが基本姿勢らしいが、ここで述べているのは「事変が文学にどう影響し、文学をどう混乱させたか、その外形は誰にでも容易に見える」ということと文学者の国への貢献について、「一体どういう新しい知恵がこれから現われようとしているのか、そういう事が実にわからない、一番面白い点が一番わからない」という2点のみ。1点目については語る必要なし、2点目が語りたいのだが、わからないのでは書けない、ということで、この文章は終わってしまう。下手なことは書けない、という防衛意識、勘のようなものもあったのだろうか。
これは独ソ不可侵条約が締結され、日独防共協定が反故にされたときのもので、日本国内はおそらく大混乱であったろう。日英同盟が破棄されたときと比べてもたぶん大変な痛手であろうと思われるが、英国やドイツが東洋で一大勢力に台頭した日本と一時的な同盟を組んだのは当時の世界情勢を考えると、今ならば論理的な説明もできるのだろうが、結局、外交や条約は契約と同じで状況が変われば変わってしまう。当時の日本人は一度同意した約束は貫くという精神構造をしていたはずだから、戸惑ったことは間違いない。小林はそういう西洋外交を「花火」と譬え、これが現実なのだと(自分に?読者に?)言い聞かせる。だが、この花火は陰気である。最後に「ドイツは名実ともに共産主義に転向するであろう」というのはわざと極端な予言をしてみせたのだろうが、「当たらぬ予言をするのが流行だから、僕も人並みに予言をしておく」というのはなんとも投げ槍。だが、マルクルとエンゲルスがドイツ人であったことを思いだすと、ドイツで共産主義が起こっても、確かにおかしくはあるまい。
(1節)泉鏡花はいわゆる怪談小説の大家だが、小林は実に見事にこの作家の魂を見せてくれる。「高野聖」も「縷紅新草(るこうしんそう)」も読んだことはないが、とにかくお化けが出てくるらしい。小林は「鏡花の世界は嘘ばかりから出来た真実・・・・・文章はこの作家の唯一の神であった・・・・泉氏は言葉の世界の中に完全に閉じこもった」と言う。そしてこのことを「鏡花は嘘から出る真だけを信じた。言わば無から形あるものを創る仕事だけを信じた・・・・これが芸術においてその原始の性質を持続させるものであり、芸術における人間的な性質も其処にあるのかもしれぬ。在るがままの真では足らず、嘘から出た真を創り出そうという欲望ほど人間の刻印の確かなものもあるまいから」と評価してみせる。
(2節)さて、死した大家、泉鏡花に比して現代作家はどうであろうか。ここで不運にも敵役にされるのは武田麟太郎氏で、当時発表されて小林の眼に止まった「短編小説集」というのが「彼の出生作『市井事』にはこんな出鱈目な人生の図は無かった」とこき下ろし、その理由を「『短編小説集』の人生は悉く嘘である。僕は鏡花の嘘は認めるが、この種の嘘は認めない。鏡花のは嘘から出た真であり、武田君のは言わば真から出た嘘に過ぎない」と言う。これはたぶん、科学実証でいうところの仮説に基づく立証のようなものだと思うのだが、小林の言葉で言うと「鏡花はお化けの存在を確信している」つまりお化けは仮説であるのに対し、武田氏は「在りそうもないお化けを在りそうなお化けに見せる工夫」つまり仮説そのものを証明しようとしたって無駄だということだろう。最後に当時の日本作家たちがうまく扱えなかったものとして「心理描写」を挙げており「プルウストのように世界は夢で織られているとするほどの大胆さはどこにも見られぬ」と批判しているのも、やはり「仮説に基づく論理展開」と共通するものを感じる。14ページしか読めなかったが、ここまでにしておこう。残り80ページ弱。
(1)ここで語られるのは日中戦争の行末と世界情勢。情報は新聞で知ることができるがまるで不完全、人や物が動く仕組みについても様々な考え方やイデオロギーが論じられていたが、それらはまるで現実に起こっていることを説明できない。そんな社会情勢を背景に小林は「神風」という言葉をキイワードに自説を展開する。1939年9月のドイツのポーランド侵攻(これは結局、第二次世界大戦に発展したのだが)は、泥沼化していた日中戦争から抜け出せる「神風」ではないかという当時の論説、それへの反論について小林は、こういうことが議論されるようになったこと自体が「国民の知識」の進歩、「神風も進歩した」と論ずる。そして「欧州情勢、複雑怪奇」と発言して総辞職した当時の平沼騏一郎首相についても、「大臣の声明に実感の籠った言葉が現われ・・・・やはり進歩と言うべき」と論ずる。人々が議論すること、現実を語ることこそが重要なのだということだろう。(2)次に語られるのは日本よりも進歩しているはずの欧州、小林はヒットラーがポーランドに侵攻する直前、「イギリスがポーランドを放棄するなら・・・・芸術家として余生を送る」と語ったことを取り上げ、ヒットラーも平沼首相と同じく「政治情勢は複雑怪奇」だと考えていたに違いないと論ずる。そして「ナチスのイデオロギーを叩き潰す」姿勢のイギリス・チェンバレン首相に対し、イデオロギーの相違にもかかわらず「独ソ不可侵条約」を締結したヒットラーを、「イデオロギイなどというものにビクビクして今日の欧州で政治家が務まるか」と評価してみせる。つまり、もはや唯一無二のイデオロギーは現実には存在しないということだ。(3)ここではイデオロギーに代わり「唯物史観」つまり「人間の生産労働が物質的・経済的生活を通じ歴史や社会の原動力になる」を論じ、まず「今日ではもう物は人間の望み通りには動かぬ」と唯物史観を否定する。しかし小林は「ショーペンハウエルの意志(存続・生存への盲目的意志をもつ人間は芸術的もしくは宗教的に自由を得る、ということらしい)」や「プラトンの洞窟(人間の本性は洞窟に閉じ込められた自分を照らす火によってできた影を見る者に譬える)」を持ち出し、イデオロギーや労働思想などとは異なる「盲目的意志」が「ドイツやイギリスの軍隊」を黙りこくって戦場に赴かせていると説く。軍隊では皆、命令に従って動く、結果責任は命令を下した上官にあり、命令を実行した兵士には無い。だが、その命令に従うという行為にも意志は必要であるはずで、それがショーペンパウアーの意志やプラトンの洞窟の自分の影なのだろう。(4)だから、日本においても状況は同じであり、イデオロギーや現実は混沌としてる。そして小林は「赤裸の物の動き・・・・君のエゴティスム、則ち愛国心・・・・・その二つだけが残るであろう・・・・これを非常時という」と結論してみせる。この最後の論説は、資源のない日本が世界で生き残っていくための海外侵略、国家主義、民族主義を肯定しているようにも読める。国民は現実と愛国心だけでいいだろうが、政治家や軍人はやはり情勢判断に責任がある、いかに難しいとはいえ。
これはp191「自我と方法と懐疑」(内容見本に記された短い文章だった)の続き。そこで小林はデカルトを「哲学者でさえない、哲学を哲学的専門語の手から解放した」と言い、「自我」「方法」「懐疑」というキーワードを並べてみせたが、ここでは「自分の考えを簡潔に率直に述べた哲学者であるが、彼の著作は決して理解し易いものではない」と始める。その難しさについて、「方法叙説」の「理性を正しく導く方法」では「各人の理性を正しく導くための方法を教えようとするのではない」こと、「或る仮説を第一原理からあからさまに演繹してみせたくないのも、人が20年考えた処を一日で悟る自信をもった哲学者が世間にいるからだ」という箇所を例に挙げる。一つ目の答は少し後に書いてあり、「理性の光を育てる方法は各人が己の裡にその種子を発見し、これに恰も職人が自分の技術に習熟するように習熟する他はない」ということだが、二つ目の答はない。だが、一日で悟るのはデカルトだろうが、20年考えたのは誰なのだろう? その次の「高遠な弁証法が空しい修辞に過ぎない」というのは、弁証法の否定だろうか? 最後の「デカルトが現代の思索人の間を本当に歩いたらどうだろう」というのは、もっと多くの人たちにデカルト選集を読んでほしいという呼びかけだろう。私にその機会が訪れるだろうか。
これは日本赤十字社の看護婦による、病院船や野戦病院における「行動の極めて素朴な日記」ということで、小林は火野葦兵の「麦と兵隊」や日比野士朗を引き合いに出し、これら戦争を題材にした文学の魅力は戦争という題材にあるのではなく、「題材の向こうに感じられる書く人間の魅力である」と指摘する。更に小林は大嶽康子について、「観察は的確であるが平凡であり、描写も生きてはいるが粗雑である。ほとんど無我夢中で書いている。もしこれを外国人が読んだなら、・・・・非常な困難を覚えるであろう。だが僕ら日本人にはよく解るのだ」と語る。その理由を小林は語っていない、「不十分な表現にもかかわらず僕らの心にはスっと入ってくる」というのは日本人特有のことらしいが、どういう表現なのだろう。翻って、「今日の文学が十分な表現に拘わらず心眼を開いてこれを見ればなんと何が何だかわけの解らぬ人間共ばかり」と他の文学を批判してみせる。強烈な一撃。やっと11ページ読んだ。残り61ページ。
(1)これはヴァレリイの「テスト氏」についての文学批評である。小林はこの散文を自身で翻訳出版しており、最初にヴァレリイ自身が翻訳の難しさを(英訳についてであるが)警告している点を示し、「翻訳の困難は何もヴァレリイの作品に限ったことではあるまい」「僕はいつも自分のために翻訳した。原文熟読の一法に過ぎない」と難しさを認めている。翻訳が出版されているが、小林自身は翻訳家ではないと言うことだ。そして「テスト氏」について、1節では二つのことを述べる。一つは最初(1896年)に「テスト氏との一夜」が書かれ、その後(1925年頃)に書かれた他の「文章はすべて『テスト氏との一夜』という主題の変調である」ということ。もう一つは「傑れた芸術家の多彩複雑な表現はいつもその底に作者によって執拗に固執された作者の精神の内奥の変わらぬ主題を隠している・・・・・見た処膨大な思想の建物が意外にも極めて単純な一貫した方法の驚くべき力で支えられている」ということ。さて、ヴァレリイの場合、その「主題」と「極めて単純な一貫した方法」が2節以降で語られるのだろう。
(2)ここで小林はデカルトを論ずる。本書には小林の「デカルト選集」に関する文章が二つあり、ここにも同じ論旨が出てくる。デカルトの「方法」はいわゆる形而上学(演繹)であり、「世に流布された一切の知識を信用せず、偏に自分の心に明晰に判然と現われたものだけに固執」するということのはずだが、小林はまず周辺から論じ、「『方法叙説』はデカルトの自伝である」という説を展開し、「方法叙説」の企図(これは以前の「デカルト選書」に関する文章でも語られていた)を説明する。デカルトに関する三つ目の論点は懐疑主義(セプティシスム)であり、「非常に優れた精神を持った人々に僕の意見のニ三を屡々説明してみたが、話している間は彼らも極めてはっきりと解っているように思われるが、彼らがそれを繰り返すときにはいつも殆ど決まって彼らはそれを変えてしまう・・・・・そういう人々がこれを機会に僕の原理を信じ込んだものの上に無法極まる哲学を築き上げ、その罪を僕に帰することを恐れた」というデカルトの苦悩を示し、だから「全く単純な本然の理性を掴むことが人間にどんなに難しいか」と論ずる。そこで小林は「『方法叙説』はデカルトの自伝である」の考えに行き当たり、「自分の考えた処と考えるに要した20年の歳月を切り離すことができない。物を考える方法を述べるとは、自分の『生活の絵』を拡げてみせることに他ならなない・・・・これが有名な Cogito の真意なのではないか」と結論する。だが私には、「20年の歳月」というのは形而上学(演繹)ではなく経験主義の方に近いような気がする。一つの真理、論理は瞬間的でも20年間たった後でも変わらないはず。小林はここから Cogito ergo sum について語るが、この哲学原理の規定するのが難しいのは、さきほどの懐疑主義の苦悩の故に、「当時の教会や大学に対してデカルトは屡々仮面を被っていた」かららしい。このようにデカルトは自分の哲学について仮面を被っていた。そしてヴァレリイは「方法叙説」に哲学の一古典を見ず、「僕等を導くこの『自分』とか『自我』とかいうもの、そこに僕のデカルトがいる」ことを発見する。これはつまり、スコラ哲学のような因習から逃れ、「自己」「自我」を発見したということか。
(3)ここでやっとヴァレリイが「テスト氏との一夜」で語るデカルトの話になる。その冒頭の「デカルトの生活は最も簡単なものである」というのは気楽に生きていたということではなく、「いろいろな規則や記号や通信から何事も学ばない・・・・眼に見えるものをまさに目に見えるものにつまり形と運動とに還元する・・・・・伝統や因襲や約束や仮定の上に立った理解というものを疑って、真の無秩序を見る」という辛い生活のようだ。ヴァレリイは自分のデカルトをテスト氏として描いたらしい:「デカルトは『その注意力の全体を以って、自分の裡に閉じこもった』テスト氏の言う内部(こころ)の島を創り上げた」。そしてヴァレリイの「方法」とは、このデカルトの姿のヴァレリイであるテスト氏ということらしい。
(4)4節はベルグソンから始まるが、小林が引用しているのは「収斂レンズを透かして一点に導かれた純粋な白光・・・・・の中に・・・・固有の色合いが由来する共通の光が姿を現わす・・・形而上学に求める直観は・・こういう種類のもの」ということ。そして、「自分自身に備わったあらゆる固有のニュアンスを収斂レンズによって白光を化すこと、そこにヴァレリイはテスト氏を見た」、つまりテスト氏は単純化されたヴァレリイではなく、様々なものが収斂されて「白光」になったヴァレリイだ。しかし次の議論、「何故にテスト氏は存在し得ないのか・・・・・彼は行為化された意識の二つの価値、カテゴリイ、つまり可能事と不可能事以外を認めない」とうところは2節(p236)にも出てくるが、これはよく分からない。部分的可能というのもあり得るのでは? ここまで読んでようやく、1節で提起された「テスト氏との一夜」における「主題」とはデカルトの自己あるいは自我(つまりテスト氏になること)であり、「極めて単純な一貫した方法」とはデカルトの方法、あるいはベルグソンの示した「収斂された白光」の如く「様々な意見、様々な思想のシステムを感じようと努力し・・・・夥しい真理(vertie)の群れは悉くそれぞれ固有なニュアンスを持った現実(realite)になったと信じる」ことであろう。
p244 verite: 名詞 vérité 女性 ( 複数 vérités ) 真 、 真理 。 真実 、 事実 、 真相 。 迫真性、 忠実 性、ヴェリテ。 本質 。 正直 、 誠実 。
これはサント・ブウブの「我が毒」の中の「XXIII. 人生について」の中段で語られている2行の文章についての小林の感想である。小林は最初に結論を言っていて、「音楽の一章句のように分析もならず解釈もならぬような言葉を人の心に伝えること、これが詩人の希いである」、だから小林はあえてこの文章を解釈しようとはしない。しかも、「このサント・ブウブの言葉は僕には心にこたえる」のだから、詩人サント・ブウブの希いは小林にとどいていて、もうこれ以上言うことはあるまい。そして小林は、「人生をあれこれと思案する・・・・すると、僕の心の奥の方で『人生の謎は齢をとればとる程深まる』とささやく者がいる・・・・・僕はドキンとする」。小林はこれを音楽に例えていて、敢えて解釈せず、聞き続ける。すると、「謎は解けないままにいよいよ裸にいよいよ生き生きと感じられてくるならば、僕に他の何が要ろう」。私はこのサント・ブウブの2行を最初に読んだ時、「美しい」と感じ「人生の謎=真理なるものに近づいていることを語っているように思える」と書いたが、どうやらこの謎には決して辿りつけないらしい。
これを書いている小林はえらく怒っている。「『思想』十月号の『文化創造と文化混淆』という特集」については1ページにわたり7つもの引用を載せ、「よくも揃いも揃って寝言のようなことを言っているものだと呆れ果てた」とあるが、引用文を読む限り、確かにこじつけも甚だしいロジックレスのものばかり。小林でなくても誰でも呆れるだろう。だが、「現代の学者というもののほとんど全てがこの流儀でやっている・・・・・学者ほど世評というものから遠ざかり、遠ざかっていることに慣れて左団扇を決めている」というのは、世の読者という見物者=批判者を持たない学者たちのことを指している。一方、「文学者は文学の蔭に自分を隠すことができない。たとえ四流五流の作家であろうとも。役者はどんな大根役者でも芝居の蔭に自分を隠すことはできぬ。読者がいるからだ、見物がいるからだ」、そして小林自信も主役ではないと言う:「文学はこの種の読者から文学のデッド・ロックを教えられ、それを幾つも乗り越えてきた。文芸批評家なぞに教えられたのではない」。では官僚はどうかというと、当時発生した「貿易省問題」などで世人をはじめ、軍部などの批判にさらされていた。だから小林は、「官僚に世間の波が強く当たってきた・・・・・波は彼らに国民の実生活に直接ひびく実際の仕事というものを強制する・・・・彼らは厭でも応でもこれにぶつからねばならぬ。僕はこのことが行く行くは官僚というものを救うと信じている」と結論する。一方、「今日の学者たちの独善が容易に改まらないのは彼らが本当に健全な無遠慮な読者を持っていないのが一難大きな原因だと思う」という。小林は書いてないが、フランスやドイツでは、デカルトやニイチェのような哲学者や思想家であっても、真っ向から批判する読者がいたのかもしれない。戦時中の日本にはそういう読者はいなかった。でもネット社会となった現代では、どんな哲学や思想も独善とはいくまい。小林が最後に述べている憂慮、「人間は世界史などというものを本当には了解した例しはなかったし、将来も絶対にない」というのは、中国の台頭やロシアの戦争などを見るとその通りだと思う。だが「そんなものの前で人間は判断することも決心することも行為することもできない」というのでは困る。お先真っ暗な見通しのなかで、我々はなんとかして最良の道、サステイナブルな方策を探って行かねばならない。残り32p。
これは当時の日本史に対する強烈な批判である。この文章を書くきっかけは小林が当時、明治大学に新設された文芸科の講師に就任し、文芸概論を教えたが、本人曰く「自分の知っている事を教えているのがたまらなく退屈になったので、今度は知らぬことを教えたい」と申し出て、日本文化史研究という講義を始めた。ところが、「自分の知らぬことを教えるこの教師にとって都合のいい様な歴史の本が実に無い」。実はここに、小林の強烈な批判がある。小林は、今でも相変わらず変わっていないようだが、「暗記ものの歴史」なんかは教えたくないのだ。「矢鱈に専門的な本はいくらでもある」のだが「日本のインテリゲンチャを惹きつけるに足る歴史の本がない」と断定する。小林の求めている日本史とは、「日本歴史というものはどういうものかを常識と一貫した歴史眼とをもって誰にでも面白く読めるようにまとめ上げた本」ということで、その例として大川周明(国家主義者)や竹越与三郎を挙げていて、「非常によく読まれた」が専門の歴史家は軽蔑していたという。小林が批判しているのはそういう世の中の読者を持たない専門の歴史家たちであり、井野辺茂雄の幕末維新の研究を引き合いに出し、「一向活眼があるとも思えない・・・・何という屍骸」と落胆してみせる。歴史学者であれ、文学者として読者を惹きつけ楽しませなくてはならない。最後に小林は世阿弥の言葉を引用してみせる:「工夫あらん仕手(能における主役)ならばまた目きかずの眼にも面白しと見るやうに能をすべし」。
これは「婦人公論」に、もう若くない女性を対象に、どうすればもっと小説が読めるか、読みたくなるか、まさに「読書の工夫」を説いたものだが、適切な「工夫」がどういうものかはかなり奥が深く、やや難解。前半において小林が語る三つの点については明快である:(1)若いころには読書熱があるが、知識欲が衰えると本を読まなくなる。それは本を読む暇がなくなることに加え、「本というものを進んで求めない」ためである。だから、「自ら進んで読み方の工夫をしなければならぬ」。(2)一方、トルストイの「アンナ・カレーニナ」のように若い時に呼んでも面白さができるはずのない小説がある、「良い小説は世間を知り、人間を知るにつれて次第にその奥の方の面白味を明かすような性質を必ずもっている」。(3)自分で本を読む工夫を凝らして、読書の本当の楽しみというものを養おう・・・・・そういう楽しみを自らの工夫により努めて身につけてしまえば人間はどんなに忙しい境遇にあっても本というものから容易に離れられるものではない。後半は論点が定まらなくなるが、まず(2)の例として、石川達三「結婚の生態」は経験不要だが、徳田秋声「仮装人物」には「世間を知らぬ人には全く解らぬ面白さを隠している」を挙げる。次に「工夫」については3箇所にわたって提示する:①「大小説家の夢想をしっかりと抱き・・・こういう夢想のあることを知り、これに幾分か与する事は誰にでもできる・・・・・そこに読書の工夫がある」、②「小説の読者は小説から得る無邪気な夢想を工夫によって次第に鍛錬し、豊富にし、これを思想と呼べるものにまで育て上げねばならない。育つにつれて大小説は次第にその深い思想を読者に明かすであろう」、③「小説を創るのは小説の作者ばかりではない。読者もまた小説を読む事で、自分の力で作家の創る処に協力する・・・この協力感の自覚こそ読書の本当の楽しみであり、こういう楽しみを得ようと努めて読書の工夫は為すべき」。これはまさに、小林が批評のときに作品を熟読し、その奥底に「主調低音」が聞こえるまで没頭する方策に他ならないのでは?②と③の間で小林はウィリアム・ハドソン「ラ・プラタの博物学者」の、殺されるまで死んだふりをする狐の話を挙げ、「書いてある思想によって自分を失うことが思想を学ぶことではない」と忠告する。
この戦争短編を批評するにあたり、小林はまず戦争文学一般について論じ、「戦争文学では本当のことが書けぬ」という批判に対し、「書ける事に作者がその全精神を傾けているか、いないかの方が寧ろ大事な問題だ」と指摘し、「ウースン・クリーク」については「作者はこの戦争の一場面に自分の精神を一杯に隈なく使用している。そのことがこの短編を最近の文学の一傑作にしている」と論ずる。見事な三段論法。
これはp217「神風という言葉について」への読者からの反論に対する回答である。原文7ページに対し、回答は13ページも書いているのは、余程腹が立ったのだろう。1項では3ページにわたり、「どれも僕が予期していた誤解であった・・・・そういう予期がなかったらあんな文を書かなかったであろう・・・・・これは奇妙なモチフであるが、現代の批評家の心のうちには厳存している」「僕は弁解などしているのではなく、寧ろ反対に独断を主張している」「批評を書く人々で、懐疑的と言われ独断的と言われるのを恐れない者は実に稀である」そして「懐疑と独断との種に充ちた実生活にあって自分の精神がどう揺れるか、そのありのままの精神を純化してこれを批評の原理とするのを何故恐れるのか」と論じ、まず通念に迎合している当時の批評家たちを強烈に批判する。そして2項では、「神風」に対する反論、新明正道氏の「イデオロギイの退廃」への批評を展開する。「イデオロギイ否定の下に、無思想、無道徳な現実主義が横行することになっては、国民の大事である」「マルクス一派の考え方は、イデオロギイを虚偽的なものとする」「結局あらゆる思想の意義を現実主義によって否定する」「イデオロギイが一般的に思想の代名詞として用いられている」等々について「まさかと思うような白痴めいたこと」「マルクスはイデオロギイというものを虚偽的なものなどと絶対に考えはしなかった」「イデオロギイはイデオロギイであり、思想は思想である・・・・フランス語にもイデオロジイとパンセという二つの言葉があり、まるで違った意味に用いられている」と論破し、「イデオロギイの否定が現実主義の横行を来たすというが、現実主義とは一つの立派なイデオロギイではないか」と続ける。これはつまり、現実に沿わないイデオロギイは捨てて、適合するものを選ぶということで、原文の「イデオロギイを捨てよ」を少し修正することにはなるだろう。そして3項では、「イデオロギイほど直かな観察というものを曇らせるものはない・・・・・自然主義文学に鍛えられた作家たちには真の観察力が見られるが、若い作家は殆ど観察力というものを失っている・・・・・ほぐれてバラバラになったイデオロギイで作家たちは小説を書いている。もう物を見ないのだ」と文学批評に戻り、古い、現実に沿わないイデオロギイを捨て、「実際の観察」、自分の「思想」に基づいて小説を書くべきことを説く。そうして生み出された人間精神の表現がイデオロギイだと定義してみせる。
これは「イデオロギイの問題」で小林の批評の矢面にされた新明正道の更なる反論に対する回答である。回答が短いのは、たぶん小林が指摘している通り、小林が指摘した「論旨の弱点なり矛盾なり・・・・に関する君の解明」が無かったからだろう。新明正道は「無邪気な小林秀雄」と書いたらしいが、小林の論文は(やや難解だが)豊富な読書量とそれらの文章の深い理解度を背景に、理論的かつ説得力があると思う。そこには決して無邪気な小林はいない。小林の言う「僕は世間というものをそれほど甘く見てはいない」というのは豊富な知識量と経験に戻づくものだろう。
これは小林の翻訳した「我が毒」の書評である。(1)冒頭で亀井勝一郎氏の「批評の最高目的は賛歌を書くことにつきる」に対し、山本氏は「この世にはこういった賛歌を書くにはあまりに豊かな想像力と鋭い洞察力を具えた偉大な批評家魂というものもある」と指摘する。これは小林にも当てはまるが、山本の指しているのはサント・ブウブである。(2)ブウブの批評の対象として、①有名な詩人・小説家:ユウゴオ、ラマルチイヌ、メリメ、ミュッセ、サンド、バルザック、②それほど有名でない学者、政治家等:クウザン、ヴィルマン、ギゾオ、ラムネエ、ベリエ、ジラルダン、ミシュレ、キネ、チエール等、③その他四流五流の人物:シャトオブリアン、デュマ、フロオベル、ゴオチエ、④婦人たち:デファン夫人、スタアル夫人、レカミエ夫人、ダルヴウヴィル夫人、⑤自分自身の肖像、があり、「さながら彼の『精神の博物学』を彷彿たらしめる・・・・その毒舌を通じて、彼等一流から四流五流に至る同時代人物の風貌がくっきりと浮かび上がる」という点は気づかなかった。ただし、ギュスターブ・フローベル「ボヴァリー夫人」、アレクサンドル・デュマ「モンテクリスト伯」は今では有名。これは、当時はまだ彼等はあまり知られていなかったということだろう。(3)「享欲」遊蕩の中の快楽の中に汲む苦汁と憂愁などを通じ、ブウブはモラリストの下地を作り、更にハイネやニイチェのブウブに対する屈辱的な嘲罵は「近代文芸批評そのものが宿命的に負わされた屈辱」である、という指摘はえらく逆説的なものである。しかしこの点はブウブ自身が次のように語っていること:「僕の批評の慧眼は忠実な詩人、尊敬すべき作家としての彼等の運命に結ばれていた。僕の最良の内容は彼等の名声に乗って船出した・・・・彼等が難船するときには僕も破滅する」(p36)「これからユウゴオを攻撃し、彼と論戦を開くのがなぜ僕にとって許しがたい恥ずかしいことだろうか。キケロがこう言った『何となれば親しく暮らしてきたものと争いを交えるほど醜いことはない』」(p51)、つまり、彼は優れていると考える文学者を批評することにある種の矛盾を感じていて、友人であり親しかったユウゴオを厳しく批判することに非情な辛さを感じていたのだろう。これは文芸批評においては避けられない特質だろう。だが、「我が毒」で尖鋭な観察力と認識力を備えたブウブはその友人を鮮烈に見事に解析してみせる。(4)「寛大であるにはあまりにも鋭敏な」透視力によって書かれた「彼の批評作品に脈打っているものは公正の精神ではないか」だが「それはそれ自身の中に激しい毒素を醸す」というのは山本氏の結論である。だが、タイトルにあるこの結論の後に山本氏は更に二つのことを述べている。(5)転身・共感にまで及ぶ批評:「僕は偉人たちの絵草紙屋にすぎぬ・・・・僕は常に、ある著者を描くインキはその著者のインキ壺から取ってこなければならぬと考えていた・・・・批評は僕にとって一つの転身である。僕は自分が再現しようとする人物のうちに姿を隠そうと努めている。僕はその人になる、文体さえもその人になる、僕はその人の言葉遣いを借用してそれを装う」この徹底的な追及・姿勢は小林の主調低音と同種のものだろう。(6)徹底した公正の精神が広い暖かい共感の精神が生動した果ての到達点:「サントブウブの到達した心境は我々にオアシスの無い砂漠を、樹木の無い氷原を思わせる」という感想は「僕はこの世に生きて来て完全な無関心というものに到達した」という「XXII. 哲学的思想」p152などの部分から推論しているが、この感想には異論がある。ブウブが言いたかったのは、「真実を追求しなければ人は生きていけないのだろうが、かえって不幸を招くことになるので、ある程度真実を隠し、他人のことにも無関心を心掛け、エピクロスの心の平安を求めたい」ということではないだろうか。私は、「XXIII. 人生について」の二つの美しい文章(フィロデエムの短詩と人生の謎)および「断想」の人生論を語っている部分「人生では悲しい時が来る。それは望めたものは皆達したと感じたとき、正当に求められたものは凡て得たと感じたときだ」(p167)から、ブウブは自分の人生は幸運で、満ち足りたものだったと言いたかったのだと思う。
p284 寸鉄:すん‐てつ 1 小さな刃物。「身に―も帯びず敵中に入る」2 人の急所をつくような、短くて、深い意味をもつ言葉。「―人を刺す」
p288 絵草紙:江戸時代に作られた,女性や子供向きの絵入りの小説。表紙の色により赤本・黒本・青本・黄表紙などに分けられる。草双紙。