モレキュラーシアター沖縄公演を見て

モレキュラーシアター沖縄公演を見て

前嵩西一馬

八戸市のモレキュラーシアターによる演劇『DECOY=デコイ/囮=おとり』公演(芸術文化振興基金助成/豊島重之演出/大久保一恵・苫米地真弓ほか出演)が、去る十一月三、四両日にわたり、開館直後の沖縄県立美術館にて行われた。

沖縄の文化的基数である七に、存在を示す数「一」を加えた八を宿す場所、八戸のマレビトたちは、文化表象の新たな担い手として誕生した美術館の門出に相応(ふさわ)しい濃密な空間を、見事に招来させた。

虐殺の光景を描いたテクストの断片を読み上げる声が、複数の録音機によって録音再生される。その複製された声は、速くなり遅くなり、女の声となり男の声となり、一人となり群衆となる。観客は、繰り返される歴史と記憶のこだまに包まれる。

死体に群がる蠅の羽音、あるいは放映不能の砂嵐を連想させる、有機的で無機質という不気味なイメージがスクリーンに灯る。今生の肉体をテクストの声と対峙させる精神を宿すダンサーたちが、その前景で個々の戦いを挑む。

同一のテクストをめぐる複数の声というあり方は、住民虐殺をめぐる歴史教科書問題という現沖縄の「状況」を召還する。突然、観客席のどこかで子供が母親に尋ねる。沖縄の訛りで「これ何ね?」。

ガンマイクが客席に向けられているという仕掛けが、この小さき鑑賞者が作品を壊す者として糾弾されないことを承認する。「もう終わった?」「まだ終わらないの?」「終わりますって言ってた?」「これ終わったら終わり?」。時折発せられる沖縄の訛りは鉛と化し、囮が仕掛けた罠に沈んでゆく。

録音機が、客席に向けられたガンマイクが、不気味なスクリーンが、そしてダンサーの身体たちが、全てのハプニングを吸い込む。大人たちは死者の声に聞き入る。最も激しく跳躍を繰り返すダンサーもまた、振付という決められたコードに縛られている。

子供の声が、身動きできない大人たちを訝(いぶか)る。硬直した空気に黄金の糞を投げ付ける。子供はニーチェのいう幼子であったか。幽霊を見るのは子供ではなく、大人たちであったか。子供は唯一の生者として、そのとき何者を見たか。恐怖でお前に君臨したいのだと、ボードレールよろしく幽霊を挑発する大人は、すでにいない。

『デコイ』は、ガマ(洞窟)に潜む沖縄の生者と、そうでない者たちを誘う。比嘉豊光氏による沖縄戦の証言映像『島クトゥバで語る戦世』の中に、ガマの外から米兵に呼び掛けられた様子を語る老女の印象深い言葉がある。「デテコイデテコイ、カマワンカマワン」。その言葉で彼女の命は助かった。カマワンカマワンは、come on、come onの聞き間違いであろう。

しかし同時にそれは間違いではない。繰り返される虐殺の歴史に、もう終わったかと問い続ける子供が間違いでないように。子供の眼の裏側から、ガマの中にいる者たちが、ぞろぞろと出てくる。夢想していいだろうか。あの声が、アメリカの幼子であったなら、と。何を聞き間違うか。沖縄で。(まえたけにし・かずま=コロンビア大学人類学部在籍、文化人類学、沖縄研究専攻。神奈川県在住)

(初出:「デーリー東北」/2007年12月3日)