《イスミアン・ラプソディ覚え書き》

《イスミアン・ラプソディ覚え書き》

豊島重之(ICANOFキュレーター)

1999年5月、国際交流基金助成により、ひと月かけてフランス5都市公演にトライした。パリ・オルレアン・ストラスブール・サンドニ、そしてアヴィニヨン。南フランスで数日の余裕があった。

旧石器時代の痕跡「ネガティヴ・ハンド」を擁する「ニオーのグロッタ=洞窟」を訪れようか、それとも「陶酔論」の著者でもあるユダヤ人思想家ベンヤミンが、ハシッシ実験にふさわしい街として選んだマルセイユにしようか、いっそのこと、もう一歩足を延ばして、ベンヤミンが自ら命を絶ったスペイン国境の街ポルボウに赴こうか。結果的には、ファン・ゴッホゆかりのアルルの跳ね橋やサンレミ修道院など、近場で済ませたのだったが。

大西洋を臨むボルボウの急峻な断崖。

パリ陥落のギリギリ直前まで、パリの国立図書館に通い詰めて「パサージュ論」を書き上げた達成感はあったはず。しかしパリからの逃亡の眠られぬ日々に、あの断章にこの追記を、この断章にあの一節をと、きりのない着想が次々と湧出してきて、急ぎ足を鈍らせてしまったのではないか。

ナチスに追われてマルセイユへ。一足遅れで北米航路に間に合わず、次の船便は数ヶ月後。顔見知りに出逢うたびにSSへの密告を怖れたベンヤミンは、マルセイユからピレネー沿いにスペイン国境の街ポルボウへ。ブレヒトやアドルノら友人達の住む北米への亡命寸前。ポルボウの絶壁に立つ彼にとって、自由は目と鼻の先にあった。しかし、目と鼻の先ほど、遠すぎる隔たりもなかった。

おそらく、山越えの疲弊の果てに、眼下に逆巻く荒れ狂う渦に足をすくませたに違いない。今も私達に、めくるめく深淵の思想を呼び覚ましてやまない、ベンヤミン自身を襲った深淵のイスムス。

ふと、そのことに想い到って、足をすくませることのないダンスは、未来の死者たちを揺さぶらないだろう。足をすくませることのできる、あるいは足を踏みはずすことのできるダンス、それを仮に「蝕=むしばみ」のダンスと呼んでおこう。

少なくとも、そこに舞台はない。どういう身体がダンス的身体なのか、およそ自明ではないのと同様に、そこに舞台がある、というのもまた、少しも自明ではない。

では、何があるのか。その問いの震央に「未生の閾=いき」がある。いまだ時間も空間も伐り拓かれてはいない、爪先を蝕む未生の閾。そこに移り込んでくる「immigrant=イミグラント」と、そこから移り去っていく「emigrant=エミグラント」とが、つかの間、すれ違う肩口。そこに一度きりのイスムスが生じては滅する。

「ラプソディ=狂想曲」が聴こえる。遠く低く、空耳かと疑うほど、かそけく。どちらの肩口が口ずさんでいるのか。それは「image=イメージ」が射し込んできた兆しなのか、それとも「emage=エメージ」が行方をくらました徴しなのか。

いま、ラプソディを。この地上を去来する名もなき移民(イミン)の肩口に、その数えきれない不眠(フミン)の夢の半開きの戸口に、今しもヒタヒタと〈IKI〉を渡りゆくベンヤミンの口許に。そして願わくは「蝕のダンス」の切られゆく口火にも。

(初出「ISTHMUS/ICANOF2007」/2007.09.12)