非道と〈非-道〉のビオポリティーク——北海道写真における国家と芸術の容態

非道と〈非-道〉のビオポリティーク ——北海道写真における国家と芸術の容態

豊島重之

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ハチ・ラウシ・イハオクテ・シロスケ・ソゴパス・キロン・アシラン・シンタ・イソリウ・シノミ・ウサーピリカ・ブイーサン・トラカ・チヨギシマ・ハモデ・ランマミチ・ウテタモンガ・・・・。

これがどういう「異音=ヘテロフォニー」であれ、それがオンである限り、まずは恣意性など度外視して「言い間違い=スリップ・オブ・タング」覚悟で、声にだしてみること。そうすることからしか得られないものがあるなら。尤も、渦中をウズチュウ、怪我をカイガ、踏襲をフシュウと言い間違う小物の権力者たちの弁舌かと勘違いする向きはいても、これをアントナン・アルトーの「舌語=グロッソラリー」の亜型かと誤読する向きはよもやいまいが。そう、パリ植民地博のオランダ領植民地館の呼び物たるバリ島演劇に「残酷演劇」を触発され、矢も楯もたまらず船上の人となり、メキシコ奥地での先住民タラウマラの「黒い太陽の儀式=トゥトゥグリ」に決定的な衝撃をうけ、もはや聖徴を帯びた錯乱の人としてアイルランドや南仏ロデーズに引き返す、あの後期アルトーのことだが、いま問題とすべきは、初めて「人間の展示」が行われた一八八九年のパリ植民地博のほうである。そこから一九〇三年の大阪「内国勧業博」の学術人類館における先住アイヌ五名を始めとする、琉球・朝鮮・台湾生蕃(セイバン=高砂族と括られる多民族の蔑称、霧社事件と皇民化教育のヴィクティム)ほか北方・南方の少数民族、計三十二名の「展示」まではほんの一歩にすぎない。

一九世紀末から二〇世紀初頭の国民国家がそれぞれの近代化・富国強兵ぶりを誇示すべく、博物誌的な装いの、その実、帝国主義的視線をくまなく渉猟させて 「プレイ=獲物」の粋(すい)を競った大掛かりな「ディスプレイ装置」。それがパリ植民地博であり、いち早くそれに倣った明治政府による勧業博の人類館であり、そこには既に翌年の日露開戦の火種すら仕込まれていたのである。一八七五年、最初の屯田兵一九八戸による琴似=コトニ(現札幌)入植も開拓に名を借りた対露政策の一環にちがいないが、悪名高い一八九九年「北海道旧土人保護法」公布をはさんで、日清・日露戦争前後の三十年に限っても、内地から押し寄せた一三〇万人もの開拓民が十万坪以上の土地を先住アイヌから接収したという、端的に開拓=軍略であるという、一片の記録にいまは留めておきたい。

それが「展示」として成立するには、征圧・同化された南の島々と北の島々の「近代化に立ち遅れた/統治技術に劣る」生活文化伝統は、逆説的ながら高度な共生の他界観(とくに九節で詳述)と芸術的なまでの生存技術に貫かれていなくてはならない。もし国民国家の戦利品が稚拙でプリミティヴなものなら、それを征圧・同化した国民国家自身もその前近代性の馬脚を露呈してしまうことになるからだ。あくまで政治的な支配版図を誇示するために動員されたとはいえ、前近代性を非連続に遡航する〈未開社会〉に固有なアノマリーの思考なしに、はたして国民国家のいかにも怪しげな「近代性=モダニティ」はどこに根拠とその発生機を求めうるのだろう。先走っていえば、近代国家のイディオロギーは〈一極的な世界観〉に基づく病的な拡張強迫にあるが、未開の地における知の未開には、アルトーをも錯乱させるような〈無方=多方の社会 観〉の鉱脈が連綿と秘蔵されていたのである。こうしたパラドクスが随処に再起動しては、そのパラドクスに絶えず初期化=強制終了を迫るようなエリアがあるとすれば、それは北海道・オホーツク以外には考えにくい。

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述べるまでもなくこれらは、一八六八年の明治維新政府がいち早く、さしせまった北方の脅威/対露防衛の観点からその翌年「北海道開拓使」を派遣し、一八七一年には先住アイヌに対する皇民化政策を断行する「告諭=布達」の露骨な炉心たる、「土人教育所の日本語習得生、記念写真」の欄外に記された子女たちの名の列挙である。

ハチから始めたのは、旧樺太と旧満州を架橋する境域 「沿海州=ハジ」と、口承説話として琉球以南の南島に語り継がれる、女性の手甲を彩った入れ墨習俗「針突き=ハヂチ」と、亡父から墨を摺ることを命じられた私が住み暮らしている、地名ハチノヘとの連音=リエゾン以上の深い意味はない。ただ、このアイヌ青年の名をどう発音していいのか、精確にはハッティなのかハティッなのか、ハッヂあるいはハーヂなのか、私には皆目見当もつかない。一つ確かなことは、これらの写真が、初代開拓使黒田清隆や旧佐賀藩の宮島義勇や旧土佐藩の岩村通俊(道庁初代長官)らが維新政府への「開拓行政=侵略進捗」報告書に添付した最重要資料であることだが、その写真の欄外に被写体の名を走り書きしたのは誰なのか。黄ばんだ鶏卵紙にガラス湿板を密着焼きした撮影者なのか、日本語教師の口づてにメモしてあった彼ら報告者なのか、ましてこの写真を一瞥もできなかった被写体たち自身ではなかったことも、私にはどうにも歯がゆいのだ。

どうやら狩猟・漁労・交易を生業としたアイヌには欠かせぬ弓矢を手に写っている青年シノミまでが男子であり、ウサーピリカからが女子であるらしい。みな一様に表情をこわばらせている。長時間露光のせいばかりではあるまい。撮られるほうは勿論だが、撮るほうだって覚えたての湿板技法の苦慮を伴う実地に汗だくなのである。前述の「告諭=布達」には、母語であるアイヌ語を廃して「帝国の言語」を習得させることが最優先事項ではあれ、ほかにも人跡未踏(先住者を人と数えぬからだが)の原野を和人に開墾奨励すべく、アイヌの土地私有観念が稀薄(私有は稀薄でも共有/分有はむしろ濃密であったはずだが)なのに乗じて、和人の開墾者には国家が土地私有を認めるばかりか住居も無償提供する旨、そして北方シャーマニズムにとって生命にも替えがたい「カソマンテ/チセウフイカ=家送りの葬礼」の禁止と「女子の入れ墨・刺青」の禁止を謳っていたからである。

南島のタトゥ習俗「ハヂチ」をそっくり折り返したように、北方アイヌ女性の手首と口唇の周囲にも「シヌエ/シヌィエ/シヌイェ」と呼ばれるタトゥ習俗が認められる。針(銛)で水中を突く(海の幸を獲る)同じ海洋民に南北の差はないに等しい。手で(櫂で)水を掻(漕ぐ)、つまり手を水中に差し入れる、反対に手を水中から差し出す、それ自体が異界に触れたり触れられたりする畏怖と愉悦の情動であり、その〈非時と常時の蝶番〉が入れ墨に焚(た)きしめられている。口はもっと通りが早い。外が入ってくる、外へと出ていく、話す・食す・歌う・闘う生をめぐる厄よけ/厄よせの口。異界を震わす/奮いたたせては慄(ふる)えあがらせる「息」の符牒としての針突き紋様。 ベンヤミンのいう「アップアップの木」のカタストロフィックな紋章学をここで想起すべきだろうか。それともユーラシア全域に脈動する「ムックリ=口琴」の 響きの壮麗なフィギュールであったと。

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そもそも維新政府が命名した北海道とは、北海の道なのか、北の海道なのか、どちらなのか。そう急ぐまい。一方にカイが「樺太アイヌ=クイ/千島アイヌ=クシ」の類音であるのを念頭におこう。一三〜一四/一 八〜一九世紀、樺太=サハリンから黒龍江=アムール流域一帯を股にかけて、クイとニヴフ(ギリヤーク)やウリチ(サンダー/ジャンタ)・ウィルタ(オロッ コ)・ハジ(沿海州)・ナナイ(ロシア語で先住民の原義)が交易と紛争を繰り返していたという。もう一方に、蝦夷地/蝦夷ヶ島/僻遠(へきえん)の流謫 (るたく)の地たるホッカ「夷島=イトウ」もおこう。一二〜一七世紀、十三湊=トサミナト(現五所川原市の市浦村)や外ヶ浜=ソトガハマ(東津軽郡・下北を含む陸奥湾岸広域)を拠点として、鎌倉幕府以降の中央政権をしばしば戦慄させた「東日流(つがる)エミシ=安東水軍」は、近年の山古志=コシ震災や越=コシの国で知られる、いわば「北越アイヌ=コシ」出自と思われる海洋民の末裔なのだ。夷島との広域交易は勿論、戦況不利とみるや海峡をひと跨ぎ、夷島で形 勢を立て直し何度でも襲来したという。

もうお分かりだろう。安東氏が自称した「日の本」の符牒「ツボの石碑=イシブミ」(八戸に隣接する東北町に現存)を擁する「エミシ/蝦夷=カイ」の地に住む私にとって、北海道はホッ「カイ」ドウであって、 元々はカイの地であった原記憶を、近代国民国家はいかにもトラウマティック/クリプティックに、改称の奥まった秘部に鋳造せざるを得なかったのではないか。いいかえれば、成立したばかりの帝国にとって、南の沖縄と同じくらい北の北海道は、国家の輪郭を台無しにする外ヶ浜の「ソト」、つまり絶えず外へ外へと先送りされる未踏の恐怖であるばかりか、帝国が帝国であることの強力なアイデンティティ=明証性の最たる異域にほかならなかったのである。

アイヌの人々が粛然と呼び交わしていた、先行する地名のオンの閃光的な皮下層と、土地を閉めだし地名まで奪った後発の植民者によって、当て字された漢字表記の倒錯的な表皮層。この縦の二重底を、横並びの写真の「ディプティク=diptych」に相転移させる札幌の写真家、露口啓二との出会いから、幕末の探検家、松浦武四郎の地図を手がかりに写真を撮りつづけているのを知らされた。後述する青森の小島が北海道を振り返ったように、札幌の露口もまた下北やオホーツクを振り返る。そのこと自体が、映画でも絵画でもない、写真であることの意味であり、それが写真でしかないことに焙りだされる写真的戦意だということを。

伊勢生まれの松浦武四郎は、一八五〇年代の維新直前の蝦夷地を六度も再訪して、「天塩日誌」などアイヌ語地名とその由来、地形の特色を挿図まで筆書した一五一冊ものドキュメントを残している。ことに幕府箱館奉行から出版差し止めをうけた「近世蝦夷人物誌」には、松前藩役人や「場所請負人」と称する奸商が、 先住アイヌに対して、いかに酷(ムゴ)い差別と簒奪を繰り返していたかが記されている。「夷人自らその国を呼びて加伊という。加伊は蓋しその地名」(蝦夷地道名儀申上候書付)。松浦がオニサッペでアエトモと交わした言葉から「北加伊道」の名が生まれ、これを元に一八六九(明治二)年、北海道が公称とされ る。どうやら水脈を探る私のダウジング・ロッドはそれほどブレてはいなかったようだ。

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二〇〇九年一月〜三月、青森県立美術館で開催された 「小島一郎 —北を撮る— 展」の一画に、私は、明治前期(中期からはガラス乾板技法が主流となるからだが)北海道開拓写真の第一人者、田本研造による、うら若いアイヌ女子の昆布採りの写真画像をプロジェクション展示した。田本は紀州生まれの一本足の写真師、音無榕山の号をもち、幕末の箱館=現函館で、右足の壊疽(えそ)を手術してくれたロシア人ゼレンスキー医師から習得したガラス湿板技法の名手であり、とりわけ一八六八年十二月の幕軍大総裁(翌年の箱館 戦争で非業の死を遂げる)榎本武揚の、いわば遺影の写真師としてあまりにも有名である。

常に右の義足を杖と助手で補い(三本、いや五本足 で)全道・樺太・千島を股にかけて撮影してまわり数奇(すうき)な生涯を函館で閉じる田本は、どこかしらメキシコやアイルランドを彷徨するアルトーを彷彿させなくもないが、質量ともに比類のない鶏卵紙のなかでも、これは異色の一点である。その頭部にはアイヌ女性を証しだてる「チェパヌプ/サバシナ=バンダナ」を、その口元には明治の国民国家が禁止した「シヌィエ=周唇入墨」を、そして、元々はアイヌ語のコンプに由来する昆布の山のぬめりに埋まった少女の佇まいに、焼き込まれた撮影者と覚しき影を、私たちは見過ごさないだろう。

プロジェクションとはいえ、そうした「人間の展示」 が為されたことで、数百年もの差別を生き延びてきた先住アイヌと、それを撮影した三本足の田本研造が、ともに再度いま差別される謂われも糾弾を浴びる謂われも断じてない。たしかに一八七三年、横浜から招かれたオーストリア人シュティルフリートが撮った開拓=侵略の象徴たる(写真には札幌神社とあるが、一八 八二年の明治天皇行幸に際して改称)「札幌神宮=のちの北海道神宮」の四点を嚆矢として、その助手を務め高度な技術を伝授された札幌の武林盛一、行幸の年の内国勧業博に出品した小樽の佐久間範造ら、政府委嘱の開拓ドキュメント写真家が多く輩出する。

なかでも一頭地を抜くのが、函館を拠点とした田本と助手の井田侾吉によるパノラミックな横位置の、種々の鉄道・国道・上水道・港湾・工場・農漁場・学校・兵営・監獄の敷設現場やアイヌ古来の習俗儀礼はもとより、しかも必ず技術者や労働者を端々に入れこむほど委細をきわめたドキュメントである。これらは松前藩をうわまわるアイヌ差別に徹した新生北海道への、いわば〈同意の 写真〉といっていい。アイヌの昆布漁をロングの横位置で狙ったものさえあるはずだが、少なくともこのシヌィエの縦位置写真は違う。その根絶をヌケヌケとかいくぐっている絵柄を「禁止の告諭」の推進者側に提出するわけがない。おそらく田本が私的に秘蔵すべく撮ったものであろう。

ちなみに私の展示には、最前のシュティルフリートによる社殿の、いかにも内宮(クウ)と外宮(クウ)を強引にへし曲げたように縮合させた三角屋根のいびつな幾何学と、小ぶりの家型の稜線に何艘もの小舟のミ ニチュアを直列させたギリヤーク独特の骨壺(アイヌ語ではクワ=墓標に対してトゥシリ=墓所)と、小島による吹雪に埋もれた道内開拓農家の三角屋根の裏返されても重なることのない反復的非対称という、この「トリプティク=triptych/三幅対」もまた配されていたのを付言しておきたい。

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昭和三十九年に三十九歳で夭逝した青森の写真家、小島一郎は、津軽・下北・外ヶ浜を題材に、覆い焼き技法を駆使した暗室制作の濃密なプリントで知られている。近年、没後四十年の写真集出版や都内での回顧展での「再評価」もまた〈「津軽」の小島〉としてであって、何度か北海道撮影を試みたことは知られてはいても、そのプリントが二〜三点しかない以上、北海道の「ホ」の字も論及されるには至らなかった。今回、同館から委嘱されたのが、まさにその「ホ」の字である。私からいわせれば、再評価なるものを粉砕せよ、である。

小島の遺品から見つかった大量の北海道撮影ネガ。それだけを頼りに、かつてない大規模な回顧展の、いわばその「虫垂=アペンディクス」にあたる一室の展示《小島一郎の北海道》を構築することの、なんという頼りなさ。なにせプリントがないのだからブランクを捏造・贋造するにも等しく、単にネガを移築するだけでは「近年の小島再評価」批判の矛先が鈍ってしまいかねず、もとよりテーマがテーマであった。いつ何どき炎症を発してもおかしくはないスペースもまたスペースであった。

なぜ北海道なのか。いかに小島が精魂を傾けようと、戦後リアリズム批判と戦後モダニズム批判が併走・混在する昭和三十年代の写真界にとって、幸か不幸か小島自身の内心にとって「津軽」とは、東京で再発見された「辺土もの・最果てもの」にすぎず、この括弧を外すことが小島の急務だったからにほかなるまい。括弧を外せば、外ヶ浜づたいに北海道・オホーツクは津 軽・下北と地続きである。のみならず、社会/自然主義リアリズムであれ自然/社会主義モダニズムであれ、あらゆる主義・批判・反批判の文脈を完璧に失効させてしまうような「異種のカタストロフィ」が待ちうけているはずだ。小島のエゾ地は、「田本のエソ」さながら今しも炎上するアップアップの虫垂でさえあった。

小島の不運はしかし、それをプリントにするマテリアルな時間がもう残されてはいなかったという無残な現実である。とともに、一九五四〜六四年に限定された写真行為というより、あくまで昭和三十年代と括られてしまうことの無念である。小島の不運を引きうけることなど彼以外の誰にもできないが、無残さの事態なら、四十五年後に小島の写真をみる者であれ、彼の北海道ネガを前に途方に暮れる者であれ、いつどこで誰の写真をみる者であれ、均しく担われる課題もしくは負債である。その意味で、みるとは括弧を外す、いや、括弧が外れることだ。言い換えよう。これらは北海道のネガではなく、北海道というネガなのだ。

北海道開拓の経験を中国東北部=満州に移行させた人も少なくない。けれど小島は北海道の「ホ」も知ることなく一九四四年、弱冠十九歳で満州へと召集される。残りの駒もないに等しい北東北四県の若年者だけで編成された「大本営直轄・第四七師団」。コードネームは「弾部隊」、征きて還らざる弾丸のダン。まるで「ダホ」である。弘前・八戸で軍事教練をうけ、釜山から満州に従軍し、敗色濃厚な関東軍とも接しつつ、そこから漢口・重慶・済南など中国各地を転戦する。そして青島の俘虜収容所から敗残兵として生還した故郷は、米軍大空襲による目路の及ぶ限りの焼け野原であった。生地=死地に茫然と立ち尽くしたその経験が、小島を写真へと、そして〈非場所=北海道〉へと駆りたてることになったのだとしたら。

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地名・人名のオンの近似性・親縁性に留まらない。下北半島を鉞=マサカリと、津軽半島を鬼首=オニコウベの形状と見立てれば、日本海に面した十三湊=十三湖が鬼の口に、陸奥湾・津軽海峡沿岸の野辺地・瀬辺地・塩越・仏ヶ浦・九艘泊からなる外ヶ浜が、鉞の刃の一撃と哄笑する鬼のウナジに相当する。そればかりか米軍基地・核燃基地を擁する小川原湖・尾駮(をぶち)沼は、さしずめ鉞の切れ味を明かす刀紋の錵(にえ)であり、結果的に田本のガラス湿板が北海道にもたらした以上の災厄、すなわち地底奥深くのガラス固化体がいつしかガラス軟化体と化し、ついには煮えたぎるガラス液状体=「マグマの贄(にえ)」ともなるだろう。この地上の誰もが「ニエであること」から自由ではない。その証拠に、あなたの寝室の涸れたプランターからも「アップアップの木」が生えだしたではないか。

では、そこへ湾入してくる北海道・オホーツクの形状を何に見立てられるだろうか。アイヌ女性からアイヌ女性へと脈々と紡ぎ継がれる独特の刺繍には、「モレウ=渦巻き状」と「アイウシ=棘(とげ)状」と「キラウ=角(つの)突起」の三つの紋様が多彩に組み合わされている。アイヌ古布絵作家、宇梶静江による「イトクパ=印・譜」の残酷演劇的ヒエログリフには、 アルトーですら感電しないわけにはいくまい。まさしくこれら四つを併せもつ面妖きわまりない「イクシオイド/ichthyoid=魚形」に。

あまつさえ樺太からアムール流域・ウラル山系へと、 千島=クリル諸島からカムチャツカ(現地語で火のクニ=活火山の意)へと、どこまでも伸びていく二筋の鋭敏な触角を有するオニ鯨の巨体。松浦がアエトモと遭遇した地名オニサッペとの符合に驚きつつ、私は地図をみているだけだが、とうに先住アイヌたちは自分の足のウラで、漕ぎゆく舟の澪=ミオで、その鳥瞰図を全身的な触覚で知悉していたのである。贄=ニエであることから自由であるスベはただ一つ、贄=ニエであることの無底を汲み尽くした/エピュイゼし抜いた、先住アイヌの歴史的想像力を、私たちの現在に「再-起=出-来」させることのみであろう。

異色の一点と四節に述べたけれど、それはシヌィエのみによるのではない。ましてルイス・ハインが手がけたマンハッタンの移民労働、ことに児童労働の実態をここに湾入させたいのでもない。北の岸辺に漂着した昆布の群れから相当に重い一束のコンプを持ちあげる、やや前屈みの女子の横向きのアップ。重装備の湿板カメラは彼女のすぐ目前の砂浜に設置され、漁師小屋や岩場といった背景を敢えて霞ませて身ぶりを際だたせ、そのまま顔だけ正面を振り向けている。もはや日が低いのだろう、その漁衣に田本か井田のどちらかの影が映りこんで、やや眩しげな目の色には、しかし和人に対する警戒心や敵意のかけらは微塵もうかがえない。あたかもその一瞬を捉えたスナップショット。無論、ガラス乾板ならいざ知らずガラス湿板にスナップショットが可能であるはずもなく、明らかに一瞬を捉えたのは撮影者である以上に、名も知れぬアイヌ少女が切り返してくる眼差しのほうである。

私は小島の北海道ネガのなかから、かつて栄えた漁場 の今はみる影もない荒涼とした厳冬の浜辺に延々とへばりついた海草やら、廃村・離散を余儀なくされた開拓の残骸でありながら堂々と朽ち果てる切り株やらに交じえて、さすがに腰にくるであろうほどに日の暮れるまで、薪割りにいそしむ残留開拓のお婆さんの横向きの立ち姿の隣りに、あの昆布採りの少女を配した。老女がもし小島のカメラを振り向けば、たちまち九十年も若返って田本のカメラを見据えることになる(!)。そう思うのは私だけかもしれず、また小島の写真 にどんなささやかな演出も一切ないことを断っておきたい。あの少女に田本が頼みこんだささやかな演出も、演出といえるほどの代物ではない。彼女はしかし、少なくともそれを理解した。事態の一方性にあっては、それが共感か否かを問うことはできないにせよ。

(7)

このくにの津々浦々、郊外のそのまた郊外にまで、無人の空き地にさえ設置された数えきれない量の監視カメラの放埒なまでの砲列。当初はソラゾラしく見仰いでいた人々もいつしかウワノソラと成り果てた「サーヴェイランス・ステート=監視国家」。まさにそれと雁行して路上スナップショットが繁華街や雑踏から消滅したのは、いかにも奇妙なことではあるまいか。まるで街ゆく人々は国家による監視には寛容なのに、写真家たちがカメラを構えることには極度に不寛容となったらしい。いま路上でカメラを構えることが平然とできるのは公安か自警団のみであり、事故や事件の現場でもなければメディアさえ赦されない。

事態の一方性とは、明治政府による先住アイヌへの非 道のみならず、私たちの「非-道」の現在、すなわちシャッター・ストリートでシャッターも切れない道をはたして道と呼べるのかという、すべての路上は道ならざる道に一変したのではないかという「非-道」のアクチュアリティをも共示している。それを田本のスナップショットめいた一葉の写真が明示してくれた。また私が、開拓=開発国家に献呈した大量の田本の開拓=開発写真を、同意の写真だとも上述したことの含みは、開拓・開発・テーマパーク建設という国家=資本の相も変わらぬこの地への集中、とりわけそれに対する〈不同意の写真的戦意〉もまた、このアイヌ女子が撮影された明治初年もそれ以降もこの先も、依然として怯むことがないという、アイヌ語でシロシ=徴(しるし)、もしくは刻印の、告知の、酷薄のコクと同義である。

冒頭の「土人教育所」の記念写真を持ちだすまでもなく、幕末から明治初年の写真の黎明期における肖像写真のほとんどが、正面向きか、やや斜め向きのこわばった形姿であり、行き場を失った宙吊りの視線が圧倒的に多い。威厳を感じさせるどころか端的に虚ろなのだ。厳粛な死体写真によくみられる視線の途絶といっては言いすぎだろうか。田本による肖像写真の大半も例外ではない。ところが、唯一この昆布採りのポートレートだけは、横向きからゆくりなく首を返す運動性を伴う形姿こそが、みる者に対して一体あなたは何をみているのかと、静かに問い返してくるような眼差しをもたらす。これを私は、撮った人間の中枢的視覚でも、撮るのに用いられたカメラの機械的な視覚=非中枢的視覚でもなく、撮られた写真それ自体の視覚ではないかと思う。百四十年後に初めて私たちを見つけだす写真の視覚。それをベンヤミンは「ナッハライフェ=後熟の思考」とも「アポカタスタシス=解放的回帰」とも呼んだのではなかっただろうか。

かつて八甲田山麓の「ヌラ平(だいら)」に開拓村があったことを、私たちは小島一郎の写真によって知ることができる。もし彼が写真に撮らなければ、この地名も、開拓村のその後の離散も知らぬままでいただろう。一九五九年に登山姿の小島は一路、ヌラ平をめざす。単なる憶断ではあれ、神戸の構成派を率いる淵上白陽の影響下にできた父ゆずりの写団「北陽会」の撮影行で、滞在した酸ヶ湯温泉のその先に彼らの村があると聞かされたか、あるいはひょっとして、戦前にその白陽が「写真報国」を推進した「満州写真作家協会」の〈ウラ写真史的記憶〉との火花が小島の脳裡をかすめはしなかったか。ともかくヌラ平に毛沢東思想に基づく開拓団が、白神・八甲田マタギにとっても異形の共同体を営んでいることに、共感ならずとも、ある予感がシロシ=兆したのは間違いない。

(8)

戦後、東北・北海道の各地には明治期に劣らぬほどの開拓村が林立する。そのほとんどが戦前の満蒙開拓で辛苦を舐めつつ、開拓のノーハウを身につけた、しかも食うや食わずで引き揚げてきた人々だ。一例を挙げれば下北半島の付け根、六ヶ所庄内の酪農開拓を率いたのも、満州の三股流(さんこりゅう)に入植した山形庄内の出身者たちである。戦後、命からがら引き揚げてはみたものの故郷には居場所がなく、ふたたび厳寒の地をめざし、六ヶ所入植の苛酷な日々を再開する。その拓跡の全容を、酪農協の一員だった川村勇の記 録写真が雄弁に物語ってくれる。同時に、この地が核燃基地=巨大産廃処理場との共棲を余儀なくされているのを忘れてはなるまい。開拓テクノロジーと開発テ クノロジー。ともに満州から旋回・生還してきた「死力」であり、いわば、ホロビが産み落とした「鬼胎=危殆(きたい)の力」でもあるということを。

ヌラ平のちょうど反対側に位置する田代平(アイヌ語でタシロ=山刀)湿原に私も何度か足を運んだことがあるので、ヌラ平の地勢もいくらか想像はつく。小島の住む青森市からは八甲田の真ウラ=山カゲにあたり、世情の要らぬ噪音や介入を避けて開拓を熟成させるには恰好の地の利だ。やはりアイヌ語語源と思われるヌラは、ヌタ=沼田と同義で、湿原を意味する傍ら、樵り=コリの人々がその樹皮の質感からヌラと呼ぶ山林も当然あったろうし、また野良仕事のノラにも転音されたはず。あの薪割りの老女と昆布採りの少女のディプティクからもたらされるメトニミー=換喩もまた、山のなかの海ではなく、山でできた海、山が海だ(ヌラ=ウラ)ということ。であればこそ、山から伐りだされた木を運ぶ/漁から戻った舟を浜にあげる轆(コロ)が、そのシフター=転換子となる。

とはいえ、毛沢東の革命思想を開拓の精神に掲げた開拓団というのは、きわめて異例ではなかろうか。写真からはどこの出身者たちかは分からないが、明らかに満蒙開拓の破局的渾沌のなかでマオイスト思想に触れた一群であろう。もはやソ連軍と中国共産党軍と国民党軍との四つ巴の混戦状態のなかで、関東軍の壊滅と命運をともにした「開拓義勇兵という名の/名ばかりの祖国防衛隊」とその家族、数百万人もの大半が、ソ連側の収容所や共産党側の収容所に俘虜として徴用された。残留日本人は、前者の場合、多くはシベリアや中央アジアにまで抑留されただろうし、後者の場合、マオイズムを学習させられたあと前線で医師や看護師もどきの戦力として重宝されたのではないか。既に日 本を占領下におく戦勝国米軍としては、満州や朝鮮半島を牛耳られるのは惜しいし、表立って動けばソ連軍も黙ってはいまいし、どっちにしろ、戦後の世界戦略上、ただただ国共内戦を静観せざるを得なかった。

一九四六年に入ると、戦況は毛沢東率いる共産党軍が優勢となり、もはや米軍も、自らの支配下にある日本人がこれ以上、敵の戦力に摂りこまれては国際政治の体面が保てなくなると思ったのだろうか。思惑を異としない蒋介石率いる国民党軍を後方支援につけて、米軍による大規模な残留日本人救出作戦は、ソ連軍が支配していた大連の港を避け、共産党軍の支配下にあった葫蘆(コロ)島の軍港から極秘裡に敢行された。共産党軍・ソ連軍とも、実は知らぬ顔の反米ならぬ半兵衛を決めこんだのであり、むしろ、いい厄介払いだと思ったにちがいない。これで米軍が手を退いてくれるなら、と。後年の朝鮮戦争・ヴェトナム戦争の火種ともなった「引き揚げのポリティクス」がここにある。 そして小島を写真に、北海道に駆りたてるコロ=轆の避けがたい軌跡もまたここにある。

(9)

縦サイズの黒枠の一点。遺影にしては少し妙である。黒枠に縁どられた日なたの光景は、左手に着慣れない軍服で初々しく直立する斜め後ろ向きのアイヌ男子と、右手にその出征を見送るアイヌ正装の両親、及び召集に付き添う愛国婦人会の、この地区担当と思われる女性の三人が、万歳三唱どころか敬礼の身ぶりもなく、ただ押し黙って正対しているものだ。玄関の敷居と葺き屋根と左右の柱が黒々と焼きこまれた四隅は、チセ=住居の内部から隠し撮りしたためである。しかしなぜ? 大っぴらに撮ることが憚られたせいか。少年を送りだす撮影者の胸を掻きむしるような悔恨から、出征の光景自体を遺影にしたかったのか。だとすれば、やはりこれは「写真の遺影/写真としての遺影」と 呼ぶほかないのかもしれない。

あたかもアウシュヴィッツの第五焼却棟の黒枠の内部から隠し撮りされた、ゾンダーコマンドの手によって絶滅収容所から「もぎとられた四枚の写真」を、誰もが連想させられるけれども、それ以上にいま私たちが驚くべきは、中学を出たくらいのアイヌ初年兵も大勢いた事実を健忘させられていたことである。満州事変の一九三一年に白老=シラオイ・コタンから従軍したこの男子も、満州の焦土となってもうコタンには生還しなかったのだろう。撮影者は木下清蔵。青森市生まれながら苫小牧で写真館を始め、白老アイヌの人々の信望を得て、まもなく白老に住みつき、八十歳をこえる後半生を「白老観光写真」に捧げたことで知られる。小島よりはるかに年長であり、かつ小島の昭和三十年代は勿論だが、小島没後よりさらに三十年も撮り続けた木下の写真から、私たちは観光の一語では済まない、はるかに貴重な先住者の死生観=アノマリーの思考を学ぶことになる。

一例を挙げれば、「タル=荷負い縄」の写真。難産の場合、火の神と臼の神の加護を願って、長老=エカシが囲炉裏=アペフチに陣どり、その背後で妊婦がウスをキネで搗(つ)き、それから天井の梁に吊したタルに掴まって出産するのだという。それでも難産のときは、妊婦の母親が右手に鎌をかざし、左手に杖をつき、チセの裏の「アシンル=便所」の神のさらに強力な加護を頼みに行く。そうして産まれた嬰児を母親が背中におんぶする際も、そのタルを臍帯さながら頭部から背面へと張り渡す写真さえある。ここでは種火を欠かさぬことと、難産を鎮めるべく火が燃えさからぬよう見守ることとは同義であり、もはやトキが満ちたと子宮底を打刻=告知することと、妊婦が胎児の辛苦を共苦=擬態することとは同義なのだ。無論、産後の育児にもその臍帯=タルが欠かせない。まさしく「産」とは「死と後生/死後の生」にほかならず、字義通りタルとは、他界=苦界の舫(もや)い綱であった。

こうした写真を木下が、信望の厚さだけで撮ることができるものなのか。つまり私がいいたいのは、どのような不寛容をかいくぐってでもスナップショットを可能としなくてはならない、それに尽きる。写真からは知らされないだけなのだが、あの昆布採りの少女にもこの少年兵にも「名は」ない。それを切り結ぶものがタルの写真なのだ。むしろ二人をタルという名で呼びかける、それが写真行為ではないか。とともに、満州や北海道と同様、常に既にどんな名も奪われてしまうソトに向けて、かつてソトとはリテラルに路上を意味し、オモテともウラとも呼ばれた消息を喚起すべく、果敢に写真行為は試みられなくてはならない。

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二〇〇八年五月八日付けの朝日新聞八戸版に、その一月に同市で発生した母子三人殺害という猟奇的な事件の、加害少年である長男の送致前精神鑑定で「人格障害」と診断された旨が報じられた。十八歳ではあっても罪状に問えるというその病名をここは問う場ではない。その記事の隣りに、《「クシュンコタン占拠事件」で対日協力アイヌ顕彰の碑、現存》という見出しが躍っていた。幕末の一八五三年、ロシア兵が大挙してサハリン南部に上陸し、先住アイヌと和人が混住するクシュンコタン(久春古丹・大泊・現コルサコフ)に要塞を築いた。それに喫驚したのは、対アイヌ政策と対ロシア政策、ともに危殆に瀕していることを思いしらされた幕府の中枢だろう。全権大使に任命された(じきに田本の写真に収まる)榎本武揚は、運よく翌年のクリミア戦争勃発によるロシア兵撤退、プチャーチンとの日露和親条約締結にこぎつける。そしてクシュンコタンに領土保全の石碑を建てる。これが実はまもなく先住アイヌ強制移住の火種となっていく。その石碑が、戦後ひそかにサハリンから移築されて道内の松前町光善寺で初めて発見、物証として検証されたという記事である。

これまで一四五七年のコシャマイン蜂起、それに呼応したショヤコウシ・タナサカシ・タリコナ蜂起や、一六六九年のシャクシャイン・オニビシ蜂起や、一七八九年のクナシリ・メナシにおけるイコトイ・ツキノエ蜂起など、すべて文書の記録で、物証として現存することはまず稀である。白老アイヌの少年兵には、表情の判明しがたい写真はあっても、あるはずの名は私たちには知らされなかったが、ここでは勇猛果敢なアイヌ戦士の名が八人も記されている。「戦士」と「兵士」の使い分けに留意されたい。アルトーにいわせれば、トゥトゥグリの残酷演劇を全うする者だけが戦士なのであり、関東軍や大本営や開拓=開発国家に召集された者は、いかに勇猛果敢でも兵士であって戦士とは呼ばれない。大陸打通(だつう=捨て身)作戦の捨て石としての小島の弾部隊はいわずもがな。もし小島が捨身=シャシンの兵士から、写真の戦士に転じたとすれば、それは北海道の根源なき根源にゾンデを測深「ソンダージュ=sondage」しはじめた晩年だが、戦士に、遅きに失するなどあるはずもない。

本稿の前段では、アイヌの狩猟・漁労・交易に秀でた共生知の技法だけが不本意ながら強調されたかもしれないが、もしそうなら、ここで頭を切り換えていただきたい。他界との闘いに長けた彼らの最も優れた知とは、チャシ=砦の工法を始めとする侵略者との戦闘テクノロジーであったのだと。ただし、勝利したはずのコシャマインもシャクシャインもイコトイも、松前藩一族により和睦を偽って謀殺される。和を尊ぶ彼らを裏切った和人をもはや「和の人」とは呼べまい。イコトイの肖像だけはロシア製の毛皮の外套を羽織った威厳に満ちた「夷酋列像」として残っているが、それさえ松前藩お抱えの絵師蠣崎波響による、アイヌ戦士謀殺の物証であるとともに、のちの人類館展示にも類した叛乱平定の物証でしかあるまい。(ほんの参考までに、八戸事件の物証の一つは、切り裂かれた母親の腹部に埋めこまれた小さなオルゴールであった。)

(11)

一八世紀半ばに確立した「場所請負制」、なかんずく松前藩とつるんだ「クナシリ場所」支配人、飛騨屋久兵衛の手口とはどういうものだったのか。そもそもアイヌに「ウィマム=交易」の観念はあっても「商い場」の観念がなかった。彼らはいつどこででも交易できた。それでは都合の悪い輩が、その非場所に「場所」という一語を入植させたのである。商い場を「運上 屋=会所(かいしょ)」に限定したうえで藩は搾りとるだけ搾りとるという、端的に夷人に纏足(てんそく)を履かせたようなものだ。四百年にも及ぶ、五百年でも足りない蜂起は、対等な交易ならぬ陰惨な隷属に対するアイヌにとっては真っ当な叛乱であったが、またしてもアイヌ古来の「ウムサ=互いにハグしあう親愛の儀礼」を、飛騨屋らは故意に「オムシャ=恩赦・服属」と読み替え、夷酋たちを騙し討ちに処す。それどころか「ウィマム=交易」すら、一方的な「オフルマイ=朝貢」のことだと勝手に解したにちがいない。いずれにせよ、アイヌにとってバショもカイショも和人に押しつけられた外来語でしかなかった。

あの石碑も同断である。そこには、キムラカアエノ・ ヘンクカリ・ラムランケなど三十五名の樺太先住アイヌの名が刻まれている。この碑を建てたクシュンコタン場所(=漁場)支配人、清水平三郎の名とともに。 あくまで対ロシア政策に名を借りた対アイヌ政策だったのである。それからほどなく一八七五年、樺太・千島交換条約の締結により、これらの名が、一〇八戸・ 八四一名が、宗谷・小樽をへて「対雁=ツイシカリ」に強制移住させられた。どれほどの強行軍だったのか、飢餓や衰弱でどれだけの人間が行き倒れたのか。冒頭一節に告れた屯田兵一九八戸とこの一〇八戸、ここに二度「ハチノヘ」が連呼されても、いまの石狩川流域に途絶えた「名=息/シヌィエ」をいくら連呼して も徒労なのだろうか。

あらゆるモダニズム芸術と考えられる限りのテクノロ ジーを注ぎこんだ壮大な実験場、満州国という名のテーマパークは、儚いユメと潰(つい)えさった。満州がトラウマだとしても、その忘却こそがトラウマに反復を強いる。人は繰返したくないと念ずれば念ずるほど、それを繰返してしまうものだ。もし開拓と開発・戦争と廃墟が、ひとりの人間のなかで混線=混戦するとしたら、そこには「北海道」の飛び地としての「満州」と、その「満州」の飛び地としての「北海道」とが二重底を成している、それを見逃してはならない。

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とともに、昨年、函館で遭遇した室蘭生まれの掛川源一郎の大規模な写真展、そのあと竹橋の国立近代美術館での「沖縄・プリズム展」でも再会したが、長万部・平有の仲宗根さん一家を長年、撮りつづけた「北海道の沖縄村」は印象深い。では、アメリカ村はあるにせよ、沖縄に北海道村はありうるだろうか。そこには開拓・開発の特異点としての圧倒的な非対称が浮上す る。「北海道旧土人保護法」公布からほぼ百年、ようやく同法は廃され、先住民同士のトランスグローバルな連帯・共闘も駆動しつつあるというのに、同法に代わって成立したのが「アイヌ文化振興法」とは? おたくらの伝統文化は認めよう、その代わり何百年にもわたる差別・略奪・謀殺・強制移住の歴史認識はすっ かり健忘してくれ、といわんばかりの権謀。宇梶静江の「古布」絵は怒っている。田本「研」造の「昆布」も怒っている。小島・木下・川村・掛川・露口「啓」 二の写真も。すべての「キラウ=切っ尖」が。

・・・トゥニヤズ・クガイ・カンケイウ・チュンマ イ・ヒムホーイ。これも「土人教育所の日本語習得生」の名の列挙のつづきなのか。オホーツクのロシア領海内での違法操業のかどで、今日も国境警備当局に日 本国籍の密漁船が拿捕されている。ソマリア・ケニヤ沖で中国国籍のマグロ漁船が拿捕され、クガイ船長が沖縄の人だと報じられた。ウイグルで拿捕されたトゥニヤズ東大院生は、ウルムチからいまも生還できていない。マオイズムの嵐をまともに享けた一九七十年代後半「ポルポト大虐殺」を糾問するプノンペン法廷 が、三十年も経った今日、開始されたばかりだ。トゥールスレン絶滅収容所から辛うじて生還できたチュン・マイ氏、電気ショックなどの拷問を担当させられたポルポト派の一兵卒ヒム・ホーイ氏、そして二万人もの拷問・虐殺を命じたカン・ケ・イウ収容所長の淡々とした風貌。そこにはサルガッソーの深海に囚われたヌラ平の消息を、僅かに辿ることができる。

そして私たちは、いま覚えたてのムックリを奏でる新しいアイヌ姉妹たちとともに、写真が奏でる無限定過去という名の未来の分厚い響鳴のなかに、平板で浅薄なオルゴールの悲鳴もまた微かに紛れていることに気づかないわけにはいかない。

[筆者・註] 本稿執筆にあたって、ニッコールクラ ブ刊『北海道開拓写真史』・インスクリプト刊『小島一郎写真集成』・社会評論社刊『宇井眞紀子写真集・アイヌときどき日本人』・平凡社刊『別冊太陽・先住 民アイヌ民族』・ノーザンクロス刊『KAI(カイ)』ほか、多くの文献を参照させていただいた。また、文中にふれた写真家露口氏はもとより、とくに文中にはふれなかったが、北海道への関心の端緒ともなった写真家北島敬三氏・青森県立美術館の高橋しげみ学芸員には謝意を表したい。

(16561字-----完)

(初出:「悍=han」2号)